「不正を憎んで正義を愛する」天秤
-----
アテナイからの客人 では今度は不正にもとづく損害や、また利得、--つまりそれはひとが不正を働いて、ほかの誰かが利益を得るようにしてやった場合のことですが--、これらは、そのうちで治療の見込みのあるものにかぎり、魂のなかの病気だと考えて、治療してやるべきです。そして不正に対するわたしたちの治療は、次のような仕かたで行われるのだと言わなければなりません。
クレイニアス どんな仕かたによるのですか。
アテナイからの客人 こんなふうにするのです。ひとが何であれ、大きなことでも小さなことでも不正行為を犯したときには、法律は、あたえた損害の賠償をさせたうえに、その人を教えたり強制したりしながら、二度と再びそのようなことを自らすすんでは敢えて行わないようにさせるか、あるいは、そうすることが以前と比べてはるかに少なくなるようにさせるべきです。そのための手段としては、行動を用いてもよいし、言葉を用いてもよい。あるいは、快楽や苦痛、名誉や不名誉、罰金や褒賞を用いてもよいし、また総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何かの手だてがあるのなら、そのものによってもよい。とにかく、そうすることがまさに、最も立派な法律のなすべき仕事なのです。
しかしながら、そういったやり方をもってしても治療不可能な状態にあると立法者が認める者がいるなら、その者たちに対しては、どんな裁きや罰則を科すことになるのでしょうか。すべてそのような者たちの場合には、これ以上生き続けることは、当の本人自身にとってもより善いことでないばかりか、彼らがこの世を去るなら、他の人たちを二重に益することにもなるだろうことを、立法者は知るでしょう。二重にというのは、他の者たちに対して不正を働いてはならぬという見せしめになるとともに、国家から悪人が取り除かれることにもなるからです。そして立法者は、そのことを知ったなら、そのような者たちについては、罪の懲らしめとして必ず死刑を科すことになるでしょう。しかし、その他の場合にはけっして死刑を科すことはありません。
クレイニアス あなたの言われたことは、ある意味で、たいへん適切であったように思われます。けれども、不正と損害の相違、また「故意によるもの」と「故意によらないもの」の相違が、それらの事柄のなかでどのように入り組んで複雑なものになっているのかという、そういった点をもっと明確に説明してくださるなら、わたしたちはよろこんでお話を聞きたいのですが。
第9巻・六・862C~863A
--プラトン(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)『法律(下)』岩波文庫、1993年。
-----
-----
われわれが正義をひとつの「理想」として語る場合、それはどんな人間、どんな組織制度のうちにもまだけっして完全には具現されていないかもしれないということをも意味している。それはわれわれの心のなかにある思想や観念という意味での単なる「アイデア(考え)」ではない。というのは、われわれの心にある諸観念は混乱し相矛盾するものだからである。それらは正義がそれ自体として何であるかについてのぼんやりして不適切な把握でしかない。正義それ自体は思想ではなくて、思想の永遠的対象である。われわれが是認する行為なり制度なりに与えるこういった名辞は、真実には人間的完成という絶対的理想の構成要素に帰属する名辞である。その理想こそは万人が希求すべき終極目的であり、地上においては実現されたためしのないほとんどない規範として天上高く掲げられている。さればここにこそ、すなわちその理想を知り、承認することにおいてこそ、変革された新たな社会が存立すべき揺るぎなき基盤はある。この知を追求し、すすんでそれを承認することが知恵を愛する者だということであり、(もし人間にとって可能なら)それを所有することが知者であるということだ。
--F・M・コーンフォード(山田道夫訳)『ソクラテス以前以後』岩波文庫、1995年。
-----
スンマセン、読者諸兄。
休日にかかわらず朝から息子殿の授業参観(明日まで)w
3時間寝て出発w
帰宅してから夕方まで論文の資料の精査と授業の準備。
済んでから市井の仕事・・・。
先程帰宅なうヨ。
古代ギリシアにおける正義論の系譜を少しまとめようかと思ったのですが、もはや息切れ。
入力だけはしておいたので【覚え書】としてupしておきます。
スンマセン。
ただひとつ。
justiceとしての正義はどこまでも「天秤」を持つ「正義の女神テミス(Themis)」で表象されるということを忘れてはいけませんゼ。
法律〈上〉 (岩波文庫) 著者:プラトン |
法律〈下〉 (岩波文庫) 著者:プラトン |
プラトン全集〈14〉エピノミス(法律後篇)・書簡集 販売元:岩波書店 |
ソクラテス以前以後 (岩波文庫) 著者:F.M.コーンフォード |
| 固定リンク
「哲学・倫理学(古代ギリシア)」カテゴリの記事
- 日記:コロンビア大学コアカリキュラム研究会(2014.01.18)
- 快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである(2013.05.11)
- 智を愛すること、すなわち真の哲学の姿(2012.10.26)
- 西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった(2012.10.19)
- 専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)を退けつつ、同時に「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」を排していく意義について(2012.10.12)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント