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【覚え書】修道士制度と功績主義的な業(Überverdienstliche werke)とを除去したプロテスタンティズム

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 ところが両者の対立がなおいっそう顕著になるのは現世肯定の倫理についてである。プロテスタンティズムのばあいにはこの倫理は修道士制度と功績主義的な業(Überverdienstliche werke)とを除去したことから生ずるのであり、従ってまたあらゆる信者にとって信仰が精神的かつ内面的な性質を帯びるに至ったことの結果である。宗教的な行為は神のことばに献身する信頼にみちた個人的な心的態度以外のものではなく、しかも万人に対して平等に要求される。だとすると功績主義的な業という思想や特別の宗教的立場というものは全然ありえないわけである。ところでこうしたものがないとすれば、すべては一様に現世の生活のなかで証明ということにかかってきた。しかも現世の生活は自然にして神的秩序にかなったキリスト者の活動の場であると考えられざるを得ない。そのために世界と現世的生活とは信仰の実践に形式と内容を与えるものとしてたしかに高く評価されるようになったし、またここからしてたしかにプロテスタンティズムのパトスは、中世末期の新しい現世的基調やローマ教皇からの国民的離脱とも結びつくことが出来たし、また教会的かつ修道士制的生活秩序からの政治的・社会的解放の要求や、大衆のあらゆる経済的・市民的要求とも結合することができたのであった。さてしかしながらこのようなプロテスタンティズムの現世肯定は、キリスト教の禁欲と彼岸性とを解体させたルネサンスのそれと比較すれば、その本質上およそまったく別物なのである。プロテスタンティズムにおける現世肯定というものはつねにもっとも峻厳なる罪観念と確信不動の来世観とに深くも根ざしている。非キリスト者や未信者はすべてのわるべき放蕩堕罪の存在たること、つまり原罪は、プロテスタンティズムにおいてはカトリック以上に重大なことがらであるし、人生は天国のための試練と苦難と実証の場所であるという見方は、おそらくカトリック以上に強調されている。悪魔・悪霊の存在に対する信仰(Der Teufels-und Dämonenglaube)も従前にその比をみない程に鋭く強調されている。こうした事情のもとでは、被造物のなかに神の栄光をみようとするような態度は、--たとえばパウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt 1607-76)の歌などに内面からの敬虔にして真実な感情として表現されているし、カトリックのなかにも十分みとめられたが、--プロテスタンティズムの現世肯定にはごく稀に現れたにすぎなかった。罪の意識によるキリスト教的悲観主義、キリスト教的来世観、キリスト教的な悪魔の存在に対する信仰、は宗教改革によって高められた。しかも宗教改革が中世的カトリック的世俗化に対立して古代キリスト教を新しく獲得したのは、わけてもこれらの点なのである。高貴な芸術や天与の才能のなかに、また時として自然のなかにすら、神的な特徴がみとめられることがあるとすれば、それはキリスト教的創造観の基底に横たわる楽天主義の光が、かくのごとき罪悪の暗い雲をとおしてもれ輝くときにすぎないのである。とりわけ家族、国家、私有財産、商業、身分社会などあらゆる世俗的・社会的の諸秩序は、確かに理性と自然との表現にはちがいないが、しかしカトリックにおいてと同じく厳密に言えば、罪に汚された自然の表現にすぎない。従って理性の内容は、このような自然のなかにあっては、神の承認と摂理のもとに現世的秩序や規律を樹立することによって、原罪的自己追求に対抗するほかはないのである。これらのすべての事柄は、アウグスティヌスにとってと同様宗教改革にとっても、罪の現実を予想する施設(Stiftungen der Sünde)、いいかえれば罪の存在を前提した上で理性が建設したものであり、罪に対する罰と救済手段なのである。こうした思想の取扱いは、プロテスタンティズムの現世肯定のばあいには、排除されるどころかむしろ強調されているのである。このような事情であるから宗教改革における現世肯定とか現世聖化とかいっても、それは一種特別の性質の事柄なのである。宗教改革は現世的生を、神の言葉にしばられた良心にゆだねられたばかりでなく、現世的生それ自身およびその相対的理性内容にゆだねた関係上、宗教改革が現世を肯定し聖化せんとした意図は、根本的には、現世的生というものを祭司的・僧侶階層的の統治や支配から解放するという点に厳的されているのである。そのために宗教改革のこうした諸制限をついには破ってしまったようないっそう自由にして無拘束的な発展もみられたのであるが、そのような発展の流れは現世的生にとってなんら新しい意味をももたなかったのである。
    --トレルチ(内田芳明訳)『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫、1959年。

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トレルチ(Ernst Troeltsch,1865-1923)を再読しつつ、入力しながら、いっぺえ始めたのですが、頭に入らず(>_<)

今日は、このへんで沈没します。

というか、覚え書き全般を「はてな」に引っ越そうかと思案ちう。

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