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「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、この行為は「あやまち」ではありませんので、あしからず。

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 まず最初に知識について。われわれは、非合理主義がふたたび流行する時代に生きています。ですから、わたくしは、自然科学的知識を--唯一のものであるとはとうてい言いえないにしても--われわれの有する最良にして最重要な知識であると見ているという告白から話を始めたいと思います。自然科学的知識の眼目は次のような点にあります。
 一、自然科学的知識は、問題から、しかも実践的な、そしてまた理論的な問題から出発する。
 大きな実践的問題の一例は、避けることのできる苦しみに対する医学の闘いはすでに大きな成功を収めています。そして、人口爆発は、そこから生じてきた意図されていなかった帰結のひとつです。これは、古くからのもうひとつの問題、産児制限の問題が新しく緊急の問題となったことを意味しています。この問題に対して実際に満足のいく解決を見出すことが、医学のもっとも重要な課題のひとつでありましょう。
 このような次第で、われわれの最大の成功が新しい問題を導くのです。
 宇宙論における理論的大問題の一例は、重力理論をさらに検討し、統一場理論をさらに探求することです。理論的にも実践的にも大事な重大問題は、免疫〔機構〕のいっそうの探求です。一般的にいえば、理論的問題とは、説明の困難な自然過程を理解できるように説明し、そして、その説明的理論を〔そこから導出される〕予測をつうじて検討するという課題です。
 二、知識とは、真理の探求--客観的に真なる説明的理論の探求です。
 三、知識は確実性の探求ではありません。あやまちは人の常です。人間のあらゆる知識は、可謬的であり、したがって不確実です。ですから、われわれは真理と確実性を鋭く区別しなければなりません。あやまちは人の常ということ、その意味は、われわれは絶えず誤りと闘わねばならないのみならず、どれほど細心の注意を払ったところで、誤りを犯さなかったと確信できるものではないということです。
 われわれが犯す誤り--誤謬--は、科学において、本質的に言って、真でない理論を真と見なしてしまうという点にあります。(ある理論が真であるにもかかわらず、偽と見なされてしまうといった誤りは、ごくわずかです。)したがって、誤り、誤謬との闘いとは、客観的な真理を探求することであり、真でないものを発見して取り除くためにあらゆることをおこなうことです。これが科学的活動の課題なのです。したがって、こう言ってもよいでしょう。科学者としてのわれわれの目標は、客観的真理、つまり、より多くの真理、興味深い真理、より良く理解可能な真理である、と。確実性が合理的な仕方でわれわれの目標になるといったことはありえません。人間の知識は誤りうるということが洞察されている時には、誤りが犯されなかったかどうかという点にかんして決して確信をもてないことも洞察されているのです。これはまた次のように定式化することもできるでしょう。
 不確かな真理--それどこころか、われわれが偽と見誤っている真なる命題--さえが存在するが、不確かな確実性といったものは存在しない。
 われわれは、およそ確実に知ることなどできないのですから、確実性を探求することは、まさしく割に合わないことになります。割りに合うのは、真理を探求することです。そして、われわれは主として、誤りを訂正するために、誤りを探求するという仕方で真理を探究するのです。
    --ポパー(小河原誠・蔭山泰之訳)「知識と実在の形成」、『よりよき世界を求めて』未來社、1995年。

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月曜日から、「哲学」の授業が始まりましたので、3週間ぶり?ぐらいに大学へ出講しましたが、前日、例によって鯨飲&睡眠不足という事態を招き、ヘロヘロになって大学へ向かった次第です。

ですから、乗り合わせた循環バスで、おりるところを間違え……正門でおりるべきを、別の門までいっちまった!……、それからキャンパスを横断して短大の方へ向かったorzでございます。

まさにカール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902-1994)の指摘、すなわち「あやまちは人の常ということ、その意味は、われわれは絶えず誤りと闘わねばならないのみならず、どれほど細心の注意を払ったところで、誤りを犯さなかったと確信できるものではないということ」をすっかり失念していた次第です。

「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、その文脈が実にすっ飛んでいたというわけでしょうか。

さて……。

昼食を早々に頂き、昼から初回の講義。
初回はガイダンスのみでもOKなのですが、ワタクシの場合は、そうは問屋がおろさないということで、そのまま講義を続行しました。

授業の概要だけ紹介しても、ぢゃあどういうスタイルと内容なのか、たった30分ぐらいでしたが、ゆる~く流させていただきました。

とわいえ、ひさしぶりに教室でマイクを握りましたので、ヘロヘロで声もかすれるという始末。

「まったくこのていたらくは、なんたるちあじゃ」

……などと思いつつ、無事に終了したことにひとまず安堵です。

いずれにしましても、後期15回、教室でお世話になる皆様どうぞ宜しくお願いします。

さて……。
「哲学」を講ずるなかで、最も大切にしているのは「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」をおこさせるということです。

このことは何度も論じてきておりますので、ここでの議論としては割愛しますが、展開としての知識論に関しても同じです。

なにか出来上がった知識や体系を「覚える」とか「活用する」ことを何かを「学ぶ」ことと錯覚している学生さんが多々います。

しかし、それは本当に「学ぶ」ことではありません。「学ぶ」手段にしか他ならないことを目的と錯覚しているのが現状でしょう。

だからその構造をぶっ壊すのが哲学の講義の役割です。

自分で疑問に思ったり興味を抱いたことに関して、自分で調べて深めていく……そうした労作業のこそ、大学で何かを学ぶということに他なりません。

ですから、教材を覚えるとか……それが無意味ではないんですが主ではない……を学問と錯覚しているドクサをぶっ壊し、自分で探求し始めるようにし向けるそうしたひとつのきっかけになればいいなあと思う次第です。

……ということで、無事に済んでから教員バスにて京王八王子駅ちかくの停車場で下車。JR八王子駅までぶらぶらあるいていると、京王八王子駅ビルとなりのビルの1Fのカフェー「HELMUT SACHERS CAFE」のおもての看板に、以下の表記がw

「テラス席限定サービス プレミアムモルツ生ジョッキ半額⇒250円」

なぬぅ!

チト休憩するか。

……というワケで、15:30であるにもかかわらず、着座してしまい、アテに「チーズバケット」をお願いしてから、40分ぐらいゆっくりかけて、生ビールを四倍も頂いたそうな。

まさに、「あやまちは人の常ということ」なんですが、「絶えず誤りと闘わねばならない」のですが、この行為は「あやまち」ではありませんので、あしからず。

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