« 2・1 私たちは、私たちのために、事実の絵を描く。 | トップページ | R-E-S-P-E-C-T Find out what it means to me »

だから盲従よりも猛獣として抗うことを選択するしかありません

01

-----

 その一年間、動物たちは奴隷のように働いた。しかし、働きながら彼らは幸福だった。自分たちでやっているすべてのことは、自分たち自身と、あとから生まれてくる子孫たちのためであって、けっして、けっして、のらくらしながらひとのものを盗む人間ども一味のためではないことが充分わかっていたので、彼らはどのような労苦も犠牲もおしまなかった。
 春と夏の間じゅう、かれらは週に六十時間も働いた。ところが、八月に入ると、ナポレオンは、これからは日曜日の午後も作業を行うことにする、と発表した。この作業は強制されない任意的な性質のものだったが、その作業を休んだものは、食糧の配給を半分に減らされた。それほどまでやっても、いくつかの仕事は、中途はんぱに残しておくより仕方がなかった。収穫は、昨年とくらべて多少の減収だった。そして、初夏に根菜をまいておかねばならなかった二つの畑は、すき返しが間に合わなかったために、たまねぎができなかった。今年の冬はつらい冬になりそうだ、という予測はついた。
    --ジョージ・オーウェル(高畠文夫訳)『動物農場』角川文庫、昭和四十七年。

-----

最近思索の場をまとめて確保することが難しく徒然なるままに、呟きでまとめることが多くなったのでその再論で恐縮ですが、まあ、ある程度まとめて考えていたようなのでそのまま残しておきます、。

さて……
「お前もそう思うだろう」っていわれても「はい、そう思います」ってことが殆どない。「そう思う」場合も「但し」と言いそうになってしまうことの方が多いけれども、「但し」とか「しかし」と続けさせてくれない空気が濃厚で辟易としてしまう。

「お前もそう思うだろう」って言う前に、「お前はどう思うのよ」とか「俺はそうだけど、どうよ」って言説を転換しないと、そこに取り残されてしまうのは呼吸のできない真空空間になってしまうと思うわけですが、なかなかそのことを理解してくれる御仁が多くない。

この現象は日本においてはどこでもそう。圧倒的な何かが差違を捨象してしまうというか……。正義を語る場合においてもネ。おそらく差違を認めてこなかった歴史に由来する「生き方」として定着していることに起因するのでしょうが、不幸にも精神性を構成する宗教史と連動しているところがorz

精神的態度の差違を認めることが出来ないから、違いは恐怖へと転換する。そしてそこからあふれ出した需要が、インチキに供給されていく……という負のスパイラル。さらに加速させるのが、「自分で考える」ことをよしとしない生き方なのでしょう。

福澤諭吉(1835-1901)や中江兆民(1847-1901)の警鐘をまつまでもありません。何しろ「政府」を「お上(女将ではありませんヨ)」と呼ぶ姿勢が現代まで続いていることを勘案すると考えることを拒否した権威への盲従という態度は一向に変わっていないことが理解できる。

だから盲従よりも猛獣として抗うことを選択するしかありません。だから私はウザイとよくいわれます。職場においても、家族においても。通念を打破していく乃至は通念を通念たらしめていく営為を拒否したままでは「お前もそう思うだろう」って強制に飲み込まれてしまうからです。

「『三国志』っていいよなア、やっぱりロマンがある。お前もそうおもうだろう」っていわれても、「いやー、結局の所、それは殺し合いの殴り合いの〝記録〟ですよネ、読むには読みますけどネ、趣味じゃありません」と答えるほかありません。

まあ、しかし「お前もそう思うだろう」っていうのは言語技術以下の恫喝にすぎないんなあと思った次第です。

さて……。

しかしながら「極東は官憲に弱いですが、欧州は階級に弱いです。だから政治が変わっても階級は変わらない」というのも事実。

この善し悪しは難しいです。

ただ政治に忖度する時代というのが終わったのかもしれません。

で……。
階級には問題があることは論を言うまでもないのですが(ここでいう階級とはインドのカースト的階級と言うよりも封建システムに由来する、血統としては完全にdestinateされていない階級)をめぐる問題に関して少しだけ連投。

