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2010年9月

要するに現今の教育は、善良なる国民は作つたけれども、世界の一員としての資格は作つてやらなかつた

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 日本人は能く米国の理想を解することが出来るかといふに、残念ながら予は否と答へざるを得ぬ。何故かといふに、日本従来の国民教育の方針が全然この主意に反して居たからである。従来併びに今日の国民教育は、子弟に向つて世界文明の進歩に対するする日本帝国の責任といふやうなことを教へて居るか。我々は一個人として知らねばならぬ多くの智識は教へられた。郷党に対する義務、殊に国家に対する義務は完全に教へられた。併し世界の一員としての責任については、何等の智識も授けられて居ない。要するに現今の教育は、善良なる国民は作つたけれども、世界の一員としての資格は作つてやらなかつた。
    --吉野作造「学術上より見たる日米問題」、『中央公論』一九一四年一月。

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大正デモクラシーの論壇をリードしたのがクリスチャン・デモクラット吉野作造(1878-1933)ですが、その吉野が主たる舞台として健筆をふるったのが『中央公論』。

そして『中央公論』における吉野のデビュー作が上述した「学術上より見たる日米問題」で、この論説では、日露戦争後とくに激しくなったアメリカにおける日本人移民排斥の問題をとりあげ、その解決策を論じた。

当時の日本人移民排斥の問題では、当初の労働者の雇用をめぐる摩擦という域を超えて政治的色合いを濃くし、日米戦の可能性までも話題とされ、一九一三年のカリフォルニア排日土地法の成立は、その議論をますますヒステリックなものへと加速させ、「白閥打倒」を声高に叫び始める論者も多くなってきた。

吉野の「学術上より見たる日米問題」という論説は、こうした状況の下で執筆されたものである。しかし吉野の問題についてのとりあげ方は、冷静そのもので理路整然問題を対象化していた。

吉野はこの論説で、確かにアメリカ側の日本人対する誤解や偏見があること、そしてそれが排日思想の一つの原因となっていることを認めながらも、基本的には日本側にある問題をより重視する立場をとった。

すなわち吉野は日本人移民の移住動機そものものが「個人的乃至国家的利己心」に存在し、移住先たるアメリカの建国の理想を理解しようとする気持ちが見られない。

「之では米国に於て歓迎せぬのも、当然ではあるまいか」。

この状況では、アメリカに限らず世界のどの地域でも日本人が受け入れられるはずがない。そしてその根本原因こそ「要するに現今の教育は、善良なる国民は作つたけれども、世界の一員としての資格は作つてやらなかつた」という吉野は述べている。

吉野は、排日問題の根本原因を、これまでの日本の教育が、国境をこえて広く世界や人類を見つめる普遍的な視座を欠如し、ひたすら国家に忠誠な内向きの国民の創出に終始してきた、その偏狭さにあるとした。ここには、今後の吉野の社会的発言を特徴づける、国民国家の相対化・世界志向の発想が明快な形で示されている。

……などと考えつつ、さて仕事にもどります。

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【覚え書】「異論反論 特捜強化と全面可視化を 寄稿 佐藤優」、『毎日新聞』2010年9月29日(水)付。

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異論反論 寄稿 佐藤優
証拠物改ざん容疑で検事が逮捕されました
特捜強化と全面可視化を

 9月21日、最高検察庁が大阪地方検察上特別捜査部の前田恒彦検事を証拠隠滅の疑いで逮捕した。
 一部に特捜検察を解体し、検察から捜査機能をはく奪すべきであるという議論があるが、筆者は反対だ。いかなる時代、いかなる国家においても政治犯罪は存在する。日本の場合、戦前の治安維持法が拡大解釈されていった反省から、政治犯罪は存在しない建前になっている。そこで政治的に有害な人物を排除する場合には、政治犯罪を経済犯罪に転換して処理する文化が生まれた。それだから政治家は収賄や政治資金規正法のようなカネにまつわる犯罪で摘発される。
 もっとも、これは第三者的に突き放してみると、特捜検察が「時代のけじめ」をつけるための政治的機能を果たしているということで、実際に捜査に従事している検事や検察事務官は、自らが政治的に中立な公益の番人であると信じている。自分の姿を自分で見ることはできないので、これは仕方のないことだ。
 検察が捜査機能を失うと、その役割を必然的に警察が行うことになる。警察は行政機関だ。そうなると時の権力の意向を直接反映し、かなり露骨な政治的捜査が行われる危険がある。それよりも行政から制度的に一定の距離を保つ検察に委ねたほうがました。

忘れられない西村検事の言葉
 筆者が東京地検特捜部に逮捕され、取り調べを受けた経験からすると、特捜検事は仕事熱心でまじめだ。筆者を担当した西村尚芳検事(現さいたま地方検察庁公判部副部長)は、自分を突き放して見ることができるモラルの高いインテリだった。この検事から言われた「調室の中で僕たちは絶大な権力をもっている。この権力を使って何でもできると勘違いするやつもでてくる。怒鳴りあげて調書を取れば、だいたいの場合はうまくいく。しかし、それは筋読みがしっかりしているときだけ言える話だ。上からこの流れで調書をとれという話が来る。それを『ワン』と言ってとってくるやつばかりが大切にされる。僕は『ワン』という形で仕事をできないんだ」(拙著「国家の罠」新潮文庫)という言葉がいまも鮮明に記憶に残っている。
 しかし、すべての検事が西村氏のような高いモラルを保てるわけではない。密室の中ではどうしても無理をする。そして、物証を改ざんすることに罪の意識を感じなくなる。検事が無理な取り調べをすることを防ぐためにも、特捜事件については直ちに全面可視化を導入すべきだ。特捜検事の労働は過酷だ。特捜部の定員を増やし、予算を増額する。そして特捜検事に仕事に直接関係する以外の本を読む時間ができるようにする。視野と強要が広がれば、おのずから無理な取り調べが日本の社会と国家に与える悪影響を検事が強く意識するようになり、事態が改善すると思う。

さとう・まさる 1960年生まれ。作家。元外務相主任分析官。02年に背任容疑などで逮捕され、執行猶予付き有罪確定。著書に「国家の罠」など多数。「久しぶりにギリシャ語聖書をひもといて、新訳聖書に関する本を書いていました」

    --「異論反論 特捜強化と全面可視化を 寄稿 佐藤優」、『毎日新聞』2010年9月29日(水)付。

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……カントは単に思弁哲学者であっただけではありません。

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……カントは単に思弁哲学者であっただけではありません。カントは悟性を満足させるとともに、また心情をも魅し去る素晴らしい雄弁家でありました。いくたびか、私たちの清心と感情とを利己的な幸福主義の桎梏から解放して、純粋な自由意志の高い自覚へ、また理性法則に対する無条件的な服従と、私欲を離れた義務遂行の高貴な感情へと引き上げてくれたことでありましょう。
    --ヤハマン(木場深定訳)『カントの生涯』理想社、1978年。

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月曜は短大で講義。
第三講ですが、無事終了。
すこし演説してしまいましたが、大事なのでいたしかたありません。

いずれにせよ哲学とは思索だけでも、対話だけでもなく、その両者を必要とする作業。全体との関わりの中で、思索をつづけ、他者へのチャンネルを開いておく・・・その部分をしゃべった次第です。

さて授業終了後、「HELMUT SACHERS CAFE」の「テラス席限定サービス プレミアムモルツ生ジョッキ半額⇒250円」が今月いっぱいですので、教員バスで移動後、そのまま逗留。

さていっぺえやるべかw

……って座っていると、履修生が「センセ!」

……って声をかけてきたので、

「びーる呑むか!」

……って対応するわけにもいかず、コーヒーをすすめてから、暫し談笑。

今回は肌寒いこともあり3倍にて終了。

終了後立川の伊勢丹へ寄ってから、最寄り駅。

何か飲み足らないものもあったので、オッサン御用達の焼き鳥・焼き豚の「四文屋」にてしばし休憩。

例の如く二日酔い・寝不足にて出講して、生命力がマイナスになるほど講義してからその分をたっぷり栄養補給したものですから、帰ってから少しして爆睡。

12時間ほど寝た次第。

論文も課題もまだまだ未着手。

さてこれから少し手をいれましょうか。

カント(Immanuel Kant、1724-1804)のように規則正しく律儀な人格であったならばこうはならないと思うのですが、こーゆう哲学教師が一人ぐらいいても、まあ、よろしゅうございましょうや。

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【覚え書】今週の本棚:白石隆・評 『アカデミック・キャピタリズムを超えて』=上山隆大・著」、『毎日新聞』2010年9月26日(日)付。

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今週の本棚:白石隆・評 『アカデミック・キャピタリズムを超えて』=上山隆大・著
 (NTT出版・3360円)

 ◇公から私へ、科学知識の変容を問う
 アメリカの科学技術が圧倒的な国際競争力をもっていることはよく知られている。アメリカの大学の知的生産システムが市場の力とうまく融合しているためである。こうした大学と市場の連携は近年のものである。またそれとともに、科学知識を生み出す研究の現場は公的なものから私的なものに変質しつつある。ではこういうアメリカの大学の変容をどう理解すればよいか。それが本書のテーマである。

 アメリカの大学が世界で指導的地位を確立したのは1940-50年代のことだった。この時期、「基礎研究」と「応用研究」の二元論の上に、基礎研究の重要性が確認され、大学の科学研究へ巨大な政府資金が投入されるようになった。

 ここで鍵となったのはリニアモデルだった。基礎研究から応用研究を経て技術革新へ、知識は直線的に流れていく。したがって、基礎研究こそすべてのオリジナルなアイデアの根源であり、基礎研究を支援することは、結局、技術革新を通じて、人々の生活を豊かにすることになる。これがリニアモデルの基本的考え方である。しかし、これは神話である。

 ところがここで経済学が援軍を送った。自由主義経済では、基礎的な科学研究は、不確実性の高さと初期費用の大きさから民間企業のみで遂行することは難しい。つまり、科学研究は自由な市場経済では達成できない典型的な「市場の失敗」の例であり、そのためには市場取引により親和性の高い応用研究と市場では対応できない基礎研究を厳密に切り分け、基礎研究の投資は政府が行うほかない。科学研究への政府資金の投入がこういう議論で正当化され、公共政策の一環となった。

 アメリカの基礎研究投資はリニアモデルに支えられて1950-60年代に急増し、1960年代以降、政府の研究投資全体の70%以上を占めるようになった。しかし、アメリカの大学は1970年代以降、再び変貌(へんぼう)した。生命科学関係の研究予算が急増し、1980年代以降、これがアカデミックな研究成果をもたらした。そこで重要なことがおこった。研究成果の特許化と民間企業との連携である。

 大学研究の特許は1980年代から急増した。ここで大きな役割を果たしたのがベンチャーキャピタルだった。その役割は資金的なものに留(とど)まらない。革新的な技術を大学の研究室や実験室から発見し、創業者に特許のライセンス供与の方法や経営ノウハウを伝授し、法律事務所、会計事務所を紹介するとともに、既成の大企業との連携を手助けする。ベンチャーキャピタルはこうして、大学、企業、研究機関、金融機関などを結びつける中心的役割をはたした。これに対応して、大学の研究と教育の現場も企業活動そのものとなった。こうして現在では、大学の研究組織は、それぞれが独立した企業体のようになり、チームのヘッドをつとめる研究統括者(PI)はプロジェクトを編成し、管理し、グループの研究者をまとめ、研究成果を外部に発信し、研究市場で勝ち残ることで外部資金の獲得に責任を持つ経営者のようになっている。

 この結果、大学を中心として生産される科学知識はかつての公的なものから私的なものへ、その性格を変え始めた。科学知識は一般的な性格をもてばもつほど、またより多くの、より広範囲の自然現象を説明できればできるほど、その評価は高い。特許化、市場化、商業化は科学のそうした公的性格を根本から変えつつある。ではそれにどういう意味があるのか。

 本書はここで、科学知識とはなにか、というきわめて根底的な問いかけをする。科学知識は一般に、仮説と論証によって検証を繰り返されたステイトメントの集合体として科学者の外部に蓄えられた記憶と記録と考えられてきた。これがオープンサイエンス・モデルである。しかし、科学理論の成立プロセスには多くのアクターが介在し、科学知識は実は、情報にコード化されるまえに、多くの研究者とのコミュニケーションの中で加工され、交換され、つくり出されたものである。

 基礎研究と応用研究の二元論の基礎にはオープンサイエンス・モデルがある。しかし、科学知識をコード化した情報と限定的にとらえるのでなければ、科学をどう考えるかについても、基礎科学/応用科学とは別の考え方がありうる。そこで著者は「生まれたばかりの知識」と「連携可能な知識」という分類を紹介する。こうした知識はいずれも、知識として一般的であろうとすれば、基礎科学ということになる。しかし、生まれたばかりの知識には知識のネットワークがない。そのため応用は難しい。一方、基礎研究でも、科学の外部と連絡の経路をもっていれば、この経路を辿(たど)って、知識の市場化がもたらされうる。知識が形成される実践的なプロセスとそこに介在するさまざまのアクターの存在が知識利用の外部性を構成する。

 科学技術政策を根本的に考える上で非常にためになる本である。

    --「今週の本棚:白石隆・評 『アカデミック・キャピタリズムを超えて』=上山隆大・著」、『毎日新聞』2010年9月26日(日)付。

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アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在 Book アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在

著者:上山 隆大
販売元:エヌティティ出版
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【覚え書】「今週の本棚:海部宣男・評 『進化の運命』=サイモン・コンウェイ=モリス著」、『毎日新聞』2010年9月26日(日)付。

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今週の本棚:海部宣男・評 『進化の運命--孤独な宇宙の必然としての人間』=サイモン・コンウェイ=モリス著
 ◇『進化の運命--孤独な宇宙の必然としての人間』
 (講談社・2940円)

 ◇「人間は必然」と説く著者の必然とは
 地球上の生物の四十億年近くにわたる進化は、科学の胸おどるテーマだ。次々に発見が続く化石資料はもちろん、DNAやタンパク質の解析という定量的な手法も加わったことで、めざましい進歩がつづいている。

 だが進化の専門家の間ではいま、厳しい対立が起きている。そこでこの本を取り上げながら、その対立点を探ってみよう。

 実をいえば「進化」は、ダーウィンによる進化論の提唱以来ずっと、激しい対立の渦の中にあった。進化は原始的生物から自然に発展して人間が生まれたことを意味するのだから、この世界での私たち自身の位置が問われたわけだ。当然、神による世界創造・人間中心の立場に立つ一神教、とりわけキリスト教との激しい軋轢(あつれき)を起こした。この点、世界創造を説かない仏教の立場は大きく異なる。自然(じねん)、すなわち自(おのずか)ら然(もよお)したものというのが、自然界についての仏教の基本的立場だ。それもあって日本の私たちからは、欧米におけるこの論争の激しさは理解しにくい。今回もこの本を読み終わり、その思いを深くした。

 アメリカで猛威をふるうキリスト教原理主義は、措(お)いておこう。ここで取り上げるのは、進化論の本家・イギリスを中心とした論争である。進化学者同士の論争だから、進化が適者生存を基本に進んだというダーウィンの理論は、どちらも否定しない。では、論点は何か。

