「極度の注意と努力と勤勉さ」
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すべての人は不死なる魂を持っており、永遠の幸福に達することも、永遠の破滅に陥ることもできます。その幸福は、神の恵みを得るに必要なことがら、またそのために神によって命じられたことがらをこの世において信じ、行なうかどうかにかかっています。そこからして、まず第一に、これらのことを守ることが人類に課せられた最高の義務であり、それを探究し実行するためには極度の注意と努力と勤勉さが必要である、ということになります。なぜなら、この世には、永遠と比べれば、大事なものは何もないからです。第二に、人が謝った意見を持ち、不適当な礼拝のやり方をしているからといって、だれもその人の権利を犯しはしないし、また自分が破滅に陥っても、それは他人になんの損害も与えはしないのですから、各人の救済への配慮は、ただただその人自身に属するものだ、ということです。しかし、私はなにも、人々を誤りから引きもどすための親切な忠告や、愛情あふれる努力を非難するつもりでこう言っているのではありません。事実、そうしたことはキリスト教徒たるものの最大の義務であります。他人の救済を促進するために、人は好きなだけ勧告し説得してよいのです。けれども、暴力や強制はすべて避けられねばなりません。何ごとも押しつけられてはなりません。この問題においては、その人自身が納得した以上に、他人の勧告ないしめいれいに服従するよう強いられてはならないのです。ここでは、人はだれでも、めいめいがみずから判断をくだす最高絶対の権威の所有者です。それは、他のだれもそれに関係はないし、そこでの行為からだれも損害を受けることはないからです。
しかし、その不死なる魂のほかに、人はまた、この地上に現世的な生活をも営んでおります。この地上の生活はもろくはかないものであり、継続期間も不確かなものでありますが、それを支えるにはいくつかの外的なとり決めが必要でありますし、そのとり決めは努力と勤勉によって獲得し維持されねばなりません。なぜなら、われわれの生活の快適なささえとして必要なそれらのものは、自然がひとりでに生み出すものではなく、またわれわれにすぐ使えるような形で与えられるものでもないからです。したがって、これは別の配慮を要求し、必然的にまた別の仕事をもたらします。
しかし、人間は堕落していて、みずから努力して必要に備えるよりも、むしろ不法にも他人の労働の成果を奪おうとするものです。それで、人々が正直に働いて得たものを所有し、さらにほしいと思うものを獲得するための自由と力とを守る必要から、人々は互いに結んで社会を造り、相互に助け、力を合わせて、この地上の生活の快楽と幸福に役だつものを財産として互いに確保できるようにせざるをえなかったわけです。そして一方、各自の永遠の幸福は各人の配慮にゆだねられ、その獲得は他人の勤勉によって助けられることもないし、それを失ったところで他人の害になるわけでもなく、またそれへの希望が外部の暴力によって奪われることもありません。
--ロック(生松敬三訳訳)「寛容についての書簡」、大槻春彦編『世界の名著 ロック ヒューム』中央公論社、1980年。
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忙しいので覚え書をひとつ。
たしかに人間は存在可能性としては無限で万能なのでしょうが、それと同時に「極度の注意と努力と勤勉さ」が必要なんだろうね。
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