基本的に本朝においての血統に擬度する階級というものは、陛下の血脈を除いては等質空間というのが現状なのではないかと思う。勿論、習俗共同体における「○○家」の論理は依然として存在するし、自分もそれで結婚した事実は否定しない。

しかし習俗共同体における「○○家」の論理と、欧州における階級(class)の論理(ユダヤ人と非ユダヤ人、キリスト教徒と非キリスト教徒の差違の論理も含む)とは質的にことなるものがある。本朝において最終的クラスが固定化されるのは江戸期といってよいだろう。

江戸期に完成された階級意識でもっとも重要な感覚とは何かと言った場合、階級内格差ということ。士農工商の枠組みにおいて、農工商民が不敬を働いた場合、士は「切捨御免」という特権が許されたという俗流の認識が広く流通しているが実はこれはレアケース。

対階級間での対抗意識というものが元々希薄だから「切捨御免」になるということが要するに稀なわけ。そしてその逆に、各階級内において意識されたのが、階級内での格差意識ということ。武家でいうならば石高に応じた家構え・使用人の数……etc。

その意味では本朝においての階級意識というのが一番でてくるのが階級内における格差意識という部分になってしまう。それが同じく封建システムをとった欧州との差違かもしれません。いうまでもありませんが、欧州にもありますヨ。しかし強調点としては、本朝ではそこが一番強調されているということ。

そしてそれを補完したのが官憲によって集中管理された宗旨人別帳というシステム。キリシタン狩りで始まったそれですが、お上の前ですべてが平等として管理されたわけですけど、裏を返せば、その限りにおいては「人間」であることが許された。だから階級内格差が助長されるという寸法。

と……いえば、ドイツにおける領邦教会制があるやないけ……という声もあります。機械的に信仰を割り振ったという点では同じでしょうが消息が違いますから同一視することは不可能。過程において流した血の量がちがいます。そして領邦教会の場合は、当時の「帝国」を考えると氾横断的ですしね。

さて。もどります。そうした管理に増長されたシステムが一応の瓦解を迎えるのが明治の政変ということで、そこでイチオーの白紙に返させられます(陛下は除きますヨ)。そして代わって出てきたのが再論で諄いけど「末は博士か大臣か(そして大将か)」という「国家の為に」で計る立身出世システム。

たしかにこれで平等にはなった。しかし、結果としてみれば、「上に立つ」という意識が欠如した「成り上がり者」のふんぞりかえりになったという事実を否定することができない。全てが全てというわけではありませんがネ。

欧州意識では伝統的なクラス意識が全体に対する「責任」論として矜持をうんだ(ノブレスオブリージュ)。しかし本朝では、タブラ・サラにした結果「責任」放擲の「貰ったもの勝ち」といういびつな構造をねつ造したことだけは確かである。

こんなことを書くと、おまえは階級主義者か、といわれてしまえば、はいそうですと同時にはいそうではありませんです。まあ、オルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)でも読んでくれというところ。すべてを平板化するのが近代の特色であるとすれば、たしかにタブラ・サラにすることを危惧はしません。

しかしながら、職位につく責任までをなげうつことは同等ではないということ。すべての人間を物心ともに貴族にしたのが近代という空間です。しかし日本では根っこまで根こそぎした結果、おぞましい結果に導いてしまったのが現実。

その意味では、訓戒として「尽くす」を設定しているクラス意識にはある程度のアドヴァンテージはあるのかなあとは思ってしまいますよ、正直。

すべてをぶっ壊してというか、なにもないところ始めたというよりも力で勝負したのがアメリカニズムとすれば、そこで出てきた階級意識(エリーティズム)は、まさに喰うか喰われるかという動物の論理。

