« 書物を読み文章を書くということはすでに他人と相語っていることなのである | トップページ | 【覚え書】「文化産業--大衆欺瞞としての啓蒙」 »

二十一世紀を、人間が人間らしく生きられる「人間の世紀」とするためにも、私たちは今一度人間とは何かということを問い直さなければならない

01

-----

 ドイツの有名な文豪ヘッセの詩に、味わいの深い一節があります。
 それは、
 「人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、
  私はけっして人生をののしるまい」
 「日の輝きと暴風雨とは
  同じ空の違った表情に過ぎない。
  運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
  好ましい糧として役立てよう」(『ヘッセ詩集』高橋健二訳、白凰社刊)
 --と。
 要するに、何があろうと、目先に紛動されず、焦らず、一切をわが生命の滋養としてゆく賢さをもつことであります。

 魂に電流が走りました。
 どのような運命が巡り来ようとも、自分自身の財産に変えていけという文豪の言葉。何があろうと、紛動されてはいけない。焦ってはいけない。全部、自分の滋養にしてゆくんだ--。厳しく、深い、魂を叩きのめすような、しかも、強く強く抱きしめてくれるような世界桂冠詩人の言葉でした。
 この言葉を目にしたとき、私の心が決まりました。
 もしかしたら、彩花はこのまま一生、眠り続けたままかもしれない。いや、亡くなってしまうかもしれない。もちろん、そんなことはあってほしくないが、そうなるなら、それを受け入れよう。私は負けない。これが自分の現実の人生なら、それを恨んだところで何も生まれない。立ち上がるしかない。
 ヘッセがいうように、空にだって晴れもあれば嵐もある。それが現実であり、本当の姿だ。嵐を恨んでも、嘆いても、自分が弱くなってしまうだけだ。苦しみも楽しみも、全部、自分の人生なんだ。私は、私の人生に、顔を上げて向き合っていこう。生き抜こう。
 そう心が決まりました。
 私がそう思えたのも、彩花がこの一週間の間に見せてくれた姿があったからでした。突然の出来事にすっかり混乱し、振り回されていた私のそばで、当の彩花は医師の予測を覆し、命の凄まじい力を見せてくれました。本当の意味の「生きる力」というものを、母親の私に教えてくれました。
 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。
 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにはならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺ができていました。
 それは、
 「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れてることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。
 そして、それから三時間ほど経った午後七時五十七分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。
 最後は、私と夫、息子、姑が看取りました。
 後日、垂水区の友人からうかがった話では、彩花が亡くなってすぐ、ニュース速報でその死亡の報が流れました。ちょうどそのとき、一帯に沛然たる雨がザーッと降り、すぎにまたあがったということでした。
 平成九年三月二十三日、山下彩花は十年の人生の幕を閉じました。
    --山下京子『彩花へ 「生きる力」をありがとう』河出書房新社、1997年。

-----

昨日は、同書を構成された文筆家の東晋平さんと天王洲アイルにて、種々懇談。
お顔は存じ上げておりましたが、ざっくりと時間をとって、ゆっくりとお話を伺ったのは初めての機会でしたが、考えることの多い一日でした。

三時間あまりお話を伺ってから、三田へ移動。
母校の空気を吸ってから帰宅した次第ですけれども・・・。

考えることの多い一日でした。

まだまだ論点の整理はできておりませんが、哲学とは何かといった場合、それは「人間とは何か」という問いへと収斂していくわけですけれども、これが宗教とは何かという問いに転換された場合、より具体的に「生命とは何か(生とは何か・死とは何か)」という問題に収斂していくのではないだろうか……ふとそう実感した次第です。

通俗的には、現代とはそうした問いかけを真正面から考えてこなかった時代ということは簡単ですし、それも事実です。

そしてそのことを圧倒的に否定できないことと同じぐらい、「生命とは~」(同じく「生とは~」or「死とは~」)という言葉遣いも圧倒的に流通していることも否定できません。

しかし、生活者として「今を生きる」という意味において、その言葉遣いにリアリティがあるのかどうかと問うた場合、「生死とは何か」をスルーしてきた現代という世の中と同じように、その内実はどうしてもうすっぺらい。

だから、情況に対して身動きがとれなくなってしまうとともに、自らをのろい、社会をのろい……、気が付いてしまうと教条的な言葉遣い……そしてそれが限りなく一〇〇%の真実に近いものであったとしても……に陥ってしまうのだろうか・・・。

