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トイレと公共に関するツイート

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 ヒューマニズム(人間主義)は、すでにその名の示すように、人間を宇宙の中心にひきあげて、そこにすえること、人間の反逆、人間の肯定と発見を意味する。これがヒューマニズムの一面である。ヒューマニズムは人間の個性を発見し、これを十分に発揮させ、中世の生活におけるあの屈辱から解放し、自己肯定と創造の自由な道を教えたものと言われている。しかしヒューマニズムにはまたこれとは反対の原理がある。そこには人間の向上、創造的人間能力の発見の原理ばかりではなく、人間の低下、創造的能力の枯渇、人間の弱体化の原理もある。なぜなら、ルネサンスのヒューマニズムは人間を自然に向かわせ、人間的人格の重心を中心から周辺に移したからである。それは自然的人間を精神的人間から引きはなした。それは自然的人間に、--生の内面的意義から遠ざかり、生の神的中心を捨て、人間本性の最深の基礎から離れた自然的人間に、創造的展開を許した。人間が神の似姿であること、神の本質の反映であること、これをヒューマニズムは否定した(*)。ヒューマニズムの主流をなすものは、人間的本性が神的本性の似姿ではなくて、現世的自然の似姿であり、人間は自然的必然によって造られた一個の自然的存在、世界の子、自然の子、自然的世界から血肉をうけたものであって、したがって自然的存在が持っているあらゆる制約、あらゆる苦悩と欠陥を共有しなければならない、と主張する。こうしてヒューマニズムは人間の自意識を肯定し、人間を高めはしたものの、また他面これを神敵起源をもった高次の存在と見なすことをやめ、その天井の故郷を主張することをやめ、もっぱら地上の故郷と地上の起源のみを主張することによって、人間を低下させるにいたった。それによって、ヒューマニズムは人間の地位を引きさげ、ここに神から離れた人間の自己主張--神的絶対的な高次の本性との、高次の生の源泉との関連をもはや感得したり、認識したりしなくなった人間の自己主張--がかえって人間の破壊をまねきよせるということになった。キリスト教的精神の中にあって人間を高めていた原理、それによって人間が神の似姿であり、神の子であり、神によって子として受けいれられた被造物となったころの原理が、ヒューマニズムによってくつがえされた。人間に関するキリスト教的意識は、力を失いはじめた。こうしてヒューマニズムの内部で、自己破壊的な弁証法が展開した。
 *〔原註〕初期のキリスト教的人間主義のために、その例外もあげておく。パラケルスス、ピコ・デラ・ミランドラ、エラスムス、トーマス・モーアである。
    --ベルジャーエフ(氷上英廣訳)『歴史の意味』白水社、1998年。

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ホントは、慢心しきった現代人を衝く言葉してオルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)の一節を紹介したいところですが、何しろ本日は鞄の中に、ベルジャーエフ(Nikolai Aleksandrovich Berdyaev,1874-1948)の『歴史の意味』しかいれておりませんでしたので、まずは冒頭の引用に対して読者諸氏にお断りいたしたいかと思います。

ツイでは概述しましたが、少し補足しながらエントリーしておきます。

まあ、市井の職場のある日のひとときです。

さて、休憩にいくかいな……って思った矢先、内線電話でサービスカウンターを担当していた若い女の子から次の通りの報告が、、、

「あのぉ~、1Fのお客様用のトイレの小用の方で、、、そのうちのひとつが、つまって水があふれ出しそうになっているようで……。はい。お客様からお聞きして、、、。確認したのですが、はい。その通りでして……」

「ちっ、若い女の子にこんな報告させるような事件を起こさせるなよ」ってちょい憤りつつ、案件としてはつまるところ……

お客様用トイレ(男性・小用便器)がつまっていた……わいな!

実況検分すると報告の通りでして、詳細を描写すれば、使用者でしょうねえ、まあ、トイレットペーパーを便器につまらせていたようで、流水があふれ出している始末w

まじで、ありえへん。

ほんま、ありえへん。

掃除してきましたワ。

仕事といえば仕事ですから放置できません。ついでにいえば、本来の仕事がなおざりになってしまうわけでして ⇒ 糞、このどチンピラがッ!