 「生物の進化は、ランダムな試行錯誤なのか? それとも方向性を持って進むのか?」である。

 例えば六千五百万年前の巨大隕石(いんせき)衝突で恐竜が滅びた結果、哺乳類(ほにゅうるい)が繁栄し、人間が出現した。ではもし、大隕石が衝突していなかったら? その後の進化で、何が起こっただろうか。有名な進化学者の論客グールドたち「ランダム派」は言う。人間は現れていない可能性が高い。進化の方向は偶然の作用が大きく、生命の歴史のテープを巻き戻して再生すれば、全く違う結果に導くだろう。われわれ人間は偶然の結果、たまたまここにいるにすぎない。

 この本の著者コンウェイ=モリスは言う。進化には方向性がある。隕石落下がなかろうと、さまざまな偶然が重なろうと、人間はいずれ必ず現れたと。それが、この本の主題だ。

 彼は、カンブリア紀の進化爆発で有名なバージェス動物群の発見者だ。一九九七年の著書『カンブリア紀の怪物たち』(講談社現代新書)で、バージェス動物群はランダム進化の実験場でその場限りの種を数多く生んだというグールドが唱えた説に、真っ向異議を唱えた。バージェス動物群の多くは現存する動物につながる存在だと。私はこれも本欄で書評したが、軍配は密(ひそ)かに彼に挙げた。

 コンウェイ=モリスは進化には方向性があり人間は必然と主張するため、本書を書いた。主な根拠は、「収斂(しゅうれん)進化」という現象である。哺乳類のオオカミと有袋類のフクロオオカミなど、全く異なる系統から非常に似た形態や機能が生まれることが、進化上の収斂だ。似た環境と似た食物、生態上の必要が収斂を生むのであり、もちろんダーウィン的適応の結果である。本書の核心、六章から九章の二四〇ページ(本文の半分)は、面白いこと請け合いだ。著者は、驚くべき収斂進化の実例を次々に挙げる。

 レンズと網膜を備え、像を結び色を認識する人間の眼(め)は素晴らしいが、似たようなカメラ眼は哺乳類・鳥類とは別に、タコなどの頭足類、クラゲまで含め、十五回以上も独立に進化した。知能への収斂進化もあり得ると、その例も豊富に挙げる。イルカの脳は二千万年前くらい前までに大型化し、百五十万年前までは、イルカが地球で脳が最も発達した動物だった。人間の要件とされる道具の使用も二足歩行も、それぞれ独立に何回か進化を経たという。なるほど進化には方向性があるんだと、読む者を納得させる迫力がある。

 ところで本書の第一章から第五章は、分子レベルで見た生命の複雑さ、自然発生の困難さ、そして宇宙の生命についてである。生命の起源にはいろいろ見方もあろう。だが地球に似た惑星の存在はほとんど望みがないとする宇宙の生命の章は正確さを欠き、少々驚いた。前半で著者はなぜか結論を急ぎ、「生命は奇跡」へと結論を引っ張るのである。

 第十章では著者の「神」が徐々に姿をあらわす。グールドらへの反論をまとめた第十一章は学問的批判を超え、ほとんど読むに堪えない。『カンブリア紀の怪物たち』の著者がかくも感情的になるとは。

 この世のことは気まぐれに過ぎないという主張は精神を蝕(むしば)む、と著者は危惧(きぐ)する。著者の最後の言葉は、「進化の重要な事実と天地創造との調和を自問せよ」。ここで重要な事実とは、収斂進化のことだ。大きな意味での天地創造だと言いたいのだろう。しかし収斂進化は、神がなくとも知性が生まれることをも示すのではないだろうか。だいいち、仏教徒はどうしてくれます?

 一方のグールドの主張は、『神と科学は共存できるか?』(日経BP社)などを参照。訳者あとがきは、この本が書かれた背景の懇切な説明になっている。(遠藤一佳・更科功訳)
    --「今週の本棚:海部宣男・評 『進化の運命』=サイモン・コンウェイ=モリス著」、『毎日新聞』2010年9月26日(日)付。

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進化の運命−孤独な宇宙の必然としての人間 Book 進化の運命−孤独な宇宙の必然としての人間

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吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐と言ふらむ

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 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐と言ふらむ    文屋康秀

--「巻五  秋歌下 246」、佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫、1981年。

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なんだか大雨が降って、大風が吹いたら、いつの間にやら、秋になっていたようです。

あれほど30度オーヴァーの灼熱地獄が9月中盤まで続いていたのが嘘のようです。

今年の十月も例年よりはやや温度が高めという予報ですが、あの猛暑の日々に比べるとまだマシでしょう。

四季のなかで一番大好きなのが秋です。

さあ、これから秋を堪能しましょうか……。

……ということで、昨日プランターをみやると最後の朝顔がほころんでおりました。

9月に入ってから昼夜の温度差が大きくなったのでしょうか。緑のカーテンをベランダに演出してくれたニガウリもなかなか大きくならず、さきほどすべて収穫し、カーテンも片づけてしまいました。

さて……。
仕事に戻るかorz

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R-E-S-P-E-C-T Find out what it means to me

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R-E-S-P-E-C-T
Find out what it means to me
R-E-S-P-E-C-T
Take care of TCB
Oh a little respect
(Sook it to me)(Respect)
Oh a little respect
(Just a little bit ,just a little bit)
I get tired(Just a little bit)
Keep on tryin'(Just a little bit)
You are runnin' out of fools
(Just a little bit)
And I ain't lyin'(Just a little bit)
Respect when you come home
Or your might walk in
And find out I'm gone...
    --Aretha Franklin Respect,1967

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http://www.youtube.com/watch?v=-o1Bg7yBxQo&feature=related

再論でスイマセンが、残しておきます。

こないだある議員諸氏と話す機会があったのですが、webの自己紹介のところにさる世界的な偉人の名前を掲げていたので、「どの辺(著作)が壺でしたか?」って聞いたら、何も読んでいないとのこと。目に通しているのは一次文献ではなく、二次的な伝記・評伝の類のみ。

いやー、正直胃の腑をぎゅっとつかまれた次第です。本人の手による自伝ぐらいは目に通したことがあったのかと思ったのですが、そうした通念が木っ端みじんに粉砕されてしまいました。

こういうことを書くと、お前は大学人だから、読んでしかるべきだし、読む時間があるんだろう。おれたちは忙しいし、学を看板に掲げているわけではないから、しょうがねえんだよ、とやかくいうんじゃねえ、っていわれそうで、そのことも認めますが、それだけでもねえだろうということ。

読む人はキチンと読みます。それが出発点であるはずですからね。時間がないとか学がどうのというのはその意味では全く理由になっていないなあということ。何があろうと読む人は読む、その事実は否定できません。

そして、何よりも自分自身がリスペクトするのであれば、全てとまではいいませんが、代表作の一つや二つぐらいは目に通しておかないと、名札だけになってしまうということ。

こう書くと次にそれは議員だから「看板」でしょうと出てくるけれども、そういうと身も蓋もない。議員だけでなく、これは人間がある人物をリスペクトするのであれば、社会的身分にかかわらず共通した認識であるはず。音楽でも芸術でも同じ。

厳しい言い方ですけどね。その点は大切だと思う次第。

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だから盲従よりも猛獣として抗うことを選択するしかありません

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 その一年間、動物たちは奴隷のように働いた。しかし、働きながら彼らは幸福だった。自分たちでやっているすべてのことは、自分たち自身と、あとから生まれてくる子孫たちのためであって、けっして、けっして、のらくらしながらひとのものを盗む人間ども一味のためではないことが充分わかっていたので、彼らはどのような労苦も犠牲もおしまなかった。
 春と夏の間じゅう、かれらは週に六十時間も働いた。ところが、八月に入ると、ナポレオンは、これからは日曜日の午後も作業を行うことにする、と発表した。この作業は強制されない任意的な性質のものだったが、その作業を休んだものは、食糧の配給を半分に減らされた。それほどまでやっても、いくつかの仕事は、中途はんぱに残しておくより仕方がなかった。収穫は、昨年とくらべて多少の減収だった。そして、初夏に根菜をまいておかねばならなかった二つの畑は、すき返しが間に合わなかったために、たまねぎができなかった。今年の冬はつらい冬になりそうだ、という予測はついた。
    --ジョージ・オーウェル(高畠文夫訳)『動物農場』角川文庫、昭和四十七年。

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最近思索の場をまとめて確保することが難しく徒然なるままに、呟きでまとめることが多くなったのでその再論で恐縮ですが、まあ、ある程度まとめて考えていたようなのでそのまま残しておきます、。

さて……
「お前もそう思うだろう」っていわれても「はい、そう思います」ってことが殆どない。「そう思う」場合も「但し」と言いそうになってしまうことの方が多いけれども、「但し」とか「しかし」と続けさせてくれない空気が濃厚で辟易としてしまう。

「お前もそう思うだろう」って言う前に、「お前はどう思うのよ」とか「俺はそうだけど、どうよ」って言説を転換しないと、そこに取り残されてしまうのは呼吸のできない真空空間になってしまうと思うわけですが、なかなかそのことを理解してくれる御仁が多くない。

この現象は日本においてはどこでもそう。圧倒的な何かが差違を捨象してしまうというか……。正義を語る場合においてもネ。おそらく差違を認めてこなかった歴史に由来する「生き方」として定着していることに起因するのでしょうが、不幸にも精神性を構成する宗教史と連動しているところがorz

精神的態度の差違を認めることが出来ないから、違いは恐怖へと転換する。そしてそこからあふれ出した需要が、インチキに供給されていく……という負のスパイラル。さらに加速させるのが、「自分で考える」ことをよしとしない生き方なのでしょう。

福澤諭吉(1835-1901)や中江兆民(1847-1901)の警鐘をまつまでもありません。何しろ「政府」を「お上(女将ではありませんヨ)」と呼ぶ姿勢が現代まで続いていることを勘案すると考えることを拒否した権威への盲従という態度は一向に変わっていないことが理解できる。

だから盲従よりも猛獣として抗うことを選択するしかありません。だから私はウザイとよくいわれます。職場においても、家族においても。通念を打破していく乃至は通念を通念たらしめていく営為を拒否したままでは「お前もそう思うだろう」って強制に飲み込まれてしまうからです。

「『三国志』っていいよなア、やっぱりロマンがある。お前もそうおもうだろう」っていわれても、「いやー、結局の所、それは殺し合いの殴り合いの〝記録〟ですよネ、読むには読みますけどネ、趣味じゃありません」と答えるほかありません。

まあ、しかし「お前もそう思うだろう」っていうのは言語技術以下の恫喝にすぎないんなあと思った次第です。

さて……。

しかしながら「極東は官憲に弱いですが、欧州は階級に弱いです。だから政治が変わっても階級は変わらない」というのも事実。

この善し悪しは難しいです。

ただ政治に忖度する時代というのが終わったのかもしれません。

で……。
階級には問題があることは論を言うまでもないのですが(ここでいう階級とはインドのカースト的階級と言うよりも封建システムに由来する、血統としては完全にdestinateされていない階級)をめぐる問題に関して少しだけ連投。

基本的に本朝においての血統に擬度する階級というものは、陛下の血脈を除いては等質空間というのが現状なのではないかと思う。勿論、習俗共同体における「○○家」の論理は依然として存在するし、自分もそれで結婚した事実は否定しない。

しかし習俗共同体における「○○家」の論理と、欧州における階級(class)の論理(ユダヤ人と非ユダヤ人、キリスト教徒と非キリスト教徒の差違の論理も含む)とは質的にことなるものがある。本朝において最終的クラスが固定化されるのは江戸期といってよいだろう。

江戸期に完成された階級意識でもっとも重要な感覚とは何かと言った場合、階級内格差ということ。士農工商の枠組みにおいて、農工商民が不敬を働いた場合、士は「切捨御免」という特権が許されたという俗流の認識が広く流通しているが実はこれはレアケース。

対階級間での対抗意識というものが元々希薄だから「切捨御免」になるということが要するに稀なわけ。そしてその逆に、各階級内において意識されたのが、階級内での格差意識ということ。武家でいうならば石高に応じた家構え・使用人の数……etc。

その意味では本朝においての階級意識というのが一番でてくるのが階級内における格差意識という部分になってしまう。それが同じく封建システムをとった欧州との差違かもしれません。いうまでもありませんが、欧州にもありますヨ。しかし強調点としては、本朝ではそこが一番強調されているということ。

そしてそれを補完したのが官憲によって集中管理された宗旨人別帳というシステム。キリシタン狩りで始まったそれですが、お上の前ですべてが平等として管理されたわけですけど、裏を返せば、その限りにおいては「人間」であることが許された。だから階級内格差が助長されるという寸法。

と……いえば、ドイツにおける領邦教会制があるやないけ……という声もあります。機械的に信仰を割り振ったという点では同じでしょうが消息が違いますから同一視することは不可能。過程において流した血の量がちがいます。そして領邦教会の場合は、当時の「帝国」を考えると氾横断的ですしね。

さて。もどります。そうした管理に増長されたシステムが一応の瓦解を迎えるのが明治の政変ということで、そこでイチオーの白紙に返させられます(陛下は除きますヨ)。そして代わって出てきたのが再論で諄いけど「末は博士か大臣か(そして大将か)」という「国家の為に」で計る立身出世システム。

たしかにこれで平等にはなった。しかし、結果としてみれば、「上に立つ」という意識が欠如した「成り上がり者」のふんぞりかえりになったという事実を否定することができない。全てが全てというわけではありませんがネ。

欧州意識では伝統的なクラス意識が全体に対する「責任」論として矜持をうんだ(ノブレスオブリージュ)。しかし本朝では、タブラ・サラにした結果「責任」放擲の「貰ったもの勝ち」といういびつな構造をねつ造したことだけは確かである。

こんなことを書くと、おまえは階級主義者か、といわれてしまえば、はいそうですと同時にはいそうではありませんです。まあ、オルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)でも読んでくれというところ。すべてを平板化するのが近代の特色であるとすれば、たしかにタブラ・サラにすることを危惧はしません。

しかしながら、職位につく責任までをなげうつことは同等ではないということ。すべての人間を物心ともに貴族にしたのが近代という空間です。しかし日本では根っこまで根こそぎした結果、おぞましい結果に導いてしまったのが現実。

その意味では、訓戒として「尽くす」を設定しているクラス意識にはある程度のアドヴァンテージはあるのかなあとは思ってしまいますよ、正直。

すべてをぶっ壊してというか、なにもないところ始めたというよりも力で勝負したのがアメリカニズムとすれば、そこで出てきた階級意識(エリーティズム)は、まさに喰うか喰われるかという動物の論理。

そして粛々と任務を遂行するのが欧州型とすれば、そのどちらでもない、乞食根性が日本の階級意識の特徴かもしれません。

仕事していても違和感ありますよね。無職で外車乗っていて、腕に彫り物でなくプリントで絵をつけたニイチャンが恫喝していたり、最高学府出て最高の官僚だとか政治屋やりながらおなじことやる人間がいたりとかね。まあ、ひとそれぞれやけれども、心根はおなじだろうね。ただそれを選択したくない。

だからね、誇りを持って生きるといきるということが階級意識であるとすればそうだろうと思う。ウンコのような政治家よりも、ウンコにたかるはえのようななんとか屋さんよりも、一番いい顔をしているのは、生き方に自信をもった職人さんとか、真面目に生きている人間ばかりですからね。かくありたいよ。

飲みながらどうでもいい話をしてすいません。

しかしアレよね。俗流功利主義の損得勘定を否定することはできないけれども、十全に肯定することもできない。しかし本朝の戦後の不幸は、すべてを損得計算によって計ろうとしたところにひとつの落とし穴があるんだろうね、全てではないけれども。

だから階級意識といわなくとも、躾によって糺すこともできないし、得か損かの二者択一。アメリカニズムよりはましだろうけれども、どんぐりの背比べ。次に中国がくるんでしょうけど。そもそも功利主義の損得ゲームは功利主義者のミル(John Stuart Mill,1807-1873)によって最終的には否定されているわけなんだけれども、はあ。

こんなことを書くと権威主義者だとか階級の敵だとか言われそうですが、正直な実感です。平等なスタートから何を立ち上げていくのか、考え直す必要はあると思います。それが世襲となる必要はまったくないんやけれども。機会の平等イコール、同じ人間の拡大再生産ではないし、差違を尊重する意味をね。

いずれにしても、誇りを持って生きていくことは大事なんです。それが差別の根拠とはそしてイコールではないということ。その相関関係でたたずめ、ということじゃ。

まあ、しかし、そーゆう、結局の所「外から」の自分自身の「秩序付け」というものごとの欺瞞(利点もあるけれども)が厭になって、最終的には自分自身で「自分自身」を「秩序付け」していくほかあるまい……となってしまい、個々人の自由を最も大切にするリバタリアンになったというのがその実情。

ただ、個々人の自由を尊重するのであれば、対峙=対自してくる他者も全く均しく尊重しなければならない流儀を喪失してはならないというのはいうまでもないこと。ヘーゲルの「相互承認」を引くまでもなく、この辺をすっとばすとろくなことにゃアなりゃしない。これは諄いけど附言しておく。

いかん、おしゃべりが多すぎた。ん~。やっぱり権威主義者なんだらうか。

最後に……。

昨夜は、クラフトのカマンベール入り切れたチーズを使って磯辺焼き。切れたチーズを二枚重ねて海苔でまき、フライパンで片面を30秒づつ炒め、最後に醤油を垂らしてできあがり!

これがなかなか乙。

ただしかしカロリーが高い。

まあ、いずれにしても、自分自身で考えていく方向性をきちんと持たないとオーウェル(George Orwell,1903-1950)の指摘するような社会というのは形をかえて現出することは間違いないでしょう。

02 03

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2・1 私たちは、私たちのために、事実の絵を描く。

01

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2・063
 現実の総体が、世界である。

2・1
 私たちは、私たちのために、事実の絵を描く。

2・11
 絵とは論理的空間のなかにある状況を、すなわち、さまざまな事態の成立と非成立とを表わすものである。

2・12
 絵は、現実のモデルである。

2・13
 (描かれた)諸対象には、絵のなかで、絵の要素がそれぞれ対応している。

2・131
 すなわち絵の要素は、その絵のなかで、それぞれの対象を代理している。

2・14
 絵を絵たらしめるものは、その要素が特定のしかたで互いにかかわりあうということである。

2・141
 絵も一つの事実である。
    --ウィトゲンシュタイン(山元一郎訳)『論理哲学論』中央公論新社、2001年。

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んー、

久しぶりにやることが多くて聴牌ってきている状況の宇治家参去です。

いろいろと整理してやらなければならないのですが、現実の状況に引き回されることも多く、頭にくることも多く、なかなか遂行できないのですが、少々しがみついてやっていこうかと思います。

事態をふまえたうえで、対象を組み立て直し、もう一度絵を描き直しますか。

でわ、仕事へもどります。

しかし、今日も東京は30度オーヴァー。

たまりません。

02 03

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【覚え書】「反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫」、『毎日新聞』2010年9月19日(日)付。

01

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反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫
 米ハーバード大学で約30年、「正義」をテーマに政治哲学を講義してきたマイケル・サンデル教授のことである。

 その授業を放映したNHKの「ハーバード白熱教室」が評判になり、教授の著書「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)はベストセラー、東京大学での特別講義も白熱して、すっかり時の人になった。

 あまり知られていない事実だと思うが、教授のこの著書は偶然にも、日韓ほとんど同時に翻訳出版された。韓国側の題名は「正義とは何か」である。

 双方の版元に聞くと、既に日韓ともに30万部以上が売れて増刷を重ね、勢いに陰りはない。日本側は50万部以上を見込んでいる。韓国側は目標を言わないが、哲学書としては極めて異例のベストセラー総合1位に喜色満面といったところ。

 そして、発売当初は少なかった女性による購入が増え、最近は4割近くに達しているという点まで、日韓の状況は酷似している。サンデル教授が8月後半に両国を相次いで訪問し、メディアへの露出が急増したことと関係がありそうだ。

 「2020年、ハーバード大学の平壌キャンパスが開校したとしよう。優れた教育を受ける機会がなかった北朝鮮の学生たちに入学優先権を与えることは正義にかなうだろうか?」

 これは教授がソウルで対話型の講演を行った際の、三つの設問の一つだ。米国ではおなじみのアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)をめぐる論点を、韓国向きにアレンジした工夫がうかがえる。

 もっとも、聴衆が4500人も詰めかけたため、東大で1000人余りを相手にした日本版「白熱教室」と比べると、やや大味な展開になったようだ。

 こうした隣国での動向を私は最近まで全く知らなかった。日韓間の人の往来は激増し、お互いのニュースを知る機会も増えたが、伝わる情報の幅と深みは十分でない。サンデル教授に関する社会的反応が日韓で大きく違うことも、さほど知られてはいないだろう。

 日本での最大の関心は、教授の講義の抜群の面白さにある。ネット上では授業の手法についての話題が目につく。正義を論じた書物に触発されて、身近な問題を一緒に議論してみようという動きもあるようだ。そして研究者からは、行き過ぎた市場主義の弊害を道徳的観点から批判するサンデル教授の哲学を、日本の格差問題への対処に活用できるといった声も出ている。しかし、こうした意見が具体的な政策論争に直接反映される兆しは、今のところ見えない。

 韓国ではどうか。李明博(イミョンバク)大統領は8月初めの休暇中に教授の著書を読んだという。それとは直接関係なく以前から温めていた構想らしいが、同月15日の演説で「公正な社会」の実現という政策目標を打ち出した。「敗者が再起でき、勝者が独り勝ちしない社会」といった概念で、市場主義の冷酷な面を修正する狙いを含んでいる。教授の正義論と重なるところがある。

 しかし李大統領の目標達成は容易ではあるまい。今の韓国は優良企業が国際的に大躍進する一方、競争と格差は日本より厳しいように見える。「公正な社会ではない」という国民の不満が「爆発寸前」なのだと、韓国では著名な女性コラムニストが最近の新聞に書いている。

 しかも韓国社会の政治的亀裂は深く、鋭い対立が避けられない。野党勢力の相当数が「サンデル旋風」を政権批判の武器にしている。訪韓した教授が著書の売れ行き好調の背景について「正義に関する幅広い論議への渇望があるようだ」と語ると、ネット上には「教授は李明博政権を不道徳と診断した」という我田引水の書き込みが出た。

 サンデル教授は対話型の講義では自分の見解を述べない。しかし「正義」の著書の末尾2章では意見を提示した。東大の講義で投じた「東アジアでの戦時中の行為について今の日本人は謝罪すべきか」という質問に関連して、米国を含む各国の蛮行を論じた細密な分析もある。

 ここでその要約を試みる余裕はないが、日韓の学生同士の討論などではほとんど不毛な結果に終わる論点だ。日本の戦後世代はあまりにも歴史を知らず、韓国側はあまりにも一方的に責め立てる。このパターンからなかなか抜けきれない。

 「意見不一致を受け入れられる社会を作るべきだ」とサンデル教授は強調する。それを日韓関係でも実現できればいいと思うが、「正義は我にあり」の壁を破るのは至難の業だろう。
    --「反射鏡:サンデル教授に触発された日韓反応の対照=論説委員・中島哲夫」、『毎日新聞』2010年9月19日(日)付。

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02 04

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 Book これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

著者:マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
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リベラリズムと正義の限界 Book リベラリズムと正義の限界

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Book 完全な人間を目指さなくてもよい理由−遺伝子操作とエンハンスメントの倫理−

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民主政の不満―公共哲学を求めるアメリカ〈上〉手続き的共和国の憲法 Book 民主政の不満―公共哲学を求めるアメリカ〈上〉手続き的共和国の憲法

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理由は必要ありません

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  理由の他者性
  まず、多人が何を考えているかわからない、という点を取り上げてみよう。今路上でたまたま見かけた友人が、何かを必死で考えている様子である。何を考えているのか、微に入り細をうかがって彼を観察して見ても、言い当てることはまず絶対に不可能であろう。彼は道に迷って微かな記憶の痕跡を必死に辿っているのかもしれないし、何らかの必要から三桁のかけ算を頭の中で必死になってやっているのかも知れない。彼が何を考えているのか、どうすればわかるだろうか。彼に聞いてみればいい。だが、聞いてみるしかない。彼の答えが「暗算をしていた」であれば疑問は氷解するだろう。なお残るわからなさは、なぜ彼は暗算などをしていたのか、という点だけであろう。そこで「なぜそんなことをしているんだい?」と聞いてみる。もし彼の答えが「路上で暗算すると気が晴れる」だったとすれば、今度のわからなさは最初のそれとは異質である。そして、そのわからなさがどこまで問答を続けても晴れないとき、そこに「他者の問題」がある仕方で登場してくることになる。このようなばあい、に問題となる他者の他者性を、かりに「理由の他者性」と呼ぶことにしよう。
  理由の他者性について論じるべきことがらは多い。それは結局のところ人間の行為全般におよぶからである。およそ人間がみずからおこなう行為のすべては、行為というものの本質上、その人の考えることによって導かれており、人の考えることは、考えるということの本質上、理由の連鎖によって成り立っているからである。ところが、ある人にとってもっともな理由は他の人にとっては納得のいかない理由である。納得のいかない理由によってなされた行為は不可解な行為であり、しばしばそのような行為をおこなう人物は不可解な(訳のわからない)人物である。要するに、ここで問題になっているのは人間の従うべき規範なのであって、異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである。したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味での他者は存在しないということになる。

        永井均「他者」、『〈私〉の存在の比類なさ』講談社学術文庫、2010年。

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昨日は夕刻より東京駅近くの「食彩健美  野の葡萄」にて学生さんたちと会食といいますか、怪飲してきました。

飲むのに理由は必要ありません。

ただしかし、疲れたびです。

さて今日はこれから授業です。

orz

02 03

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫) Book 〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)

著者:永井 均
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自分のことはよくわかるが、他人のことはよくわからない。いま自分が何を考え、何を感じているか、それは手に取るようによくわかる。しかし、いま他人が何を考え、何を感じているか、これは手に取るようにはわからない。

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 自分と他人は違う。自分のことはよくわかるが、他人のことはよくわからない。いま自分が何を考え、何を感じているか、それは手に取るようによくわかる。しかし、いま他人が何を考え、何を感じているか、これは手に取るようにはわからない。この自他の非対称性は、誰もが持っている事実である。
 通常「他者の問題」といわれているものにはいくつかの種類があるが、そのどれを取っても、もとにあるのはこの事実であってそれ以外ではありえない。しかし、この事実をどのようにとらえるのか、そのどこに「問題」を発見するかによって、「他者の問題」は多様な相貌をみせるのである。それはまた、他者の他者性をどこに見いだすか、ということである。
    --永井均「他者」、『〈私〉の存在の比類なさ』講談社学術文庫、2010年。

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どうも宇治家参去です。
他者問題についてそろそろひとつまとめようかと思いつつ、「理由の他者」性と「感覚の他者」性の違いを踏まえつつ、議論を進めていかないと、現実とかけはなれた作業架設に陥るか、それとも恣意的な感覚主義になってしまうか……、永井均(1951-)先生の著作を紐解きつつ、昨夜は思索を続けていたわけですけれども、飲みながらの思索の途中で、自宅周辺をお世話になっている英会話・米文学のS先生が自転車で通過(⇒帰宅途中)されるとのことを聞き、

「ぢゃ、そこまで行きますワ」

……ってことで、自転車にビールぶっこんで、そのまま出かけてしまった次第です。

1時間ほど、哲人ならぬ鉄人会議を遂行w

自転車道脇のテラスにて、ああだ・こうだとくだらぬ話をしたわけですが、やはりいろいろな媒体はありますけれども、会って話をする、とくに学問の話とか下らぬ話であったとしても、会って話をするというのは大事だなア……と思いつつ、再会を期して辞しました。

S先生お忙しいなかありがとうございました。

さて……。
帰宅してから、また少し飲みなおしてから寝たのがorzでした。

日曜は、朝から家人と美術館に行く予定でしたが、起床すると誰もおらずのorz

これは、まあ、日頃から疲れているのでゆっくりやすんでいいよ……というメッセージとうけとめつつ、

まさにこれこそ「自分のことはよくわかるが、他人のことはよくわからない。いま自分が何を考え、何を感じているか、それは手に取るようによくわかる。しかし、いま他人が何を考え、何を感じているか、これは手に取るようにはわからない」という奴か。

さて……。
他者問題をもう一度考え直しましょうか。

02 03

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<中立的なもの>の哲学にぞくする思想の運動はその起源と影響とにおいてさまざまであるけれども、哲学の終焉を告げる点で一致している。

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 <中立的なもの>の哲学にぞくする思想の運動はその起源と影響とにおいてさまざまであるけれども、哲学の終焉を告げる点で一致している。その運動は、いかなる顔も命じることのない従属を称揚するものであるからである。前ソクラテス期の哲学者たちに対して啓示されたと言われる<中立的なもの>に惑わされた<渇望>によって、哲学は解雇される。あるいは欲求として解釈された渇望、したがってまた活動の本質的な暴力に帰着する<渇望>が哲学を解雇してしまい、渇望は芸術や政治においてのみ自己満足することになる。<中立的なもの>の称揚は、《私》に対して《私たち》が先行し、状況内の諸存在に対して状況が先行しているというかたちをとって主張されることもある。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限(下)』岩波文庫、2006年。

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いかん、いろいろ考えているとこんな時間になっちゃった。

寝る。

すいません。

コメンタリーなしでw

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だから「教会」ではなく「協会」と看板するわけです。これでは本物の「教会」も「協会」も大迷惑をうけてしまうというわけです。以上

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傷害:信者に暴行、けがさせる 新興教団会長夫婦、容疑で逮捕
 東京都大田区にある未届けの宗教団体「ロマゾフィー協会」内で、信者の女性に暴行しけがをさせたとして、警視庁捜査1課と田園調布署は16日、同協会会長の平岩浩二(49)、副会長の妻司(36)両容疑者を傷害容疑で逮捕した。捜査関係者によると、2人は昨年11月から日常的に女性を暴行していた疑いがあり、捜査1課は教団の実態解明を進める。

