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秋の訪れ

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 ある人間が、他人に一杯のお茶を供するということは、それほど容易な事柄ではない。ある婦人が私に一杯のお茶を出す場合、彼女は自分のティーポットやティーセットを見せびらかしているのかもしれない。彼女は、私をいい気分にさせて、私から何かを得ようとしているのかもしれない。彼女は、私が彼女を好きになるように仕向けていることだってありうる。彼女は、他者たちに歯向かうという彼女自身の目的のために、私を味方に引き入れようとしていることもありうる。彼女が、ティーポットからお茶をカップにつぎ、受け皿つきのカップを持ったその手を無造作に突きつけるため、負担にならないように二秒以内に私がすばやくそれに手を貸さなければならない、というような事態が起きるかもしれない。その行動は、機械的なものであって、そこには私に対する認知がひとかけらも存在していないといっていい。一杯のお茶が私に手渡されたけれども、私に一杯のお茶が供せられることはなかったといえるのである。
    --R.D.レイン(志貴春彦・笠原嘉訳)『自己と他者』みすず書房、1975年。

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人間が特に「わたしが誰かのために何かをする」という事態は、ありふれたものでどこにでも転がっておりますが、実のところ「それ以上」でも「それ以下」でもありません。しかし、「それ以上」でも「それ以下」でもないからこそ、ふつうに流通しているよりは、その実相はあるかに難しいのかもしれません。

ではどのへんが難しいのでしょうか。
その理由のひとつはまさに「誰かのために」というリアルな対象が存在するからなのでしょう。

ごく身近に存在する他者と向かい合って、理解をもとめ言葉を交わすことがあります。

しかし交わせば交わすほど、その当の他者がだんだんと自己自身から遠ざかっていき、それと同時に自己自身の中になにか薄暗い靄のようなものが立ち上がってくることも同じように日常生活のなかではたわいのない光景の一つです。

またそれとは逆に、他者とすこし距離おいてみると、不思議なことに穏やかな気持ちに包まれ、なんとなく思いやりが出てくるのも人情です。そうしたところを振り返ってみると、その関係が別に恋人関係でない場合でも、面と向かい合ってしまうと逆に心がかき乱されて、余裕がなくなり、神経質になってしまうこともあります。

まさにショウペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788-1860)の喩え「ハリネズミのジレンマ」というのは、単なる絵物語とか教訓ではなく、人間関係においてふんだんに現前するあり方なのかもしれません。

他者と連帯としいという欲求と、他者と連帯してしまう困難、この両者の関係性のなかで、まさに<わたし>が問題になり<あなた>が問題になってくるのでしょう。

これはおそらく<わたし>(その裏返しとしての<あなた>)も、もともと他者との関係のなかでしか<わたし>にならないし、<あなた>にならないという事態を反映しているのであって、実のところ、ア・プリオリに現前している<わたし>も存在しているのではないし、<あなた>も存在しているわけではないのだと思います。

そもそも<わたし>自身が四六時中<わたし>を意識しているわけでもなく、つよく意識しているときと、まったく意識していないただなかがその生活の現実です。

まあ要するに「独立自尊」は生き方のモットーとしては存在するけれども、存在論・認識論的には不可能なのよ……ってところでしょう。

さて……。
昨日は休日ですが、ゆっくりと自宅で、休むこともなくひたすら論文の資料精査をしていたのですが、ちょいと夕方に息抜き☆

近所の木々に目をやるとすでに「秋の訪れ」が演出されていたことに驚き☆

今日からまた暑くなると言うことですので、そろそろ、大人の息抜きにて鋭気を養おうかと思います。

まあ、対象が人間でなくとも、他者との関係によって自己が形成されるわけですからどうしようもありません。

というわけで、先ずは限定のエビスビールで!

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