ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです
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「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
--E.レヴィナス(合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。
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個人的にはほぼ毎月訪問しているのですが、家人とだいぶ行ってないなあ、ということで、久しぶりに家族でささ花@花小金井へ。
この近辺で、まともな料理を食べたくなると「ささ花」が定石ということになりますで、楽しませて戴きましたが、まあ、間違いのない味わいに舌鼓。
福澤先生は旅立たれてしまいましたが、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の語るとおり「ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです」わけですので致し方なし。
さて、今日からまた仕事モードでがんばろうw
まずはお通し
「九条葱とジャコと豆富のサラダ」
「真鯛の紅葉揚げ」
「長芋と和牛もも肉のステーキ(シャリアピンソーン)」
「ささみの梅シソ巻き揚げ」
「モッツァレラのフリットと南瓜コロッケ」。
またしても「何かメニューにないやつを」と伺うと、
「田酒 純米大吟醸 山廃」。
やばす。
「エイヒレ炙り」
「せいろ」で〆て終焉。
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神・死・時間 (叢書・ウニベルシタス) 著者:エマニュエル レヴィナス |
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