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読書とは登山」かあ、なる程!だから読んでる途中で気を失うのか!酸欠で

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 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である、。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。だが、発条(ばね)に、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう、。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。書物は食べることによってではないく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
 さらに読書にはもう一つ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
    --ショウペンハウエル(斉藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫、1983年。

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くどい話の再録。
日曜の……正確には日付がかわって月曜日……深夜に、読書に関して少し「吠えて」いたようなのですが、やっぱり大事かなと思ったので少し手を入れて載せておきます。

私:ただあれだけはたしかだよね。本を読む人は読むけど、読まないことを「忙しい」を理由に読まないというのは理由になっていないと思う。本格的に人間と格闘するうえでは、人間の「記録」である古典と格闘しなければならないはずなのですが、
  それをねえ……。
  「忙しい」というのは理由になりませんよ。

私:もちろん、アンタは大学のセンセ(ウンコの非常勤ですが)だから「読む」だろうけどサ、こっちは世間と格闘するサラリーマン(乃至は主婦)なのよんw……とかっていわれても、ワシも一般の仕事しているし、学問の専門職でも読まない奴もいるし……。
  その意味では、それは、まさにそれは理由になりませんよ。

私:だからテレビをみないわけ。
  テレビを見ている時間があるならば、読めばいいじゃん。
  テレビ見ながらでもいいとおもうよ。
  要するに大事なのは「俺には向いてない」とか「読書に慣れていない」とかっていう式の「苦手」というのは理由以前だということ。
  時間がないというのも同義。
  テレビ見てノンデル暇があれば読めるということ。

私:きちんと、読むべき本は読まないと怖ろしいことになると思うわ。
  一書との出会い、そして人との出会いというのは「邂逅接触のなかから、真に新しい創造といったなにものかが発生する」(@トインビー)結合点なわけですよ、はい。

私:こんな基本中の基本をつぶやかなければならないことにorzだ。糞。

Aさん:そんな人達も、ゴシップと流行雑誌とお買い得物チラシだけはしっかり読んでますよ!!

私:ホントマジで理由になっていない。自分の知己のペンキ屋の青年は3年で1000冊の古典を読んでいましたワ。

……というか全ての日本酒が蒸発したという件

Aさん:「ホントマジで理由になっていない」んですが、発想転換すれば、そういう雑誌が古典連載すればいいんですよ♪w

私:ほう、おもろいやんけ、古典を新聞や雑誌で新訳連載すればオモロイことに!

Aさん:ファッションや恋愛論なんかに絡めれば多方面に開けるんですけどねw 「啓蒙」はジャーナリズムの重要要素だったはずw

私:そう。可能性は大なのです! がぁ……現状は涙かw

Bさん:突然失礼します。自分は療養中なのですが、余り長い文章が読めません。読めたとしても一度にしっかり読めるのは、新聞小説くらいの長さです。それでもやはり、本や古典に挑むべきでしょうか。

私:いきなりエベレストに登攀することは不可能ですよ。読む習慣づくりから始める。一日一頁だけでも読むことから初める……というのでは大きな違いはでると思います。
  要するに大切なのは、良書を手もとに置かないことに慣れないこと。
  くどいけど、近くにいい本を置いておけばいつか読む。
  本を読むことに慣れていないのであれば、絵本……絵本作家・佐野洋子先生の逝去(1938年6月28日-2010年11月5日)には涙……でもいい。
  活字に慣れる環境を自分から作っていく。そうした努力を惜しまないことが大切ではないでしょうか。

私:基本的な土壌がないことは恥ずかしいことではありません。
  しかしそこからどう展開していくかが大事なんです。
  絵本を読み直すことからでもひとつの始まりです。
  しかし、そこを拒否しない自分を作っていくことこれが大事かもしれません。

私:毎度ながら、えらそーでスイマセン。っていつも偉そうか(涙

てか、ビールのスットクも消えたぞ。

Bさん:了解しました。読みやすいものから、読みたいと思うものを、少しずつ読むことにします。ありがとうございます。

私:諄いですが無理する必要はないんです。
  しかし「苦手」と言って避けないように習慣づけるしかありません。そして、これが大事。

私:なにしろ、佐野洋子先生の「百万回生きたねこ」(講談社、1977)は、息子殿に100回以上は読み聞かせしましたわ。

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Cさん:読書とは登山」かあ、なる程!だから読んでる途中で気を失うのか!酸欠でw

私:だから深夜の私はいつも高山病の毎日w

Bさん:昔はよく「読書に挑戦!」と読んでました(トインビーの「歴史の教訓」も読みました)が、病気になってからは読むとしんどくなるような気がして避けていました。ですが今まで自分に持っていた偏見を無くして、身に合った読み方をすれば大丈夫だと思いました。

私:決して無理してはいけませんヨ。それが本末転倒になるので。ゆっくりとやりましょう。

「足腰が鍛えられて『慣れてくる』と、それは『惰性』ではなく、良き『習慣』へと化す。そのことを『挑戦』と呼ぼう」 by 第8SS騎兵師団長@ujikenorio。

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