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【覚え書】吉田健一 現代ヨーロッパ政治の根拠

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 もともと政治の対象は人間であって観念ではない。しかしもしフランス革命を十九世紀の始まりと見るならば。その経緯でも解る通り、十九世紀には、観念、それも当面の問題と必ずしも関係がある訳ではない純粋の観念を目標に掲げてそれで人間を動かすことが出来た。フランス革命の場合はそれが自由、平等、博愛の三つであって、当時の政治情勢に即してフランスにとって必要だったのはそういう観念よりも既に実力を失った国王、貴族、僧侶の権力を名目の上でも削減し、経済力と隣国との友好関係の回復を図ることで、政治の常識からすればもしそういう政策が取られれば国民がそれに付いて来るはずだった。しかし自由、平等、博愛が決して空念仏でなかったのはマルセイエェズの国歌の文句を今日読んで解ることで、これは観念で政治をするという長続きするかしないかは別として画期的な役割をヨオロッパで率先してフランスが果たしたということであり、ナポレオン自身が後に帝位に即こうと、あるいは彼が共和国を作ったのと同じ無造作な具合にやがて幾つもの王国を始めることになったのだろうと彼が実際にしたことは、これもカアライルが指摘している通り、彼の天才の破壊力を用いて平等の観念の延長である万人に立身の道をという原則をヨオロッパ全土に亙って広めることだった。
 しかしそれを建設的な仕事と称する前に考える必要がある。そうして誰もが身を立てるのになくてもいい障碍に妨げられないですむというのはそういう障碍があるのよりも増しなことなのに違いないが、その先で一人の人間が身を立てるのが本当なのでこれは事情がどうだろうと何かの障碍を乗り越えてのことであり、そうするのに余計なことに邪魔されなかったというのはその人間に与えられた条件の一つ、それもそれほど大きなものでない条件の一つに過ぎず、やがてはその種類の邪魔がないというのが単なる常識になって終る。そこに一つの観念に奉仕すること、従ってまた、観念で政治をすることの限界があって、その観念が普遍的なものであることはそれがどのような観念であっても、その凡てを含み、またその根源でもある人間の観念の複雑さを置き換えるに至らなくて、その観念が神や仏である時にはそこに信仰の劇が約束されていても、そうでなくて一つの観念が普及し、確認されることは人間の条件の一つが一般に受け入れられたということに止り、人間の劇が始まるのはその後、あるいはそれと無関係にである。
 それでも政治家がそうした原則が前提になっての言説をなし、こえが前提になっているということで政治が行われるのは十九世紀のヨオロッパになってからのことで、それは今日まで続き、我々も何々主義とか三大原則とか四大原則とかいうことを聞かされるのに馴れている。確かに十九世紀のフランスの政治家であるギゾやティエェルはまだフランスの栄光を讃えるということをしたが、それはフランス革命ということに結び付けてであり、フランス革命は自由、平等、博愛の勝利だったので、それを思う時に十九世紀のヨオロッパというものの退屈が漸く我々にも身近に感じられて来る。その自由、平等、博愛はそれが犯されればそれを防がなければならないもので、そうでなければそれは空気も同然であり、それが解っていてもその観念のために血が流され、国が危殆に瀕し、またその挙句に国がヨオロッパに君臨することにもなったのならばやはり自由、平等と唱える必要があって、ここにもヨオロッパがヨオロッパでなくなることにその面目を賭けた跡が窺える。
    --吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年。

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