そして粛々と任務を遂行するのが欧州型とすれば、そのどちらでもない、乞食根性が日本の階級意識の特徴かもしれません。

仕事していても違和感ありますよね。無職で外車乗っていて、腕に彫り物でなくプリントで絵をつけたニイチャンが恫喝していたり、最高学府出て最高の官僚だとか政治屋やりながらおなじことやる人間がいたりとかね。まあ、ひとそれぞれやけれども、心根はおなじだろうね。ただそれを選択したくない。

だからね、誇りを持って生きるといきるということが階級意識であるとすればそうだろうと思う。ウンコのような政治家よりも、ウンコにたかるはえのようななんとか屋さんよりも、一番いい顔をしているのは、生き方に自信をもった職人さんとか、真面目に生きている人間ばかりですからね。かくありたいよ。

飲みながらどうでもいい話をしてすいません。

しかしアレよね。俗流功利主義の損得勘定を否定することはできないけれども、十全に肯定することもできない。しかし本朝の戦後の不幸は、すべてを損得計算によって計ろうとしたところにひとつの落とし穴があるんだろうね、全てではないけれども。

だから階級意識といわなくとも、躾によって糺すこともできないし、得か損かの二者択一。アメリカニズムよりはましだろうけれども、どんぐりの背比べ。次に中国がくるんでしょうけど。そもそも功利主義の損得ゲームは功利主義者のミル(John Stuart Mill,1807-1873)によって最終的には否定されているわけなんだけれども、はあ。

こんなことを書くと権威主義者だとか階級の敵だとか言われそうですが、正直な実感です。平等なスタートから何を立ち上げていくのか、考え直す必要はあると思います。それが世襲となる必要はまったくないんやけれども。機会の平等イコール、同じ人間の拡大再生産ではないし、差違を尊重する意味をね。

いずれにしても、誇りを持って生きていくことは大事なんです。それが差別の根拠とはそしてイコールではないということ。その相関関係でたたずめ、ということじゃ。

まあ、しかし、そーゆう、結局の所「外から」の自分自身の「秩序付け」というものごとの欺瞞(利点もあるけれども)が厭になって、最終的には自分自身で「自分自身」を「秩序付け」していくほかあるまい……となってしまい、個々人の自由を最も大切にするリバタリアンになったというのがその実情。

ただ、個々人の自由を尊重するのであれば、対峙=対自してくる他者も全く均しく尊重しなければならない流儀を喪失してはならないというのはいうまでもないこと。ヘーゲルの「相互承認」を引くまでもなく、この辺をすっとばすとろくなことにゃアなりゃしない。これは諄いけど附言しておく。

いかん、おしゃべりが多すぎた。ん~。やっぱり権威主義者なんだらうか。

最後に……。

昨夜は、クラフトのカマンベール入り切れたチーズを使って磯辺焼き。切れたチーズを二枚重ねて海苔でまき、フライパンで片面を30秒づつ炒め、最後に醤油を垂らしてできあがり!

これがなかなか乙。

ただしかしカロリーが高い。

まあ、いずれにしても、自分自身で考えていく方向性をきちんと持たないとオーウェル(George Orwell,1903-1950)の指摘するような社会というのは形をかえて現出することは間違いないでしょう。

02 03

動物農場 (角川文庫) Book 動物農場 (角川文庫)

著者:ジョージ・オーウェル,George Orwell
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

文明論之概略 Book 文明論之概略

著者:福澤 諭吉
販売元:慶應義塾大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 日本の名著 (36) 中江兆民 (中公バックス)

販売元:中央公論社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫) Book 大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

著者:オルテガ・イ ガセット
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 2・1 私たちは、私たちのために、事実の絵を描く。 | トップページ | R-E-S-P-E-C-T Find out what it means to me »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/36884953

この記事へのトラックバック一覧です: だから盲従よりも猛獣として抗うことを選択するしかありません:

« 2・1 私たちは、私たちのために、事実の絵を描く。 | トップページ | R-E-S-P-E-C-T Find out what it means to me »