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【覚え書】「反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫」、『毎日新聞』2010年9月19日(日)付。

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反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫
 米ハーバード大学で約30年、「正義」をテーマに政治哲学を講義してきたマイケル・サンデル教授のことである。

 その授業を放映したNHKの「ハーバード白熱教室」が評判になり、教授の著書「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)はベストセラー、東京大学での特別講義も白熱して、すっかり時の人になった。

 あまり知られていない事実だと思うが、教授のこの著書は偶然にも、日韓ほとんど同時に翻訳出版された。韓国側の題名は「正義とは何か」である。

 双方の版元に聞くと、既に日韓ともに30万部以上が売れて増刷を重ね、勢いに陰りはない。日本側は50万部以上を見込んでいる。韓国側は目標を言わないが、哲学書としては極めて異例のベストセラー総合1位に喜色満面といったところ。

 そして、発売当初は少なかった女性による購入が増え、最近は4割近くに達しているという点まで、日韓の状況は酷似している。サンデル教授が8月後半に両国を相次いで訪問し、メディアへの露出が急増したことと関係がありそうだ。

 「2020年、ハーバード大学の平壌キャンパスが開校したとしよう。優れた教育を受ける機会がなかった北朝鮮の学生たちに入学優先権を与えることは正義にかなうだろうか?」

 これは教授がソウルで対話型の講演を行った際の、三つの設問の一つだ。米国ではおなじみのアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)をめぐる論点を、韓国向きにアレンジした工夫がうかがえる。

 もっとも、聴衆が4500人も詰めかけたため、東大で1000人余りを相手にした日本版「白熱教室」と比べると、やや大味な展開になったようだ。

 こうした隣国での動向を私は最近まで全く知らなかった。日韓間の人の往来は激増し、お互いのニュースを知る機会も増えたが、伝わる情報の幅と深みは十分でない。サンデル教授に関する社会的反応が日韓で大きく違うことも、さほど知られてはいないだろう。

 日本での最大の関心は、教授の講義の抜群の面白さにある。ネット上では授業の手法についての話題が目につく。正義を論じた書物に触発されて、身近な問題を一緒に議論してみようという動きもあるようだ。そして研究者からは、行き過ぎた市場主義の弊害を道徳的観点から批判するサンデル教授の哲学を、日本の格差問題への対処に活用できるといった声も出ている。しかし、こうした意見が具体的な政策論争に直接反映される兆しは、今のところ見えない。

 韓国ではどうか。李明博(イミョンバク)大統領は8月初めの休暇中に教授の著書を読んだという。それとは直接関係なく以前から温めていた構想らしいが、同月15日の演説で「公正な社会」の実現という政策目標を打ち出した。「敗者が再起でき、勝者が独り勝ちしない社会」といった概念で、市場主義の冷酷な面を修正する狙いを含んでいる。教授の正義論と重なるところがある。

 しかし李大統領の目標達成は容易ではあるまい。今の韓国は優良企業が国際的に大躍進する一方、競争と格差は日本より厳しいように見える。「公正な社会ではない」という国民の不満が「爆発寸前」なのだと、韓国では著名な女性コラムニストが最近の新聞に書いている。

 しかも韓国社会の政治的亀裂は深く、鋭い対立が避けられない。野党勢力の相当数が「サンデル旋風」を政権批判の武器にしている。訪韓した教授が著書の売れ行き好調の背景について「正義に関する幅広い論議への渇望があるようだ」と語ると、ネット上には「教授は李明博政権を不道徳と診断した」という我田引水の書き込みが出た。

 サンデル教授は対話型の講義では自分の見解を述べない。しかし「正義」の著書の末尾2章では意見を提示した。東大の講義で投じた「東アジアでの戦時中の行為について今の日本人は謝罪すべきか」という質問に関連して、米国を含む各国の蛮行を論じた細密な分析もある。

 ここでその要約を試みる余裕はないが、日韓の学生同士の討論などではほとんど不毛な結果に終わる論点だ。日本の戦後世代はあまりにも歴史を知らず、韓国側はあまりにも一方的に責め立てる。このパターンからなかなか抜けきれない。

 「意見不一致を受け入れられる社会を作るべきだ」とサンデル教授は強調する。それを日韓関係でも実現できればいいと思うが、「正義は我にあり」の壁を破るのは至難の業だろう。
    --「反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫」、『毎日新聞』2010年9月19日(日)付。

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