« 「まさに、手練の早業といよりほかない」のだがウザイらしい | トップページ | すべての人は不死なる魂を持っており、永遠の幸福に達することも、永遠の破滅に陥ることもできます »

美と宗教の邂逅(1)

01

「教会とか多くの宗教権力が美学(建築や儀式などなど)を重視してきたのは、倫理的側面からか。それとも美が善だからという意識が無意識にあったと思われますか? それともただの成金?(成金っていうのは、通俗的な、権威主義の範囲っていう事w)。

さて、この問題。単純に権威に奉仕する美(芸術一般)という意味で考えていたのですが、実はここに大きな落とし穴があった。真善美が議論されたのは古代ギリシアとカント以降の価値論だったことを失念したわけね。

そもそも、真善美というような形を定式化したのはまあ、プラトンを嚆矢とするでしょう(西洋では)。文明の営みの象徴として「美」(フィジカルな肉体美もココね)。そしてそれが「真」であり「善」であると議論が沸いていくる。

示唆したのはソクラテス(苦笑)。「それが何だかわからないけれども、そーゆうのはあるんじゃないけ」って彼独特の慎ましさでね。そして語るまえに亡くなった。

その作業を引き受けたのが弟子のプラトン。詩作によって美善合一を目指す運動(カロカガティア)の伝統をヒントに、感覚的美と道徳的な美を統合するなかで、イデア論が創造されるという寸法。認識として真理。行為(=倫理的行い)として善。審美上の美。これが三位一体としてイデアとなる。

さてこれがアリストテレスにいたると少し変貌する。『ニコマコス倫理学』の冒頭で、最高善は幸福であると示唆されるが、ここで大目的(最高善)に対する連鎖が言及されるわけですが、この連鎖が中世において大きな問題となる。要するに位階性の発生。これはアリストテレスの本意ではないでしょうけど。

アリストテレスは超越的な概念としてのプラトンのイデア論をやんわりと退けましたが(といよりも生理的嫌悪か?)、プラトンと共通するのは、真善美なるものを大切にしたという一点。プラトンはそれをイデアとして規定しましたが、アリストテレスによればそれは形式的規定にほかならない。

だからアリストテレスは、一歩踏み込んで、真善美の三位一体を「最高善」としてタームし、内実を「幸福」として規定した。しかし前述したように、目的の連鎖論が位階制度を招来することとなる。

これが中世スコラ学でしょう。プラトンの理想主義的な超越的感覚は、神を思弁するうえでひとつの論拠となり、アリストテレスの現実主義的目的論の連鎖は、カトリック的ヒエラルキーを補完する構造へとミスリードされてしまう。

※ここでいうミスリードとは、対他の弁証論として俗流超越論への流用と(バルトの宗教の廃棄としてのキリスト教を参照)、ヒエラルキーの成立は、初期教会の特色としての円周的空間から権威的空間への移行において、目的の連鎖が流用されたというところ。

※※ だからいえば、ローマ帝国で国教化される前後200年の弁証家(弁解・証明)の教父の議論をみているとこの変貌がよく見て取れます。

さて……。注目したいのは、古代ギリシアにおいては、真善美の問題は、ひとつの全体人間を体現する徳目であるから、温度差はあるけれども、基本的には同一線上におかれている。めざすべきイデアであるとか幸福を担保する価値として措定されているから、まさにそうなるわけ。

そしてそれが超越論と目的連鎖論からミスリードされたのがその後の西洋哲学史(カント以前)。ちなみにいえば、それが完成されるのが中世スコラ学だけれども、その完成者とされる聖トマス=アクィナスは脇におく。

聖トマスは絶妙にその論点をずらしている。それを勘違いしたのは後のトマス「主義者」でありますしね。最高善としては神が措定されるけれども、『スンマ』を精読すると絶妙にその議論を排除している。

トマスの認識として、まさにアリストテレスの秩序論にしたがうわけだけれども、すべての行為は、最高善を目指す行為へと順序されてしまうことは否定しません。しかし、それが目的むかって奉仕される手段という認識はない。

