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2010年11月

人文学の有効性は批判としての有効性

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 ソクラテスが審問されて裁判官の前で陳述したとき、彼は上級判事に自分を外国人と考えてくれるよう頼みました。彼は外国人ではなかったのですが。アリストテレスは外国の人でしたが、ソクラテスはちがいます。なぜ彼はそんなことをしたのでしょう? おそらく彼は社会的手腕をもって繁栄する支配者の作った世の中に同一化したくなかったのでしょう。もし人文学が資金集めをするだけなら、このような社会の成功者のメンタリティに自分を切り詰めるだけなのです。それではいったいどんな世界を私たちは望んでいるのでしょうか? 人文学の有効性は批判としての有効性なのです。人文学はいかに小さくとも社会に変革をもたらしうるのです。これがそれ自体とても有益なレディングズの見方に私が喰え和えたいことです。そこは、もはや合意のためのコミュニティなど存在する場ではありません。記者会見でも述べましたように、公共的な知識人はもはや政策立案者に向かって語ってはいません。この点で私は愛する友であったエドワード・サイードとも意見が少し違っています。彼はアメリカの人文主義の中に自己を見出し、アメリカの大学を最後のユートピアであると考えていたわけですが。
 私がレディングズに対して真に問題だと思うのでは、次のような現状分析に彼が鈍感なことです。私はいまでもジェンダーの仕事と女を同一視する人たちに次々と出会います。そんな人たちは、この大学にはいまや多くの女性がいるのだから、ジェンダー研究への関心もあるだろうなどと言います。そうした考えはもう捨てなくてはならないと私は思います。
 カントと反省的判断については私の本『ポストコロニアル理性批判』を参照してください--そこで私は、自分の見るところその反省的判断が排除しているものを指摘しています。
    --G.C.スピヴァク(本橋哲也訳)「人文学における学問的アクティヴィズム」、(鵜飼哲監修 本橋哲也・新田啓子・竹村和子・中井亜佐子訳)『スピヴァク、日本で語る』みすず書房、2009年、46-47頁。

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月曜は短大で哲学の講義があるので、前日は早く寝るべきなのですが、市井の仕事が済んで深夜に帰宅してから、ひといきついて……、それから賢者とこ1時間ばかり電話会議をしているとすっかり、早朝w

さくっと2時間だけ寝てから、準備して大学へ向かいましたが、通信教育部の先の秋期スクーリングで担当させて戴いた学生さんが、

「月曜は、大学で聴講しているんで・・・」

……と話を伺っておりましたので、

「授業前に少し時間ありますから・・・」

……という具合で、

大学についてから、少しの時間だけ、カフェテリアにてお茶。
※ もう少し早めに自宅を出るべきでした、すいましぇん。

哲学に興味があるということで、学部の授業を聴講されたり、自分で研さんを進めているということで、短い時間でしたが、かな~り、濃い話をできたことが幸いです。

「哲学とは何か」というアリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の定義から始まって、エックハルト(Meister Eckhart,1260?-1328?)に寄り道して、最後は正義論を支える形而上的問題へ。

また、時間のあるときにセッションしましょうw

そんでもって授業を全力投球してから・・・

このところ定番の「懇談会」?

細かい議論は措きますが、宗教をめぐる学生さんの素朴な質問と、これまたこ1時間ばかり対話。

別に何を示唆したり、答えを提示したわけではありません。
しかし、いろんなひとびとと言葉をかわすなかで、現状に対する違和感というものをそのまま放置してしまうとトンデモナイことになってしまうなアというところは至極実感した次第です。

まあ、だからこそ、世に抗ってきた哲学の伝統?をきちんと、共々に丁寧に学んでいかなければならないということも同時に実感。

いや、まじで、来年度あたりから、大学というようなアカデミズムという枠組みにとらわれず、勉強会とか読書会というような場をつくっていかなきゃまじでやべえなというのを実感した次第です。

つうことで、今日は早々に沈没します。

何しろ、寝不足+脳みそフル活動+(済んでからの)市井の職場で労務者⇒ヘロヘロ、ということで、細君が買っておいてくれた『出羽櫻 誠醸辛口』(出羽櫻酒造(株)、山形県)でいっぺえやりながら寝ます。

アテは、尊敬する大先輩のジャーナリスト・作家の東晋平先生おすすめの、「フライパンでソフトさきイカをサラダ油で軽く炒めると美味。アツアツを七味マヨネーズで」というのを作ってみました!

生憎、ヘロヘロでしたので記憶違いにて、皮付きさきいかでやったのですが、いやはや、マジで乙です。

油を変えて……オリーブオイルや胡麻油等々……やってもいけそうですネ

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「まったく書かれなかったものを読む」。

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 「まったく書かれなかったものを読む」。この読み方が最古の読み方なのだ。つまり、それはすべての言語に先立つ読み方であり、内臓から、星座から、あるいは踊りから読みとることだ。のちになって、ひとつの新しい読み方の媒介肢が使われるようになった。すなわちルーネ文字と象形文字である。それらが中継の宿駅となり、かつて神秘術(オクルト)の実践の基盤であったあの模倣の能力は、この駅を経由して書字と言語のなかへ入りこんでゆくこととなったのだという仮説は、いまや容易に理解しうるものとなる。このように言語は、模倣的な行動の最高段階であり、非感性的な類似のもっとも完璧な記録収蔵庫だと言えよう。つまりそれはひとつの媒質(メーデイウム)であって、模倣的な表出と理解とにかかる昔日の力は、残りなくこの媒質のうちへ流れこみ、ついにそれらの力は魔術的な力を清算するにいたるのだ。
    --W・ベンヤミン(佐藤康彦訳)「模倣の能力について」、久野収・佐藤康彦編集解説『ヴァルター・ベンヤミン著作集3 言語と社会』晶文社、1981年。

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最近、ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin,1892-1940)を読むことが多いのですが、まさにこころだろうなと胃の腑をぎゅっとつかまれた一文に出会いましたので残しておきます。

ちょうど、今日の講義では、「なんで良書を読む必要があるのか」という問題を1コマかけて講じ、最後に、「詩心の復権」へと授業を進めようと考えていたのですが、前者に注目すれば、人類の知的遺産としての古典名著を読まなければならないことはいうまでもありません(細かい理由は今日は措きます)。

そして後者に即すれば、自然の中で、人間のなかで、そして社会の中で、「読んでいく」その完成が必要不可欠だろうというところ。しかし、これは決して「空気を読む」とは違いますぜ。

言葉にならない感覚や、事件を「言葉」に転換していく。

そこなんだよなぁ。

などと思いつつ……もうこんな時間なので、サクッと呑んで沈没しようと思います。

いやしかし、大切なことは何か。

「詩心の復権」ですよ。

私には「詩心」はありましぇんけれども(苦笑

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「文化的自覚の必要性」

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文化庁「第8回国際文化フォーラム」東京セッション 「東アジアにおける文化の多様性」
日本においても世界においても重要な地域となる東アジアに向けた政府の積極的な取り組みがなされているが、東アジアは欧州とは異なり、多様な宗教や文化が存在し、経済発展段階もまちまちである。本セッションでは、日中韓の有識者に加え、ASEAN東郷を推進している連合事務局の代表、欧米の有識者を招き、日中韓における文化交流の取り組みやASEANの経験を振り返り、また欧米の視点も交えながら、文化の多様性を活かしつつ東アジアにおける文化交流のより積極的な発展をめざし、東アジア地域の連携をますます深めていくために何が必要であり、21世紀に入ってから映画、音楽、ファッション等を通じて東アジアの現代文化圏の形成が進む中で、各国が、日本が、何を行っていくべきか議論する。

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11月27日、錦秋の上野にて開催されました文化庁の「第8回国際フォーラム」に参加しましたが、内外の著名な研究者が集まったのですけれども、各人の魅力が引き出せず、少し消化不足のような感……。

少しノートをのっていたので、それだけは残しておきましょう。

文化の多様性と独自性の調和をめぐる議論のなかで、パネリストの北京大学の王暁秋先生が語っていたことを少し残しておきます。

出発点は、「文化的自覚の必要性」
1:自らを知る
2:他人を知る
3:知恵を持って交流(with理性的な寛容の態度が必要)

基本中の基本なのですが、これがなかなかできていないのが現状かもしれません。

しかしながら、ハーバードのヌール・ヤルマン(Nur Yalman)先生が、「これは〝歴史の終わり〟(フランシス・フクヤマ)ではなく、〝歴史の始まり〟、そしてソフト・パワーの重要性」と最後に語っていたことは印象的。

諸文化間の衝突や対立といったものが、政治的に為にする議論として流通し、どこかの誰かに利益誘導されている感は現実には確かに存在しますが、諦めることなく穿っていくしかありませんね。

……ということで、13:30-17:30まで、休憩を一回挟んで、座りっぱなしでしたので、さすがに疲れました。

……ということで、三鷹へ移動して懇親会。
大学受験を目指す若き俊英(成人)と一献です。

少し社会経験のある人間が大学へ入り、そこから学問の基礎をたたき直していき、ひとびとと共に高嶺を目指していく……。

スバラシイですね。

こういう営みが必ず時代を転換すると思います。

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【覚え書】吉田健一 現代ヨーロッパ政治の根拠

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 もともと政治の対象は人間であって観念ではない。しかしもしフランス革命を十九世紀の始まりと見るならば。その経緯でも解る通り、十九世紀には、観念、それも当面の問題と必ずしも関係がある訳ではない純粋の観念を目標に掲げてそれで人間を動かすことが出来た。フランス革命の場合はそれが自由、平等、博愛の三つであって、当時の政治情勢に即してフランスにとって必要だったのはそういう観念よりも既に実力を失った国王、貴族、僧侶の権力を名目の上でも削減し、経済力と隣国との友好関係の回復を図ることで、政治の常識からすればもしそういう政策が取られれば国民がそれに付いて来るはずだった。しかし自由、平等、博愛が決して空念仏でなかったのはマルセイエェズの国歌の文句を今日読んで解ることで、これは観念で政治をするという長続きするかしないかは別として画期的な役割をヨオロッパで率先してフランスが果たしたということであり、ナポレオン自身が後に帝位に即こうと、あるいは彼が共和国を作ったのと同じ無造作な具合にやがて幾つもの王国を始めることになったのだろうと彼が実際にしたことは、これもカアライルが指摘している通り、彼の天才の破壊力を用いて平等の観念の延長である万人に立身の道をという原則をヨオロッパ全土に亙って広めることだった。
 しかしそれを建設的な仕事と称する前に考える必要がある。そうして誰もが身を立てるのになくてもいい障碍に妨げられないですむというのはそういう障碍があるのよりも増しなことなのに違いないが、その先で一人の人間が身を立てるのが本当なのでこれは事情がどうだろうと何かの障碍を乗り越えてのことであり、そうするのに余計なことに邪魔されなかったというのはその人間に与えられた条件の一つ、それもそれほど大きなものでない条件の一つに過ぎず、やがてはその種類の邪魔がないというのが単なる常識になって終る。そこに一つの観念に奉仕すること、従ってまた、観念で政治をすることの限界があって、その観念が普遍的なものであることはそれがどのような観念であっても、その凡てを含み、またその根源でもある人間の観念の複雑さを置き換えるに至らなくて、その観念が神や仏である時にはそこに信仰の劇が約束されていても、そうでなくて一つの観念が普及し、確認されることは人間の条件の一つが一般に受け入れられたということに止り、人間の劇が始まるのはその後、あるいはそれと無関係にである。
 それでも政治家がそうした原則が前提になっての言説をなし、こえが前提になっているということで政治が行われるのは十九世紀のヨオロッパになってからのことで、それは今日まで続き、我々も何々主義とか三大原則とか四大原則とかいうことを聞かされるのに馴れている。確かに十九世紀のフランスの政治家であるギゾやティエェルはまだフランスの栄光を讃えるということをしたが、それはフランス革命ということに結び付けてであり、フランス革命は自由、平等、博愛の勝利だったので、それを思う時に十九世紀のヨオロッパというものの退屈が漸く我々にも身近に感じられて来る。その自由、平等、博愛はそれが犯されればそれを防がなければならないもので、そうでなければそれは空気も同然であり、それが解っていてもその観念のために血が流され、国が危殆に瀕し、またその挙句に国がヨオロッパに君臨することにもなったのならばやはり自由、平等と唱える必要があって、ここにもヨオロッパがヨオロッパでなくなることにその面目を賭けた跡が窺える。
    --吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年。

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【覚え書】一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度

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 一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度は、宗教の基本性格たる絶対性によって示されるであろう。宗教的絶対者は、対立の地平たる相対性を底へと超えることによって、対立を絶し、対立するもの同士をそこから包みささえるのである。
 宗教信仰がわれわれ人間の信仰であるかぎり、たといどのように絶対性を主張しようとも、相対性を脱することはできない。
 これを原理的に否定して、事故の信仰を絶対主義化しようとするなら、それはかえって自己を相対性の地平におとすことであり、そして同時に自己を魔的(デモーニッシュ)なものにすることである。自己を絶対主義化することは、自己と対立する他者を力によって葬ろうとすることになり、それは最も相対的な態度である。力は、他と相対立する地平においてのみ発動されるものだからである。
 人間が自己を魔的なありかたから解放し、有限性の自覚に立つなら、かならずや他の宗教信仰に対して成立の可能性を認め、それに対する理解を与えられるように努めなければならない。そこにおいて宗教と宗教との間の対話が可能となるのである。
 ところで、対話は読んで字のごとく、「対」立する者同士の間での話し合いである。それは対立を無くしてしまうことではない。対立が無くなれば、対話の必要もなくなる。ここにシンクレティズムとの相違が明らかとなる。
 宗教が混合してしまえば、対話もなくなる。対話が宗教的絶対性から示される態度であるとするなら、それは対立の地平たる相対性によって媒介されているのである。対立によって媒介された絶対性こそ、「対立を絶する」ものとしての真の絶対性である。
 自己の相対化を避けようとして逃げこむ「混合」は、まだ真の絶対性ではない。自己の信仰と他の信仰とが対立することを素直に認め、しかもその対立の地平を底から包みささえるような絶対者を仰ぐ態度こそ、シンクレティズムから区別される対話の態度である。宗教と宗教との間の対話は、対立を背後からささえる絶対者に見守られるとき、始めて可能となる。

 以上において、取るべき正しい態度として他宗教との対話を明らかにしたが、しかし、それで尽きるのではない。そもそも対話という概念自体が、対立する者同士の話し合いであるから、対話の主体は必ず自己自身の信仰的立場を確固として持っていなければならない。それは他宗教では「ない」という明確な立場でなければならない。
 従って、他宗教と対立することをもあえていとわないような立場でなければならない。それをもって他宗教との対話にはいるのである。今は対話にはいること自体が重大な意味をもつ段階であって、対話の結果どのような結論が出るかについて考えるかは次の段階である。
 さてそれならば、われわれはどのような宗教を自己の立場として選び取るべきであろうか。それは以上に述べられたような、真実の絶対性に即していると判断される宗教である。これは当然のことであろう。
 宗教信仰の基本性格が絶対性であるとするなら、信仰の決断はそのような絶対性に即している宗教へと向けられるのは当然である。そして、そのようにして選び取られた宗教は、自己の立場に確固として立つと同時に、自己を絶対主義化することなく、他宗教との対話にはいることを可能にしてくれるのである。
 私が選び取ったのは「神の痛み」の立場である。(拙著『神の痛みの神学』参照)。「痛み」における神は、自己と対立するものを自己の内に含む神である。痛みとは、このときの「包む愛」のもつ基本性格である。もし愛が、本来包まれ得るものを包むにすぎないなら、その愛は痛みの性格をもたなくてすむであろう。いわゆる「苦もなく」可能な愛である。また愛が本来包まれ得ないものと対立するにすぎず、その極それを自己の外へと排除するだけであるなら、その愛もまた痛みの性格をもたなくてすむであろう。前者は混合主義(シンクレティズム)へ傾き、後者は闘争へと傾く。
 