 逮捕容疑は、4月16日未明から朝にかけ計約4時間にわたり、協会の所在地でもある平岩容疑者の自宅で、都内に住む40代の信者の女性の腰や尻を木製の棒(長さ約50センチ)で数十回殴るなどして全治2週間のけがをさせたとしている。女性は翌日午後に逃げ出し、田園調布署に被害届を出していた。

 平岩容疑者は「妻がやったこと」と容疑を否認。司容疑者は「カツを入れてやろうと思った」と供述している。

 女性は07年5月ごろ同教団に入会。09年10月から信者として平岩容疑者の自宅に住み込み家事を手伝うなどしていたが、同11月ごろから「掃除、洗濯、料理などのやり方がいいかげんだ」などと因縁をつけられ暴行されるようになったという。同教団には20~50代の男女30~40人が入会している。【神澤龍二、山本太一、内橋寿明】
    --「傷害:信者に暴行、けがさせる 新興教団会長夫婦、容疑で逮捕」、『毎日新聞』夕刊(東京)2010年9月16日(木)付。

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またね、……と思うと同時に放置も出来ないのでツイートで連投したのですが、まあ残しておこうという寸法にて、稚拙な議論ですが、一応、のこしておきます。

すぴりちゅある団体「ロマゾフィー協会」の会長と副会長が逮捕されたようですが、スピリチュアルに関して、少し免疫性がまったくない本朝の精神的態度に違和感がありますので、すこし書き殴る。

制度化された霊性のシステム(歴史のある制度宗教)で満たされない個々人の霊性というのは確かに存在します。現代風に言えば、宗教性といってよいでしょう。ひとりで探求したいというのも人情ですし、「縛られたくない」という感情もわからないでもありません。

しかしもともと制度化された霊性のシステムをキチンと経験できていない本朝では、陳列棚に並んだ様々な商品を選ぶ際にその落とし穴を見抜くことがなかなかできないのかもしれません。要するに玉石混淆の状況であるにもかかわらず、どれもが「大丈夫だろ」に見えてしまうということ。

さて、今回のケースでは、霊視・徐霊・という言葉も言及されていましたが、日テレの取材映像によると、「前世は誰だった」というお約束の言葉も紹介されておりました。別に「前世が誰であろう」とあなたはあなたやないケ……とドライな私は思ってしまうのでしょうが、これは少数派なのかしらん。

もちろんそれを信じる・信じないは当人の問題です。しかし私なんかは前述したとおり「あなたはあなたやないケ」というのが実感。思想的には実在論のようで、まあこれも問題があるのでしょうけど、どう考えても「あなたはあなたやないケ」というのが素朴な認識論です。

まあ、前世が誰であったにしろ、私なんかは脳の容量が大きい方ではありませんので、今の自分を相手にするだけで精一杯です。そこに前世だの自分があっちゃこっちゃ出てくると、petiumIIIぐらい処理速度しかありませんので、処理しきれないという寸法です(苦笑
※windowsVISTAは厳しいw

それよりも、ソクラテスではありませんが、今の「わたしの魂をもっとも大切にしなければならない」⇒汝自身を知れ、という取り組みに優先順位をおくべきなのでは……などと思ってしまうのですが、そんなことを思うから、お前はにはすぴりちゅあるのロマンがわからないんだア、と言われる始末。

しかし、最後に全てをひっくり返しますが、すぴりちゅある至上の中核に位置するのがキーワードとして自己啓発、手法として呪術。前者は霊性と全く切り離された新入社員研修の猿真似にすぎないし、後者も霊性と全く切り離された疑似科学にすぎません。

まあ、だから「教会」ではなく「協会」と看板するわけです。これでは本物の「教会」も「協会」も大迷惑をうけてしまうというわけです。以上。

というワケです。

まあ、違和感を感じつつ、簡単に、「なんでこんなのを信じるのか?」っていう驚愕もありますでしょうけれども、これは他山の石として銘記する必要はあるでしょう。

何しろ人間は過ちやすい存在ですから。

……というわけで、底冷えのする東京。

夕刻は、ひさしぶりにすき焼きを頂戴しました。

さきほどからまたいっぺえ、やりはじめましたが、アテはチンする97円のおでんです。

いやー、こんなに早くおでんをたべることができるとは……という至福を味わいつつ、今日は30度近くまで上昇するんだよね……と思いつつ、

早く寝るのが目下の課題でございます。

でわ☆

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出会うと同時にこの出会いそのものを相手に対して必ず表明しなければならないような唯一の存在、それが人間である

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 出会うと同時にこの出会いそのものを相手に対して必ず表明しなければならないような唯一の存在、それが人間である。まさにこの点でも、遭遇は認識と区別される。人間的なものに対するどんな態度のなかにも、挨拶--たとえそれが挨拶の拒否であれ--が存している。知覚とはこの場合、地平に向けて、私の自由、私の権能、私の所有物の領野に向けて自己を投影し、このなじみ深い基底を起点として個体を掌握することではない。そうではなく、知覚は純然たる個体、存在者としての存在者と係わるのだ。「了解」という語をあえて用いて述べるとするなら、このことはまさに次のことを意味している。つまり、存在を存在者として了解することはすでに、私が存在者に対してこの了解を表現することなのである。
 語りかけることもなく、他者と接することはできない。この不可能性は、思考が表現と不可分なものであることを意味している。ただし、他者に関する考えを他者の精神のうちにいわば移し替えることが表現なのではない。このことを初めて述べたのはハイデガーではなく、ソクラテスである。表現はまた、他者と私が共有する了解を後から言葉として表明することでもない。表現とは、了解によって得られる共通内容へのいかなる融即よりも先に、社会性をある関係によって創設することである。だからこそ、この関係が了解に還元されることはありえないのだ。
 このように、他者との関係は存在論ではない。他者との絆は他者を表象することではなく、他者に請願することでえある。しかも、この絆においては、了解が請願に先立つことはない。われわれはこのような絆を宗教と呼ぶ。言説の本質は祈りである。人物との絆においては呼格がかたちづくられるが、この点において、人物との絆は事物を目指す思考とは区別される。つまり、命名されたものは同時に呼びかけられたものでもあるのだ。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「存在論は根源的か」、合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年。

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本日……精確には昨日……が最終出勤日の市井の職場のバイト君と最後の仕事をがっつりとやってきました。

東京は、雨模様。

よって……といいますか、商圏として自転車・徒歩でのお買い物で来店されるお客様が7割を越えるGMS店舗ですので、比較的のんびりと業務を遂行する予定でしたが・・・、

そうは問屋がおろさない・・・という慣用句があるように、

「暇だろうから、店内のレイアウトチェンジよろしくネ」

……という不幸の手紙という名の引継書に図面が添付されてい、

「アウントウェルペン!」

……とさけびつつ、最後の出勤日だったバイト君S君と一緒に

「ありえねえー」

……とハグしつつ、えっちらおっちら作業は完遂した次第です。

店外の雨模様は落ち着きましたが、店内の景色はすでに秋模様!

セキュリティをセットして、ミッドナイトMgrへ引継をしてから、お互いに、、、

「お疲れさま、おせわになりましたっ」

どちらから声をかけるわけでもなく唱和という寸法w

このままそれでクローズさせるのも難ですよね。

なにしろ、自分が現在の店舗へ移ってから最初に採用されたバイト君。

思い返せば3年間、同じ釜を喰ったといいますか……。

関西から上京して、3Dグラフィックで仕事を探していたのですが、探しているだけでは「喰っていく」ことは不可能ですから、〝つなぎ〟で始めたバイトなわけで、在職中に何度も「ご縁がありませんでした」をくらいつつ……、必死かつのんびりにくらいついていった結果、時間はかかりましたが、試用期間有りの、まずは限定採用ですが、なんとか仕事が決まり、今日になった次第です。

まあ、負けないで食らいついてほしい。

何度も厳しい話をしつつ、幾千と泣かせて……。

なにしろ、宇治家参去は、アメリカのテレビ・ドラマでいうと「COMBAT!」のチップ・サンダース軍曹ですから、ビシビシやったわけですが、それを乗りこえてガッツしてきましたので、

「それを忘れずに、自分から〝できましぇん〟なんてクローズするなよぉぉ」

って弾嘩してきたわけですが、、、、

某ヨット・スクール張り(ネタが古い?)のしごきに耐えてきましたので、まあ、がんばってほしいと思います。

……って終わらせてしまうと、わたしであってわたしでないでしょ。

ですから、

勤怠をカード・スキャンしてから、、、

「いくか」

……ってことで〝強引〟に行った次第です。

ホント、これこそ悪しき「日本教」orzなのですが、こーゆう「日本教」もありかぁ!と思いつつ、

「じゃあ、最後ですから」

⇒ って逝った次第です。

まあ、S君、酒がNGなわけなのでw

⇒ とわいうものの、23時過ぎてから近隣で営業しているのは居酒屋かファミレスぐらいなので、前者。

ウーロン茶と生ビールでまずは乾杯!

初鰹よりももどり鰹のほうがこのみですので、鰹のたたきを頼んでからゆっくり懇談。

「いやー、アレまじはんぱなかったすよねえ」

とか。。

「これも、ありえなかったですよねえ」

……って江田島@海軍兵学校ばりに思い出話をつらつらとやりつつ、S君は飲めないので高菜チャーハンでサンマの塩焼きをやってもらいつつ、こちらは、焼き鳥で舌鼓。

いろんな問題とか、才能の問題はとか、いろいろあるのは知っているんです、一般論として。

ですけど、キチンと続けていくのは大事なんだよなア~としみじみ思いつつ、

サクッ

……と締めてから

「お互いに、〝負けない〟人生を!」

とエールを交換した次第です。

正直なところ、極めて金欠でしたので、

「いきたいけど、いくとマズイよなア、まあカードで払う手もあるけれども」

……と忸怩たるところもあったのですが、やっぱり思い切って正解w

人間の価値は、金では換算できませんし、ねえ。

ホント、逆に自分もがんばるべ……と思ったひとときでございました。

いや、ホント、レヴィナス老師(1906-1995)は「出会うと同時にこの出会いそのものを相手に対して必ず表明しなければならないような唯一の存在、それが人間である」と語りますが、本当に、人間は素晴らしい、ありがとうではその出会いに感謝しきれません。

いやー、

負けないで進め!

……オイラもw

とかいいつつ、結局帰宅後最終的に鯨飲しているなうw

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「極度の注意と努力と勤勉さ」

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 すべての人は不死なる魂を持っており、永遠の幸福に達することも、永遠の破滅に陥ることもできます。その幸福は、神の恵みを得るに必要なことがら、またそのために神によって命じられたことがらをこの世において信じ、行なうかどうかにかかっています。そこからして、まず第一に、これらのことを守ることが人類に課せられた最高の義務であり、それを探究し実行するためには極度の注意と努力と勤勉さが必要である、ということになります。なぜなら、この世には、永遠と比べれば、大事なものは何もないからです。第二に、人が謝った意見を持ち、不適当な礼拝のやり方をしているからといって、だれもその人の権利を犯しはしないし、また自分が破滅に陥っても、それは他人になんの損害も与えはしないのですから、各人の救済への配慮は、ただただその人自身に属するものだ、ということです。しかし、私はなにも、人々を誤りから引きもどすための親切な忠告や、愛情あふれる努力を非難するつもりでこう言っているのではありません。事実、そうしたことはキリスト教徒たるものの最大の義務であります。他人の救済を促進するために、人は好きなだけ勧告し説得してよいのです。けれども、暴力や強制はすべて避けられねばなりません。何ごとも押しつけられてはなりません。この問題においては、その人自身が納得した以上に、他人の勧告ないしめいれいに服従するよう強いられてはならないのです。ここでは、人はだれでも、めいめいがみずから判断をくだす最高絶対の権威の所有者です。それは、他のだれもそれに関係はないし、そこでの行為からだれも損害を受けることはないからです。
 しかし、その不死なる魂のほかに、人はまた、この地上に現世的な生活をも営んでおります。この地上の生活はもろくはかないものであり、継続期間も不確かなものでありますが、それを支えるにはいくつかの外的なとり決めが必要でありますし、そのとり決めは努力と勤勉によって獲得し維持されねばなりません。なぜなら、われわれの生活の快適なささえとして必要なそれらのものは、自然がひとりでに生み出すものではなく、またわれわれにすぐ使えるような形で与えられるものでもないからです。したがって、これは別の配慮を要求し、必然的にまた別の仕事をもたらします。
 しかし、人間は堕落していて、みずから努力して必要に備えるよりも、むしろ不法にも他人の労働の成果を奪おうとするものです。それで、人々が正直に働いて得たものを所有し、さらにほしいと思うものを獲得するための自由と力とを守る必要から、人々は互いに結んで社会を造り、相互に助け、力を合わせて、この地上の生活の快楽と幸福に役だつものを財産として互いに確保できるようにせざるをえなかったわけです。そして一方、各自の永遠の幸福は各人の配慮にゆだねられ、その獲得は他人の勤勉によって助けられることもないし、それを失ったところで他人の害になるわけでもなく、またそれへの希望が外部の暴力によって奪われることもありません。
    --ロック(生松敬三訳訳)「寛容についての書簡」、大槻春彦編『世界の名著 ロック ヒューム』中央公論社、1980年。

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忙しいので覚え書をひとつ。

たしかに人間は存在可能性としては無限で万能なのでしょうが、それと同時に「極度の注意と努力と勤勉さ」が必要なんだろうね。

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「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、この行為は「あやまち」ではありませんので、あしからず。

