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「このビールの味はほろ苦い」、「彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった」という二つの文に等しく当てはまる「ほろ苦い」は、現実界にはあり得ない

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 ここまでは、普通名詞を例として考えてきたのだが、他の品詞についても同じことが言えるだろう。例えば、動詞の場合、<早足で歩くことも歩くこと>、<抜き足差し足で歩くことも歩くこと>という二つの文に等しく当てはまる「歩く」は、現実の特定の歩く動作ではあり得ず、非現実的・抽象的な幻の<同じ>歩く動作、<同じ>歩くという概念の同一性としてしか存在しないだろう。形容詞を例に取れば、<このビールの味はほろ苦い>、<彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった>という二つの文に等しく当てはまる「ほろ苦い」は、現実界にはあり得ない。同じ「ほろ苦い」という形容が、一方ではビールの味について言われ、他方では人間の体験について言われているのだから、両者に等しく当てはまる<同じ>「ほろ苦い」は、ある種の抽象的な心的レベルを想定しなければ、存在しないだろう。
 「富士山」のような固有名詞の場合は、現実の富士山という指示対象が厳然と存在している。「富士山」という言葉や「富士山」の写真などの記号による情報からしか富士山を知らない人も、現実の富士山のあるところに出かけて行けば、ともかく現実の富士山の存在を確かめることによって、「富士山」という言葉の真実性を納得することができる。それに対して、「山」や「歩く」や「ほろ苦い」などの普通の語が心の中の幻の<同じ>事柄しか表していないとすれば、普通の語が言い表す事柄の真実性、つまり、普通の語の概念の同一性は、曰く言い難い問題が孕まれているようだ。
    --斧谷彌守一『言葉の二十世紀 ハイデガー言語論の視角から』ちくま学芸文庫、2001年。

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確かに、<このビールの味はほろ苦い>という文と、<彼女のアメリカでの一年間の体験はほろ苦いものだった>という文での「ほろ苦い」は、現実世界にはあり得ない。

そんなこたア、百も承知なのですが、やはり、

「先ずはビールを呑まないと始まらない」

⇒というのが、ワタクシの飲酒哲学の第一条でありまして、日本酒もワインも大好きですが、、、

「先ずはビールを呑まないと始まらない」

……というほど、ビールを愛している宇治家参去です。

しかぁーし!

冷蔵庫を開けるとビールのストックが無

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本日は市井の職場が休みでしたので、不健康きわまりない「自宅警備員」の如く?、家から一歩も出ることなく家内制手工業ならぬ、家庭内作業としての学問を遂行しておりましたので、この時間になるまで……

「ビールを買っておかなければ」

……という状況を失念したようで、、、

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しかも少々寒いのでこれからコンビニへ駆け込むというのも難儀ですから、しょうがなく、マア「炭酸系」ということで、ジョニー・ウォーカー<赤>でハイボールを作り、いつものなうをはじめたのですが、、、

やっぱり、違うんだよなア。

<ビールは炭酸系飲料である>という文と、<ハイボールは炭酸系飲料である>という文は、状況を説明した文章としてはそれぞれ成立はしているのですが、、「ほろ苦い」という形容詞でなく「炭酸系飲料」という普通名詞であるにもかかわらず、「同じ」ぢゃないのよね……。

トホホ。

明日からはビールのストックを切らさないように革命的警戒心をもって日常生活を遂行するほかありません。

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