    --北森嘉蔵「他宗教への態度」、『日本のキリスト教』創文社、昭和四十一年。

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すんません。
ちょいといろいろと考えて言及したいところですが、コメンタリーする余裕がなく、入力してのみ沈没します。

非常勤講師というウンコのような存在ですが、何気に忙しいわけではあるわけヨ(苦笑

つうことで、すいましぇんw

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どこでどう転ぶのか、それとも「絡め取られてゆく」ことを徹底的に避けながら挑戦していくことができるのか。

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理想の共同体を求めて
 大正期はこうした思想の影響の下に、生命主義・人格主義の流行から宗教的な修練への関心が高まった。また、農民の生活に根ざそうとするトルストイの影響などもあって、単なる理論ではなく、理想の宗教的共同体を作ろうという実践的で理想気的な運動が起こった。その代表的なものとして伊藤証信の無我苑や西田天香の一灯園を挙げることができる。伊藤証信(一八七六-一九六三)は真宗大谷派の出身であったが脱宗し、明治三八は年(一九〇五)東京巣鴨に無我苑を開いて無我愛を説き、経済学者の河上肇らが共鳴して加わった。それは一年足らずで閉じたが、その後も同じような運動を繰り返した。西田天香(一八七二-一九六八)は特定の宗教にはよらずに、絶対平等で生存競争を否定した共同体をめざして、明治三八年に一灯園を開いた。それは共産主義や労働運動の高揚におびえる中間層や支配層の指示も得て、昭和初期に大きく発展した。しかし、伊藤証信も西田天香も国家主義の方向を強め、戦争協力に走ることとなった。武者小路実篤が大正七年(一九一八)にはじめた「新しき村」の運動もまた、一灯園と似たところがある。
 こうして大正期を中心に新しい可能性を秘めた宗教運動が転回した。時代は表面的な平和と安定のうちに、社会的な不均衡はますますひどくなり、第一次世界大戦を機に大陸への軍事的進出が進められた。関東大震災(一九二三)を経て、大正も終わりに近づいた一四年(一九二五)に大正デモクラシーの成果として実現した普通選挙法は、治安維持法と引き換えであり、昭和の国家主義と戦争の時代へまっしぐらに進んでいく。その中で、宗教もまた翻弄され、天皇主義の虚構された<古層>の中にすべて絡め取られてゆくことになる。
    --末木文美士『日本宗教史』岩波新書、2006年、208-209頁。

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理想主義をあざ笑うことはしませんが、まあ、ここですヨ。
どこでどう転ぶのか、それとも「絡め取られてゆく」ことを徹底的に避けながら挑戦していくことができるのか。

吉野作造(1878-1933)研究の関係で明治から昭和にかけて文献を紐解くことが一番多いのですが、創造の混沌が明治期であるとすれば、大正期は展開の時期でしょう。

そして昭和は挫折と破算の時代と思想史を見ることも可能でしょう。
まあ、これも無数にあるものの見方のうちのそのひとつにすぎませんけれども。

さて……。
大正時代というのは確かに展開の時期であることは確かなんです。

煩悶の青年・藤村操(1886-1903)が創業期としての明治の終焉を予告し、日露戦争の終結は日比谷焼打事件をもって新しい時代が到来したことを世に告げた。

憲政史・民主運動における足跡の検証は多々ありませんので、その展開には言及しませんが、思想・宗教運動の分野においても数々の展開があったことは事実です。
※近現代宗教史では、やはり明治と昭和の分野での研究が圧倒的に多いのですけれども。

まず、明治末期に、1912年2月25日の「三教会同」によって、)仏教、神道のみ公認教という認識が改められ、キリスト教も公認教の扱いとなります。これによって大手の宗教団体は制度宗教として着地します。
※もちろん大日本帝国憲法でも信教の自由は認められておりますし、キリスト教・禁教の高札ははやい時期に撤去されておりますが、それでも「日陰者」扱いされていたのは事実であり、この会同によって確固たる地位を保証されたと見ることは可能です。
※ちなみに無教会の内村鑑三(1861-1930)、組合教会の柏木義円(1860-1938)はこの三教会同に反対しました。

しかし完成というものはそこからの解体というものを招くというのがひとつの筋道です。ですからここから様々な、新しい運動、逸脱の試みというものが出てくるという寸法です。

先に言及した内村は、無教会運動の枠組みから再臨運動へとコマを進め、柏木にしても、朝鮮伝道反対・軍部批判というかたちで教団当局から大きく離れていきますし、そうしたビッグネームにかぎらずとも、いわば教会の外に理想や救いを見出す運動というものが出てきます。

そしてそれを思想的に加速させたのが大正生命主義というやつでしょう。

「祈り」や「救い」という「信仰」形態にとらわれず、理想を探求する宗教「的」な運動というものもどんどん出てきます。一灯園や無我苑の試みもそうですし、「新しき村」の挑戦もそもひとつです。

しかし、だいたいこれが失敗してしまう。

そして、失敗するどころか、こともあろうに、そのほとんどが「国家主義の方向を強め、戦争協力に走ること」になってしまう。

ここに理想的なるものを地上に実現させることがどのようにすれば可能なのかという問題における徹底的な探求があるのかないのかという分岐点があるように思われます。

吉野作造は後者といってよいでしょうし、国家主義への抵抗の末、「叩きつぶされた」人々も存在しますが、こうした事例を対比していくと、国家やイデオロギー、団体に「頼らない」実現の試みというものの特徴を抽出することが出来るのかも知れません。

……ということで、はてなへの引っ越しを目論み、いろいろといじくっていたのですが、なかなかできずでorz。

……と考えても始まらないので、とりあえず今日はとっとと呑んで寝ることにいたします。

でわ☆

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【覚え書】修道士制度と功績主義的な業(Überverdienstliche werke)とを除去したプロテスタンティズム

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 ところが両者の対立がなおいっそう顕著になるのは現世肯定の倫理についてである。プロテスタンティズムのばあいにはこの倫理は修道士制度と功績主義的な業(Überverdienstliche werke)とを除去したことから生ずるのであり、従ってまたあらゆる信者にとって信仰が精神的かつ内面的な性質を帯びるに至ったことの結果である。宗教的な行為は神のことばに献身する信頼にみちた個人的な心的態度以外のものではなく、しかも万人に対して平等に要求される。だとすると功績主義的な業という思想や特別の宗教的立場というものは全然ありえないわけである。ところでこうしたものがないとすれば、すべては一様に現世の生活のなかで証明ということにかかってきた。しかも現世の生活は自然にして神的秩序にかなったキリスト者の活動の場であると考えられざるを得ない。そのために世界と現世的生活とは信仰の実践に形式と内容を与えるものとしてたしかに高く評価されるようになったし、またここからしてたしかにプロテスタンティズムのパトスは、中世末期の新しい現世的基調やローマ教皇からの国民的離脱とも結びつくことが出来たし、また教会的かつ修道士制的生活秩序からの政治的・社会的解放の要求や、大衆のあらゆる経済的・市民的要求とも結合することができたのであった。さてしかしながらこのようなプロテスタンティズムの現世肯定は、キリスト教の禁欲と彼岸性とを解体させたルネサンスのそれと比較すれば、その本質上およそまったく別物なのである。プロテスタンティズムにおける現世肯定というものはつねにもっとも峻厳なる罪観念と確信不動の来世観とに深くも根ざしている。非キリスト者や未信者はすべてのわるべき放蕩堕罪の存在たること、つまり原罪は、プロテスタンティズムにおいてはカトリック以上に重大なことがらであるし、人生は天国のための試練と苦難と実証の場所であるという見方は、おそらくカトリック以上に強調されている。悪魔・悪霊の存在に対する信仰(Der Teufels-und Dämonenglaube)も従前にその比をみない程に鋭く強調されている。こうした事情のもとでは、被造物のなかに神の栄光をみようとするような態度は、--たとえばパウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt 1607-76)の歌などに内面からの敬虔にして真実な感情として表現されているし、カトリックのなかにも十分みとめられたが、--プロテスタンティズムの現世肯定にはごく稀に現れたにすぎなかった。罪の意識によるキリスト教的悲観主義、キリスト教的来世観、キリスト教的な悪魔の存在に対する信仰、は宗教改革によって高められた。しかも宗教改革が中世的カトリック的世俗化に対立して古代キリスト教を新しく獲得したのは、わけてもこれらの点なのである。高貴な芸術や天与の才能のなかに、また時として自然のなかにすら、神的な特徴がみとめられることがあるとすれば、それはキリスト教的創造観の基底に横たわる楽天主義の光が、かくのごとき罪悪の暗い雲をとおしてもれ輝くときにすぎないのである。とりわけ家族、国家、私有財産、商業、身分社会などあらゆる世俗的・社会的の諸秩序は、確かに理性と自然との表現にはちがいないが、しかしカトリックにおいてと同じく厳密に言えば、罪に汚された自然の表現にすぎない。従って理性の内容は、このような自然のなかにあっては、神の承認と摂理のもとに現世的秩序や規律を樹立することによって、原罪的自己追求に対抗するほかはないのである。これらのすべての事柄は、アウグスティヌスにとってと同様宗教改革にとっても、罪の現実を予想する施設(Stiftungen der Sünde)、いいかえれば罪の存在を前提した上で理性が建設したものであり、罪に対する罰と救済手段なのである。こうした思想の取扱いは、プロテスタンティズムの現世肯定のばあいには、排除されるどころかむしろ強調されているのである。このような事情であるから宗教改革における現世肯定とか現世聖化とかいっても、それは一種特別の性質の事柄なのである。宗教改革は現世的生を、神の言葉にしばられた良心にゆだねられたばかりでなく、現世的生それ自身およびその相対的理性内容にゆだねた関係上、宗教改革が現世を肯定し聖化せんとした意図は、根本的には、現世的生というものを祭司的・僧侶階層的の統治や支配から解放するという点に厳的されているのである。そのために宗教改革のこうした諸制限をついには破ってしまったようないっそう自由にして無拘束的な発展もみられたのであるが、そのような発展の流れは現世的生にとってなんら新しい意味をももたなかったのである。
    --トレルチ(内田芳明訳)『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫、1959年。

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トレルチ(Ernst Troeltsch,1865-1923)を再読しつつ、入力しながら、いっぺえ始めたのですが、頭に入らず(>_<)

今日は、このへんで沈没します。

というか、覚え書き全般を「はてな」に引っ越そうかと思案ちう。

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実のところ「それ以上」でも「それ以下」でもありません。しかし、「それ以上」でも「それ以下」でもないからこそ、ふつうに流通しているよりは、その実相はあるかに難しい

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 ある人間が、他人に一杯のお茶を供するということは、それほど容易な事柄ではない。ある婦人が私に一杯のお茶を出す場合、彼女は自分のティーポットやティーセットを見せびらかしているのかもしれない。彼女は、私をいい気分にさせて、私から何かを得ようとしているのかもしれない。彼女は、私が彼女を好きになるように仕向けていることだってありうる。彼女は、他者たちに歯向かうという彼女自身の目的のために、私を味方に引き入れようとしていることもありうる。彼女が、ティーポットからお茶をカップにつぎ、受け皿つきのカップを持ったその手を無造作に突きつけるため、負担にならないように二秒以内に私がすばやくそれに手を貸さなければならない、というような事態が起きるかもしれない。その行動は、機械的なものであって、そこには私に対する認知がひとかけらも存在していないといっていい。一杯のお茶が私に手渡されたけれども、私に一杯のお茶が供せられることはなかったといえるのである。
    --R.D.レイン(志貴春彦・笠原嘉訳)『自己と他者』みすず書房、1975年。

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人間が特に「わたしが誰かのために何かをする」という事態は、ありふれたものでどこにでも転がっておりますが、実のところ「それ以上」でも「それ以下」でもありません。しかし、「それ以上」でも「それ以下」でもないからこそ、ふつうに流通しているよりは、その実相ははるかに難しいのかもしれません。

ではどのへんが難しいのでしょうか。
その理由のひとつはまさに「誰かのために」というリアルな対象が存在するからなのでしょう。

ごく身近に存在する他者と向かい合って、理解をもとめ言葉を交わすことがあります。しかし交わせば交わすほど、その当の他者がだんだんと自己自身から遠ざかっていき、それと同時に自己自身の中になにか薄暗い靄のようなものが立ち上がってくることも同じように日常生活のなかではたわいのない光景の一つです。

またそれとは逆に、他者とすこし距離おいてみると、不思議なことに穏やかな気持ちに包まれ、なんとなく思いやりが出てくるのも人情です。そうしたところを振り返ってみると、その関係が別に恋人関係でない場合でも、面と向かい合ってしまうと逆に心がかき乱されて、余裕がなくなり、神経質になってしまうこともあります。

まさにショウペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788-1860)の喩え「ハリネズミのジレンマ」というのは、単なる絵物語とか教訓ではなく、人間関係においてふんだんに現前するあり方なのかもしれません。

他者と連帯としいという欲求と、他者と連帯してしまう困難、この両者の関係性のなかで、まさに<わたし>が問題になり<あなた>が問題になってくるのでしょう。

これはおそらく<わたし>(その裏返しとしての<あなた>)も、もともと他者との関係のなかでしか<わたし>にならないし、<あなた>にならないという事態を反映しているのであって、実のところ、ア・プリオリに現前している<わたし>も存在しているのではないし、<あなた>も存在しているわけではないのだと思います。

そもそも<わたし>自身が四六時中<わたし>を意識しているわけでもなく、つよく意識しているときと、まったく意識していないただなかがその生活の現実です。

ひとは、おそらく、「それ以上」でも「それ以下」でもないという「取るに足らない」日常と向かい合いながら、意識しているにせよしていないにせよ、自己を点検し、そして他者と向かい合っているんだよなア~と、思いつつ、昨日の授業はきつかったです(>_<)

とっとと寝てから、快調に出講しようと思いきや、布団に入っても眠れず、結局1時間しか眠れず大学へ向かい哲学の講義をしていきたわけですが、、、いやはや、無理の利かなくなってきたことを自覚した宇治家参去です。

さて……。
授業の方は無事に終了しましたが、終了後、昨年度の履修生が数名、尋ねてきてくださり、こ1時間ほど、しばし懇談。

皆さん、大変ななか、それぞれ奮闘している様子を伺い、「おはなしを伺う」というスタイルでしたが、実のところ「こちらが励まされた」というところです(苦笑

それぞれの状況の中で、他者との共同生活の中で苦闘しているわけですが、ひとりひとりがもっとも善い方向へスライドしていけるように祈るばかりです。

いやはや、しかしながら、私の存在を忘れてくださってないことに感謝です。

また、時間があればどうぞいらっしゃってくださいましw

しかし、懇談終了後、そのまま市井の職場へ出勤して仕事という強行軍にもかかわらず、朝からドーナツ1つ、プリン一つという状況でしたので、仕事が済んでからまたしてもひとり慰労会。

六角黒豚山鍋が旨かったw

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コミュニケーションを行うことは、旅をし、翻訳を行い、交換を行うことである

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 具体的現実に戻るならば、または意味の流れにもぐり込むならば、コミュニケーションを行うことは、旅をし、翻訳を行い、交換を行うことである。つまり、<他者>の場所へ移行することであり、秩序破壊的というより横断的である異説(ヴェルシオン)〔異本〕として<他者>の言葉を引受けることであり、担保によって保証された品物をお互いに取引きすることである。ここにはヘルメス、すなわち道路と四つ辻の神、メッセージと商人の神がいる。
    --ミシェル・セール(豊田彰・青木研二訳)『コミュニケーション <ヘルメスI>』法政大学出版局、1985年。

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先程から読み始めるけれども、体調がよくないのかしら??