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 まず最初に知識について。われわれは、非合理主義がふたたび流行する時代に生きています。ですから、わたくしは、自然科学的知識を--唯一のものであるとはとうてい言いえないにしても--われわれの有する最良にして最重要な知識であると見ているという告白から話を始めたいと思います。自然科学的知識の眼目は次のような点にあります。
 一、自然科学的知識は、問題から、しかも実践的な、そしてまた理論的な問題から出発する。
 大きな実践的問題の一例は、避けることのできる苦しみに対する医学の闘いはすでに大きな成功を収めています。そして、人口爆発は、そこから生じてきた意図されていなかった帰結のひとつです。これは、古くからのもうひとつの問題、産児制限の問題が新しく緊急の問題となったことを意味しています。この問題に対して実際に満足のいく解決を見出すことが、医学のもっとも重要な課題のひとつでありましょう。
 このような次第で、われわれの最大の成功が新しい問題を導くのです。
 宇宙論における理論的大問題の一例は、重力理論をさらに検討し、統一場理論をさらに探求することです。理論的にも実践的にも大事な重大問題は、免疫〔機構〕のいっそうの探求です。一般的にいえば、理論的問題とは、説明の困難な自然過程を理解できるように説明し、そして、その説明的理論を〔そこから導出される〕予測をつうじて検討するという課題です。
 二、知識とは、真理の探求--客観的に真なる説明的理論の探求です。
 三、知識は確実性の探求ではありません。あやまちは人の常です。人間のあらゆる知識は、可謬的であり、したがって不確実です。ですから、われわれは真理と確実性を鋭く区別しなければなりません。あやまちは人の常ということ、その意味は、われわれは絶えず誤りと闘わねばならないのみならず、どれほど細心の注意を払ったところで、誤りを犯さなかったと確信できるものではないということです。
 われわれが犯す誤り--誤謬--は、科学において、本質的に言って、真でない理論を真と見なしてしまうという点にあります。(ある理論が真であるにもかかわらず、偽と見なされてしまうといった誤りは、ごくわずかです。)したがって、誤り、誤謬との闘いとは、客観的な真理を探求することであり、真でないものを発見して取り除くためにあらゆることをおこなうことです。これが科学的活動の課題なのです。したがって、こう言ってもよいでしょう。科学者としてのわれわれの目標は、客観的真理、つまり、より多くの真理、興味深い真理、より良く理解可能な真理である、と。確実性が合理的な仕方でわれわれの目標になるといったことはありえません。人間の知識は誤りうるということが洞察されている時には、誤りが犯されなかったかどうかという点にかんして決して確信をもてないことも洞察されているのです。これはまた次のように定式化することもできるでしょう。
 不確かな真理--それどこころか、われわれが偽と見誤っている真なる命題--さえが存在するが、不確かな確実性といったものは存在しない。
 われわれは、およそ確実に知ることなどできないのですから、確実性を探求することは、まさしく割に合わないことになります。割りに合うのは、真理を探求することです。そして、われわれは主として、誤りを訂正するために、誤りを探求するという仕方で真理を探究するのです。
    --ポパー(小河原誠・蔭山泰之訳)「知識と実在の形成」、『よりよき世界を求めて』未來社、1995年。

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月曜日から、「哲学」の授業が始まりましたので、3週間ぶり?ぐらいに大学へ出講しましたが、前日、例によって鯨飲&睡眠不足という事態を招き、ヘロヘロになって大学へ向かった次第です。

ですから、乗り合わせた循環バスで、おりるところを間違え……正門でおりるべきを、別の門までいっちまった!……、それからキャンパスを横断して短大の方へ向かったorzでございます。

まさにカール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902-1994)の指摘、すなわち「あやまちは人の常ということ、その意味は、われわれは絶えず誤りと闘わねばならないのみならず、どれほど細心の注意を払ったところで、誤りを犯さなかったと確信できるものではないということ」をすっかり失念していた次第です。

「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、その文脈が実にすっ飛んでいたというわけでしょうか。

さて……。

昼食を早々に頂き、昼から初回の講義。
初回はガイダンスのみでもOKなのですが、ワタクシの場合は、そうは問屋がおろさないということで、そのまま講義を続行しました。

授業の概要だけ紹介しても、ぢゃあどういうスタイルと内容なのか、たった30分ぐらいでしたが、ゆる~く流させていただきました。

とわいえ、ひさしぶりに教室でマイクを握りましたので、ヘロヘロで声もかすれるという始末。

「まったくこのていたらくは、なんたるちあじゃ」

……などと思いつつ、無事に終了したことにひとまず安堵です。

いずれにしましても、後期15回、教室でお世話になる皆様どうぞ宜しくお願いします。

さて……。
「哲学」を講ずるなかで、最も大切にしているのは「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」をおこさせるということです。

このことは何度も論じてきておりますので、ここでの議論としては割愛しますが、展開としての知識論に関しても同じです。

なにか出来上がった知識や体系を「覚える」とか「活用する」ことを何かを「学ぶ」ことと錯覚している学生さんが多々います。

しかし、それは本当に「学ぶ」ことではありません。「学ぶ」手段にしか他ならないことを目的と錯覚しているのが現状でしょう。

だからその構造をぶっ壊すのが哲学の講義の役割です。

自分で疑問に思ったり興味を抱いたことに関して、自分で調べて深めていく……そうした労作業のこそ、大学で何かを学ぶということに他なりません。

ですから、教材を覚えるとか……それが無意味ではないんですが主ではない……を学問と錯覚しているドクサをぶっ壊し、自分で探求し始めるようにし向けるそうしたひとつのきっかけになればいいなあと思う次第です。

……ということで、無事に済んでから教員バスにて京王八王子駅ちかくの停車場で下車。JR八王子駅までぶらぶらあるいていると、京王八王子駅ビルとなりのビルの1Fのカフェー「HELMUT SACHERS CAFE」のおもての看板に、以下の表記がw

「テラス席限定サービス プレミアムモルツ生ジョッキ半額⇒250円」

なぬぅ!

チト休憩するか。

……というワケで、15:30であるにもかかわらず、着座してしまい、アテに「チーズバケット」をお願いしてから、40分ぐらいゆっくりかけて、生ビールを四倍も頂いたそうな。

まさに、「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、この行為は「あやまち」ではありませんので、あしからず。

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よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書) Book よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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無題

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つかれたので、すいませんが寝ます。
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ともかくも、こうして酒に親しむという気分を、 (わるいものではない) と、おもいはじめてきたらしい。

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 大治郎は、また老人に出会った。
 山谷堀の南に、真土山(まつちやま)の聖天宮(しょうてんぐう)がある。
 この日も、大治郎は田沼屋敷からの帰りで、いつもよりは時刻も早かったものだから、聖天宮へ参拝してから、門前の〔月むら〕という蕎麦屋へ入り、
 「酒をたのむ」
 と、いった。
 大治郎も、大分に変わってきたようだ。
 長い修行を終え、江戸の父の許(もと)へ帰って来たころの秋山大治郎は、一人きりで蕎麦屋へ入って酒をのむことなど、おもってもみなかった。
 いや、蕎麦は食べても、まだ明るいうちに酒を口にするなどとは、それこそ、
 (とんでもない……)
 ことだったといってよい。
 小兵衛とちがって、二合ものめば真っ赤になってしまう大治郎なのだが、ともかくも、こうして酒に親しむという気分を、
 (わるいものではない)
 と、おもいはじめてきたらしい。
 それもこれも、父・小兵衛のすることを見ているからであろう。
 酒がくると、おもいついて蕎麦掻きもたのんだ。
 月むらは、一年ほど前に開店した蕎麦屋だが、場所柄、小ぎれいな店構えで、奧には小座敷もある。
 酒も蕎麦もうまいというので、たちまちに客がつき夕暮れ間近い、この時刻にも入れこみは客で埋まっていた。
 入れこみの真中に通路があって、突き当たりに大川(隅田川)をのぞむ小座敷が二つある。
 黒塗りの小桶の、熱湯の中の蕎麦掻きを箸で千切り、汁につけて口に運びつつ。大治郎はゆっくりと酒を楽しんだ。
 こんなことを秋山小兵衛が見たら、何というだろう。
 「せがれめ、小生意気なまねを……」
 苦笑を洩らすにちがいない。
    --池波正太郎「逃げる人」、『剣客商売⑫ 十番斬り』新潮文庫、平成六年。

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別にむしゃくしゃしたわけでも、凹んでいたわけでも、そして嬉しかったり、悲しかったりしたわけでもないんですが、ただ、「独りでちょいと呑みたい」って時が男にはあるんです。

なんといいましょうか。

日常生活世界から逸脱することは理論的にも現実的には不可能です。

しかし、ちょっとした雑事を、ものの考え方としてですが、すこしだけ(しかしそれは幻影にすぎないことは承知ヨ、ツッコミなナシで)裁ち切り、ちゅうぶらりんにすこしだけ浮いてから、また現実に戻って、「さあ、がんばろうか」って逸脱をしてみたくるなるのが男という生き物なのかもしれません。

上述した通り、別に今日も何があったわけでもなく、平和な賃金労働者の一日でした。
クレームもトラブルもなく、まあ平和などこにでもころがっているような、まさに小説のネタになるような一日でもありません。

しかし、ふと、、

「なんだか呑みにいきてえな」

……などとした想念がぽつねんと惹起してきますと、

「まあ、そうなのよねん」

……などと飲み屋に行ってしまった次第ですorz

さて……。
とわいっても仕事が終わってからですから24時前。

吉祥寺だとかそのあたりまで出る気力もありませんので、近所でお茶を濁すという寸法で、まあ、チェーン店で済ませるかかいな!などと思いつつ、職場を後にしたのですが、そういえば宇治家参去一家御用達の、まあ、呑んで食べても間違いのない「ささ花」@花小金井が、土曜日は26時までやっているはずだ!

……と思い、一路進行を「ささ花」へ。

なじみの店長さんに誘われて着座してしまった寸法です。

ただ、20時頃に食べたエースコックのすうぱあかっぷがかなり胃の腑に残っていましたので、がっつりというムードではなかったのですが、店長さんが、「点盛りでなくても一品からやりますよ」って声をかけてくださいましたので、

エビスを頼んでから、鯛か平目であるものを、ってお願いしますと、真鯛のお造りの登場!

鯛はどのように食べてもウマイ魚の王様ですが、素材がよろしければ、お造りがウマイ!

ゆっくりと、甘~い味わいを舌で転がしつつ、

「何か日本酒のいいのはいってます???」

……って伺うと、

「今日は基本パターンしかないんですよ」

……とのことで、まあ、季節的に黒龍の「雫」があるわけでもない時節ですから、他ではあまり賞味できないない「屋守」(純米吟醸・東京都)、「さ々一」(純米吟醸・山梨県)あたりで攻めるのもひとつのあれかなアと思いつつ、まあ、家に帰ったら「黒龍」の「吟醸いっちょらい」の四合瓶もあることだしと思い、ハイボール(サントリー角瓶)をオーダー。

ついでに「つくね」も頼んだのですが、一皿二本はキツイなアという思いが顔に表れたのでしょうか……。

「一本からいきますヨ」

……との助け船にて、お願いした次第。

新鮮な卵黄を溶いて、すき焼きでも頂くようにほおばりつつ。

大満足。

さて、ブログでも何度も紹介しております「ささ花」さんですが、一番感心するのは料理の良さもさることながら、店員さんの躾のよさ!

もてなしの精神と言ってしまえば、マーケティングの教材のようでorzですが、結局は人で決まるということですね。

食ももてなしもいい仕事をしておりましたw

今日もありがとう!

また、寝て起きてからがんばりますワ。

P.S.いつもつかっているデジカメ(Canon Powershot S90)が充電中にて、本日は初代のcanon IXY Digital L という骨董的カメラにての撮影にて粒子があらい画像でスイマセン。

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自己への配慮は、他者への配慮から解放された場合、「自分自身を絶対化する」という危険を冒すことになりませんか? この自己への配慮の「絶対化」は、他者を支配するという意味で、他者にたいする一種の権力行使になりうるのではないでしょうか?

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 --自己への配慮はいつでも、他者にとっての善を目指しています。それは、あらゆる関係性のなかに現れる権力領域を善く支配することを目指している。つまり、それは、この権力領域を、非支配という意味において支配しようとしているのです。この文脈において、哲学者の役割は、いったいどういうものであることができるのでしょう? 他者への配慮に配慮する人物である、哲学者の役割は?

 フーコー ソクラテスの例をとりあげてみましょう。ソクラテスは、街の人びとや演武場の若い少年たちに、次のようにいって、呼びかける人物です。「君は、君自身に関心をもっているかね?」 神が彼にこのことを吹き込んだのです。それは、彼の使命であり、死の恐怖にさらされたときさえ、捨て去ることのないものでした。ソクラテスはまさに、他者に配慮する人物なのです。それは、哲学者の特殊な立場です。しかし、もっと簡単にいいましょう。つまり、自由人の場合には、この道徳性全体を引き受けることは、自分自身に配慮する人が、まさにそのことによって、他者にたいする、他者のための関係性のなかで正しく振る舞うというかぎりにおいて、正しく自分自身を見いだすということだったのです。その市民の誰もが正しく自分にかかわっているような都市では、ものごとはうまく進んでいくでしょう。そして、このような都市は、そこに自らの安定性の倫理的原理を見いだすでしょう。しかし、私は、自分自身に配慮するギリシャ人が、なによりもまず他者に配慮しようとしていた、ということはできないと思います。こうした主題が働き始めるのはもっと後になってからだ、と思われるのです。自己への配慮に先立って他者への配慮をすることは、許されません。自己への配慮は、自己への関係性が存在論的に先行するかぎりにおいて、道徳的に先行するものなのです。

 --自己への配慮は、積極的な倫理的意味をもっているわけですが、それは一種の権力の転換と理解してもよいのでしょうか?

 フーコー 転換、はい、そうです。自己への配慮は、実際に、制御し制限する一つの方法です。というのは、本当に奴隷というものがギリシャ的自由に対立する大きな危険であるとすれば、そこにはまた、もう一つの別の危険があるからです。つまりそれは、一見すると奴隷と対立するようにみえるのですが、権力の濫用という危険です。権力の濫用によって、ひとは正当に行使される権力を越え出てしまい、他者に自分の気まぐれや欲求や欲望を押しつけてしまうのです。そこにあるのは暴君のイメージです。つまり簡単にいうと、他の人びとを虐待し、彼らに負いきれないほどの権力を押しつけるために、自分の権力と富を利養する権力者・富者のイメージです。でも--少なくともギリシャの哲学者たちはこういっているのですが--、この人物は、現実には自分の欲望の奴隷である、ということがわかります。そして、善き支配者とは、まさに自分の権力を正しく行使する人物なのです。すなわち、自分の権力を正しく行使するというのは、同時に自分の権力を自分自身にたいして行使することによってなされるのです。そして、他者にたいする権力を規制するのは、この自己にたいして及ぼされる権力なのです。

 --自己への配慮は、他者への配慮から解放された場合、「自分自身を絶対化する」という危険を冒すことになりませんか? この自己への配慮の「絶対化」は、他者を支配するという意味で、他者にたいする一種の権力行使になりうるのではないでしょうか?