プラトン的言い方で続ければ、イデア的な神なるものへ、アリストテレスを誤読していけば順列があってしかるべき=(っていう)スコラ学になるのだけれども、トマスは伸張にそれを退けている。

※上述したミスリードに従えば、最高善である神に対して、すべての所作は位階付けられていくからすべての人事は目的論の奴隷となる(ルターが苦手やからいうけど、ルターの「奴隷論」はその好事例)。

しかし超越論と秩序論を調和させたトマスの議論は、超越対象とすべての超越に対象していく物事を円周関係におきかえた。だから位階論が破壊されてしまうわけ。ここを見逃すと大きくトマスの議論を誤読してしまうことになる。

そしてそれを加速させたのが、一切の表象を拒む筈の「神」なるものを表象した系譜。キリスト教の原初的象徴表象に於ては、それを一切拒む視線が存在している。俗流すれば継子のイスラームをみればしかるべし。

しかしゲルマン布教の関係性から、具体像の表象が許容されていく。ギリシアとインドの出会いによって「仏像」が「創造」されるのと同じ系譜よね。

そのなかで、美という価値が先に述べた位階的価値に従属させられる手段と化していく。造作の職人気質としては、そこに救いの表象をもとめたことは否定できない(造仏と同じよねん)。

けれども、ギリシア的な真善美の対等的な価値(真=善=美)というものは、布教の過程で(目的と手段の混同)、そして、超越論と序列論によって破壊はされてしまいます。

「哲学は神学の婢」といいますが、それの亜流よね。

その証左が西洋芸術が近代になるまでパトロン主義であったこと。それを解放するのが思想的にはカントによる真善美の再発見をまたねばならない。最大のパトロンは教会だからね、だからカントによって解放されるまでは、芸術は乞食役者にならされてしまうわけ。

……という第一部完。
02 03

|

« 「まさに、手練の早業といよりほかない」のだがウザイらしい | トップページ | すべての人は不死なる魂を持っており、永遠の幸福に達することも、永遠の破滅に陥ることもできます »

神学」カテゴリの記事

コメント

>聖トマスは絶妙にその論点をずらしている~~
私もそう思います。

面白く拝読させて頂きました。

投稿: 松井千尋 | 2010年10月27日 (水) 16時10分

松井様

書き込みありがとうございます。三点指摘(=書き込み)してくださっておりますが、こちらへのレスにてご容赦を。

さて、ご指摘のとおり、聖トマスは、完成者としての側面という評判が濃厚ですが、丹念に読み直すと、デリダをあげたくはありませんが、実は内在的ぶっこわし屋の「脱構築」なのではないかと思われて他なりません。

デリダも同様に、デリダとデリダ主義者の差違があります。

聖トマスも同じかもしれませんね。

現実に存在するリアリティを固定化させてしまうとイデオロギーに転化してしまう。

だからこそアリストテレス主義者として、プラトニズムを避けつつ、アリストテレスの位階論を円周論として受容し、直結させていったのがその消息か。

そんなふうに読んでいると思われて他なりません。

まあ、なんだかんだいっても、ラテン訳から毎月1頁程度ですが、訓詁しながら挑戦しておりますが、アタリメを噛み噛みするように、読んでいくと、教説の教条化をどこまでも拒否する聖トマスの慎重さにはおどろくばかりです。

今後ともどうぞ宜しくお願いします。

投稿: 宇治家参去 | 2010年10月28日 (木) 02時20分

《真・善・美》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として、意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが出来る場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず、機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』

然の理(ぜんのことわり)
自、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

投稿: 林道 | 2014年8月 8日 (金) 06時34分

【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて自の因など様々なものの存在可能性を理解し、其の様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

認識するべき主体としての自分と認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに、何者が如何な世界を認識し得るだろう。

予知の悪魔(完全な認識を有った生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。


以上、真善美を有してあなたの成せないことは無いか?

投稿: 冬至 | 2014年8月 8日 (金) 06時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 美と宗教の邂逅(1):

« 「まさに、手練の早業といよりほかない」のだがウザイらしい | トップページ | すべての人は不死なる魂を持っており、永遠の幸福に達することも、永遠の破滅に陥ることもできます »