頭に入ってこず・・・orz

今日はさっと寝ます(涙

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Book ヘルメス〈3〉翻訳 (叢書・ウニベルシタス)

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今日は少しこの世のことについてお話しいたそうと欲(おも)います。

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 曠野(あれの)と湿潤(うるおい)なき地とは楽しみ、
 砂漠は歓びて番紅(さふらん)のごとくに咲かん
 盛(さかん)に咲(はなさ)きて歓ばん、
 喜びかつ歌わん、
 レバノンの栄えはこれに与えられん、
 カルメルとシャロンの美しきとはこれに授けられん、
 彼らはエホバの栄を見ん、
 我らの神の美わしきを視(み)ん。
      (イザヤ書三五章一-二節)

 今日は少しこの世のことについてお話しいたそうと欲(おも)います。
 デンマークは欧洲北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当たらない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足らないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。
 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国はけっして侮るべらかざる国であることがわかります。この国の面積と人工とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてはあるかに日本以上であります。その一例を挙げれますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当たるのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに、デンマークはたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるのだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。
 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼等が国外に多くの領地をもっているからではありません、彼等はもちろん広きグリーンランドをもちます。しかし北氷洋の氷のなかにあるこの領土の経済上はほとんど何の価値もないことは何人も知っております。彼らはまたその面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスランドをもちます。しかしその名を聞いてその国の富饒(ふによう)の土地でないことはすぐにわかります。ほかにわずかに鳥毛(とりのけ)を産するファロー島があります。またやや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります。これ確かに富の源でありますが、しかし経済上収支相償うこと尠(すくな)きがゆえに、かつてはこれを米国に売却せんとの計画もあったくらいであります。ゆえにデンマークの富源といいまして、別に本国以外にあるのでありません。人口一人に対し世界第一の富を彼らに供せしその富源はわが九州大のデンマーク本国においてあるのであります。
 しかるにこのデンマーク本国が決して富饒の地と称すべきでないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹くものがあるのではありません。デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅と白樺との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。トーヴァルセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃し、アンデルセンを出して近世お伽話の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛の産をもって立つ小にして静かなる国であります。
 しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能はず、デッペルの一戦に北軍敗れてふたたび起(た)つ能わざるにいたりました。デンマークは和を乞いました、しかして敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかしデンマークはこれがために窮困の極に達しました。もとより多くもない領土、しかもその最良の部分を持ち去られたのであります。いかにして国運を恢復せんか、いかにして敗北の大損害を償わんか、これこの時にあたりデンマークの愛国者がその脳漿(のうしょう)を絞って考えし問題でありました。国は小さく、民は尠く、しかして残りし土地に荒漠多しという状態(ありさま)でありました。国民の精力はかかるときに試さるるのであります。戦いは敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値(ねうち)は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます。国威宣揚にともなう事業の発展はどんあつまらない実業家にもできます、難いのは敗戦国の戦後の経営であります。国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に破れない民が真に偉大なる民であります、宗教といい信仰といい、国運興隆のときにはなんの必要もないのであります。しかしながら国に幽暗(くらき)の臨みしときに精神の光が必要になるのであります。国の興ると亡ぶるとはこのときに定まるのであります。どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これに打ち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。あたかも疾病(やまい)の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常(ふだん)のときには弱い人も強い人と違いません。疾病に罹(かか)って弱い人は斃(たお)れて強い人は存るのであります。そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は尽きてそのときなお起るの精力を蓄うるものであります。これはまことに国民の試練の時であります。このときに亡びないで、彼らの運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。
 越王勾践呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。帰りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶に対して「否」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに彼らのなか一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガス(Enrico Mylius Dalgas)といいまして、フランス種のデンマーク人でありました。

(中略)

 ダルガスの他の事業については私は今ここに語るの時をもちません。彼はいかにして砂地を田園に化せしか、いかにして沼地の水を排(はら)いしか、いかにして磽地(いしじ)を拓いて果園を作りしか、これ植林に劣らぬ面白き物語であります。これれらの問題に興味を有せらるる諸君はじかに私についてお尋ねを願います。

 * * * *

 今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。
 第一に敗戦かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠くないのであります。国の光芒は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否、その正反対が事実であります。牢固たる精神ありて敗戦はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。
 第二は天然の無限的生産力を示します。富は大陸にもあります。島嶼にもあります。沃野にもあります、砂漠にもあります。大陸の主からずしも富者ではありません。小島の所有かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝さるの産を産するのであります。ゆえに国の小なるはけっして歎くに足りません。これに対して国の大なるはけっして誇るに足りません。富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤(なみ)にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく富源であります。かならずしも英国のごとく世界の陸面の六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマークで足ります。然り、それよりも小なる国で足ります。外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。
 第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません。軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません。信仰であります。
    --内村鑑三「デンマルク国の話」、内村鑑三(鈴木俊郎解説)『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波文庫、1976年。

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忙しくて時間がないので覚え書をひとつ。

くたばれ、国民国家主義者ども。

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やることが多くて・・・

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 我々の宗教生活は、信仰に於て絶対と一になるものであるから、其の間に外部的強制を容るる余地が無い。我々は神に絶対に服従する。けれども我々は同時に自ら神となるのである。此の境地に於ける我々の団体生活は、又無強制の生活でなければならない。此の生活に於て我々は矢張り神を崇める。けれども神を我々の支配者として見るのではない。何故ならば、此の絶対的状態に於ては支配服従の関係を認めないからである。併しながら支配服従の関係を認めないといふことは、決して神を蔑すといふことではない、神が我々の生活の中心であるといふことは固より言ふまでもない。……これが実に又我々の国家生活の理想を示すものではあるまいか。
    --吉野作造、「国家と教会」、『新人』一九一九年九月。

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12月に刊行予定の研究所の紀要に論文を載せる予定なのですが、その初校がようやく届いておりました。

月曜日までに校閲して返却しなきゃならないんですが、やることが多くて遅々としてすすまず。

まあ、起きてからやるか。

02 03

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【覚え書】ベラー『徳川時代の宗教』から引きずっている問題

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 ヨーロッパでは、キリスト教は、大抵、「現実世界」の競争から著しい圧力を受けている個人を「落ち着かせる」療法の形式となっている(これは、日常生活に深く根差している非キリスト教的側面に挑むよりも、むしろこの側面を支えることにもなっている、ともいえる)。
 日本では、これと同じように、宗教は、大抵、日本人の生活の競争の圧力から審美的(エスセティック)に逃避させている。(われわれが本当に認めざるを得ないのは、現代、日本宗教を社会心理学的に「利用する」方が、十九世紀末や二十世紀初頭、軍国主義的・民族主義的国家を形成するさいに宗教--とくに神道や儒教--を操ったよりも、ましであることだ。)
 宗教の機能する過程、つまり究極的目的の世界を手段の地位にひきおろしてしまう過程をば、逆転させることは、どんな意味をもっているのだろうか。宗教が目的を設定するとは、どのようなことなのであろうか、つまり、目的の地位を奪ってしまった手段--富と権力--が、再び手段の地位に戻るとは、どのようなことであろうか。このような変化は「近代化」の一形式であろうか、それとも、近代化が一種の限界に達し、それ自信に内在する自己破壊が徹底した様を示すのであろうか。
 このような問いは、今日、愚問であるとして一笑に付すことができるものではない。思慮深い人は、最近「成長には限界がない」というある有名なアメリカ人にほとんど同意しない。いくら考慮しても、経済成長では、人生の意味を問い、この問いに答えるのに、一定の限界がある。われわれは、魔法使いの弟子のようなものである。われわれの解放したものは、自分らが抑制出来ないものとなっている。日本ほど、こういう状態になっている国はない。たしかに、日本の伝統にはこれに代り得るものが多くある。だが、行政管理社会の構造を打破し、われわれに他の道を示す強さと勇気ある人々が現われるかどうか、見守る必要がある。
    --R.N.ベラー(池田昭訳)「ペーパーバック版まえがき」、『徳川時代の宗教』岩波文庫、1996年。

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にがい 夜明けの 朝もやのように

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ウェルカム上海
作詞:串田和美
作曲 越部信義

あの時 貴方 来てました
ラストナイト
だから 声かけて あげましょうね
ウェルカム シャンハイ
ウェルカム シャンハイ
朝には 消える 思い出の上海

恋は燃え 愛のときめき
冒険もまた熱い涙
ああ、夢が多すぎる
にがい 葉巻の 煙のように
幻の〝ウィ・マダム〟心の上海

いつか 貴方 来るでしょ
ラストナイト
だから 声かけて あげましょね
ウェルカム シャンハイ
ウェルカム シャンハイ
いつか 見たよな 忘れた上海

愛は消え 血は凍り
踊る心も 過ぎた時
ああ、夢が多すぎる
にがい 夜明けの 朝もやのように
幻の〝ウィ・ムッシュ〟心の上海

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http://www.youtube.com/watch?v=4k17u-TXqVw

http://www.youtube.com/watch?v=y_NYuZi7xYM

斎藤憐作(1940-)の傑作戯曲『上海バンスキング』は何度も舞台や映画の題材として取り扱われておりますが、やはりオンシアター自由劇場版の舞台が最高傑作ではないかとひそかにおもう宇治家参去です。

まあ、当方は、Bunkamuraのシアターコクーンでしか観賞したことはありませんが、終劇後、自由劇場バンドとまどか役の吉田日出子(1944-)さんが、三々五々と散りゆくお客さんを「リンゴの木の下で」を生演奏で見送るところには感動したものです。

さて……。

話のあらすじは、ちょいとめんどくさい(涙)ので、wikiでお茶を濁しますがスイマセン。

■あらすじ
日中戦争が開戦する1年前の1936年の初夏、クラリネット奏者である波多野は、妻であるまどか(マドンナ)と上海にやって来る。軍国主義が広まりつつある日本を離れ、ジャズを自由に演奏できる上海に行くために、波多野は妻をパリに連れて行くとだましたのである。

2人を迎えたトランペット奏者の松本(バクマツ)はギャンブルが好きで、つねにクラブ「セントルイス」のオーナーのラリーから前借り(バンス)をしている。やがて松本はラリーの愛人であるリリーと恋に落ちる。松本に怒りを表すラリーを仲裁するまどかと松本も、彼らとともにクラブのショーに出演することになる。

松本とリリーが結婚して間もなく日中戦争が始まり、日本の軍隊が上海にも侵略の手を伸ばすことで、上海からは自由もジャズも消えていく。やがて戦争が終わり、再び自由が戻って来た時には、波多野は阿片中毒で廃人となり、戦争に駆り出された松本は戻って来る途中で死んでしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

さて、舞台で串田和美さん(1942-)演ずるクラリネット奏者である波多野というのがマア、軽佻浮薄の代名詞のような人物。

しかしながら、なんだか彼をあざ笑うことができないのも事実。

マア、違法行為はしませんが、自分自身も軽佻浮薄の代名詞のような人間でございまして、ときどき我ながら、頭にくることもあるのですが、波多野の妻まどかと同じではありませんが、うちの細君も、よくマア、ここまでご同道して戴いたことには感謝です。

はい、本日、11月18日が結婚記念日(正確には入籍した日、披露宴は11月23日でした)です。

ちょうど結婚して9年目。

作中の波多野のように廃人となるわけにはいきませんので、マア、できれば俳人レベルぐらいには少しレベルアップして、次の1年を過ごしていきたいなあと思う昨今です。

細君殿、ありがとう。

ちなみに、本日は日本時間でボジョレ・ヌーヴォーの解禁日でしたので、24時を過ぎてから3本買い込んだのですが、まずは一番安い奴で始めます。

まあ、めんどうでしたが、レタスと葱と豆腐でサラダを作りましたので、ゆっくり味わいながら満喫しようかと思います。

あ、手前味噌ですが、いちおー、細君には(後でまた何か用意はしますが)、とありあえず、「姫ヒイラギ」の鉢植えを準備!

こういうのは大事だと思うよ。

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「このビールの味はほろ苦い」、「彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった」という二つの文に等しく当てはまる「ほろ苦い」は、現実界にはあり得ない

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 ここまでは、普通名詞を例として考えてきたのだが、他の品詞についても同じことが言えるだろう。例えば、動詞の場合、<早足で歩くことも歩くこと>、<抜き足差し足で歩くことも歩くこと>という二つの文に等しく当てはまる「歩く」は、現実の特定の歩く動作ではあり得ず、非現実的・抽象的な幻の<同じ>歩く動作、<同じ>歩くという概念の同一性としてしか存在しないだろう。形容詞を例に取れば、<このビールの味はほろ苦い>、<彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった>という二つの文に等しく当てはまる「ほろ苦い」は、現実界にはあり得ない。同じ「ほろ苦い」という形容が、一方ではビールの味について言われ、他方では人間の体験について言われているのだから、両者に等しく当てはまる<同じ>「ほろ苦い」は、ある種の抽象的な心的レベルを想定しなければ、存在しないだろう。
 「富士山」のような固有名詞の場合は、現実の富士山という指示対象が厳然と存在している。「富士山」という言葉や「富士山」の写真などの記号による情報からしか富士山を知らない人も、現実の富士山のあるところに出かけて行けば、ともかく現実の富士山の存在を確かめることによって、「富士山」という言葉の真実性を納得することができる。それに対して、「山」や「歩く」や「ほろ苦い」などの普通の語が心の中の幻の<同じ>事柄しか表していないとすれば、普通の語が言い表す事柄の真実性、つまり、普通の語の概念の同一性は、曰く言い難い問題が孕まれているようだ。
    --斧谷彌守一『言葉の二十世紀 ハイデガー言語論の視角から』ちくま学芸文庫、2001年。

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確かに、<このビールの味はほろ苦い>という文と、<彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった>という文での「ほろ苦い」は、現実世界にはあり得ない。

そんなこたア、百も承知なのですが、やはり、

「先ずはビールを呑まないと始まらない」

⇒というのが、ワタクシの飲酒哲学の第一条でありまして、日本酒もワインも大好きですが、、、

「先ずはビールを呑まないと始まらない」

……というほど、ビールを愛している宇治家参去です。

しかぁーし!

冷蔵庫を開けるとビールのストックが無

orz

本日は市井の職場が休みでしたので、不健康きわまりない「自宅警備員」の如く?、家から一歩も出ることなく家内制手工業ならぬ、家庭内作業としての学問を遂行しておりましたので、この時間になるまで……

「ビールを買っておかなければ」

……という状況を失念したようで、、、

orz

しかも少々寒いのでこれからコンビニへ駆け込むというのも難儀ですから、しょうがなく、マア「炭酸系」ということで、ジョニー・ウォーカー<赤>でハイボールを作り、いつものなうをはじめたのですが、、、

やっぱり、違うんだよなア。

<ビールは炭酸系飲料である>という文と、<ハイボールは炭酸系飲料である>という文は、状況を説明した文章としてはそれぞれ成立はしているのですが、、「ほろ苦い」という形容詞でなく「炭酸系飲料」という普通名詞であるにもかかわらず、「同じ」ぢゃないのよね……。

トホホ。

明日からはビールのストックを切らさないように革命的警戒心をもって日常生活を遂行するほかありません。

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理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。

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 ポストコロニアル批評で知られるガヤトリ・チゥクラヴォルティ・スピヴァク米コロンビア大教授が今月、国際文化会館などの招きで来日した。インド出身のスピヴァク氏は、世界で最も著名なアジア系女性の人文研究者の一人といわれる。毎日新聞などの共同インタビューに応じ、第三世界の下層民との関係における知識人の役割を語った。【鈴木英生】
 スピヴァク氏は、代表作『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)で、ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズというフランス現代思想を代表する2人の討論を例に、西欧の知識人を批判した。そこから知識人と被抑圧者との関係を問うている。
 サバルタンとは「多様な被抑圧下層民」といった意味。イタリアのマルクス主義者、アントニオ・グラムシ由来の言葉である。
 「フーコーとドゥルーズは、自分たちの理論(の問題点)を棚上げすることで、ダブルバインド(矛盾した心理的拘束による葛藤)を回避しました。だから、彼らの議論は現実の構造に組み込まれ得ないのです」
 スピヴァク氏の分析は難解だが、大づかみに言えばこうだ。フーコーらは資本主義下での抑圧構造を分析し、抑圧される側が社会変革の主体であるかのように説いた。しかしその理論は、経済発展を遂げた先進国でしか妥当しないという。しかも、先進国の住民は金持ちも貧乏人も、第三世界の経済的犠牲の上にいる「勝ち組」だ。ところが2人は、第三世界の被抑圧者を無視するか、先進国のそれとまるで同列で扱う。こうして、現実の世界の複雑な問題から目を背けている。
 さらに、インドの女性を例にして、フーコーらに表れた西欧の視点の問題性を示す。ヒンズー教的な文化の抑圧下にいる貧しい女性たちは、背景が西欧とは違いすぎる。だから、そのまま西欧人の理解できる文脈に即して自らを語ったり、社会変革の主体になったりはできない。むしろ、この女性たちの主体は西欧の文脈からこぼれ落ちるところにあるという。
 なのに西欧の側は、インドの女性のような立場を自分たちの社会的文脈に無理やり当てはめて理解する。たとえば「ヒンズー教の犠牲者を西欧文明の力で救い出す」というように。こうして彼女たちは、やはり自分自身の声を奪われ続けるという。
 もちろん、西欧人の理解できる表現で語れないからといって、弱者が抑圧されたままで良いわけがない。
 「グラムシは『サバルタンが自ら語れるようになるために、知識人が法的、教育的なインフラを構築すべきだ』と主張しました」。そこでスピヴァク氏は、彼女たち下層民のただ中に入りながら、教育者として振る舞う。故郷のもっとも貧しい地域に、教師養成の学校を開いている。ただし、その現場にべったり張り付いているわけではない。
 「一方、私はニューヨークで博士課程の学生に教えています。両極を行き来しながら、グラムシの言う有機的な知識人について考えています」
 最下層の人々と触れ合うインドの女性知識人が、最下層の犠牲で成り立つ資本主義の中心で、最先端の研究と教育に携わる。この矛盾に居続けることこそが大切なのだ。有機的知識人とは「専門バカ」の対極にある、常に人々とかかわり、説得し続けるような存在だという。
 彼女のような世界的知識人ではなくとも、あらゆる人はダブルバインドの中で生きている。たとえば、インドでの教育活動の協力者は、教師養成学校の開校日に漏らした。
 「この学校は、(建設に協力した)政治組織の腐敗した構造を利用しなければ実現できなかった」と。
 「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」
 理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。この思いこそが、スピヴァク氏を支えているようだ。

ガヤトリ・チゥクラヴォルティ・スピヴァク Gayatri Chakravorty Spivak 1942年生まれ。カルカッタ大を経て米コーネル大で博士号。邦訳に『サバルタンは語ることができるか』、『ポストコロニアル理性批判』など。
    --「ポストコロニアル批評 スピヴァク・米コロンビア大教授に聞く/第三世界の知識人の役割とは」、『毎日新聞』2007年07月23日付。

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通信教育部の「倫理学」でも、短大の「哲学」でも必ず取り上げるようにしているのがガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)です。

サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)以降のポストコロニアル批評を考える上で、とりわけ重要な思想家のひとりがインド出身のスピヴァク女史になります。

アジア出身でもっとも著名な女性知識人と評されており、主著のタイトルにもなっている「サバルタンは語ることができるのか」というその挑発的な彼女の問いは、現代世界において「知識」の「権力性」の問題を考えるうえでは、避けてはとおれない重要な問いかけとなっております。

さて……。

正直、これは難しいのではないか……といつも教壇に立ちつつ頭を悩ませる言説でもあるのですが、やっぱり紹介してよかったとというのが正直なところ。

みんな、理念やら現実やらにひっぱられすぎているんです。

理念やビジョンも大切です。
そして同じように現実も大切です。

しかしひっぱられすぎるとあんまりいいことがないのも事実。

前者にひっぱられすぎると、それが「清く・正しく・美しい」ものであればあるほど、ぐだぐだな現実との相剋に引き裂かれてしまいます。

そして後者にひっぱられすぎると、「キレイゴト言わずに、現実見ろよ」って嘯いてしまうシニシズムへと陥ってしまいます。

そして、実際にはそうしたパターンがマジョリティを締めているのが現状だろうというところでしょうか。

大学生というのは基本的に真面目ですから、前者のパターンになる傾向が顕著で、社会人というのは、後者になるというそれが多いのでしょう。

しかし、どちらも重心を一方に起きすぎているような気もいたします。

たしかに、理念は現実をレコンキスタする指針にもなりますが、重心が置かれすぎると、現実の存在を分断してしまう暴力へと化してしまいます。

そして、同じように、現実一元主義へ修練してしまうと、ぐだぐだな現実を等閑視してしまう視座へと転落してしまいます。

このバランスが大切なわけですが・・・、なかなか難しい。

しかし、そのバランスをきちんととらない限り、現実をよりよくしていくことも、理念を地上に実現していくことも不可能なんです。

だからスピヴァクの「戦略」をお話しするわけですが・・・、やはり彼女の言説はそれでも少々難解な部分が多々あるのですが、月曜の授業でそこへ踏み込んだわけですが・・・

正直、、、

踏み込んでよかったというのがひとつの実感。

まじめな学生さんたちが多いので、かえってごりごりに固まったイデオロギッシュなところを氷解させると同時に、ダブルバインドを認識した上で、「どうすっぺ」という方向性への示唆ができたのではないか……リアクション・ペーパーを再読するとですが……と思われ、その試みが間違っていなかったことをひとつ確信です。

単純なもの謂いで恐縮ですが、遠大な理想をいだき目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活であることだけは確かです。

単純に前途か悪とかを立て分けずに、その矛盾をきちんと認識する。

そしてそのうえで、どうすっぺという戦略を練っていく。

ここにしか翠点は存在しないんです。

しかし、例えば、ここからここまでは悪で、ここからさきは善でというようなわかったようなわからないような見取り図に目を眩まさせられて、「はぁ~」って惚けて、やっていくことが多いのですが、そうした暴挙や酩酊をのりこえ、きちんと認識した上で、〝したたかに〟いきていく……ここが多分大切なんだろうね。

矛盾と聞くと、みんな否定的なイメージで捉えていることが多いんです。
たしかに哲学……特に論理学……は「矛盾」を嫌います。

しかし、現状認識の出発点としては「矛盾」に「満ちた」ことを自覚する必要があるんです。

そして、そこからどうすっぺというのが議論なのです。

その現状認識を排した、論理としての矛盾のなさこそ問題なんです。

そんなことを思いつつ、、、

スピヴァク女史の話を一コマしましたが、何より嬉しかったのは、学生さんひとりひとりが元気になってくれたこと。

これが一番ありがたい。

つうことで、講義がすんでから、市井の職場へ直行して、それからひとり慰労会。

少しだけ酒呑んで、軽く食べて帰りましたが、これがご褒美☆

02 03

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「感覚からの解放」@ヘーゲル

01

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 習慣は記憶と同じように精神の組織における一つの難点である。記憶が知性の機械制であると同じように、習慣は自己感情の機械制である。もろもろの自然的質、および年齢や睡眠・覚醒やもろもろの自然的変化は、直接的に自然的である。習慣とはそれに反して、自己感情に属する限りの、感情および知性・意志等々がもっている規制性が、自然的に存在するもの、機械的なものにされたものである。
 習慣が第二の天性(自然)と呼ばれているのは正当なことである。習慣が第二の天性(自然)であるのはなぜか? なぜかといえば習慣は心の直接的存在だからである。習慣が第二の天性(自然)であるのはなぜか? なぜかといえば習慣は心によって措定された直接性であり、感情規定性そのものと肉体化されたもの(第二五節)としての表象=意志=規定性とに帰属する肉体性を鋳造し陶冶することであるからである。
 人間は習慣においては自然的現実存在の様式において存在する。そしてそのために習慣においては人間は非自由である。しかし、感情の自然規定性が習慣によって人間の単なる存在に引き下げられ、人間はもはや自然規定性と不和にならず、且つそのことによってもはや自然規定性に対して関心をもたず、自然規定性によって忙殺されず、自然規定性から独立している。その限りの人間は習慣において自由である。習慣における非自由は、本来はただ悪い(邪悪な)習慣において生ずるだけである限り、または一般に或る習慣にもう一つのちがった自然が対立させられる場合に生ずるものである限り、一部は単に相対的であるにすぎない。それに反して、法的なもの一般の習慣や人倫的なものの習慣は、自由の内容をもっている。--本質的な規定は、人間が感覚によって触発されつつも、習慣によって獲得するところの、感覚からの解放である。
    --ヘーゲル(船山信一訳)『精神哲学 (上)』岩波文庫、1965年。

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あまり推奨されざる習慣なのですが、やはり……、寝る前にはいっぺえやらないと寝ることができません。

普段、呑まないひと、寝酒をやらないひと……っていうのはどうやって寝ているのだろうか……などと頭を悩ませつつ、

「まあ、ひとはひと」

……と割り切って呑むしかないのですが、まあ、酒を飲んで寝るというのは「感覚からの解放」@ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)であることだけは確かです。

つうことで、もうちょっと呑んでから寝ようw

02 03

精神現象学 Book 精神現象学

著者:G.W.F. ヘーゲル
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自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。

01

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……生まれつき才能に恵まれた小説家は、なにもしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自由に湧き出し、作品ができあがっていく。努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間を手間をかけなけくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を掘り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。だからひとつの水源が乏しくなってきたと感じたら、思い切ってすぐに次に移ることができる。自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。
 人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公正さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。
    --村上春樹「人はどのようにして……」、『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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畜生。
寝過ぎた。
12間寝てしまった。

寝過ぎると当然、躰と頭がいうことを効かない。

これから仕事へ行くので、躰を動かすとまたもとの調子に戻るのでしょうが、少しエンジンをゆっくりかけ直して「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと」、「思索の水源」にたどり着くことができませんので、またがんばるか。

昨日は公募推薦入試の担当で朝から大学。
終了してから、少し呑んで、早いうちに墜ちたので早く起きようとおもっていたのですが、なかなかうまくいきません。

以上。

02 03

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しかし、投票する機会とともに、脅かされることなく発言し他の意見をきくことができる機会があれば、のことなのです。選挙のもつ効力も、その影響がおよぶ範囲も、公の場の開かれた議論の機会があるかどうかで決定的に変わります

01

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 近年、民主主義を擁護することに関して、国際的に多くの支持を得て、特にアメリカとヨーロッパで外交上の議論に影響を与えている反対意見が二つあります。これについては、もっと広い観点からの検討が必要でしょう。一つは、民主主義は貧しい国で何をなしとげられるのか、という疑問です。民主主義は開発のプロセスを阻害して、経済や社会を変革するための優先事項--十分な食料の供給、一人当たりの所得の増加、制度的な改革の実現など--について、人びとが関心をもつのをさまたげる障壁なのでしょうか? 民主主義の政治はきわめて狭量なものになる可能性があり、民主主義国では有力な多数派に属さない人びとは苦しめられる、とも主張されます。権威主義的な統治が与えるほうが、弱者にとってはありがたいのでしょうか?
 もうひとつの反対意見は、民主主義を「知らない」とされる人びとに民主主義を推進することへの歴史的および文化的な疑念に凝縮されています。原則としてすべての人に民主主義を保障しようとすると、その試みが国内組織および国際機関、あるいは人権活動家によるものであっても、しばしば激しい非難を浴びます。欧米以外の社会に、西洋の価値観と習慣を押しつけているからというわけです。こうした主張は、現代の世界では、民主主義がきわめて西洋的な慣習である--まさにそのとおりなのですが--と認めるだけではすみません。民主主義は、ヨーロッパのなかだけで長いあいだ興隆をきわめ、そのルーツは明らかに西洋の思想だけに見いだせるもの、というところまでいきつくのです。
 こうした疑問は正当ですし説得力があります。かなり執拗に問われつづけたものでもあります。しかし、ほんとうに確かな根拠にもとづいているのでしょうか? そうではないと証明するには、これらの批判がたがいにまったく関連していなくもないことに注目する必要があります。実際、二つの見解の欠陥は、そもそも民主主義を、ひどく狭く限定して見ようとすることにあるのです。なかでも問題なのは、どちらも公開選挙という見地からのみ民主主義を解釈し、ジョン・ロールズ〔アメリカの倫理学者〕が「公共の理性の実践」と呼んだ、広い見地から見ていないことです。ロールズのこの見方には、市民が政治議論に参加して、公共の選択に影響をおよぼす機会が含まれています。民主化を非難する二つの見解が、それぞれどこでどう間違えているのか理解するには、民主主義が求めているのは、投票箱だけではない、と正しく認識する必要があります。
 たしかに、選挙はとても重要な手段ですが、市民社会における議論に効力をもたせる方法のひとつにすぎません。しかし、投票する機会とともに、脅かされることなく発言し他の意見をきくことができる機会があれば、のことなのです。選挙のもつ効力も、その影響がおよぶ範囲も、公の場の開かれた議論の機会があるかどうかで決定的に変わります。選挙制度だけではなんとしても充分ではありません。それは、スターリンのソ連からサダム・フセインのイラクにいたるまで、権威主義体制下の選挙で、独裁政権が驚くべき勝ち方をしてきたことで充分に証明されています。こうしたケースの問題点は、実際の投票行動で有権者が圧力をかけられることだけでなく、検閲制度、反体制派の弾圧、市民の基本的な権利および政治的自由の侵害などを通じて、公の場における議論ができなくなることにもあるのです。
 投票の自由をはるかに超えた、もっと広い見地から民主主義を見る必要性は、現代の政治哲学だけでなく、社会選択理論や公共選択理論などの新しい分野でもさかんに論議されています。こうした問題は政治思想と同じくらい、経済学の理論からも影響を受けます。議論を通じて意志決定をするプロセスによって、社会や個人の優先事項に関する情報は増えるでしょう。そうなれば、優先事項は社会的な討議によって変化するかもしれません。公共選択理論の主導者であるジェームズ・ブキャナン〔アメリカの経済学者〕が述べたように、「民主主義を『議論による政治』として定義することは、意志決定のプロセスで個人の価値観が変わる可能性があり、そして実際に変わることを意味する」のです。
 こう考えると、国際情勢に関する議論で選挙に重点がおかれていることに疑問がわいてきます。また、サミュエル・ハンチントンが『第三の波--20世紀後半の民主化』のなかで明らかにしている見解、すなわち「自由で平等な公開選挙は民主主義の神髄であり、絶対必要条件」とういう考え方の妥当性にも疑いを抱かざるを得ません。<公共の論理〔公共の理性にもとづく思考や推論〕>によるより広い考え方では、民主主義は政治思想上もその実践においても、公の場の自由な議論と相互の協議を保障することに主眼をおかなければなりません。それは単に選挙によるだけでも、あるいは選挙のためだけのものではないのです。ジョン・ロールズが述べたように、そこで必要とされるのは、「原則の多様性--多元主義という事実」を保障することなのです。これは「現代の民主主義国の公共文化」にとってきわめて重要ですし、「基本的な権利と自由」によって、民主制のなかで守られなければならないものです。
    --アマルティア・セン(東郷えりか訳)「民主化が西洋化とは同じではない理由」、『人間の安全保障』集英社新書、2006年。

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いろいろと話し合いながら考えなければならないのですが、とりあえず、本日は、勤務校の公募推薦入試の担当でございまして・・・、こんな更新をしている暇はないのですけど、とりあえず。。。

寝る。

02 03

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「誰が誰を選ぶのか」

01 02

またしても卒倒しそうな状況ですが、何かを残して置かねばという慚愧にかられ、ツィの連投を少し残しておきます。

すんましぇんw

でわ

J・ハリスの「サバイバル・ロッタリー(以下SL)」(10人の命を救うために1人を殺すことは許されるか/生存率最大の原則)のつづき。SLとは直訳すれば、「生存のくじ引き」。これはひとつの作業架設ですので遠い未來の話というわけですが、、、。

生存率の増大と死亡率の減少を正義として、死亡率の増大と生存率の喪失をその対極としてみた場合、1人の犠牲で10人が生きる方が合理的にはマシだろう。しかもくじ引きだから平等・公平というわけ。

一人の健康な市民のあらゆる臓器を、完全に生きた状態から移植するなら一人以上(例えば10人)を救うことが可能となる。この制度によって、この世界の生存率ははるかに上昇することになる(臓器移植以外のすべての問題はクリアされた社会という想定)。

現代倫理の三本柱とでもいうべき①功利主義、③民主主義はクリアしている。②自由主義は若干制限模様だが、ロッタリーを避ける「自由」が残されている場合、フィフティフィフティになりますから(「不健康」は選ばれない)。

※ちなみにここで共同体主義の限界も出てくる。リバタリアンの主張は自由至上で美徳なき文化を招くといいますが、共同体主義も不可避的に「美徳」招かないこともあるかもしれないということ。

話がずれましたが、この議論のツメはここでは問題といたしません。何しろ作業架設の議論ですし、それよりも考えたいことがあるので。まあそれが選びの宗教、ノアの箱船の精神風土ということです。

それがまさに「10人の命を救うために1人を殺す事は許されるか」ということ。サンデル的議論でも良く出てきますか「こちがマシかあちらがマシか」という「選択」に注目したいのです。

この選択の発想がどこに由来するかと言えば、いうまでもなくヘブライズムになります。いわゆる「選民」性(chosenness)ということです。ユダヤ教においては、ユダヤ人が神と契約を結ぶために選ばれた民であるという意識と発想があります。神に「選ばれた」ここが大切になってきます。

もともと、この選民性は、排他的集団形成を目指したものではなく、「自尊心」とアイデンティティと捉えた方がよいのですが(古代においても自由な改宗は認められている)、これがキリスト教を経て、形式化していくなかで、

承前、「誰が誰を選ぶのか」というのが世俗倫理として確立されていくなかで、世俗的「選び」の発想へとなっていくのだと推察されます。

※ただ、くどいけど、ヘブライ語旧約聖書に散見される「選ばれた」という意味あいは、神から祝福を受けるという「対他的」なものだけでなく、責任を負うという意味での「即自的」な側面もあるので、形式化・世俗化されるなかで、前者が強調されたことはいうまでもありません。

※また伝統的なキリスト教信仰においては「ヨハネ伝」(14:6)を根拠にキリスト者になることで選民となりますので、ユダヤ教徒=選民ではありません。同時に「ロマ書」(2:6-11)を根拠に「選ばれたものだけの救い」を否定して「ユニバーサル・サルベーション」を認める人々もいることにも注意。

しかし、伝統的には、宗教的土壌、そして封建的制度の確立のなかで、「選ぶ」という発想は、聖俗かかわらず顕著であることは否めません。ついでにいえば、「責任」はできるだけ少なく(というより無い方がいい)という平等・公正性を声高に「祝福」だけは欲しいという状況。

でわ、東洋ではどうなのか。これは私も残念ながら未踏派の分野ですからなんともいえませんので後日の課題。イスラームに関しても同じです。まあ印度を除き漢字文化圏においては、超越的な宗教的な根拠なしに、トップが恣意的にやるという無節操が伝統なのでしょうけど(苦笑。

しかし、「選ぶ」「選ばれた」という発想は、西洋文明においてポピュラーであり、必然的に二者択一の議論が出てくるにはそれなりの根拠はあるのだよ、ということです。そしてその超越的な根拠が吹っ飛び、世俗化の中で、頭を抱えている。それが共同体主義とリバタリアンの対峙にもなっている。

……って話がずれまくりやし、補足の方が長いやんけ。すいません。呑んでいるのでw。

03

バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論 Book バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論

著者:H.T. エンゲルハート,H. ヨナス
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【覚え書】ネグリ+ハート 私有化のパラドクス

01

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私有化のパラドクス
 資本主義的発展の初期段階を司っていた論理は、誰が所有権を有するのかという、非物質的所有権とバイオ所有権の拡大にとって二つ目の困難を引き起こす。伝統的な資本主義的所有権はその基礎を労働に置いていた。ある財を所有する権利は、それを創出する労働を行った者である--「この家を建てたのだから、私のものだ」--というわけだ。この論理はすでに見たように、今日の新たな所有権論争においても依然として基礎的な役割を果たしている。バクテリアであれ、種子や動物種であれ、裁判所がその所有権はそれを作り出した科学者にあるとの判断を下すとき、そこで働いているのはこの労働の論理である。さらに言えば、非物質的生産の領域で人間の労働が直接的に生命-形態や知識を生産する度合いが増しているという事実と、かつてないほど多くの生命-形態や知識が私有財産になりつつあるという事実との間には、必然的な関係があるのだ(非物質的財産の重要性が増していることは、非物質的労働が主導権をもつにいたったという私たちの先の主張を裏づけている)。
 もっとも非物質的生産の分野全体で言えば、所有財産に対する権利や権原はそれを肯定するのと同じ論理によって骨抜きにされる。なぜなら財産=所有権を創出する労働を誰か一個人、または集団によるものとさえ同定することは不可能だからだ。非物質的労働は無数の個別生産者の間の途切れることのない協働、すなわち<共>的活動としての度合をますます強めている。たとえば、遺伝子コードの情報は誰が作るのか、あるいは植物卯を医学的に有効利用するための知識は誰が生み出すのか、という問いを考えてみよう。どちらの場合も情報や知識は人間の労働と経験、創意工夫によって生み出されるが、どちらの場合もその労働を他から切り離されたある個人に帰することはできない。こうした知識は常に拡張的で限界のない社会的ネットワーク--先の二つの問いに即して言えば、前者の場合は科学者共同体におけるもの、後者の場合は先住民共同体におけるもの--のなかで行われる協働とコミュニケーションによって絶えず生み出されるのである。科学者はここでふたたび、知識と情報は個人によってではなく集団的協働によって生産されるという事実の、もっとも雄弁な証人となっている。
 そしてこの協働とコミュニケーションを土台にした知識の生産の<共>的プロセスは、科学以外のあらゆる非物質的および生政治的生産の領域も等しく特徴づけている。ジョン・ロックによれば、指摘所有権を創出する労働は身体の延長にほかならないが、今日その身体はますます<共>になりつつある。私的所有の法的正当性は、生産の社会的特性である<共>によって崩されつつあるのだ。こうして所有に対する伝統的な資本主義的権利や権原が弱体化すれば、指摘所有権を守る方法は暴力以外にないという状況も生じてくる。
 今日の非物質的財産をめぐるパラドクスを考えるとき、若きマルクスが人間主義的な観点から私有財産を罵倒した次の言葉が改めて新鮮に響く--「私有財産はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまった」。そしてその結果、所有という単純な感覚を手に入れるために、あらゆる存在の形態が軽視されるにいたったとマルクスは言う。知る、考える、愛するといった人間のあらゆる感覚、すなわち生の全体が、私有財産のせいで堕落しているというのだ。だがマルクスは、いかなる種類の原始的な共同体所有にも戻るつもりはないと明言する。そして資本の論理の矛盾に着目することで、本来における新たな解決策を見出そうとするのだ。
 一方では、すでに見てきたように資本主義的な私的所有権は生産者の個別的ろうどうにその基礎を置いている。だが他方で、資本は絶えず、より集団的で協働的な生産形態を導入しつづけている。労働者が集団的に生産する富は、資本家の私有財産となるのだ。このむじゅんは、非物質的労働と非物質的財産の領域においてますます極端なものになりつつある。私有財産は一面で、価値あるものはすべて誰かが私的に所有しなければならないという考えを私たちに植えつけ、人間を愚かにしている。経済学者は飽きもせずに、ある財を有効に保持したり利用するためには誰かがそれを私的に所有することが不可欠だと繰り返す。だが実際には、この世界の大部分は私有財産ではないし、私たちの社会的生が機能しているのもそのおかげにほかならない。
 この節で見てきたとおり、土地や産業、鉄道といった伝統的な所有物の形態に加えて、現代では遺伝情報や知識、植物、動物といった新たな財が私有財産の仲間入りをしている。これは先に私たちが<共>の収奪=収用と呼んだものの一例である。だがもし言語や話し方、身ぶり手ぶり、争いの解決法、人の愛し方など、人間生活を成立させている慣習実践の大部分が<共>的なものでなければ、日常生活における人間同士の相互作用やコミュニケーションはまったく成り立たない。知識や情報、研究方法など膨大な蓄積が<共>的なものでなければ、科学の進歩はたちまち停止してしまう。<共>なくして社会的生は成り立ちえないのだ。いつの日か人間が今の時代をふり返り、あれは私有財産によるさまざまな形態の富の独占化を許すことで革新にブレーキをかけ、生を堕落させた愚かな時代、まだ人間が社会的生を全面的に<共>に託すことのできない時代だたと総括する時がくるかもしれない。
    --アントニオ.ネグリ・マイケル.ハート(幾島幸子訳)『マルチチュード[上]』NHK出版、2005年。

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先程まで、ネグリ(Antonio “Toni” Negri,1933-)とハート(Michael Hardt,1960-)の『マルチチュード』を読んでいたのですが、途中で寝ていたようです。

もはや限界。

寝ます。

ただ入力だけはしていたので、少し残しておきます。

<私有化のパラドクス>……侮りがたし。

そしてこの強烈な睡眠……侮りがたし。

ただ、オモシロイのは、ネグリとハートは共著(=共同研究)をなしていることで有名ですが、同世代人かと思っていたら親と子ぐらいはなれていた世代でした。

近しい世代ではなく少し~けっこうかけはなれた世代で「喧嘩」して何かをまとめる方が、創造性は高いのかもしれません。

でわ☆

02 03

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犀の角のようにただ独り歩め

01 02 03

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 覚悟性は、実存がおのれの自己に対してもつ忠誠を構成する。この忠誠は、不安を辞せぬ覚悟性であるから、とりもなおさず、自由な実存がもつことのできる唯一の権威への畏敬となることができる。その権威とは、反復可能なる実存の可能性のことである。
    --マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 下』ちくま学芸文庫、1994年。

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火曜は休みでしたが、市井の職場の半年に一度の健康診断があり、昼過ぎに出勤して受診した次第です。

ちょうど一年前の受診の際はバックレて、あとでえらい目に遭い……本社で受診orz……ましたので、正直に言えば面倒だったのですが、まあ参加。

そうしませんと「反復可能なる実存の可能性」がどうなのよっ!ってことを確認できない現代というシステムのなかでいきているわけですから、渋々受諾したというところです。

まあ、生きていると言うことは、まさに「反復可能なる実存の可能性」のことですからイタシカタありません。

さて……。

終了後、自分の最終学歴証明書が喫緊に必要なこともあり、大学院で都合9年間お世話になった立教大学の池袋キャンパスへ出向いた訳ですが、やっぱり大学とはいいものですネ。

先月は学部時代およそ7年間お世話になった慶應義塾大学の三田キャンパスに出向いて往時を偲びましたが、いやー、ほんと、「大学は人間を自由にする」……などと俗に言われますが、そうした空気を堪能させて頂いた次第です。

立教・池袋キャンパスもキチンと喫煙所がありますので、一服やっておりますと、喫煙ちうの比較文明か仏文の学生と教員でしょうか、ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva,1941-)の話で盛り上がっているのがちらほら聞こえ、

「いやー、いいなア」

……などとニンマリした次第です。

さて……。
教務センターで証明書の発行依頼を済ませ、それから、細君からもガタガタ言われていた博士論文(論文博士)の新しい申請書類を貰ってこい!……ワタシのことなのに人ごとのような表現なのがorz……ということで、申請手続きのガイダンス?を受けて、書類一式をもらってきました。

ただ、若干内容に変更もあったので、細君のいわれた通り、手続きしてきたのは正解だったようです。

まあ、これが背水の陣、というか自ら外堀を埋めてしまったような事態へと展開してまったようですが、面倒だから後でイイヤってせずに、確認したことは幸いなるかなというところでしょうかw

しかし、先月、今月と母校を訪れるなかで実感した……これが印象批判なので嫌なのだけれども、マアそれがワタシの人間性とでも思って下さいまし……のがひとつ。

西洋というカテゴリーにはなりますが、文学、思想・哲学を専攻し、最終的には宗教を研究対象として、やっぱり自分としては良かったなアと思うことです。

何が良かったの?