 フーコー いいえ、そうはなりません。なぜなら、他の人びとを支配し、彼らにたいして暴君の権力を行使する危険は、ただひとが自分の自己に配慮せず、自分の欲望の奴隷になってしまったということからのみ、生じるからです。しかし、もしあなたが、正しく自分自身に配慮するとすれば、つまり、もしあなたが、自分が何であるかを存在論的に知っているとすれば、もしあなたが、自分に何ができるかをもまた知っているとすれば、もしあなたが、自分が一都市のなかの一市民であるということがどういうことか、自分が家(オイコス)のなかで家事の長であるということがどういうことかを知っているとすれば、もしあなたが、もしあなたが、自分は何を恐れなければならないか、また自分は何を恐れてはならないかを知っているとすれば、もしあなたが、何を希望するのが適当であるか、また反対に自分にまったく縁もゆかりもない事柄とは何かを知っているとすれば、最後に、もしあなたが、死を恐れてはならないことを知っているとすれば、そうです、そのときには、あなたは、他の人びとにたいして自分の権力を濫用することはできないのです。したがって、何ら危険はありません。そうした危険という観念が現れてくるのは、もっと後になってから、つまり、自己愛が疑わしいものとなり、さまざまな道徳的あやまちが生じうる原因の一つとして理解されるようになったときです。この新しい文脈のなかで、自己への配慮は、その第一のかたちとして、自己放棄というかたちをトルようになるのです。このあとは、ニッサのグレゴリーの『純潔論』のなかに、まったく明白な仕方で見つかります。そこにあるのは、世俗的なさまざまな愛をすべて放棄すること、と本質的に定義される自己への配慮の概念、自己への配慮(epimelecia heauton)です。いっさいを放棄することこそが、自己愛、世俗的な自己への愛なのです。しかし、私は、ギリシャ・ローマの思考において、自己への配慮がそれだけで、この大げさに誇張された自己愛に向かうことはできない、と考えます。自己愛によって、やがては自分以外の他の人びとが否定されることになり、なお悪いことには、この他の人びとにたいして行使される権力が濫用されることになるのでしょう。ギリシャ・ローマの自己への配慮は、そんな自己愛には向かわない、ということです。
    --ミシェル・フーコー(インタビュー)「自由のプラチックとしての自己への配慮の倫理」、ミシェル・フーコー(J・バーナウアー、D・ラズミュッセン編、山本学ほか訳)『最後のフーコー』三交社、1990年。

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忙しくて時間がないので、抜き書だけをひとつ。

フーコー(Michel Foucault,1926-1984)の権力論はもはや古いなどといわれますが、彼の議論で色あせていない部分は、人間そのものが権力の当体である、という指摘にほかなりません。

結局このスタート地点を失念してしまうと、大抵ろくなことにはならないんです。

そのことを忘れて、善を気取って悪をやるって例には枚挙に暇がありません。

基礎的な人間論・人間理解としてのフーコーの議論にはレファレンス以上の価値があることを忘れてはいけませんでしょう。

ということで呑んで寝ます。

すいません。

なにしろ、気が付けば、来週の木曜日まで休みがなかったorz
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秋の訪れ

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 ある人間が、他人に一杯のお茶を供するということは、それほど容易な事柄ではない。ある婦人が私に一杯のお茶を出す場合、彼女は自分のティーポットやティーセットを見せびらかしているのかもしれない。彼女は、私をいい気分にさせて、私から何かを得ようとしているのかもしれない。彼女は、私が彼女を好きになるように仕向けていることだってありうる。彼女は、他者たちに歯向かうという彼女自身の目的のために、私を味方に引き入れようとしていることもありうる。彼女が、ティーポットからお茶をカップにつぎ、受け皿つきのカップを持ったその手を無造作に突きつけるため、負担にならないように二秒以内に私がすばやくそれに手を貸さなければならない、というような事態が起きるかもしれない。その行動は、機械的なものであって、そこには私に対する認知がひとかけらも存在していないといっていい。一杯のお茶が私に手渡されたけれども、私に一杯のお茶が供せられることはなかったといえるのである。
    --R.D.レイン(志貴春彦・笠原嘉訳)『自己と他者』みすず書房、1975年。

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人間が特に「わたしが誰かのために何かをする」という事態は、ありふれたものでどこにでも転がっておりますが、実のところ「それ以上」でも「それ以下」でもありません。しかし、「それ以上」でも「それ以下」でもないからこそ、ふつうに流通しているよりは、その実相はあるかに難しいのかもしれません。

ではどのへんが難しいのでしょうか。
その理由のひとつはまさに「誰かのために」というリアルな対象が存在するからなのでしょう。

ごく身近に存在する他者と向かい合って、理解をもとめ言葉を交わすことがあります。

しかし交わせば交わすほど、その当の他者がだんだんと自己自身から遠ざかっていき、それと同時に自己自身の中になにか薄暗い靄のようなものが立ち上がってくることも同じように日常生活のなかではたわいのない光景の一つです。

またそれとは逆に、他者とすこし距離おいてみると、不思議なことに穏やかな気持ちに包まれ、なんとなく思いやりが出てくるのも人情です。そうしたところを振り返ってみると、その関係が別に恋人関係でない場合でも、面と向かい合ってしまうと逆に心がかき乱されて、余裕がなくなり、神経質になってしまうこともあります。

まさにショウペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788-1860)の喩え「ハリネズミのジレンマ」というのは、単なる絵物語とか教訓ではなく、人間関係においてふんだんに現前するあり方なのかもしれません。

他者と連帯としいという欲求と、他者と連帯してしまう困難、この両者の関係性のなかで、まさに<わたし>が問題になり<あなた>が問題になってくるのでしょう。

これはおそらく<わたし>(その裏返しとしての<あなた>)も、もともと他者との関係のなかでしか<わたし>にならないし、<あなた>にならないという事態を反映しているのであって、実のところ、ア・プリオリに現前している<わたし>も存在しているのではないし、<あなた>も存在しているわけではないのだと思います。

そもそも<わたし>自身が四六時中<わたし>を意識しているわけでもなく、つよく意識しているときと、まったく意識していないただなかがその生活の現実です。

まあ要するに「独立自尊」は生き方のモットーとしては存在するけれども、存在論・認識論的には不可能なのよ……ってところでしょう。

さて……。
昨日は休日ですが、ゆっくりと自宅で、休むこともなくひたすら論文の資料精査をしていたのですが、ちょいと夕方に息抜き☆

近所の木々に目をやるとすでに「秋の訪れ」が演出されていたことに驚き☆

今日からまた暑くなると言うことですので、そろそろ、大人の息抜きにて鋭気を養おうかと思います。

まあ、対象が人間でなくとも、他者との関係によって自己が形成されるわけですからどうしようもありません。

というわけで、先ずは限定のエビスビールで!

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ニュースをみるのが不快でならないので、すぐテレビを切ってしまう

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 毎日、朝食を八時半頃にとる。小説家という仕事なので夜が遅いからだ。
 ニュースのかわりにテレビのモーニング・ショーを朝食をとりながら見る。平生は私にとっては余り興味のない芸能人の話題のかわりにこの頃は幼女を誘拐して殺害したM容疑者のことばかりを、どの局でも必ずやっている。
 朝食の時にはふさわしくない話題である。ほかのチャンネルをまわすとやはり同じニュースか、あるいは事故、殺人など聞くのも辛い話題ばかりだ。
 これは私だけではないらしく、
 「あのニュースをみるのが不快でならないので、すぐテレビを切ってしまう」
 という友人が二、三人いた。
 陰湿な夏の、陰湿な事件だけに見たくないという気持ちは、誰にもあるのだろう。
 だが今度のニュースにややホッとしたことがある。
 あれほど容疑者について鵜の目、鷹の目で何でもほじくりだすマスコミが、M容疑者の妹たちについてはほとんど何も語っていないことだ。
 これはとても良いことだと思う。
 私は事件のものすごさを知るにつれ、子を失った被害者の親たちの苦しみ、悲しみ、如何(いか)ばかりかと同情にたえなかったが、同時にM容疑者の両親や妹たちの辛い心にも同情をした。
 もしマスコミがついで半分にこの妹さんたちについても書いたりニュースに流せば彼女たちの将来は滅茶苦茶な打撃をうけるにちがいない。
 妹さんたちはこのM容疑者の犯罪とは関係がない。
 だから我々は彼女たちのことを知らんふりをしてやるべきであり、その生涯にうしろ指をさすようなことをするのは、あまりに可哀想だと思う。
 被害者の幼女たちとその親の心の深傷(ふかで)を考えると泪(なみだ)を禁じえないが、しかし容疑者の妹たちも大きな打撃を今うけている筈である。
 今の日本の社会のなかでは、M容疑者の犯した事が犯した事だけに妹さんたちまで白眼視することがないとは言えぬ。彼女たちが職場で変な眼で見られないとも限らない。
 それだけに当人たちは、どんなに悲しいだろう。おそらく一生を息をこらして生きていくつもりかもしれぬ。
 だから我々はこの妹さんたちをそっとしておいてあげよう。彼女たちがその職場で気づかれずに働けるように、まだ縁談にさし障りがないように、ジャーナリズムも黙っていてあげてほしい。
 幸いなことに(私の知る限り)、マスコミは彼女たちをテレビに出したり、談話をとろうとしなかった(一度だけ、M容疑者の母親がマイクの質問に答えていたが)。このマスコミのやりかたが、いつものあこぎな姿勢とはちがっているので私など「なかなか思いやりがあるなあ」と感心をしたものだ。願わくは今後もこの方針をづっと続けてほしい。
 M容疑者についての感想もテレビを見ていると、まるで自分たちと違う特別な人間のように論じている人が多い。
 しかし戦争中、中国人捕虜を同じようにあつかった人たちは我々の周りにたくさんいるのだ。言いかえるならば我々人間のなかには、同じような要素がないとは決して言えないのだ。
 人間は素晴らしいものである。と同時に人間は恐ろしいものである。
 我々があの事件をみて不快なのは、人間のなかの恐ろしさを直視するのが不快だからだ。
    --遠藤周作「人間直視の不快」、『変わるものと変わらぬもの』文春文庫、1993年。

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最近……だけでなく人間が誕生してからこのかた、マスコミというものがじつに鬱とおしいとわが家の亀がもうしております。

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「儒教とピュウリタニズム」

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 儒教徒のばあい、富は、始祖の残した言葉が明らかに教えているように、有徳な、すなわち品位ある生活をおくり、かつ自己の完成に没頭する、そうしたことができるためのもっとも重要な手段だとされた。したがって、人間を向上させるための手段は何かと問われれば、その答えは「富ましむべし」であった。なぜなら、富裕であるばあいにのみ、「身分にふさわしい」生活をすることができるからであった。ところで、ピュウリタンのばあい貨幣利得は、意図しない結果にすぎないとしても、自己の徳性の現われとして重要視され、自己の消費的な目的のために富を支出することは現世への奉仕であって、きわめて容易に被造物神化に転ずるものとされた。富の獲得自体を孔子は蔑視したわけではないようであるが、しかし、それは不安定なものとみられたため、品位ある精神の平衡を乱すおそれがあると解され、こうして、およそ本来の経済的職業労働Berufsarbeitは、職人根性の〔小人がおこなう〕専門人の業Fachmenschentumにすぎないとされた。ともかく、儒教徒にとっては専門人Fachmenschなるものは、たとい社会的有益さという価値をもってしても、真に積極的に品位あるものと考えるわけにはいかなかった。けだし--これこそが決定的な点なのだが--「品位ある人間」すなわち君子Gentlemanは決して「道具ではない」〔君子不器〕からであった。君子は現世順応的な方向での自己完成、そうした努力における究極の自己目的であり、どのような種類のものであれ、事象的な目的のための手段などではない。儒教倫理の核心をなすこうした信条は、専門の分化、近代的な専門的官僚制、それに専門的訓練といったもの、わけても営利をおこなうための経済上の訓練を排斥した。しかし、ピュウリタニズムはまさに逆に、こうした「被造物神化的」な原則に反対して、現世および職業生活の特定かつ事象的な目的に即して自己の救いを証しすることを使命として押し立てた。儒教徒は学問的教養、いや、いっそう正確にいえば書籍的教養をそなえた人間であり、この上もなく鮮やかな姿における書籍-人Schrift-Menschであって、古代ギリシアにみられたような弁論と対話の尊重や熟達もなければ、また、軍事的であれ経済的であれ合理的行為へのエネルギーをも欠いていた。ピュウリタンの諸教派(デノミネイションズ)も大多数は(程度はさまざまだが)聖書の愛読(聖書は事実一種の民法典であり経営学〔の書物〕であった)をもちろん必要不可欠としたけれども、儒教徒には最高の誇りとなるような哲学的・文学的教養はむなしい時間の浪費であり、宗教的に危険なものだとして斥けた。スコラ哲学と弁証法、アリストテレスとおよそ彼に由来するものはピュウリタンたちにとって極悪であり危険であって、たとえばシュぺーナーなどは、そうしたものよりも、むしろデカルト的な合理的・数学的に基礎づけられた哲学をえらんだほどであった。有用な実学的知識、とりわけ経験的・自然科学的ならびに地理学的な性質の知識や率直明快な現実的思考、専門的知識などを教育目標として最初に計画的に奨励したのは、ピュウリタン、ことにドイツではピエティストの人びとであった。それは、一方では、神の創造物のうちにその栄光と摂理を認識しうるただ一つの道として、他方では、召命〔としての職業活動〕によって現世〔世俗生活〕を合理的に支配し、神の栄光をあげるという責務をはたしうる手段として、であった。儒教とピュウリタニズムの両者は、ギリシア思想と、また後期ルネサンスの本質とも相違している点では同じであったが、しかしその相違の意味はそれぞれでまったく異なっていた。
    --マックス・ヴェーバー(大塚久雄・張漢裕訳)「儒教とピュウリタニズム」、ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』みすず書房、1972年。

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信仰と労働に関する覚え書。

富と、有益さに対する東西の決定的な違いをヴェーバーが(1864-1920)論じた一節。

確かに「『品位ある人間』すなわち君子Gentleman」になりたい!と思うわけで、自分自身は、決して「『道具ではない』〔君子不器〕」とは思うものの、なかなかそうは問屋がおろしてくれません。

木曜は休日ですが、朝からせっせと学問の仕事をしておりますが、まさにこれが「事象的な目的のための手段」のなせる業!

さすがにチト疲れたので、一服してきます。

東京は昨夜台風(既に温帯低気圧)が通過した所為か、すこしここちのよい北風が吹いており、本日も比較的すごしやすい一日です。

ですから、久しぶりに昨夜は黒豚まんを頂きましたが、チト早かったでしょうか。

でわ、決意して休憩を取って参ります!

