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科学の探究者が単なる科学者にならないように、教師が単なる教育者にならないように、牧師が単に法衣をまとった聖職者にならないように

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 第二三章 教育の職業的側面 
 一 職業の意味
 現代では、哲学の諸説の衝突は、教育における職業的要素の正しい位置と機能に関する論議に集中する。哲学の基本的な考えの重要な相違が主として問題になるのはこの点に関してである、と述べただけでは、変に思われるかもしれない。つまり、哲学上の諸観念を定式化する抽象的で一般的な用語と、職業教育の具体的な細目との間には、あまりにも大きな隔たりがあるように思われるのである。だが、教育における、労働と閑暇、理論と実践、身体と精神、精神の状態と外界との対立の基礎をなしている知的前提を頭の中で再吟味すれうば、それらの対立がついには職業教育と教養教育の対立に達することが明らかになるだろう。伝統的に、一般教育とは、閑暇や、純粋に静観的な認識や、身体の諸器官の積極的使用を伴わない精神活動という概念と結びつけられてきた。そしてまた、教養は、最近、純粋に個人的な洗練、つまり、社会的指導または奉仕からかけ離れたある種の意識とその構えを育成することと結びつけて考えられがちであった。それは、社会的に指導されることの回避であえり、なすべき奉仕をしなかったことへの慰藉だったのである。
 このような哲学上の二元論は職業教育の問題全体と非常に深くからまり合っているので、職業を中心とする教育が、単なる金銭以上んぼものではないとしても、狭い意味で実践的である、という印象を避けるために、職業の意味をいくらか詳しく定義することが必要になる。職業vocationとは、成し遂げられる諸結果のゆえに、ある人にとってたしかに有意義なものとなり、また、彼の仲間にとっても有益なものとなるような、生活の活動の一方面を意味するにすぎない。本業の反対は、閑暇でもなければ教養でもない。それは、本人自身にとっては、目標がないこと、気まぐれであること、経験に蓄積的な成果がないことであり、社会にとっては、無用な見栄や、他者への寄生的依存である。仕事occupationは、連続性を表わす具体的な用語である。それには、機械的労働をすることとか、収入のある色に就くことは言うまでもなく、専門的な仕事や実業的な仕事ばかりでなく、あらゆる種類の芸術的才能、専門的・科学的能力、有能な市民としての権能の発揮をも含まれるのである。
 われわれは、職業という概念を、直接目に見える財貨を生産する仕事に限定するこを避けるだけでなく、職業が排他的に各人にただ一つだけ割り当てられるという考えも避けなければならない。そのように限定された専門はありえないのである。人々を、ただ一つの方面の活動だけを目ざして教育しようとすることほどばかげたことはないだろう。第一に、各個人は、必ず、さまざまの職分をもっており、それらのおのおのにおいて、彼は理知的に有能であるべきであり、第二に、どの一つの仕事も、それが他の関心事から孤立していればそれだけ、その意味を失い、何事かにただ機械的に忙しく立ち働いているだけのことになるのである。(i)芸術家であるだけで、他の何ものでもないような人間はいない。しかも、ある人がそのような状態に近ければ近いほど、彼はそれだけ人間として発達していないことになり、彼は一種の怪物である。彼は、その生涯のある時期に、ある家族の一員でなければならない。友人や仲間をもっていなければならない。自活するかまたは他の人々によって養われなければならない。だから、彼は、ある職業をもつ。彼は、ある組織された政治的単位の一員である、等々。彼が他のすべての人々と共通にもっている職分よりも、むしろ彼を特徴づける一つの職分の名をとって、彼の職業の名とするのは当然のことでえある。だが、教育の職業的側面を考察することになったときには、彼の他の諸々の職分を無視し、事実上否定するほどまでに、言語に支配されてはならないのである。
 (ii)ある人の芸術家としての職業は、彼の多種多様な職業活動の著しく特殊化された側面にすぎないのだから、その職業における彼の能力--能率(エフイシエンシーという語の人間的な意味での能力--は、それと他の諸々の職分との関連によって決まるのである。彼の芸術的手腕が技術的完成以上のものであるべきなら、彼は経験をもたなければならない、すなわち、彼は生活しなければならないのである。彼は、自分の芸術活動の主題を自分の芸術の内部に見出すことはできない。それは彼が他の諸関係の中で苦しんだり楽しんだりするものの表現--それは彼の興味の鋭敏さや共感のいかんで決まるもの--でなければならないのである。芸術家に当てはまることは、他のいかなる専門的職業にも当てはまる。確かに--習慣の基本的性質におおよそ一致して--、あらゆる特殊な職業は、あまりにも支配的になり、あまりにも排他的で、その特殊化された面に集中するようになりがちである。このことから、意味を犠牲にして熟練や専門技術的方法が強調されることになるのである。それゆえ、この傾向を助長することは、教育の努めではない。教育のつとめは、むしろ、それを防いで、科学の探究者が単なる科学者にならないように、教師が単なる教育者にならないように、牧師が単に法衣をまとった聖職者にならないように、等々することなのである。
    --デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育(下)』岩波文庫、1975年。

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学生さんからの質問もあり、そして、現実には職業教育が大学教育において隆盛をきわめる中で、その対極にある教養教育にどっぷりと携わっておりますものですから(=肩身が狭いw)、今日は一日、職業教育と教養教育に関して哲学者の知見をまとめて読んでいます。