……とかって突っ込まないで下さいよ。

アカデミズムの社会的環境としては、思想・哲学、そして宗教なんかを研究することはイコール「メシを喰えない」ことと同義といってよいジャンルなのですが、人間が生きる上では不可欠の学問です。

まあ、大政翼賛化という名のガラパゴス化する本朝の大学行政においては、そんな「ウンコのような学問」などやらなくてもよしwという風潮が濃厚であることは肌身で感じておりますし、現実的には「銭にならねえ」ってところも重々承知はしているのですが、だからといって、ポスト的・金銭的リアリティのある学問を選択しなくてよかった……何が理由やねんと言われれば、ここでは書きませんし、話すと1日かかりますが……そんなことを感じた次第です。

通算、学部を7年、大学院を9年在学して、そーゆう学問をやってきましたが、ふたたび、自分がその学びの大地に立ち戻り、その学んだ時のことを少し思い起こしつつ、キャンパスをこの今歩いたことは、少し自分の存在様態に追い風を送ってもらった……そんな気がいたします。

だからといって、今の状況に甘んずるわけではありませんし、それを「レコンキスタ」するのが課題なことは承知の助ですよ、いちおー。

だけど、そういきがってもときどき、

「はあ、何やっているんだろう」

……って考えることの方が多いのですが、

「いや、諦めないでやっていこう」

……そんなことをもう一度確認できたような気がします。

傲岸な言い方をすれば、はっきりいって「負ける自信」がないんですよ。

えらそーですいません。

ですけど、16年間、一流の先生のもとで受けた薫陶は、あらゆる学問を凌駕する……またしてもえらそーですいません(ケド、西洋の学術の最高峰は神学ですから(キリッ )……自負もありますし、その先生の薫陶をフイにもしたくありませんし、挑戦していこう……そうおもった次第です。

おもえば、昨年の今頃でしょうか。

まあ、うちの息子殿がはっきり言えば、ワタシの不用意な一言で、私立小学校の入試が不合格になったわけで、その意味では、未來の有る人間の存在を否定したという意味で鬼籍に入るべき人間でして、なんで今があるのかと誰何されてしかるべき存在です。

とうちゃんはウンコのような、ほんとうは存在しないほうがいいような部類にカテゴライズされる人間ですが、まあ、あと数十年は、使命を成就する道を歩みあせて下さいまし。
※ちなみに息子殿は、今、地元の公立小学校で元気に生きています(涙

しかしねえ、くどいけど、「見返す」とか「いつかみてろや、ボケ」って発想はないんです。しこんでいけばなるようになる。意趣返しとかそういうルサンチマンではなく、ただブッダの言葉通りなんです。

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   音声に驚かない獅子のように、
   網にとらえられない風のように、
   水に汚されない蓮のように、
   犀の角のようにただ独り歩め。
    --中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、1984年。

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……そう育てられたことに感謝です。
対他ではなく対自として生きていく。

すいません、話が入り込んできて、しめっぽくなっちゃって、とりとめもない雑文でw

ちなみに、大学を辞してから、池袋駅構内のLONDON PUBにて例の如くバスペール・エール、1.pt×2頂戴しましたが、うまかったw

04 05 06

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) Book 存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

著者:マルティン ハイデッガー
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存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫) Book 存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

著者:マルティン ハイデッガー
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ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫) Book ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫)

著者:マイケル ゲルヴェン
販売元:筑摩書房
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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) Book ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

販売元:岩波書店
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読書とは登山」かあ、なる程!だから読んでる途中で気を失うのか!酸欠で

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 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である、。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。だが、発条(ばね)に、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう、。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。書物は食べることによってではないく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
 さらに読書にはもう一つ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
    --ショウペンハウエル(斉藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫、1983年。

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くどい話の再録。
日曜の……正確には日付がかわって月曜日……深夜に、読書に関して少し「吠えて」いたようなのですが、やっぱり大事かなと思ったので少し手を入れて載せておきます。

私:ただあれだけはたしかだよね。本を読む人は読むけど、読まないことを「忙しい」を理由に読まないというのは理由になっていないと思う。本格的に人間と格闘するうえでは、人間の「記録」である古典と格闘しなければならないはずなのですが、
  それをねえ……。
  「忙しい」というのは理由になりませんよ。

私:もちろん、アンタは大学のセンセ(ウンコの非常勤ですが)だから「読む」だろうけどサ、こっちは世間と格闘するサラリーマン(乃至は主婦)なのよんw……とかっていわれても、ワシも一般の仕事しているし、学問の専門職でも読まない奴もいるし……。
  その意味では、それは、まさにそれは理由になりませんよ。

私:だからテレビをみないわけ。
  テレビを見ている時間があるならば、読めばいいじゃん。
  テレビ見ながらでもいいとおもうよ。
  要するに大事なのは「俺には向いてない」とか「読書に慣れていない」とかっていう式の「苦手」というのは理由以前だということ。
  時間がないというのも同義。
  テレビ見てノンデル暇があれば読めるということ。

私:きちんと、読むべき本は読まないと怖ろしいことになると思うわ。
  一書との出会い、そして人との出会いというのは「邂逅接触のなかから、真に新しい創造といったなにものかが発生する」(@トインビー)結合点なわけですよ、はい。

私:こんな基本中の基本をつぶやかなければならないことにorzだ。糞。

Aさん:そんな人達も、ゴシップと流行雑誌とお買い得物チラシだけはしっかり読んでますよ!!

私:ホントマジで理由になっていない。自分の知己のペンキ屋の青年は3年で1000冊の古典を読んでいましたワ。

……というか全ての日本酒が蒸発したという件

Aさん:「ホントマジで理由になっていない」んですが、発想転換すれば、そういう雑誌が古典連載すればいいんですよ♪w

私:ほう、おもろいやんけ、古典を新聞や雑誌で新訳連載すればオモロイことに!

Aさん:ファッションや恋愛論なんかに絡めれば多方面に開けるんですけどねw 「啓蒙」はジャーナリズムの重要要素だったはずw

私:そう。可能性は大なのです! がぁ……現状は涙かw

Bさん:突然失礼します。自分は療養中なのですが、余り長い文章が読めません。読めたとしても一度にしっかり読めるのは、新聞小説くらいの長さです。それでもやはり、本や古典に挑むべきでしょうか。

私:いきなりエベレストに登攀することは不可能ですよ。読む習慣づくりから始める。一日一頁だけでも読むことから初める……というのでは大きな違いはでると思います。
  要するに大切なのは、良書を手もとに置かないことに慣れないこと。
  くどいけど、近くにいい本を置いておけばいつか読む。
  本を読むことに慣れていないのであれば、絵本……絵本作家・佐野洋子先生の逝去(1938年6月28日-2010年11月5日)には涙……でもいい。
  活字に慣れる環境を自分から作っていく。そうした努力を惜しまないことが大切ではないでしょうか。

私:基本的な土壌がないことは恥ずかしいことではありません。
  しかしそこからどう展開していくかが大事なんです。
  絵本を読み直すことからでもひとつの始まりです。
  しかし、そこを拒否しない自分を作っていくことこれが大事かもしれません。

私:毎度ながら、えらそーでスイマセン。っていつも偉そうか(涙

てか、ビールのスットクも消えたぞ。

Bさん:了解しました。読みやすいものから、読みたいと思うものを、少しずつ読むことにします。ありがとうございます。

私:諄いですが無理する必要はないんです。
  しかし「苦手」と言って避けないように習慣づけるしかありません。そして、これが大事。

私:なにしろ、佐野洋子先生の「百万回生きたねこ」(講談社、1977)は、息子殿に100回以上は読み聞かせしましたわ。

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Cさん:読書とは登山」かあ、なる程!だから読んでる途中で気を失うのか!酸欠でw

私:だから深夜の私はいつも高山病の毎日w

Bさん:昔はよく「読書に挑戦!」と読んでました(トインビーの「歴史の教訓」も読みました)が、病気になってからは読むとしんどくなるような気がして避けていました。ですが今まで自分に持っていた偏見を無くして、身に合った読み方をすれば大丈夫だと思いました。

私:決して無理してはいけませんヨ。それが本末転倒になるので。ゆっくりとやりましょう。

「足腰が鍛えられて『慣れてくる』と、それは『惰性』ではなく、良き『習慣』へと化す。そのことを『挑戦』と呼ぼう」 by 第8SS騎兵師団長@ujikenorio。

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読書について 他二篇 (岩波文庫) Book 読書について 他二篇 (岩波文庫)

著者:ショウペンハウエル
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100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1)) Book 100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

著者:佐野 洋子
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人間的事象のうちでパターンが事実存在しないと思われるのは、人格と人格のあいだの邂逅接触の分野である

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 人間的事象のうちでパターンが事実存在しないと思われるのは、人格と人格のあいだの邂逅接触の分野である。この邂逅接触のなかから、真に新しい創造といったなにものかが発生するのだと思う。
    --A・J・トインビー(松本重治訳)『歴史の教訓』岩波書店、1959年。

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もうだいぶよくなったので、酒を呑んでいる始末なわけですが、先週中盤よりどうも「風邪」をひいたみたいでして……、

まあ、年がら年中、微熱もあるし、風邪のような状態ですから、

「いつものことよ」

……って放置していたのが結局はよくありませんでした。

土曜日はヘロヘロで市井の職場へ出勤しましたが、終盤で早退。
日曜日は、息子殿の剣道教室の試合大会(千駄ヶ谷・東京体育館)があったのですが、同行することできず、宅にてご自愛専一していた次第です……トホホ。

まあ、お陰で24時間寝続けることもできませんので、読み直しと新しい挑戦を含めて10冊ほど、課題図書を始末できたのはひとつの僥倖です。

そんななかで、目に付いたのがトインビー(Arnold Joseph Toynbee、1889-1975)の著作。

たしかに主著『歴史の研究』(「歴史の研究」刊行会、1966)などに目を通した方がてっとりばやいのですが、実はトインビーのエッセンスはそこだけでなく、座談や講演でもその基本的なアウトラインは示されているんだよなあと思った次第です。
※諄いけどだからといって『歴史の研究』を読まないようではダメってことですよ、早計することなかれ。
※諄いついでなのですが、「忙しい」ということを理由にまともにまとま本を一冊も読まない、挑戦すらしようとしないのは「恥ずかしい」行為だと思います。この点だけはきちんと言っておきます。いくら、尊敬する人物がすばらしいだとかいろいろぐだぐだいっても、実践のともなわない人=読書しない人というのは、コンテンツのない眉唾だとは思います、厳しい言い方ですが、これだけは明言しておきます。

さて……。

社会学の展開は、人間世界の目の前にわかりやすい見取り図を示してみせることに成功しました。まあようするにそれが「類型化」という議論です。

しかし、人間にしても、書物にしても、社会的事象にしても、実際に「邂逅」してみないとわからない……そのことだけは明確に言えます。

わかりやすい図式=類型化というのは、わかりにくいものをそぎ落としてしまうんですよ。

しかし、そのそぎ落とされてしまう部分は、実際に「邂逅」してみないとわからないわけです。

その辺をテキトーにやってしまうと、「そら怖ろしい」ことにだけなりかねい。

……そんなことを再確認した次第です。

さて……。

本日は、熱燗でいっぺえやって沈没しようかと思います。

大澤酒造株式会社()長野県の「本醸造 明鏡止水 お燗にしよ」にて熱燗。
熱燗専用酒にてまったく諄くなく驚き。

燗酒特有の「もわっ」と感が全くなし。やばい酒ね。

今日はサクッと沈没です。

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【覚え書】「今週の本棚:五百旗真・評 『アジアの激動を見つめて』=ロバート・A・スカラピーノ著 岩波書店・3150円」、『毎日新聞』2010年11月7日付。

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「今週の本棚:五百旗真・評 『アジアの激動を見つめて』=ロバート・A・スカラピーノ著 岩波書店・3150円」

 ◇戦後アメリカの成熟した民主主義者
 本自伝の著者は、一九一九年パリ講和の年に米カンザス州の小さな町に生れた。当然ながら、第二次大戦が勃発(ぼっぱつ)した時は二〇歳であり、カリフォルニアの大学にあってヨーロッパ国際関係に興味を持つ一学生であった。その後、若者はハーバードの大学院に進み、「なぜ国際連盟は失敗したか」をテーマに修士論文を書こうとしていた。このヨーロッパ研究者たらんとする若者の進路を、「真珠湾」がねじ曲げた。

 若者は米海軍の下で一五カ月の日本語集中訓練を受け、大戦末期に情報将校としてハワイへ、そして沖縄の戦場へと送り込まれた。終戦とともに大阪へ、さらに東京へと進駐し、丸山眞男や辻清明らの学者と知り合った。翌年帰国すると、若者は再び大学に戻り、戦前日本における民主主義の発展と挫折についての博士論文をライシャワー教授の下で書いた。こうして日本は卓抜した学者を手に入れた。日米戦争は余りに悲惨であったが、しかしそれを機に、さもなくば日本に関(かか)わらなかったであろう優れたアメリカの人材群が日本研究に参入した。

 著者は九一歳で健在であるが、占領期の任務の後も、四〇回以上日本を訪れたという。私自身、一九七四年にカリフォルニア大学バークレー校に教授を訪ねて以来、国際会議などで何度かおめにかかったことがある。教授の発言は、一見きらびやかではなく地味であるが、大局の中で要点を的確にバランスを失わず語る風であった。認識と情緒の安定したまともな大物として信頼され、大をなしておられた。

 学界だけでなく、政界と社会でもスカラピーノ教授が知られるに至ったのは、一九五九年のコンロン報告の執筆によってであった。それはフルブライト上院外交委員長に提出されるアメリカのアジア政策についての報告書であった。その中で教授は、日本の近代化と戦後の民主化および始まっていた経済発展に注目した。日本の政治社会には古い土着的要素が残存し問題とされるが、教授は同時に伝統文化を近代化の中でも失わず結び合わせる日本人の能力を高く評価した。教授は六〇年安保前に、日本に高まるナショナリズムと対米対等化の衝動をこなして日米同盟を守り、アジアにおける日本の地位を高めること、そして沖縄については返還に合意すべきことを説いた。

 報告書の焦点は、日本以上に自力更生に苦闘しつつ核保有に近づく中国であった。「共産党政権は崩壊するか否か、といった議論は無益であり、重要な問題はむしろ、国力の高まった中国がアジア地域で軍事的膨張をはかったり、他国に不当な圧力をかけたりするような事態を防ぐことができるかどうかである」。これが五〇年前の記述であろうか。教授は中国に対する「孤立化による封じ込め政策」と、ただちに「国交を回復し、国連加盟を承認」論の双方を斥(しりぞ)け、民間レベルから段階的に関与を深め、中国の対外姿勢を確かめつつ誘導する方策を提案した。

 重要なことは、教授が東アジアの現地を足繁(あししげ)く訪ね、実情を確かめたうえで議論していることである。本書を読んでの最大の驚きは、日本に劣らず、東アジア各国から、東南アジアや南アジアの奥地まで、通りいっぺんでなく繰り返し訪ねていることである。どこにこれほどの時間とエネルギー、機会と好奇心があるのか。ディー夫人や子供たちとともに冒険的な旅行を行った話が続くが、実は個人的体験がその国の歴史の中に位置づけられ、各国の社会変化と政治発展の実情が描き出されて行く。自伝の形をかりた愛情豊かなアジア論の書といえよう。

 著者は民主主義を根深く奉ずるリベラルであり、それゆえに反共主義者である。南ベトナムの現地調査に基づき、人々が共産化を望んでおらず、また共産化が東南アジア地域全体に不幸な影響をもたらすと判断し、教授はベトナム戦争を支持する立場をとる。あのベトナム反戦の時代に、とりわけバークレーのキャンパスで教鞭(きょうべん)をとる者にとって、それがどれ程厳しいことであったか。受難に耐え、教授は事実に基づいて自ら信ずるところを説いて譲らない硬骨漢でもあることを示した。

 本書は現代のアジア各国が「国際主義」「ナショナリズム」「分離主義」の三つの挑戦にさらされつつ進む様相を描き出すが、著者は自らの視点を「慎重な楽観派」とする。日本だけでなく、韓国や台湾も、豊かさと民主主義を手にするに至ったが、それは一朝にして成ったのではなく、長い苦闘と回り道を経てのことである。各国はそれぞれの文化とプロセスを持つ。外部から民主主義を強要することは「控えめに言っても危険」である。アジア各国の民主化を長期的に期待しながらも、アメリカは「さまざまな政治体制と共存することも受け入れていかねばならない」。ここには情熱的だが生硬なネオコン的民主主義とは全く別種の、成熟し英知を伴ったアメリカ民主主義の姿が浮び上がる。教授のバークレーでの教え子であり助手をもつとめた緒方貞子氏の心のこもった解題と併せて、一読をすすめたい。(安野正士・田中アユ子訳)
    --「今週の本棚:五百旗真・評 『アジアの激動を見つめて』=ロバート・A・スカラピーノ著 岩波書店・3150円」、『毎日新聞』2010年11月7日付。

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アジアの激動を見つめて Book アジアの激動を見つめて

著者:Robert A. Scalapino,ロバート・A.スカラピーノ
販売元:岩波書店
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我々の認識がすべて経験をもって始まるということについて

