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【覚え書】「文化産業--大衆欺瞞としての啓蒙」

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 文化とはパラドキシカルな商品である。それはもはや交換されないほど、完全に交換法則の下に置かれており、もはや使用に耐えないほどめちゃめちゃに使いつくされている。だから文化は広告と融合するのだ。広告が独占下でナンセンスの度を強めるにつれて、それはますます万能なものとなる。モチーフは皆あまりにも経済的なものだ。たとえ全文化産業がなくても、人が生きていけるのはまったく確かなのだ。文化産業は消費者たちのもとにありあまる飽食と無気力(アパシー)とを生み出さずにはいない。その勢いに進んで抵抗することは文化産業には到底できはしない。広告は文化産業の生命を救う霊薬なのだ。しかし文化産業の製品は、商品として約束する効用をひっきりなしにたんなる口約束にすりかえてしまうから、そういう効用がじつはないからこそ必要とされる広告と結局は合体することになる。かつて自由競争社会では、しゃかいは市場で買い手の手引きとなる社会的役割を果たしていた。それは選択を容易にし、もっと有能な見知らぬ売り手が彼の商品をしかるべき男に届けるのを補助したものだ。広告はたんに値が張るだけでなく手間暇を省く働きをした。自由市場が終わろうとする今日では、体制の支配が広告を楯にして自らを守っている。広告は消費者たちを巨大コンツェルンにつなぐ絆を強化する。広告代理業者たち、とりわけ放送業者自身が言いたてる法外な広告料をいつでも支払える者だけが、つまりすでにそういう陣営に属しているか、あるいは銀行資本や産業資本の決定に基づいて補欠として選ばれる者だけが、一般に買い手として疑似市場に立ち入ることを許される。結局はコンツェルンのポケットに還流していく広告料は、やっかいな部外者(アウトサイダー)と張り合って打ち負かすという面倒を省く。つまり権威を持つ者が、自分の指導的地歩を守ることを保証する。その点で広告料は、全体主義国家において企業の開設と拡張を統制していた経済評議会決定と似ていないことはない。広告は今日ではある否定的原理であり、制動装置である。つまりその刻印を帯びていないものは、すべて経済的に下級品扱いされる。いずれにせよ提供されるのは、二、三の品種に限られるのだが、人にそれを覚えてもらうためには、必ずしも手広く広告する必要はない。広告は間接的にしか売行きに影響しない。個々の商会が慣例となっている広告を削減すれば、知名度はダウンするが、じつはそれは指導的な徒党(クリーク)がその傘下メンバーに課す規律への違反を意味する。戦時中でも、もはや提供不能な商品のための広告が産業的力を誇示するために続行される。商品名を繰り返すことより重要なのは、むしろイデオロギー・メディアの買収である。体制の圧力の下では、どんな製品が広告のテクニックを駆使したところで、それはお定まりのイディオムへ、文化産業の「様式」へと足並揃えて入っていくだけだ。広告技術の勝利は完璧なものとなり、決定的な場所ではもはや目立たなくなっている。

    --ホルクハイマー・アドルノ(徳永恂訳)「文化産業--大衆欺瞞としての啓蒙」、『啓蒙の弁証法』岩波文庫、2007年。

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