などと。

だからこそ、これまで人間が数千年に渡って考え続けてきた思考の軌跡を参考にしながら、今生きている自分の問題として省察する必要があるのだろうなあ、と深く考えさせられた次第です。

そうした人間に対する洞察が一切欠如してしまった場合、ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)のいう「人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、私はけっして人生をののしるまい」という言葉はその人にとって硬直したイデオロギーとなってしまい、生きる力へ転換されることはないのではなかろうか……と。

何が言いたいのか私自身もよくわらかんのですが、宗教(神学)、哲学に関わる人間としては、こうした問題を大切にしていかないと、街の喧噪に飲み込まれてしまい、何か大切なことを忘れてしまい、気が付けば課題消化の連日となってしまう。そのことを時々点検しなければ……と。

「生命の世紀」という言葉を口にするのは、簡単です。
その言葉を音声であろうが記述であろうが、発話したり、筆記したりすれば済むことです。しかしそれで済ませない何かを自分自身きちんと取り組みながら、社会や人間そのものをぶっこわすのではなく、脱構築させるかたちで、ずらしていかないと、何もはじまらない・・・その原点を確認したような気がいたします。

またそれだけではありません。

それと同時に新しい時代を告げる嬉しいニュースや希望の曙光も伺い、

「いやいや、人間はまだまだこれからですね」

……という感じで、さあ、「闘うぞ」と気持ちを新たにすることができました。

人間とは「闘い」続ける中で、その使命を発揮することができるはず。使命とは「命を使う」ことだから。

さて今日からまたがんばるか!

ポストコロニアル批評で知られるスピヴァク女史(1942-)は「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」と語りましたが、理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない……。そこを失念したとたん、人間は人間から遠ざかってしまうのでしょう。

細かいやりとりは割愛しますが、お忙しいなか、長時間にわたり懇談させていただきまして、東晋平先生、ありがとうございました。

……ってわけのわからんことばかり書き殴りましたが、冒頭に掲載した『彩花へ 「生きる力」をありがとう』の続編『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』(河出文庫)の結びの一節を紹介します。

-----

 行き詰まることそのものは、決して不幸ではない。
 闘えば、行き詰まりは新しい価値の源泉となる。
 幸福な人とは、行き詰まらないで生きている人ではなく、行き詰まりと闘い続けている人である。
 幸福な人とは、深く悲しみ、深く喜び、深く怒ることのできる人である。
 幸福な人とは、人間以上のものを目指すこともなく、何があっても人間を放棄せず、人間として最後まで生き抜ける人である。
 そして、闘い続ける勇気、生き抜く勇気、真の楽観主義という希望を持って進む人こそ、真の勝利者である。

 このことを、私自身も山下さんから深く深く学びました。自分自身の生きていく道のりにおいて、このことを何度も振り返るでしょう。
 いよいよ開幕する二十一世紀を、人間が人間らしく生きられる「人間の世紀」とするためにも、私たちは今一度人間とは何かということを問い直さなければならないと思います。その起点であり帰点は、「生と死」という根本の問題への思索に尽きるのではないでしょうか。
    --東晋平「人間として生きる--結びに」、山下京子(構成・東晋平)『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』河出書房新社、1998年。

-----

※なお両書は、河出文庫(河出書房新社)として文庫化されております。

02

彩花へ―「生きる力」をありがとう Book 彩花へ―「生きる力」をありがとう

著者:山下 京子
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

彩花へ―「生きる力」をありがとう (河出文庫) Book 彩花へ―「生きる力」をありがとう (河出文庫)

著者:山下 京子
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

彩花へ、ふたたび―あなたがいてくれるから (河出文庫) Book 彩花へ、ふたたび―あなたがいてくれるから (河出文庫)

著者:東 晋平,山下 京子
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 書物を読み文章を書くということはすでに他人と相語っていることなのである | トップページ | 【覚え書】「文化産業--大衆欺瞞としての啓蒙」 »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/37211164

この記事へのトラックバック一覧です: 二十一世紀を、人間が人間らしく生きられる「人間の世紀」とするためにも、私たちは今一度人間とは何かということを問い直さなければならない:

« 書物を読み文章を書くということはすでに他人と相語っていることなのである | トップページ | 【覚え書】「文化産業--大衆欺瞞としての啓蒙」 »