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 我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。我々の認識能力が、対象によって喚びさまされて初めてその活動を始めるのでないとしたら、認識能力はいったい何によってはたらき出すのだろうか。対象は我々の感覚を触発して、或はみずから表象を作り出し、或はまた我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して、感覚的印象という生の材料にいわば手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験と言われるのである。それだから我々のうちに生じるどんな認識も、時間的には経験に先だつものではない、即ち我々の認識はすべて経験をもって始まるのである。
 しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。その訳合いは、恐らくこういうことになるだろう、即ち--我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの〔直観において与えられたもの〕に、我々自身の認識能力〔悟性〕が(感覚的印象は単に誘因をなすにすぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの〔悟性概念〕が付け加わってできた合成物だということである。ところで我々は、長い間の修練によってこのことに気づきまたこの付加物を分離することに熟達するようにならないと、これを基本的な材料即ち感覚的印象から区別できないのである。
 それだから経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識が実際に存在するのかという問題は、少なくとももっと立ち入った研究を必要とし、一見して直ちに解決できるものではない。かかる認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれて、経験的認識から区別せられる。経験的認識の源泉はア・ポステオリである、というのは、その源泉が経験のうちにあるということである。
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 (上)』岩波文庫、1961年。

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つーか、風邪が全然なおらんのやけれども・・・とぼやきつつ、アルコール消毒を念入りに行う深夜です。

生産性が怖ろしく低下することは承知なのですが、マアこれをやらなければ人生は始まらないというわけで、仕事をしながら夕方、市井の職場の屋上に上るといいかんじで夕日が映えておりましたので、ぽちっと一枚w

カント(Immanuel Kant,1724-1804)が指摘する通り、「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない」わけです。

しかし、同時に、「しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない」ということも理解できます。

たしかに「夕日」という一言によって表象されるイメージというものはあるのですが、その千差万別な一瞬一瞬に「感動」する人間という存在は、すべて「経験」に基づくモノにしか感動しないわけではありませんから……。

つーうことで、今日はかる~く呑んで寝ます。

プレミアムモルツの限定の「黒」がウマイです。

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純粋理性批判 上   岩波文庫 青 625-3 Book 純粋理性批判 上 岩波文庫 青 625-3

著者:カント
販売元:岩波書店
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純粋理性批判 (上) (平凡社ライブラリー (527)) Book 純粋理性批判 (上) (平凡社ライブラリー (527))

著者:イマヌエル・カント
販売元:平凡社
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純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫) Book 純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

著者:イマヌエル カント
販売元:光文社
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くたばれ、国民国家主義者ども。リアルに〝司牡丹(高知県・純米酒/+8)「龍馬からの伝言 日本を今一度せんたくいたし申候」〟じゃ

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 教会の仕事を担う牧師の仕事を遂行する際には、教会の定めに従って、自分の名ではなく教会の名のもとで語らねばならない。自分の考えにもとづいて教える自由な権限はあない。牧師は、「わたしたちの教会ではしかじかのことを教えています」とか「教会は教義の証明のために、これを証拠として使っています」と語るだろう。そして自分では確信を持って支持できないとしても、教える義務があると判断すれば、教区の信者たちに実践的に役立つと思えるすべての教義を活用するだろう。こうした教えのうちに真理が潜んでいる可能性も否定できないからであるし、内面的な宗教生活に矛盾するものがそこには含まれていないからである。あもしも矛盾するものが含まれていると考えるならば牧師としての職を続けることはできないはずであり、職を辞すべきなのである。

 だから、教会から任命された牧師が、教区の信者を前にして理性を行使するのは、私的な利用に過ぎない。教区の集まりは、それがどれほど大規模なものであっても、内輪の集まりにすぎないからだ。この理性の私的な利用の場合には、牧師は自由ではないし、他者から依託された任務を遂行しているのだから、自由であることは許されない。ところが同じ牧師が学者として、本来の意味での公衆に、すなわち世界に向かって文章を発表し、語りかける時には、理性を公的に利用する聖職者として行動しているのであり、みずからの理性を利用し、独自の人格として語りかける無制約な自由を享受するのである。公衆の後見人である聖職者が、宗教の問題に関して、自らも未成年であるべきだと考えるのは不条理なことだ。こうした不条理な考え方は、その他の不条理を永続させる結果をもたらすだけなのだ。
    --イマヌエル・カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か  他3編』光文社古典新訳文庫、2006年。

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尖閣ビデオ流出したみたいですねえ。

はっきりいってどうでもいい。

中国がぶつかってきたことは明らか。

粛々とやる必要もないし(というか貫徹できなかったウンコの宦官にも問題あるけどこの議論も措く)、目くじらを立てる必要もない。

※徹底するなら衝突時点でぶっこわせばいいんでしょ。透徹した国民国家主義者からすれば。

しかし「いい子」を演ずる国民国家主義者は、判断停止というのがウンコの宦官政権。

判断できないというのはカント(Immanuel Kant,1724-1804)が『啓蒙とは何か』(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung,1794)で示したとおり、未成年の状態。

レーニン(Vladimir Il'itch Lenin,1870-1924)が日露戦争の時に、「うら若き少年のような日本」と表現しましたが、「うら若き少年」どころか、「間抜けな少年」というのがその実情。

さて戻ります。

要はどこで大人になるか……ということじゃないのでしょうか。

ここでいうのは「すべてをわかった」といって現状肯定する大人ではありませんゼ。

要するに矛盾と真理を両眼で見ている大人ということですよ。片目をつぶると少年になるか諦めた大人になるかなのでw

強者の物取りゲームで創られた枠組みであるにもかかわらず、弱者のルサンチマンを満たす役割となったものが国民国家という想像ですよ。

というか、この種の議論における古典的教科書ともいうべきB.アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson,1936-)ぐらい読んでますよね。

悪いけど、頭の悪い奴が多すぎる。

国民国家がウソッパチというこは第一次大戦の終結ではっきりしたじゃないですか。

そもそも破綻をきたしている19世紀西洋で発明された「国民国家」のルールで議論を続けているから無益なわけよ。

ウソッパチを徹底していくのは真面目な子供。

ウソッパチを利用しつつ、そこから意識的に逸脱して好き放題するのはならず者。

そしてその喧嘩の漁夫の利をえるのは金持ちの息子。

真面目な子供は、ウソッパチの構造を実体化して、ウソッパチの正義を疑わない。

ならず者の子供は、ルールを拡大解釈しようとする。

そして金持ちは喧嘩しません。

いつまで子供の喧嘩をしなきゃいかんのじゃろうか。

そうひしひしと思います。

対処できなかった宦官政権に問題があることは承知ですから、それをその枠内の議論として精査していくことは枠内の議論としては必要ですよ。

しかし、それを繰り返さない為に、「それはそんなもん」「ウソッパチはウソッパチ」ってわかってうえで、新しい枠組みをデザインする議論を同時にやらなきゃいかんと思うのだけれども、、、ハア、よね。

「喧嘩売られたから買う」って事は無限遡上していく議論ですよ。そんな議論に乗る必要などないんじゃないかと思うし、それが成熟した「大人」(@カント)になるってことだと思うのですが……。どうなんでしょうか。

そもそも「国民」って誰よ???

「国家」の為に「死んだ」「国民」は存在するけど、「国民」の為に「死んだ」「国家」は存在しませんよ。

そもそも国家だとか、国民だとかという存在自体がウソッパチの共通了解にしかすぎないのに……。どこまで「子供の議論」を続けるのでしょうか。だから、アナキストにならざるを得ないわけですよ。洗練すればリバタリアンですけど。

この21世紀に万世一系の純粋な日本人「なるもの」が存在していると思うのですか?
イデオロギストはそれでよしとしますが、そうでない場合で「そうよ」って理解するのは脳天気すぎでしょう。

アイヌの人々なんか「を」どのように理解するのでしょうか。「土人法」でしょう。単一民族神話を煽りながら、排除していったのがその歴史ですし、まさにここがレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)のいう「同一化」の暴力の問題なのだと思うのだけれども(諄いけど「中国」も同じだけど)。

我がことになると、みんな「頭に血が上るのか」。それよりもっと考えなければならないことは優先順位としてあると思うのだけれども、まあ、こう考えるのはマイノリティということか。

頭イタイわ。つまらんことで騒ぐもんだ、「ナショナリスト」という連中は。

ナショナルは「Panosonic」にブランドを統一したのにねえ。

ナショナリズムというもの自体が、すでに前世紀以前の遺物なのだよ。このカテゴリーで議論を続ける限りあらゆる問題は解決不可能であることを附言しておく。

「開結」するためには、それを「ウソッパチ」として認識して脱構築するしかないわけネ。あ……。しかしデリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の言う「脱構築」でやってしまうと、実は声なき声を当てはめる暴力が存在するから、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)のそれでね☆

いずれにしても、流出といい、こうしたことであつくなってさせてしまう話題提供というのは、考えなければならないことに目つぶしをさせてしまう利益誘導であることだけは確かだろう。誰がどうのというわけではないけれども……。

くだらん。熱で頭が痛く、酒呑んで気持ちよく消毒して帰宅したのに。なんたるちあじゃ。

大滝秀治(1925-ばりに「つまらん」ぢゃ。

くたばれ、国民国家主義者ども。

そして、くたばれ、優等生ども。

つーか、調子がわるくて(微熱、しかも年間2/3がそういう状態なので、強烈な消毒が必要だという意味では一般的なレベルで〝調子がわるい〟)、仕事が済んでから飲み屋でアルコール消毒したのに、帰宅してから、ニュースにもんどりがえっておりますわ。

ほんと、ええ、かげんしてくれ。

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永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) Book 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

著者:カント
販売元:光文社
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「不正を憎んで正義を愛する」天秤

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 アテナイからの客人 では今度は不正にもとづく損害や、また利得、--つまりそれはひとが不正を働いて、ほかの誰かが利益を得るようにしてやった場合のことですが--、これらは、そのうちで治療の見込みのあるものにかぎり、魂のなかの病気だと考えて、治療してやるべきです。そして不正に対するわたしたちの治療は、次のような仕かたで行われるのだと言わなければなりません。
 クレイニアス どんな仕かたによるのですか。
 アテナイからの客人 こんなふうにするのです。ひとが何であれ、大きなことでも小さなことでも不正行為を犯したときには、法律は、あたえた損害の賠償をさせたうえに、その人を教えたり強制したりしながら、二度と再びそのようなことを自らすすんでは敢えて行わないようにさせるか、あるいは、そうすることが以前と比べてはるかに少なくなるようにさせるべきです。そのための手段としては、行動を用いてもよいし、言葉を用いてもよい。あるいは、快楽や苦痛、名誉や不名誉、罰金や褒賞を用いてもよいし、また総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何かの手だてがあるのなら、そのものによってもよい。とにかく、そうすることがまさに、最も立派な法律のなすべき仕事なのです。
 しかしながら、そういったやり方をもってしても治療不可能な状態にあると立法者が認める者がいるなら、その者たちに対しては、どんな裁きや罰則を科すことになるのでしょうか。すべてそのような者たちの場合には、これ以上生き続けることは、当の本人自身にとってもより善いことでないばかりか、彼らがこの世を去るなら、他の人たちを二重に益することにもなるだろうことを、立法者は知るでしょう。二重にというのは、他の者たちに対して不正を働いてはならぬという見せしめになるとともに、国家から悪人が取り除かれることにもなるからです。そして立法者は、そのことを知ったなら、そのような者たちについては、罪の懲らしめとして必ず死刑を科すことになるでしょう。しかし、その他の場合にはけっして死刑を科すことはありません。
 クレイニアス あなたの言われたことは、ある意味で、たいへん適切であったように思われます。けれども、不正と損害の相違、また「故意によるもの」と「故意によらないもの」の相違が、それらの事柄のなかでどのように入り組んで複雑なものになっているのかという、そういった点をもっと明確に説明してくださるなら、わたしたちはよろこんでお話を聞きたいのですが。
    第9巻・六・862C~863A
    --プラトン(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)『法律(下)』岩波文庫、1993年。

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 われわれが正義をひとつの「理想」として語る場合、それはどんな人間、どんな組織制度のうちにもまだけっして完全には具現されていないかもしれないということをも意味している。それはわれわれの心のなかにある思想や観念という意味での単なる「アイデア(考え)」ではない。というのは、われわれの心にある諸観念は混乱し相矛盾するものだからである。それらは正義がそれ自体として何であるかについてのぼんやりして不適切な把握でしかない。正義それ自体は思想ではなくて、思想の永遠的対象である。われわれが是認する行為なり制度なりに与えるこういった名辞は、真実には人間的完成という絶対的理想の構成要素に帰属する名辞である。その理想こそは万人が希求すべき終極目的であり、地上においては実現されたためしのないほとんどない規範として天上高く掲げられている。さればここにこそ、すなわちその理想を知り、承認することにおいてこそ、変革された新たな社会が存立すべき揺るぎなき基盤はある。この知を追求し、すすんでそれを承認することが知恵を愛する者だということであり、(もし人間にとって可能なら)それを所有することが知者であるということだ。
    --F・M・コーンフォード(山田道夫訳)『ソクラテス以前以後』岩波文庫、1995年。

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スンマセン、読者諸兄。
休日にかかわらず朝から息子殿の授業参観(明日まで)w
3時間寝て出発w

帰宅してから夕方まで論文の資料の精査と授業の準備。

済んでから市井の仕事・・・。

先程帰宅なうヨ。

古代ギリシアにおける正義論の系譜を少しまとめようかと思ったのですが、もはや息切れ。

入力だけはしておいたので【覚え書】としてupしておきます。

スンマセン。

ただひとつ。

justiceとしての正義はどこまでも「天秤」を持つ「正義の女神テミス(Themis)」で表象されるということを忘れてはいけませんゼ。

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サンデルを読む前に、ゲーデルを読め

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数理経済学者 もちろん、政治形態としての民主主義に異議を申し立てるつもりはありませんが、アロウの不可能性定理が明確に示しているように、多数決の原理そのものに大きな方法論上の欠陥があることは認識しておくべきだと思います。

司会者 そうですね。アロウの不可能性定理といってもあまり知られていないようですが、もっと幅広く議論されるべき重要な結果だと思いました。
 さて、ここまでのお話で、集団の社会的選択を理性的に行うことがいかに難しいか、その限界はどこにあるのかが見えてきました。それにしても、パラドックスや限界が生じるのは集団の話であって、個人の合理的選択とは別なのではないでしょうか?

