我々の認識がすべて経験をもって始まるということについて
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我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。我々の認識能力が、対象によって喚びさまされて初めてその活動を始めるのでないとしたら、認識能力はいったい何によってはたらき出すのだろうか。対象は我々の感覚を触発して、或はみずから表象を作り出し、或はまた我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して、感覚的印象という生の材料にいわば手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験と言われるのである。それだから我々のうちに生じるどんな認識も、時間的には経験に先だつものではない、即ち我々の認識はすべて経験をもって始まるのである。
しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。その訳合いは、恐らくこういうことになるだろう、即ち--我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの〔直観において与えられたもの〕に、我々自身の認識能力〔悟性〕が(感覚的印象は単に誘因をなすにすぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの〔悟性概念〕が付け加わってできた合成物だということである。ところで我々は、長い間の修練によってこのことに気づきまたこの付加物を分離することに熟達するようにならないと、これを基本的な材料即ち感覚的印象から区別できないのである。
それだから経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識が実際に存在するのかという問題は、少なくとももっと立ち入った研究を必要とし、一見して直ちに解決できるものではない。かかる認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれて、経験的認識から区別せられる。経験的認識の源泉はア・ポステオリである、というのは、その源泉が経験のうちにあるということである。
--カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 (上)』岩波文庫、1961年。
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つーか、風邪が全然なおらんのやけれども・・・とぼやきつつ、アルコール消毒を念入りに行う深夜です。
生産性が怖ろしく低下することは承知なのですが、マアこれをやらなければ人生は始まらないというわけで、仕事をしながら夕方、市井の職場の屋上に上るといいかんじで夕日が映えておりましたので、ぽちっと一枚w
カント(Immanuel Kant,1724-1804)が指摘する通り、「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない」わけです。
しかし、同時に、「しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない」ということも理解できます。
たしかに「夕日」という一言によって表象されるイメージというものはあるのですが、その千差万別な一瞬一瞬に「感動」する人間という存在は、すべて「経験」に基づくモノにしか感動しないわけではありませんから……。
つーうことで、今日はかる~く呑んで寝ます。
プレミアムモルツの限定の「黒」がウマイです。
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純粋理性批判 上 岩波文庫 青 625-3 著者:カント |
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純粋理性批判 (上) (平凡社ライブラリー (527)) 著者:イマヌエル・カント |
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純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫) 著者:イマヌエル カント |
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