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剣術というものは、一所懸命にやって先(ま)ず十年。それほどにやらぬと、おれは強いという自信(こころ)にはなれぬ。これは昨日も、よくよく、お前に申したことだ

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 翌朝……。
 まだ、うす暗いうちに、
 「ごめんなせえ、ごめんなせえ」
 早くも、辻売り鰻屋の又六が、道場の戸を叩いた。
 いつもは道場へ泊まりこんでいる飯田粂太郎(くめたろう)少年は、母が発病したので、一昨日から浜町の田沼家・中屋敷の長屋へ帰っている。
 唖(おし)の百姓の女房が朝の支度をしているので、秋山大治郎が道場の戸を開け、ころげこむように入って来た又六へ
 「早いな。飯を食べて来たかね?」
 又六は、かぶりを振った。
 「では、私といっしょに食べよう。さ、来なさい。何をするにも腹ごしらえが肝心ゆえな」
 「じゃあ、剣術を教えて下さるんで?」
 「ああ、やってみよう。だが、な……」
 「へ……?」
 「剣術というものは、一所懸命にやって先(ま)ず十年。それほどにやらぬと、おれは強いという自信(こころ)にはなれぬ。これは昨日も、よくよく、お前に申したことだ」
 「だ、だから、そこを何とか、十日ぐれえで……だからこそ、おれは、この体の汗のかたまりみてえな五両もの大金を……」
 「まあ、待て。そこでな、十年やって、さらにまた十年やると、今度は、相手の強さがわかってくる」
 「へへえ……そんなら、おれ、もう、わかってる。けれど何としても、その野郎を負かしてえのです」
 「それからまた、十年もやるとな……」
 「合わせて、さ、三十年もかね……」
 「そうだ」
 にやりと、うなずいて大治郎が、
 「三十年も剣術をやると、今度は、おのれがいかに弱いかということがわかる」
 「そ、それじゃあ、何にもなんねえ」
 「四十年やると、もう何がなんだか、わけがわからなくなる」
 「だって、お前さん……いえ、せ、先生は、まだ、おれと同じ年ごろだのに……」
 大治郎は苦笑した。
 いまいったことは、父・秋山小兵衛のことばの受け売りだったからである。
    --池波正太郎「悪い虫」、『剣客商売② 辻斬り』新潮文庫、昭和六十年。

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どこまで続くのかはなはだ疑問だったわけですけれども、幼稚園の年中さんに進級した4月から息子殿が剣道……剣術ではない!……を始めたわけですが、なんとか2年半も経過したことにおどろく愚父・宇治家参去です。

宇治家参去自身も小学生・中学生・高校生と剣道をやっておりましたので、そのつらさとかつまらなさとか、いわゆる否定的側面は否応無しに知っておりますので、いたいけな?子供がどこまで続くのか・・・

「ちと、みてやろうではないか」

・・・などと思っておりますと、これが存外に続いていることに瞠目する次第です。

8月は、週に一度の教室の夏休みでしたが、最終週に1ヶ月分まとめて4連チャンの稽古となり、小学一年生になった息子殿も「ヘロヘロ」になっていたので、、、

「もう、ねをあげるか!」

、、、などと思っていたのですが、なかなかどうして。

火曜日が練習日なのですが、今日も元気にかよっておりましたので、、、、

親ばかもありますが、、、

まあ、驚いた次第です。

途中で何度か辞めたいとはいっていたのですが、それでも、道場へいくとへなちょこ剣士なりに竹刀を握ると感覚がもどるのでしょうか、、、続けているようでございます。

因みに本人としては①イタイというのと②弱いというのが忸怩たる様子ですが、①に関してはイタみを学習するいい機会ですし、②勝他のみがすべてではない、ということを学ぶ機会になってもらえればと思います。

まあ、これも親が「やれ」っていってやったのではなく、本人が「やる」っていってやっているものですから、どこまでやるのかはわかりませんが、ある程度は「やりぬく」なかで、「徹して」何かを「為す」という生き方を学んで欲しいかなと思います。

上手くなくても下手であってもいいと思うんです。

強くなくても弱くてもいいと思うんです。
※ちなみに息子殿はその両者というところ。愚父と同じ血ですから(苦笑)。
※ちなみにワタシの場合は、親がやっていたので、そのままぶっこまれて涙という奴(苦笑)。

まあ、何かを根気強くやり抜くことを学んでもらえればと思う次第です。

といことで ⇒ 本日発売の「ヱビス ASUKA CRUISE まろやか熟成 」にてなうぅ。伴走者は、ほうれん草のソテー+桃屋のラー油。

http://www.sapporobeer.jp/yebisu/asuka/index.html

うまい!

「徹して」何かを「呑み」続けることも大事です。
これも剣術のお陰か!

いまの世の中、とにかく早急に答えを求めたり、結果をもとめたりするご時世ですが、ほんものを輝かす為には時間がかかるわけなんです。

ですから、続けることは大事でござんす。

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【覚え書】「急接近:マイケル・サンデルさん 『正義』の講義はなぜこれほど白熱するのか?」、『毎日新聞』2010年9月6日(月)付。

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急接近:マイケル・サンデルさん 「正義」の講義はなぜこれほど白熱するのか?

 <KEY PERSON INTERVIEW>

 NHKで放送の「ハーバード白熱教室」やベストセラーとなった著書「これからの『正義』の話をしよう」で知られるマイケル・サンデル教授が来日し、対話型の公開講義を行った。今なぜ「正義」を論じるのか。政治哲学の講義はなぜこれほど白熱するのか。【聞き手・佐藤由紀、岸俊光】

 ◇政治哲学を現実と結ぶ--ハーバード大学教授、マイケル・サンデルさん(57)
 --東京大学で行った「正義」の講義はいかがでしたか。

 ◆ 興奮しました。みな活発に発言し、学生同士お互いに議論しあった。日本人は議論が苦手と聞いていたが、その心配は全くなかった。今回の旅に同行した私の長男(ハーバード大学卒)も議論の質や水準は自分たちのころと大差ないと話していた。同感です。

 --対話型講義の意義とは? 学生たちは脇道にそれませんか。

 ◆ 難しい問題について議論し戸惑い、答えあぐねることは、彼らが道徳的考察や政治的意味づけについての探求を始めたことを意味します。すぐに整理された答えが出ることは期待していません。3カ月の学期内でも論理的思考能力は伸びるのです。

 --「正義」を講義のテーマに選んだ理由はなんですか。

 ◆ 哲学の概念と現実社会や政治的な事象を結びつけられる政治哲学を教えたいと思い、それには「正義」がふさわしいと考えたからです。私が大学1年のときに受けた政治理論の授業は、抽象的で理解できなかった。だから講義を始めたとき、自分が1年生なら面白いと思う授業にしたかった。基本姿勢は今も同じです。

 --1000人を前にした講義は緊張しますか。

 ◆ 緊張感やドラマ性が増すのは確かです。学生にも興奮を与える環境ができます。古代アテネの市民が集まり、市民生活にきわめて重要な問題を論じているような緊張感ですね。学生たちは講義が終わった後も、昼食のテーブルや運動場などで議論を続けます。私の役割は、教室の外でも議論が続くよう仕向けることだと思っています。授業の準備には、少なくとも数時間かけます。講義ノートを読んでいては自然発生的な部分を損なうので、どんな問題をどう話すか、いろいろな答えが返ってくることを想定しながら、全体の計画や順番を考えます。

 --講義や本がこれほど話題になると予想していましたか。

 ◆ 本が米国や日本でベストセラーになると想像しておらず、関心の高さに驚き、感謝しています。政治哲学の考え方が民主主義国家での公共の議論に貢献できるとすれば、私の夢が実現することになります。政治哲学における道徳的な問いは重要で、大学や政治哲学者だけで議論すべきではないからです。政治家やビジネス界の指導者が読んでくれるなら光栄です。

 ◇生殖の商品化は問題
 --東大では、東アジアで戦時中に行われた行為を現在の日本人は謝罪すべきか、日本への原爆投下を米大統領は謝るべきかと問いかけました。教授自身の考えは?

 ◆ こう答えさせてください。今の世代には、過去の世代が行った過ちやその結果を修正し賠償する道徳的責任はあると思います。しかし、過ちを行ったこと自体への道徳的な責任があるということとは違います。共同体や国を重要だと考え、歴史や業績に誇りを持てるのであれば、同じように共同体や国の名において行われた過去の過ちを改めたり、賠償する道徳的責任を感じたりすることができるはずです。誇りと過ちへの責任はつながっているのです。

 --野田聖子元郵政相が渡米し第三者の卵子提供を受けて、出産することを発表しました。正義や道徳の観点から、海外で生殖医療を受けることをどう考えますか。

 ◆ 米国では体外受精などの生殖補助は認められており、私も賛成です。道徳的に問題だと思うのは、卵子提供や代理母などの行為が市場で商品化されることです。学力テストの成績や容姿など、特定の遺伝子を持った卵子に高額の謝礼を払う事例です。

 --教授は道徳や共同体の重要性を政策に掲げたロバート・ケネディ上院議員を評価しています。オバマ大統領はどうですか。

 ◆ 最近は経済が道徳的な問題を曇らせ、政治家が技術者や経営者のような用語ばかり使いますが、オバマ氏は道徳的、精神的な信念を語り、それが支持につながりました。しかし、大統領に就任して以降は道徳的、市民的理想主義を実際の政治に当てはめることが難しく、問題を抱えこまざるを得ませんでした。これからの彼の挑戦は、道徳的な価値、共同体の意味などへの信念を、人々にもう一度思い出させてくれることではないでしょうか。

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 ■ことば

 ◇「正義」の講義
 サンデル教授が80年から始めた対話型の授業。当初100人ほどだった受講生は、今では900~1000人に。これまでに18~20回行われ、計1万4000人以上が受講している。ハーバード大学には6400人の学部生がおり、6人に1人が受講した計算だ。大教室での講義は週2回各1時間。加えて18人のグループに分かれたゼミがあり、リポート2本の採点を含め、大学院生が「白熱教室」を支えている。

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 ■人物略歴

 ◇Michael J.Sandel
 米ブランダイス大学卒業後、英オックスフォード大学で博士号。02~05年、大統領生命倫理評議会委員。著書に「民主政の不満」など。キク夫人は横浜生まれ、ハーバード大学で教える社会学者。

    --「急接近:マイケル・サンデルさん 『正義』の講義はなぜこれほど白熱するのか?」、『毎日新聞』2010年9月6日(月)付。

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リベラリズムと正義の限界 Book リベラリズムと正義の限界

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日中は暑くなりはじめた。息がつまりそうだ。動物たちはみなぐったりしている。

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  一九三六年四月
 日中は暑くなりはじめた。息がつまりそうだ。動物たちはみなぐったりしている。陽が傾くと、町の上には異様な大気がたちこめる。まるで風船のように、騒音がのぼってきては消えてゆく。樹木も人も動かない。テラスでは、モール人たちが夕べの訪れを待ちながら雑談している。コーヒーを炒っている匂いもしてくる。やさしい、悲しげな時刻(とき)。抱きしめるなにものもない。感謝の思いに取り乱し、思わず跪(ひざまず)かずにはいられない「無」のときだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『太陽の讃歌 カミュの手帖1』新潮文庫、昭和四十九年。

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今日は休みでしたので、ここはひとつ朝早く起きてから、涼しいうちに、予約していた本を紀伊國屋書店へ取りに行こうと計画していたのですが、日頃の疲れの所為か、起きると12時w

それから雑事をすませて、15時過ぎに本屋へと出かけた次第ですが、まあ9月なのに、熱帯サウナにダイヴという状況で、さきほどヘロヘロになって帰宅した次第です。

8月が暑かったのはイタシカタありません。

9月には少し涼しくなるだろうと思っていて、我慢していたわけですけども、そうではなく、まさに、カミュ(Albert Camus,1913-1960)が描写するとおり「息がつまりそうだ。動物たちはみなぐったりしている。陽が傾くと、町の上には異様な大気がたちこめる。まるで風船のように、騒音がのぼってきては消えてゆく。樹木も人も動かない」という具合です。

すでに空に浮かぶ雲は秋の気配を感じさせ、夜に鳴く虫の声にはその便りを頂くわけですが、まあ、当分、まだまだ酷暑という様子。

皆様もお気をつけください。

わが家のプレコもぐったりですが、外をみやると、プランター栽培のニガウリがまた新しい実を結んでおりました。もう終わりかとおもっていたのですが、まだ暑いからでしょうかねえ。

さて……。
夕方になってから、少し涼しくなってきましたが、室内はエアコン生活。

「やさしい、悲しげな時刻(とき)」の到来です。

別に「抱きしめるなにものもない」わけですが、食事をしてから、少し学問の仕事にとりかかろうかと思います。

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【覚え書】R.タゴール(森本達雄訳)「第十三章 精神の自由」、『人間の宗教』第三文明社レグルス文庫、1996年。

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 世界は知識や知性との関係をとおして自分と一つになるのだということに気づかずに、この世界の歩みを誤解したまま育てられている人たちは、意地悪く不意打ちをくらわせる運命の定めにたいする絶望的な信仰に飼いならされて、すっかり臆病者になっている。そして彼らは、人間としての権利が拒否されるときにも、なんらの抵抗もこころみることなく、諾々として従うのである--なぜなら、彼らは人知のおよばぬ驚異的な事件をたえず人間におしつけてくるこの世にあって、自分はどうせ生まれながらに権利を奪われた村八分(アウトロー)だと考えることになれっこになっているからである。
 社会や政治の分野においてもまた、自由の欠如は、ほかならぬ疎外感に、すなわち一つなるものを完全に実感していないことに由来する。そこでは、われわれは団結という歪められた鎖でつながれているのである。関係者の絆はすべて他人への義務をともなうものであるから、仲間から首尾よく自分を切り離した個人が真の自由に到達できると、人は考えるかもしれない。しかし、このような言い方は逆説的に聞こえるかもしれないが、ほんとうは、人間の世界にあっては相互依存を完全に実施して、はじめて自由がもたらされることをわれわれは知っている。責任をもたない人間の身勝手さの最たるものは、それぞれに完全に自己を表現できないでいる野蛮人である。彼らは、ちょうど煙に包まれてくすぶっている火つきの悪い薪のように、薄暗い不明のなかにどっぷりつかっているのだ。相互理解と協調を身につける能力(ちから)をもつ者だけが、薄暗い生の隔離状態から我が身を解き放って自由になれるのである。自由への発展の歴史は、すなわち、人間関係の完成の歴史である。
 存在することは悪である、このように言うことができるとすれば、それはひとえに、われわれが己の無明ゆえに、どこかわれわれの存在の真実のありどころを見失ったからである。もし鳥が片方の翼だけで空高く舞いあがろうとするなら、鳥は風にさえぎられて、地面に叩きつけられるだろう。破壊された真実はすべて悪である。そればかりかそれらは、自分が与えられもしないものを、なにかありそうにほのめかすゆえに、有害でさえある。死はわれわれを害することはないが、病気は害する。なぜなら、病気はいつもわれわれに健康のことを思い出させるが、それでいて健康を阻止するからである。こうして未熟な世界での生は、それが明らかに不完全であるのに完成物を装うがゆえに有害である--それはわれわれにコップは与えるが、生命(いのち)の甘露は与えてくれない。すべての悲劇は、未完の部分をそのまま残している真実から生じて、完成までの周期(サイクル)が完了していないことにある。個人(ひと)が普遍的なものを実感して、自由に到達するとき、その周期は終わるのである。
 しかしながら、この自由は、見かけの真実のなかにではなく、真実そのもののなかにあるのだから、結果が欲しいばかりにむやみに切り拓いた成功への近道は、どれもみなほんとうの道とはなりえない。
--R.タゴール(森本達雄訳)「第十三章 精神の自由」、『人間の宗教』第三文明社レグルス文庫、1996年。

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ちょいと疲れ果てまして……。
コメント無しの抜き書ですいません。

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「思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかた」の落とし穴

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 しかし、思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの〈宿命〉となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまな言い訳を考えだして、建物の土台は強固なものだと言い聞かせてみずからを慰めたり、後なってから点検を実行することは危険であると、拒んだりもするのである。
 そして私たちは建物を建設しているあいだも、[土台が適切なものかどうかについて]いかなる懸念も疑念も抱かずに、一見したところその土台がしっかりしたものであると、自己満足にふけるが、それには大きな理由がある。それは、わたしたちの理性の仕事の大きな部分、おそらく最大の部分は、わたしたちがすでに対象としている概念を分析することにあるためである。この概念の分析によってわたしたちはさまざまな認識を手にするが、こうした認識はこれらの概念において(まだ混乱した形ではあっても)すでに考えられていること[内容]を解明し、説明するものにすぎない。それでも形式という観点からみるかぎりは、こうした認識は新しい洞察として評価されるのである。しかしわたしたちのもっている概念は、その実質あるいは内容からみると、分析によって拡張されたわけではなく、たんに分解されたにすぎないのである。
    --カント(中山元訳)『純粋理性批判 1』光文社古典新訳文庫、2010年。

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市井の職場へ出勤してからテキトー=適切に!仕事をしていると、担当上司から内線で呼ばれ、

「今月後半から来月前半にかけての勤怠の調整をちょいとやろうか」

……ってことで、喫煙室で煙草を吸いながら日程を確認!

