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「○○のために」というイデオロギー装置を避けながら

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 いはゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやといふことは措いてこれを問はず、ただその主権を行用するに当たつて、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意嚮を重んずるを方針とす可しといふ主義である。即ち国権の運用に関してその指導的標準となるべき政治主義であつて、主権の君主に在りや人民に在りやはこれを問つところでない。もちろんこの主義が、ヨリ能く且つヨリ適切に民主国に行はれ得るは言ふを俟たない。しかしながら君主国に在つてもこの主義が、君主制と毫末の矛盾せいずに行はれ得ることまた疑ひない。何となれば、主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るといふことと、君主がその主権を行用するに当たつて専ら人民の利福及び意嚮を重んずるといふこととは完全に両立し得るからである。しかるに世間には、民本主義と君主制とをいかにも両立せざるものなるかの如く考へて居る人が少くない。これは大なる誤解といはなければならぬ。
    --吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」『中央公論』一九一六年一月。

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この一週間、吉野作造(1878-1933)大先生の著作しか読んでおりません。
冒頭に引用したのは一番有名な民本主義のマニフェストともいうべき「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」ですが、これも何度読んだかわかりません。

政治史、憲政論の文脈での研究はほとんど出そろっており、新しい課題は何も残されておりません。しかしキリスト教思想との関係からの理解は数点のみで、ほとんどなく課題が山積です。

さて吉野の民本主義論の根柢には、「個人の尊重」と同時に「四海同胞」を説くキリスト教精神が存在します。
しかし、こうした議論を読んでいて共通するのは、本人も後日述懐しているとおり「キリスト教のために」という方向で書いていないということ。

吉野は真理論の競合が不毛な結果しか生まないことを熟知していたのでしょうか。
真理的な判断は難しく、現実には大声を出した方が勝ちということになってしまうケースも多々あります。
同時代的に言うならば、国家主義的文脈が多数派をしめるなかで、民主主義の「マシさ」をどんなに理路整然と主張したところでも勝ち目がないのは明らかです。

だからころ政論においてはどこまでも相手の文脈に乗っかかってその舞台の上で徹底的に勝負をするという「戦略」を取ったのかも知れません。

信仰家は往々にして真理をめぐるブン殴り合いに傾きがちなのですが、これが現実は正しさを証明するどころかその逆をあらわにすることが多かったし、正しさだけを語る連中の心根には、例えば「キリスト教のために」「仏教のために」というプロ意識が濃厚で、議論が辟易としてしまうことが多いことを吉野は熟知していたのでしょう。

それが仮にどんなに正しかったとしても「キリスト教のために」とか「仏教のために」とイデオロギー化してしまうと、目的として昇華される対象をおとしめてしまうばかりか、「のために」の頭にくる対象をもおとしめてしまうのかもしれません。

もちろん、吉野作造は死ぬまで自身のキリスト教信仰を大切にしていたわけで、そのことを自分自身の「誇り」としております。
しかし、金太郎飴のように、その議論のどこを切り取っても「キリスト教のために」という議論は出てこない。

何度も読み直すなかでのひとつの発見というか実感というところです。

「ために」というイデオロギー化のマジックを身をもって示してくれているのかもしれません。

……ということで、

哲学の授業も済んだ!
息子殿との仮面ライダーごっこも済んだ!

さて、原稿を仕上げにかかります。

以上。

Post scriptum そういえば、役得で?、市場に出る前に麒麟の「冬麒麟」を一足先に頂戴しました(試飲缶)。
       もうこんな季節なんですネ

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