この問題は社会学者のヴェーバー(Max Weber,1864-1920)やテンニース(Ferdinand Tönnies,1855-1936)、はたまたジンメル(Georg Simmel,1858-1918)あたりに知見があるかと思いきや、現代社会をデザインしたというべきプラグマティストのデューイ(John Dewey,1856-1952)にあったことには実に驚きです。
※もちろん、ヴェーバーやらテンニースに知見がないという意味ではありませんよ、念のため。

大学の専門学校化・職業訓練学校化の潮流の中で……それが悪いとはいいませんけれども……資格試験の奨励やスキル系の科目が増え、機械的な習熟に眼目が増えてきているのが現状です。

それが結構必修科目になったりしていて、対極にあるワタクシなんかからすると、「なんじゃらほい」って感覚です。

まあ、それが悪だという訳ではありませんよ。
大学は学生さんたちに対して、それを提供することは「しかるべき」だとは思います。
しかし問題なのはそればかりになってしまい、選択肢が無くなってしまうということです。極論ではありますが「人間とは何か」という問題を古典との対峙のなかで磨き上げていく、ひとびとと言葉をかわすなかで鍛え上げていくという労作業を割愛して、技術的知のみを吸収したのでは・・・本末転倒だろう、そんなところです。

だからコマとしてはあって「しかるべき」なんです。
だけどそれだけでは問題だろうということ。

まあ、それが社会の要請でありますし、大学はどの企業になんぼ人間を入れたかによって「ランク付け」が変動しますから「イタシカタない」わけですが・・・。

脱線しました。戻ります。

さて……。
現代の職業教育の特徴は何かといった場合、沢山指摘できますが、大きな問題は、やはり、テクネーの教授にのみ先鋭化した(人間の)分断といところでしょう。

デューイはプラグマティズムを高唱し、現在の社会を設計した哲学者・教育学者であるといってもよいと思いますが、プラグマティズム(実際主義・実用主義)というものは、実践優位・実用偏重とイコールではありません。

否、むしろどちらかといえば、優位や偏重を避け(逆に言えば、それまでの古典の詰め込みに重点を置いた旧世界的教育にもノーですが)、人間の全体性を回復することに主眼をおいた哲学なのではないかと思います。

ですから、古典偏重でも技術偏重でもない。その両方に足をつけた人間、生活者としての人間、そこに注目した哲学者でありつづけた……それがデューイの生涯だろうと思います。

さて全体性の回復に焦点を合わせてみた場合、人間の一側面にしかすぎない「職業人」のみへの注目は全体性を破壊する行為に他なりません。

生きている人間は、そもそも職業人であり生活者であり、親であり、子である……様々な側面をもっております。お互いがお互いを輝かせるためにはどのように向き合っていくべきなのか。その有機性の回復こそ教養教育の位置であり、そしてそれは本来的には職業教育と相反するものではない……ということです。

「確かに--習慣の基本的性質におおよそ一致して--、あらゆる特殊な職業は、あまりにも支配的になり、あまりにも排他的で、その特殊化された面に集中するようになりがちである。このことから、意味を犠牲にして熟練や専門技術的方法が強調されることになるのである。それゆえ、この傾向を助長することは、教育の努めではない。教育のつとめは、むしろ、それを防いで、科学の探究者が単なる科学者にならないように、教師が単なる教育者にならないように、牧師が単に法衣をまとった聖職者にならないように、等々することなのである」。

この一節は意義は深いと思います。

技術への過度の傾斜は、最終的に「科学の探究者が単なる科学者」に、「「教師が単なる教育者」に、「牧師が単に法衣をまとった聖職者」にならせてしまうわけです。

むろん、テクネーの職業教育が悪いわけではないのです。

しかしながら、「排他的でその特殊化された面に集中する」だけでは、職業人を作ることはできるけれども、人間をつくることはできません。

なにしろ、人間は○○屋(職業名)だけがその全てではありませんから。

そこを失念すると本末転倒になるのでしょう。

デューイは、その極端な事例として芸術家で分析しております。
芸術家は芸術家であるだけでなく、「彼は生活しなければならないのである」はずです。
そのことはつまり「芸術家であるだけで、他の何ものでもないような人間はいない」ということです。

しかし「ある人がそのような状態に近ければ近いほど、彼はそれだけ人間として発達していないことになり」、そうした場合結果としてその人は「一種の怪物である」という事態へと至ってしまうということです。

まあ、本朝の場合、割合的には、職業教育が教養教育より圧倒的な多数を占めるわけですので、教養教育の擁護をせざる得ないのですが、本来それは相反するものではないことを確認する必要はあるでしょう。

長い目で考えれば、職業教育の枠の中で教養教育があったり、その逆も然りというのもいいとは思うのですが。。。まあ、無理なんだろうけれど。ぼやきでは終わらせませんけどね、いちおー。

さてtwitterでは何度も紹介しておりますが、アメリカの名門私立大学・コロンビア大学では、ガチ古典学習の教養教育(プラトンから現代までの哲学・自然科学・社会思想の名著を徹底して読む)が90年以上も続いております。

【コロンビア大学 コア・カリキュラム】1919年から続いている文系・理系ほぼ全ての学生が必修のコアカリキュラムがそれです。
http://www.college.columbia.edu/core/ 

サンデル(Michael J. Sandel,1953-)をヨンデルといっても理解の土壌が違うわな。

教養教育なんて手をいれず就職予備校と化す日本と対極です。

まあ、結局のところ、本朝ではその仕込みを独りでやらなあかんという・・・ジレンマ

……などと考え込んでもしょうがないので、本日は季節限定の本格芋焼酎『赤霧島』(霧島酒造株式会社・宮崎県)でもいっぺえやりながら沈没しようかと思います。

くぅぅ、染みるねえ。

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