実はその今月後半というのは、年にいっぺんの棚卸しもありますし、アメリカの本社から地区Mgrのコーチング指導……というかうちの店舗でやるなよ!……なんかもあり、非常に忙しいのですが、

「この日は振り替え出勤できる???」

……って聞かれた日付が秋の彼岸の月曜日。

確かに一般的な休日なのですが、後期から八王子の短大での授業は月曜日。

これはひょっとすると……初回の講義日では?

「大丈夫ですけど、ちょいと待っておくんなせえ」

……などと思って、あいぽんで大学のポータルサイトで授業日を確認すると

「ドンピン!」

……というよりも、、、

「第2回講義」でございましたw

……orz

「大丈夫ですが、講義終了後の出勤になるのでちょいと遅れますよ」

……って答えながら、もう一度あいぽんで画面を確認すると、

第1回講義はその一週間前。

すなわち9月13日!

うぽぉ~ん!

自分の思惑と違った次第です。

ちょうど7年目ですので、

「だいたい、初回の講義は20日前後だろうよな」

……なんて思っていたワタクシが浅はかでございました。

まさに、カント(Immanuel Kant、1724-1804)大先生がいう「思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの〈宿命〉となっている」というところか!

orz。

そのまま放置してしまうとドエライことになるわけだったのですが、その意味では、今日の勤怠の確認は、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」というところでしょうか。

……ということにしまして、四はいぐらいはいろいろ呑んで沈没いたしましょうw

しかし……。

予測と予定が全く異なっていたことに、、、

「参った」

……なあ。

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予言者も、先覚者もいなければ、傀儡すら存在しない・・・

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 予言者、すなわち先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける。大人物も常にそうだ。かれが人々から尊敬され、礼賛されるときは、かならず死んでいるか、沈黙しているか、それとも眼前にいないかである。
 要するに、問いただすわけにいかぬ、という点がつけ目だ。
 もしも孔子、釈迦、イエス・キリストがまだ生きていたら、その教徒たちはあわてずにいられぬだろう。かれらの行為にたいして、教主先生がどんなに慨嘆するか、わかったものでない。
 それゆえ、もし生きていれば、迫害するほかない。
 偉大な人物が化石になり、人々がかれを偉人と称するときが来れば、かれはすでに傀儡(かいらい)に変じているのだ。
 ある種の人々のいう偉大と微少とは、自分たちがその人を利用する際の効果の大小を意味する。
    --魯迅(竹内好編訳)『魯迅評論集』岩波文庫、1981年。

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どうでもいいけど、どうでもよくないので、ひとつ日記(⇒歴史化)として残しておきます。

昨日は、つまり、9月2日というわけですが、65年前の今日、当時の日本政府が東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書に調印し、第二次世界大戦が公式に終結しました。

その65年後の昨日、小沢センセと管ソーリがのアレ=代表選公開討論会がおこなわれていたようですが、視聴しつつ、アレ???と思うことが多々。

1945年は降伏文書の調印式でしたが、65年後のその日は、国民に対する敗北宣言なわけ???……って頭をかかえつつ、、

……まあ、それ自体がいつものアレよってわけです。

前者は、実現不可能なマニフェストへの執着という美名を隠れ蓑に提案何も無しw

後者は、選挙でビンボー籤ひいた近い将来の消費税構想を持ち上げ、現状をスルーw

結局、小物のガナリ合い(=愛)かとガックシorzな昼下がりでございました。

まあ、いずれにしても話し合いを拒否するおふたりですからイタシカタありません。

前者はそもそも人間嫌いですし、後者は自己中のイライラ・かーんですしね。

はっきりいえば、人格とか人間性はどうでもいいんです。

きちんと仕事をすれば。

しかし仕事もしないし、それですと……ねぇ。

辟易とします。

そんでそれを演出しているかのように錯覚している大手マスメディア。

はっきりいえば、自覚した民衆はそこまでバカではありませんよ。

小物は歴史に残らない。

大物は歴史に必ず残ります。

そーいや、指導教官の先生も「小物を研究しても意味がない。大物をやりなさい」といっていましたが、今の世の中、小物ばかり。

あづ……。

本当の大物は、無名の庶民なのだ。

以上。

マイニチ・ノンデルので呑んで寝るw

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作業用【覚え書】タゴール「「人間は孤立すると、自己を見失う。……」、『人間の宗教』

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 しかし、肉体的なレベルでつづけられてきたこの進化には、おのずから限界があった。その方向へと進化をつづけて行き過ぎると、かえってすべてが、生命の自然なリズムを破壊する重荷となる。こうして肉体的にどこまでも巨大になろうとした動物たちは、ほとんどすべて、自らの不条理をもてあまして滅び去っていったのでえある。
 そうこうするうちに、人間[ヒト、人類]が現われ、この進化の方向を肉体の増大という漠然とした進行から、もっと微妙な完成を目ざす自由さへと転じたのである。このことが、人間の進歩を無際限なものにし、人間をして自らの力が限りないものであることを実感させた。
 火がおこされ、槌が打たれ、日夜、埃と騒音にまみれてたゆまず仕事が続けられてゆくうちに、楽器が作り出されたのである。この過程を一つの客観的な事実として考え、その進化の跡をたどることもできよう。しかし、音楽が奏でられるときには、それぞれが互いに矛盾する性質をおびているにもかかわらず、全体として、それぞれが音楽表現のための仕事の一部であったことを、われわれは知るのである。長い歳月の後に人間にまで到達した進化の過程は、人間との一体化(ユニティー)において理解されなければならない--もちろんそれは、人間において新しい価値をおび、それまでとは違った道を歩みはじめたのではあるが。それは、人間のうちに自らの意味を見出す、たゆみない過程なのである。そしてわれわれは、科学が語るところの進化も、人間の世界の進化であることを認めなければならない。背革も扉も、書物そのものの部分である。同様に、われわれが感覚や知性や生活体験をとおして認めるこの世界は、われわれ自身と完全に一体化している。
 この神聖なユニティーの原理は、つねに、内面的な相互関係の原理であった。このことは、地球上の多細胞の生命の進化における、初期のある段階に啓示されている。その最も完全な内的表現が、人間の肉体のなかで成就されたのである。しかし、なによりも重要なことは、人間はまた、自らの肉体組織の外の、いっそう微妙な組織体のなかでもそれを実現したという事実である。人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである。無数の細胞から成る人間の肉体は、生まれては死んでゆく。しかし、無数の個人から成る人間性[人類]は不滅である。人間はこのユニティーの理想において、自らの生命のうちにやどる永遠性と、自らの愛のうちにやどる無限性を実感するのである。ここにおいてユニティーは、たんなる主観的な観念にとどまらず、活動源的な真理となる。それにどのような名称を与えようと、またそれをどのような形で表わそうと、このユニティーの意識は精神的なものであり、そのユニティーにたいして真実であろうとするわれわれの努力が、すなわち、われわれの宗教である。そのユニティーは、たえずわれわれの歴史において、ますます完全な姿で啓示されることを待ち受けている。
    --R.タゴール(森本達雄訳)「第一章 人間の世界」、『人間の宗教』第三文明社レグルス文庫、1996年。

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有名な一節「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」の覚え書。その前後を紹介まで。

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作業用【覚え書】「ロイヤルホース:生ではの魅力 老舗ジャズライブハウス35周年--兎我野町 /大阪」、『毎日新聞』(地方版:大阪)2010年8月31日(火)付。

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ロイヤルホース:生ではの魅力 老舗ジャズライブハウス35周年--兎我野町 /大阪

 関西の老舗ジャズライブハウス「ロイヤルホース」(大阪市北区兎我野町)が35周年を迎えた。レコードからCD、ネット配信と音楽が提供される環境が変わる中で「ライブの面白さを伝えたい」との思いで続けてきた。予想もつかないことが起こる生演奏がジャズの魅力。お客さんやミュージシャンも「大切にしたい店」と話す。【河出伸】

 8月14日、「ジャパニーズソウルを歌う!!」と題したジャズシンガー、CHAKAさん(50)のライブが行われた。音楽ユニット「PSY・S」「チャカと昆虫採集」でも知られるCHAKAさんが、槇原敬之さん「素直」や尾崎紀世彦さん「また遭う日まで」などをソウルフルに歌った。関西弁のトーク。うねるリズム。楽しそうに踊るお客さん。「こういう良さはアイパッドでは味わえないんじゃないかなあ」と20年以上もロイヤルホースに通う翻訳業、永井麻生子さん(44)。

 「料理や酒を楽しみながらジャズを聴こう」とのコンセプトでオープンしたのは、オーナーの関基久さん(53)が現役大学生だったころ。トランペットの日野皓正さん(67)やクラリネットの北村英治さん(81)、今年5月に91歳で亡くなったピアニストのハンク・ジョーンズさんら来演してきた演奏家は本格派が多い。08年に亡くなった歌手・越智順子さん(享年43)も定期的にロイヤルホースで歌ってライブパフォーマンスを磨いた。

 CHAKAさんは21歳からロイヤルホースのステージに立ってきた。駆け出しのころはヤジが飛ぶ、シビアな局面も経験した。そして今。お客さんの喜ぶ顔、驚く顔。その反応がうれしい。「本気の共演者に本気のお客さん。鍛えられた」

 専門誌の休刊、巨匠の死。ジャズの世界は決して明るい話題だけではない。「でもね、少しずつお客さんが戻ってきているんですよ」と、CHAKAさんのステージを見ていた関さんはうれしそう。「どんなイノベーションが起きても揺るがない感動。生音の素晴らしさを伝えていきたいんです」
    --「ロイヤルホース:生ではの魅力 老舗ジャズライブハウス35周年--兎我野町 /大阪」、『毎日新聞』(地方版:大阪)2010年8月31日(火)付。

http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100831ddlk27200402000c.html

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【研究ノート】円においてあらゆる対立は止揚される

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 円は人類が所有するもっとも古い象徴のひとつで、石器時代の岩絵から現代の様々な美術作品にいたるまであらゆる時代をとおして重要な意味をもってきた。美術上の造形に限らない、信仰や文学や思想においても円はつねにモチーフとして繰り返し現われる。多くは指輪や車輪や花冠に変形され、あるいは立体的な球に移し変えられてきた。その際、円は外側から人間に対峙するのみならず、すでに原型として人間の魂の内部に錨をおろしていたということがわかり、かならずしも厳密に意識されなかったが、二つの円--すなわち、神の知ろしめす宇宙という円と私たち自身の生という円のそれぞれ中心を符号させることによって、生存在の不調和と不確実性から脱出することが、幾千年もの間の人間のもっとも深い憧憬であった。これが、古代オリエントの文様やインドの瞑想像やキリスト教の礼拝堂、さらには神秘家の幻視や錬金術師の記録などに見られる円の象徴の本来の意味である。円においてあらゆる対立は止揚される。あらゆる力は円の内に包括される。その単一性と完全性において、円は、神谷宇宙や人間に関するあらゆる観念が合流する幾何学図形であり、つまりは存在のもっとも内的な構成原理であり万有の秩序の規範となる神聖なる核の神秘の象徴である。
    --マンフレート・ルルカー(竹内章訳)『象徴としての円 人類の思想・宗教・芸術における表現』法政大学出版局、1991年。

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エリアーデ(Mircea Eliade,1907-1986)のシンボル研究に入る前に、少し具体的なシンボル論を!と思い、シンボルのなかで、まあ完全のシンボルとも言える「円」についてまとめられたマンフレート・ルルカー(Manfred Lurker,1928-)をぱらぱらと紐解いております。

「円」とは人類が所有する最も古い象徴のひとつであり、太古の昔から現代に至るまで、信仰や思想、そして様々な芸術作品において常に繰り返し用いられてきたモチーフのひとつです。

しかし「象徴」(SYMBOL)の存在とは、そもそも本来的に表現不可能なものを表現しようとする欲求の産物であることは、まちがいなく、対象が象徴となった時点で、対象そのものとはことなるものになってしまうリスクを孕んだ行為なわけですが、それでも人間はそのリスクを犯しつつ、仮象に過ぎないSYMBOLを通して、SYMBOLの向こう側におぼろげながら浮かび上がってくるそのものを憧憬しているんだよなあ・・・というところです。

完全な象徴の代表例が「円」(DER KREIS)というわけですけども、そもそも円周率が超越数でありますし、構成する点と線そのものが実体を持たないように、完全な円そのものも存在しない……。

しかしだからこそなのでしょうか・・・人間はそこに完全性とか何かを表象するという訳でしょうか。

ま、いずれにしてもその辺はひとまずおいて(それはそれでマズイのですが)、どうやら人間はそこに何かの原型を見いだしていることだけは確かなようです。

少し読み進めながら、人間の表象機能と表象される対象の歴史を探究してみたいと思います。

そーいや、ビール瓶の底も「円」だ!

そんで、ビール瓶を酒屋へもっていくと「円」になる!

でわ☆

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作業用【覚え書】「斜面」、『信濃毎日新聞』2010年8月17日(火)付。

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8歳か9歳の夏、キャンプに行った伊豆諸島の三宅島で“幽霊”に会ったことがある。肝試しで数人の小学生と指導員の学生と一緒に、噴火で埋まったという集落跡を歩いていた

   ◆

立ち入り禁止の小山に、白い服を着た10人ほどの集団が現れた。ランプのような明かりを持ち「おーい。おーい」と、こちらに手を振ってくる。キャンプのメンバー以外、人はいない場所。ほかのグループだなと思って、みんなで「入っちゃだめだ」と叫んだ。それでも集団は手を振り続け、再び小山を登り始めた。先頭から順に明かりが消え、姿も見えなくなった

   ◆

宿に戻ると、ほかのグループは小山に立ち入っていないと言う。地元の古老が「魂は人と一緒に遊びや祭りを楽しむと、ほどなく人に生まれ変われる、と伝えられている」と教えてくれた。いまもお盆の時期になると、この出来事を思い出す。あの魂は、人に生まれ変われたのかな、と

   ◆

全国で高齢者の「所在不明」が問題になっている。亡くなっている人もいるだろう。発覚が続いたのは、もうこの世にいないことを早く知ってほしかったのではないか、という気がする。家族関係を断ち切られた人の魂は、お盆にどこへ帰るのか。考えると切なくなる

   ◆

子どもの肝試しに顔を出したりするのはそういう人たちの魂なのか。それとも、世知辛い世の中には帰りたくないと考えているだろうか。
    --「斜面」、『信濃毎日新聞』2010年8月17日(火)付。

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