情報科学者 いえいえ、必ずしもそうではないと思いますよ。
    --高橋昌一郎『理性の限界』講談社現代新書、2008年。

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高橋昌一郎先生の『理性の限界』(講談社現代新書、2008)を再読しています。

先生の『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書、1999)も実は出版された時に、「ゲーデルを踏まえておかないと」って読んだのですが、再読後の読後感を少し連投します。
※ホントはもっと整理して論じるべきですが、そうゆう「勢い」というのも大事かと思い、少し手を入れてのアップです。

先に言及したとおり、最初に読んだときは、正直「ふ~ん、そんな考え方もあるんだよね」と素通りしてしまったことを恥じます。

9月からキチンと数学者・論理学者・ゲーデル(Kurt Gödel,1906-1978)を読もうというのが課題で再読を開始しました(先ずは『理性の限界』から)。

先程、序章、第一章を読み終えました。

再読にあたり、アロウ(Kenneth Joseph Arrow,1921-)、アクセルロッド(Robert M. Axelrod,1943-)、そしてノイマン(John von Neumann,1903-1957)あたりを併せて読み直したのですが、いやー、驚きましたw

まだゲーデルには至っておりませんが、正直、脱帽しました(……ってアタリマエの話ですが)。

邦訳含む原著は対象箇所前後しか摺り合わせておりませんが、御意。

俗な言い方で失礼かもしれませんが、よくぞココまで、まとめあげたっ!って驚きでひっくりかえりました。森巣博さんが姜尚中氏との対談で「新書は、100知っている人間が10で書く」(趣意)と言っていましたが、その美しい模範がこの本だろうなあと驚きです。

二章以降も同じように摺り合わせながら読んでいこうと思うのですが、いやはや知的好奇心が収まりません。専門は神学ですので、専門をやらずに(やっていないわけではない!)、何やってんだかと思うところはありますが、再読してよかったと思います。

さて一章までゆっくり読み直しながら一つ回路が接続されたところがありますので、そちらも書いておきます。

要するに、フィクションをフィクションとして受容するということ。
そしてフィクションだからといって潰す必要もないけど、それを決して実体化させないこと。
そんなところを考えさせられました。

政治哲学者・マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)が日本で「受ける」ところに少し違和感があったのですが(議論が無駄というわけではないのですが)、アメリカだからこそその議論がやっぱり出てきたんだよなあというというところが氷塊です。

不可能性定理からのアプローチではなく、伝統的な旧大陸から思弁哲学の議論のそれですが、アメリカという土壌は、基本的に共通了解が存在しない地域です。

だからアイデンティティを人為的に立ち上げなければならないわけです。
実体化したフィクションがないんですよ。だからフィクションを意識的に立ち上げる必要があるということ。

それがいい意味ではアメリカのもつ積極的に評価されてしかるべきエートスだよなあと思っています。アメリカとは逆に文化的「連続性」が長い地域は、共有された「伝統」を優先し、文化や国家を実体化する眼差しが顕著で、それがひとつの不幸を生んでいるのです。要するに「○○年の伝統」とか「万世一系の」式の類です。

人為的国家・アメリカの場合、そうした蓄積された伝統がありません。
ですから、それを擬似と了解したうえで立ち上げていかなければならない……そういう筋道になるのですが(※そしてその負の側面はひとまずおきますが)、文化や国民国家という制度やシステムが仮象にすぎないことを承知した上で、導いていく……そうした文化が濃厚です。

だから人種的な議論としてアメリカ人を特定できないけれども、共通認識としてアメリカ人を立ち上げていく筋道になりますが、学問の分野ではやはりどこまでいっても、仮象を仮象として了解してそれをやっていく。

そこが旧世界にはない、冷徹したところなんだよなあ……と思っておりましてだからこそ「正義」が議論として出て来るということを感じていたのですが、それを別の側面から了解することができたと思います。

前者の流れで行くと、要するに、共通了解がないから「正義」を「さしあたり」の議論として立ち上げていかなければならない……わけですよ。
※もちろん、同志社の森孝一先生が指摘する通り、実体を帯びてしまうキリスト教「主義」の問題はあるのですが、これもひとまず置きます。

だから、コミュニタリアンだとかリバタリアンだとか立場は別にしても、異なる消息の人間同士の共通了解を意図的に立ち上げていかなければならないという課題が必然なんです。

旧大陸だとか血縁社会の濃ゆい日本なんかですか「無言の圧迫」とでもいうべき「同化」の強制作用として累積されたエートスが稼働しますから、そんな共通了解を立ち上げる必要はねえよ、「お前も日本人だろう」式の実体論がメインストリームなわけなので、正義論のリアリティがありません。

要するに、正義論が歴史的構築物にすぎないにもかかわらず「常識」としての実体論として流通するから「考えるまでもない」ってなってしまうんです。

⇒しかしこれは逆に異質な他者を排除する構造として機能してしまうわけですが……。

だから、サンデルのショックは、ショックを与えはしたのでしょうが、たぶんブームとして終わるだろうなあ~……ということ。

来年はブックオフで山積みだろうなあ~。

学生時代は学生運動でヘルメットかぶるけれども、大学3年生後半で髪を染め直して就職活動するように……って危惧があったのですが、まあ、たぶんそうなるだろうねえ。

さて旧世界からのアプローチに戻ります。

要するに伝統的形而上学においては、正義は議論の対象となることが稀です。
何しろメインストリームは真善美ですからね(特に新カント派)。

だからどこまで行っても、正義は仮象の範疇にとどまり続けるという寸法です。
※諄いけどその善悪は措く。

プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)なんかが『国家』で正義を話題としてはふっておりますが、最終的には善のイデアに従属していきますし、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の目的論(『ニコマコス倫理学』)でも、最高善(=幸福)に従属されますし、フラタニテ(友愛)があれば「正義は無用」なんて最後にいっている通り。

だから本質的には、「正義論」はどこまでいっても仮象における「さしあたりの議論」にしかすぎないということなんですよね。

それを、文化土壌を燃料にして「実体化」(これもウソッパチなんだが)している地域では、「仮象」としての「さしあたりの議論」が見抜けないんだろうねえ・・・。

その意味では、笑い話ですが「これからの正義を語ろう」ではなく「さしあたりの正義を語ろう」が正しい副題かなあとは思いますよ。ふふふ。

などとおもって理解していたわけですが、不可能性原理はまた別の側面から、その議論を照射してくれた……そんな感慨です。

要するに「人間の合理的選択」が論理的に不可能であるわけだから、そこから「さしあたり」の「善さ」のレースをしていかなきゃいけないのが筋道であるから、「仮象」とらえて、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)的に言えば「ダブルバインド」として、議論をしなきゃいかんのだけど。

どうも伝統が重みを持っているところではその「仮象」が見抜けなくて、実体と措定して、「神々の殴りあい」をやっちゃう不幸に辟易とはする次第ですが、その出発点、要するに認識論・論理学としてはこの辺を最初にやっておかないとorzにはなるよなあ……と。

神学徒が「倫理学」「哲学」を講じておりますが、「応用倫理学」とか「倫理学(哲学)演習」なんかがあれば、その教材としては、これは最適ですね。

てか、サンデルを読む前に、対話の議論、流儀として「不可能性定理」、「不確定性原理」、「不完全性定理」を踏まえないと話にならないよなあというのが率直な感想です。

「不可能性定理」という出発点があるからこそサンデルの議論が有意味なわけなんですよ。

その共通了解を欠如したまま、スタイルとか議論の流れに乗ってしまうと、ホント、就職活動でヘルメットを脱ぐ学生さんでおわっちゃうだろうねえ。

すいません、イミフな事を連投してすいません。

すこしねえ、アロウ、アクセルロッドあたりと併せて読むと、この本の有効性を……すなわち議論のテーブルに付く前のテーブルマナーを教えてくれるようでねえ、感動のあまり連投した次第です。

ああ、それから、もひとつ。

ゲーム理論が本朝ではゲームに終わっていることも了解できました。
本来のゲーム理論は功利主義的数値理論の正邪を目的とした理論(目的論)ではないということ。あくまでも認識論。これを欠如して経営学でやるから不幸なんだろうなあ。

あ、それからくどいのですが、サンデルを読む前に、ゲーデルを読め……ということ。

行動規範が広く長く定着している地域は、有限性の自覚がないから、仮象をすべて実体として誤りますよ。

議論に参加することは大切なのですが、例えば、頭に来て相手をぶん殴らないとかってマナーってあるやないですか。

ゲーデルの議論を踏まえることはその流儀を学ぶことだとは思いますよ。

だから極左と極右が同根であることすら、当事者は理解していないという「神々の戦い」をやるのよねえ。仮象とみぬけば議論できるはずなんだが、実体としての認識しかないから、すぐに手がでる(苦笑 見ていてお粗末。

まあ、しかし、本朝のプラトン過ぎ(主義でなく「過ぎ」)な、経緯を励行する「正義論」は、ヤン提督(Yang Wen-li,宇宙暦767-800)が「保守と退嬰が手に手を取ってダンスしてる」と喝破したとおりなのやろうねえ。

ダンスでハアハアするのやけれども、それが夢幻だと喝破できない(涙)。

ゲーデルついでなのやけど、ノイマン再読して思ったが、ゲーム理論って、勝ち負けレースを商売指南するのではなく、認識論的出発点にしかすぎなかったのに、どこでどう変容したのかわからんのですが、その認識が、結果として勝ち負け理論になったのか……きわめて悩むって感じですよ。

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量子世界へ立ち入るには、この悟りが必要

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 波動・粒子の二重性やこの種の同等性は、私たちマクロ世界の住人にとって、どのように不可思議なものであっても、ミクロ世界の現実として受け入れざるを得ないものである。論理も当然違ってこよう。その世界の論理をその世界の実験結果に即して組み立てていくのが物理学者の任務である。人間社会とその歴史に密着した哲学的思弁だけで処理できると思うのは、おそらく人間の驕りだろう。量子世界へ立ち入るには、この悟りが必要である。
 量子世界を語る言語としては、数学がもっとも適している。しかし、今のところ、数学は特殊な訓練を受けた人だけがわかる言語であって、日本語や英語など日常的な言葉に翻訳することは容易でない。この本でも、読者は筆者のまずい翻訳によって「靴を隔てて痒きを掻く」思いを味わうことがあるかもしれない。だが、私は招来に希望をもっている。パソコンなど情報機械の発達と普及があるからだ。将来のある日、数式をいろいろな局面から説明してくれるパソコンとパソコンソフトが発明されるかもしれない。いや、それよりも前に、基礎教育の体質が基本的に変わっていて、数学言語が普及しているという未来社会だって想像可能だろう。哲学、物理学、経済学などのジャンルは残るとしても、基礎教育における「文系」と「理系」の差は減っていくに違いない。将来、私たちは理系教養と文系教養の違いを気にすることなく、哲学、芸術、自然科学、技術、政治、経済などを語れるようになるのではないか。
    --並木美喜雄『量子力学入門 現代科学のミステリー』岩波新書、1992年。

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とりあえず読み始める。

「人間社会とその歴史に密着した哲学的思弁だけで処理できると思うのは、おそらく人間の驕りだろう。量子世界へ立ち入るには、この悟りが必要」に知的好奇心が刺激されてしまう。

「悟り」という表現はしかし、この世界へ飛び込むための、たしかな出発点でしょう。

さてワクワク。

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【覚え書】「今週の本棚:田中優子・評 『大逆事件--死と生の群像』=田中伸尚著 岩波書店・2835円」、『毎日新聞』2010年10月31日付。

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【覚え書】「今週の本棚:田中優子・評 『大逆事件--死と生の群像』=田中伸尚著 岩波書店・2835円」、『毎日新聞』2010年10月31日付。

 ◇「お国に殺された」各地の非戦論者
 大逆事件--私があまり考えたことのないこの事件に関心をもったのは、評論家の佐高信さんの、テレビでの発言だった。今年二〇一〇年は「日韓併合一〇〇年ですね」という話題の時に、「大逆事件一〇〇年でもあります」と言われたのだ。私はその言葉で、国家が外に向かって拡大して行こうとするとき、必ず内に向かって強い力で弾圧する、という構図が浮かんだ。近代国家の宿命である。外への力と内への力は同時に観察しなければならない。今年は確かに、大逆事件から一〇〇年の年である。これからのために、今年読んでおくべき本であろう。

 私のような、この事件の専門家でも近代史の専門家でもない者にとって、本書はじつにわかりやすく、理解の助けになる。おおまかに言って三つのことが見えてきた。ひとつは、当時日本全国に散らばっていた、国家にとって不都合な人々が、何のつながりも集団的結束も無いところで、任意に集団とみなされ、一網打尽に死刑に追いやられた、という事実である。このことには驚いた。何らかの運動体が形成され、何らかの目的とその遂行手順があったと思っていたからだ。

 たとえば森近運平は岡山の農業改革者で、ガラス温室を使った高等園芸を研究していた。宮下太吉は長野県安曇野市の熟練機械工だった。内山愚童は、箱根の曹洞宗の僧侶だ。大石誠之助(せいのすけ)はオレゴン州立医科大学を卒業し、カナダで外科学を学び米国で医師をしていたが、郷里からの要請で熊野新宮に戻って開業し、その後さらにボンベイ大学で学んだ医師であった。高木顕明(けんみょう)は新宮の真宗大谷派の僧侶で、部落差別の解決に尽力していた。古河(ふるかわ)力作は東京豊島区の花卉(かき)栽培会社の植木屋で、柔和な小さな人だったという。そして幸徳秋水は高知県中村の人で、新聞記者であったが、勤めていた『万朝報(よろずちょうほう)』が日露戦争開戦賛成派になったために、堺利彦とともに退社した。そういう非戦主義者だった。

 数例を挙げただけで、散らばりかたがわかる。そして本書では、このひとりひとりの人間としての姿が、生々しく見えてくる。堺利彦は事件の翌年、遺家族訪問の旅に出た。本書の記述はその後を追うように書かれている。読む方も、まるで事件直後に足で歩きながら、この出来事を検証しているような心持ちがしてくる。全国に散らばる彼らに共通しているのは、非戦論者であった、ということだけだった。著者の表現に従うと、社会は「非戦・平和の徒」に「逆徒」というレッテルを貼(は)ったのである。

 二つ目にわかったのは、昨今の地検の証拠ねつ造のごときねつ造が、おおはばにおこなわれていた、という事実である。「二六人の大半は、国民には知らされないまま闇の中で勾引(こういん)され、起訴され、判事らのつくった物語の中にはめ込まれ、演じさせられた」と著者は書く。その具体例をいくつも、本書の中で読むことができる。このようなことは、少し前であれば「戦前の日本ならそうであったろう」という感想の域を出なかったかも知れない。しかし検事によるねつ造とえん罪の創造が、現代においてもおこなわれている事実を知ってしまった我々は、幸か不幸か大逆事件を身近に感じられる位置に立ったのである。非戦論者である私は、「聞取書」がどのように作られるか、本書でしっかり勉強した。

 三つ目にわかったのは、「逆徒」というレッテルが貼られたが最後、何十年ものあいだ、今でさえ、生まれ故郷では疎まれる存在になる、という事実である。本書は岡山県高屋村にいたひとりの少女の物語から始まっている。戦後の一九四六年、国民学校六年生であった少女は父親の本棚の資料にあった「森近運平」に興味をもつ。卒業の論文を書くにあたって、町の人々に運平さんのことを聞いた。しかし誰一人として答えてはくれなかった。たったひとり「お国に殺された」と言った人がいた。運平の妹であったことが、後にわかる。

 ところで、この全国各地で数百名が検挙され、うち二六人が有罪判決を受けたこの事件は、なぜ「大逆事件」と呼ばれるのか。それは当時の刑法に第七三条「大逆罪」があるからだ。七三条は、天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫に対して危害を加えた者、あるいは加えようとした者は死刑にする、と定めている。危害を加えようとしたかどうかを「聞取書」で作成すれば、何もしていなくとも死刑にできる。この法律は一九四七年一〇月まで残っていた。

 であるから、これだけが大逆事件ではなかった。一九二三年に難波大助が後の昭和天皇を狙撃した「虎ノ門事件」、一九二四年に皇太子の婚礼に爆弾を投げ「ようとした」とされた「朴烈・金子文子事件」、一九三二年に李奉昌が昭和天皇の馬車に手榴弾(しゅりゅうだん)を投げた事件。さらに三つの大逆事件が起きていたのである。

 本書には、大逆事件に関する著作の発売禁止や書き直しの事実も詳しく書かれている。メディア統制も一種の大逆事件と言っていいだろう。その後の再審請求、明らかにするための会の発足など、この事件を風化させない様々な動きも、知ることができる。
    --「今週の本棚:田中優子・評 『大逆事件--死と生の群像』=田中伸尚著 岩波書店・2835円」、『毎日新聞』2010年10月31日付。

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大逆事件――死と生の群像 Book 大逆事件――死と生の群像

著者:田中 伸尚
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