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【研究ノート】吉野作造の民本主義と貴族主義

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 世間の人は、議会の不体裁とか、議員の不体裁(ふしだら)とかを挙げて、ややもすれば多数政治の醜穢をうんぬんする。むろん多数政治にも訓練を加えざればいくたの弊害を生ずるは免れない。ことに多数政治は徹底的にこれを行わざれば往々にしてその弊かえつて少数政治よりも大なることがある。しかしながらだいたいからいえば、少数政治は密室の政治なるがゆえにその弊害は多くは天下の耳目に触れずして済み、多数政治は明けつ放しの政治なるがゆえに微細の欠点を誇張して数えらるるの傾きがある。ゆえにもつとも公平に、もつとも精密に、その弊害の性質・分量を比較したならば、少数の政治の方あるいははるかに多数政治を凌駕して弊当のいちじるしきものがあるだろうと思う。
 かくいえば、民本主義の政治においては少数賢者の階級はまつたく用のないものかのごとくに誤解するものもあろうが、これは決してそうではない。少数の賢者が独立の一階級をなし、多数と没交渉に政権の運用を専行するときにはもちろん弊害ある。けれども彼らがみずからへりくだつて多数の中に没頭し、陽に多数者の意向に随従しつつ、陰に多数者の精神的指導者として公事に尽くすとき、彼らは真の賢者としての役目をもつとも適当に尽くすことを得るものである。そもそも多数・少数の両階級の関係は、形式・実質の両面に分かつて観察するを必要とする。近代の政治は、その政治組織の形式的方面においては、もとより多数専制を容認するものではない。多数政治といつても、文字どおりの衆愚の盲動が政界を支配するようでは、国家の健全なる発達は期せられない。多数者は形式的関係においてはどこまでも政権活動の基礎、政界の支配者でなければならなぬ。しかしながら彼は内面において実に精神的指導者を要する。すなわち賢明なる少数の識見・能力の示教を仰がねばならぬのである。かくて多数が立派な精神の指導を受くるときは、その国家は本当にえらいものである。少数の賢者は近代の国家において実にこの役目を勤むべきものである。もし彼らがその賢に誇つてみずから高しとし、超然として世外に遊び、降つて多数者の中に入りてこれを指導することをあえてせざるときは、彼らはただその志を遂げ得ざるのみならず、国家の進歩にもまたなんら貢献することあたわずしておわるのほかない。彼らにしてもし真に国家社会のために尽くさんとせばその賢をもつて精神的に多数を指導するとともに、またみずから多数者の役するところとなつて、彼らの勢力を通して公に奉ずるの覚悟がなけれなならぬ。かくのごとく多数と少数との相倚(よ)り相待つことの密接なる国が、もつとも献膳に発達するのである。少数の政治は弊害もあり、また勢いとしてこれを今日回復することはできない。さればといつて多数の政治は少数賢者の指導なしにはもと健全なる発達をみるにあたわざるものである。二者相待つて初めて憲政は完全なる発達をみることができるのである。この関係を政治的にみれば、多数の意向が国家を支配するのであるけれども、これを精神的にみれば、少数の賢者が国を指導するのである。ゆえに民本主義であるとともに、また貴族主義であるともいえる。平民政治であるとともに、一面また英雄政治でえあるともいえる。すなわち政治的民本主義は精神的英雄主義と渾然相融和するところに憲政の花は見事に咲き誇るのである。もしこの二者の関係が彼此相疎隔せんか、その国は決して円満なる発達をみることを得ない。二者の疎隔によつて苦しんだ国は古来その例に乏しくない。あるいは指導者なき平民の盲動は革命的暴虐となつて国家を塗炭の苦しみに陥れたこと、革命当時の仏国のごときあり、あるいは節操なき衆愚が少数奸雄の操縦利用するところとなつて、国民全体の利益を蹂躙するところとなつて、国民全体の利益を蹂躙して顧みざること、現代のメキシコのごときがある。憲政をしてその有終の美を済(な)さしめんとせば、政策決定の形式上の権力は、これを思いきつてこれを民衆一般に帰し、しかも少数の賢者はつねにみずからの民衆の中におつてその指導的精神たることを怠つてはならぬ。
    --吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」、『中央公論』1914年1月。

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いやしかし、休みが全くなく、まとまった考察ができずスイマセン。

ただ、民本主義を説いた吉野作造(1878-1933)先生が、民本主義の欠点を埋め合わせるためには、貴族主義的なものの不可欠さを説いたところを覚え書として抜き書しておきます。

まあ、これはオルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)のいう「貴族主義」と通底をなすところ。

たしかに、システムとしては多数の支配がいいのでしょうが、独裁者とかイデオロギストとかそうしたものではない、内在しつつ超越していく「精神に誇り」をもったひとびとの存在は不可欠でしょう。

まあ、ひとりひとりがそうなることが先決なわけだけれども・・・。

さて、、、。

今日もよく働き疲れ果てましたので、お休みでござんす。

最近、仕事が済んでからファミレスの「ジョナサン」へ逗留することが多いのですが、(店によりますけれど)、おつまみメニュー2品(乃至はアルコールメニュー2品)で525円というコースがあり、どうも寄ってしまいます。

酒ふたつ頼んで、おつまみ二つ頼んで、深夜料金含めて1155円なり。

これが最近の癒しとなっています。

……浅はかw

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