……って、壁にパンチをしても問題は解決しないし、ツイッターで「ガッデム」って吠えても収まらないので、まじめに吠えさせていただきます。

倫理とは人間の在り方であり、人間関係の在り方を同時に意味する言葉です。人間の在り方は、人間関係の在り方を規定し、人間関係の在り方は人間の在り方そのものを規定します。

存在としては代換え・還元が不可能な唯一性を持った存在が人間だけれども、同じような他者が存在する。だから倫理が要請されるという必然なのです。

それを政治分野のコトバでテクニカルにスライドさせれば「公共」(空間)の問題になるでしょう。臭い話で恐縮ですが、自宅で用を足したときに、粗相があれば自分で始末しなければならない。外で用を足したときに粗相があれば自分で始末する必要はないけれども、限りなく粗相をしないように「賢慮する」必要はあるでしょう。まあ、自分にかわって「代換え不可能な唯一性」を保持した尊厳存在なるものが、その始末をしなければなりませんからネ。

さて始末の問題はさておきますが、外で用を足すということは、自分一人がそこで用を足すということを意味しないのは論を待ちません。複数の人間が使うわけだからよけいに慎重にならなければならない……わけですよね。ここがひとつの公共なわけでしょう。

そのヘンをはき違えた連中が、ホントもう多くて困ってしまう。

市民社会の成立と科学革命、そして産業革命は、すべての人間を国王の地位に据えることに成功しました。しかしながら留意しなければいけないのはそれは利便性としてという意味にすぎないということこです。

かつては国王が占有していたそれが解放されただけだから。国王は用を足してたら用人がそれを始末してくれたわけだけれども、ウォシュレットに代表されるように、それを現在は機械がなしてくれる。庶民が馬車に乗ることはなかったし、乗れなかったわけだけれども、カネを出せば、以上の代換え物がはこんでくれるというわけネ。

そこを、もう、勘違いしないでほしい。

別段、実生活で必要とされる以上の倫理を要求しているわけではありませんが、ほんと、なにというか、、、アタマを抱えます。

だから、(自室の中までは問いませんが・しかし自室においても公共は成立するけれども)一歩、外にでたら、複数の人間と一緒に生活していることを忘れないでほしい。

「お客様は神様」と客商売ではいいます。

しかしながら、王様や神様は自分一人ではないんです。

現今の「平等社会」においては、神様だとか王様は自分一人ではないわけネ。

自分と同じような神様だとか王様だとかがいるわけヨ。

だから、ほかの神様に迷惑をかけるようでは困るんです。

だからくどいけれども現代文明批判の古典といえる『大衆の反逆』でオルテガは、そうした在り方を「慢心しきったお坊ちゃん」と指摘しましたが、そこに乗っかかって権利主張するだけならば、ホント、それは尊厳性への居直りであり、尊厳性を涵養するどころか破壊してしまうことにつながるんですよ。。。

ふう。

そんでもうひとつ。

あえて公共という表現を使いましたが、そうした状況を見る復古論者があおるからあえてつかったのです。

要するに、、、

「今の社会は、ぐだぐだのげれげれの自己中ばかりじゃないか。だから昔のような強烈な空気の圧縮・権威的空間の方がましなんだ、悔い改めよ」ってね。

それも困るんじゃ。

特に本朝においては、何度も繰り返しましたが、公共の議論が始まると、すべて一元的に国民国家に集約され、排他的に限定されてしまうからです。

しかし、倫理というコトバの二重の契機にみるように、公共とは、国民国家という空間世界だけに限定されるものではありません。だからこそ、たとえば一歩外へでた瞬間に、そこからいろんなレベルの公共空間が立ち上がるというのが筋であるわけですよね。

だとすれば、一人であろうが、対面しようが、そこに個人としては他者の眼差しを解除してしまうと、そりゃ、まあ「慢心」になっちまうべ。

そして問題なのがつぎのとおり。歴史を振り返ると証左なわけですが、、、

「慢心しきったお坊ちゃん」のままでいると、知らない間に、公共が「滅私奉公」を強制する国民国家に限定されたカタチで招来され、必要以上に拘束されてしまうということを覚悟しなければならない。

しかし、あれだろうなあ。

結局は「おれは何もしらなかった、無辜の市民なんだ。だまされた」とかぬけぬけと後になってからいうんでしょうなあ。

糞。

……すいません。あまりよろしくない表現を連投しまして(涙

などと憤りつつ、そのまんま、飲み屋へいって弔い合戦です。

しかし、団塊サラリーマンが、赤提灯でくだをまいてしまうとイミフになりますので、素材に即して楽しんで来た次第ですが、ひゃー、なかなかいい仕事に乾杯&慰留でごわす。

さて……。

「大でなかったのがせめてもの救い。不幸中の幸いと感謝」なわけですが、これは実は氷山の一角。実は、大のトラブルの方が多し(涙)

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