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もし小林秀雄が生きていて、クオリアという考え方に接したら、「君、僕が言いたかったことはそれだよ」と言ったことだろうと私は確信している。

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クオリア
小林秀雄は、どのようにして、強大な科学的世界観に対抗しようとしていたのだろうか。
小林は、人間の経験全体を引き受け、その切実さに寄り添うことで、その生涯の仕事をした人である。科学に対抗するといっても、それは小林にとっては為にすることではなかった。自らの表現者としてての生き方の延長線上に、ごく自然に科学的方法論に対する異議が立ち現れた。

この科学的経験というものは、全然違うものなんですよ。今日科学が言っている経験というものはだね、私たちの経験とは全然違う経験です。それは合理的経験です。だいたい私たちの経験の範囲というのは非常に大きいだろう。合理的経験ばかりすりゃあしないですよ。ほとんどの私たちの生活上の経験は、合理的じゃないですね。その中に感情もイマジネーションもいろんなものが入っていますね。道徳的経験。いろんなものが入っている。
人間の広大なる経験の領域というものは、いろんな可能な方法にのばすことができるでしょ。それをのばさないように、計量的な経験、勘定することのできる、計算することのできる経験だけに絞った。他の経験は全部あいまいである、もしも学問をするなら、勘定できる経験だけに絞れと、そういう非常に狭い道をつけたんです。

人間の経験のうち、計量できないものを、現代の脳科学では、「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。もし小林秀雄が生きていて、クオリアという考え方に接したら、「君、僕が言いたかったことはそれだよ」と言ったことだろうと私は確信している。小林とクオリアについて語りあうことを夢見たことは何度もある。

人間の精神の歴史は、仮想の世界の拡大の過程、別の言い方をすれば「仮想の系譜」においてとらえられる。五歳の女の子が世界のどこにも現実としては存在しないサンタクロースのことを想うのは、仮想の系譜に連なることである。小林秀雄が蛍におっかさんを見るのも、和泉式部以来の日本の「蛍」にまつわる仮想の系譜の中に位置づけられることである。
人間は、現実にないものを見ることによって、現実をより豊かなコンテクストの下で見ることができるようになった。次第に豊かな仮想のコンテクストが積み重ねられる過程で、言語が誕生した。仮想の系譜が積み重ねられる中で、人々は、様々なものを仮想の世界に託した。小林秀雄の場合、託されたのは美しい芸術、切実な人生体験への思いであった。
小林秀雄の講演が音声として残っているおかげで、私たちは、小林の声の生々しいクオリアに接することができる。もし情報というものが文字で表現しても音声で表現しても同じものだとすれば、クオリアは情報を超えている。
    --茂木健一郎『脳と仮想』新潮文庫、平成十九年。

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クオリアの有効性の是非は、ひとまず横に置きますが、茂木健一郎氏(1962-)の指摘するとおり、歪んだ形での科学「主義」が人間の存在をむしばんでしまうことには至極納得します。

しかし、同時に、安直な科学否定の態度にも首肯することはできません。
認識の問題以前として、科学技術を全く否定して、原始の生活に帰ることもできませんから、どのように向かいあうのか、キチンと踏まえた上で、対処していかなければならないし、そこから、科学が対象とできない部分を見つめ直していかなければならないはずなのですが、どうも本朝での議論は、アレかこれかの二元論……例えば、科学か反科学(スピリチュアルか)……になってしまい、そこに頭を悩ませてしまいます。

さて、『脳と仮想』では茂木氏が小林秀雄先生(1902-1983)の講演を引用しながら、その二元論を超克するひとつのヒントを紹介しており、「科学的経験」の限界とそこからあふれ出してしまう経験を論じておりますが、その部分は至極納得できます。

しかし上述したような態度へ流れてしまうこと、すなわち、論者のほうではなく、読み手の方ですけれども、なってしまうことだけには危惧があります。

そしてその危惧を見つめ直していくと、そもそも小林秀雄先生が指摘している先鋭化した「科学的経験」に基づく科学「主義」なるものにも、実のところ至っていないのが本朝での現状ではないのだろうかなあ……。

そんなことまで考えてしまう次第ですが、まあ、要するに、民間世界で、「科学に基づく」「科学に即して」「それは、そうだろう」「それは、ちがうだろう」って言い方は、実は自然科学のイロハにも基づいていない億見がほとんどで、科学「主義」にさえ到達していないことの方が多いのでは???

そういうことによく直面します。

その意味では、「科学的経験」からあふれだしてしまう部分を問題とする以前に、科学的経験をイロハをきちんと鍛え直す、学びなおしたうえで、科学「主義」に陥ることもなく、安直な反対論に流れることもなく、あふれだしてしまう経験を考えるという段取りを取らなければならないのではないだろうか・・・そんなことを実感する次第です。

さて……。
クオリアの有効性の是非は措きますが(苦笑)、本書で一番おすすめなところは、科学の問題よりも、実は、小林秀雄先生の秀逸な入門となっているところ。

実に興味深いものです。

この本を手にとった所為で、小林秀雄先生の講演を聞き直したり、著作をまたひもとこうかと思ってしまうところが実に不思議なものです。

まあ、これがクオリアか(謎

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