くたばれ、国民国家主義者ども。リアルに〝司牡丹(高知県・純米酒/+8)「龍馬からの伝言 日本を今一度せんたくいたし申候」〟じゃ
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教会の仕事を担う牧師の仕事を遂行する際には、教会の定めに従って、自分の名ではなく教会の名のもとで語らねばならない。自分の考えにもとづいて教える自由な権限はあない。牧師は、「わたしたちの教会ではしかじかのことを教えています」とか「教会は教義の証明のために、これを証拠として使っています」と語るだろう。そして自分では確信を持って支持できないとしても、教える義務があると判断すれば、教区の信者たちに実践的に役立つと思えるすべての教義を活用するだろう。こうした教えのうちに真理が潜んでいる可能性も否定できないからであるし、内面的な宗教生活に矛盾するものがそこには含まれていないからである。あもしも矛盾するものが含まれていると考えるならば牧師としての職を続けることはできないはずであり、職を辞すべきなのである。
だから、教会から任命された牧師が、教区の信者を前にして理性を行使するのは、私的な利用に過ぎない。教区の集まりは、それがどれほど大規模なものであっても、内輪の集まりにすぎないからだ。この理性の私的な利用の場合には、牧師は自由ではないし、他者から依託された任務を遂行しているのだから、自由であることは許されない。ところが同じ牧師が学者として、本来の意味での公衆に、すなわち世界に向かって文章を発表し、語りかける時には、理性を公的に利用する聖職者として行動しているのであり、みずからの理性を利用し、独自の人格として語りかける無制約な自由を享受するのである。公衆の後見人である聖職者が、宗教の問題に関して、自らも未成年であるべきだと考えるのは不条理なことだ。こうした不条理な考え方は、その他の不条理を永続させる結果をもたらすだけなのだ。
--イマヌエル・カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年。
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尖閣ビデオ流出したみたいですねえ。
はっきりいってどうでもいい。
中国がぶつかってきたことは明らか。
粛々とやる必要もないし(というか貫徹できなかったウンコの宦官にも問題あるけどこの議論も措く)、目くじらを立てる必要もない。
※徹底するなら衝突時点でぶっこわせばいいんでしょ。透徹した国民国家主義者からすれば。
しかし「いい子」を演ずる国民国家主義者は、判断停止というのがウンコの宦官政権。
判断できないというのはカント(Immanuel Kant,1724-1804)が『啓蒙とは何か』(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung,1794)で示したとおり、未成年の状態。
レーニン(Vladimir Il'itch Lenin,1870-1924)が日露戦争の時に、「うら若き少年のような日本」と表現しましたが、「うら若き少年」どころか、「間抜けな少年」というのがその実情。
さて戻ります。
要はどこで大人になるか……ということじゃないのでしょうか。
ここでいうのは「すべてをわかった」といって現状肯定する大人ではありませんゼ。
要するに矛盾と真理を両眼で見ている大人ということですよ。片目をつぶると少年になるか諦めた大人になるかなのでw
強者の物取りゲームで創られた枠組みであるにもかかわらず、弱者のルサンチマンを満たす役割となったものが国民国家という想像ですよ。
というか、この種の議論における古典的教科書ともいうべきB.アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson,1936-)ぐらい読んでますよね。
悪いけど、頭の悪い奴が多すぎる。
国民国家がウソッパチというこは第一次大戦の終結ではっきりしたじゃないですか。
そもそも破綻をきたしている19世紀西洋で発明された「国民国家」のルールで議論を続けているから無益なわけよ。
ウソッパチを徹底していくのは真面目な子供。
ウソッパチを利用しつつ、そこから意識的に逸脱して好き放題するのはならず者。
そしてその喧嘩の漁夫の利をえるのは金持ちの息子。
真面目な子供は、ウソッパチの構造を実体化して、ウソッパチの正義を疑わない。
ならず者の子供は、ルールを拡大解釈しようとする。
そして金持ちは喧嘩しません。
いつまで子供の喧嘩をしなきゃいかんのじゃろうか。
そうひしひしと思います。
対処できなかった宦官政権に問題があることは承知ですから、それをその枠内の議論として精査していくことは枠内の議論としては必要ですよ。
しかし、それを繰り返さない為に、「それはそんなもん」「ウソッパチはウソッパチ」ってわかってうえで、新しい枠組みをデザインする議論を同時にやらなきゃいかんと思うのだけれども、、、ハア、よね。
「喧嘩売られたから買う」って事は無限遡上していく議論ですよ。そんな議論に乗る必要などないんじゃないかと思うし、それが成熟した「大人」(@カント)になるってことだと思うのですが……。どうなんでしょうか。
そもそも「国民」って誰よ???
「国家」の為に「死んだ」「国民」は存在するけど、「国民」の為に「死んだ」「国家」は存在しませんよ。
そもそも国家だとか、国民だとかという存在自体がウソッパチの共通了解にしかすぎないのに……。どこまで「子供の議論」を続けるのでしょうか。だから、アナキストにならざるを得ないわけですよ。洗練すればリバタリアンですけど。
この21世紀に万世一系の純粋な日本人「なるもの」が存在していると思うのですか?
イデオロギストはそれでよしとしますが、そうでない場合で「そうよ」って理解するのは脳天気すぎでしょう。
アイヌの人々なんか「を」どのように理解するのでしょうか。「土人法」でしょう。単一民族神話を煽りながら、排除していったのがその歴史ですし、まさにここがレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)のいう「同一化」の暴力の問題なのだと思うのだけれども(諄いけど「中国」も同じだけど)。
我がことになると、みんな「頭に血が上るのか」。それよりもっと考えなければならないことは優先順位としてあると思うのだけれども、まあ、こう考えるのはマイノリティということか。
頭イタイわ。つまらんことで騒ぐもんだ、「ナショナリスト」という連中は。
ナショナルは「Panosonic」にブランドを統一したのにねえ。
ナショナリズムというもの自体が、すでに前世紀以前の遺物なのだよ。このカテゴリーで議論を続ける限りあらゆる問題は解決不可能であることを附言しておく。
「開結」するためには、それを「ウソッパチ」として認識して脱構築するしかないわけネ。あ……。しかしデリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の言う「脱構築」でやってしまうと、実は声なき声を当てはめる暴力が存在するから、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)のそれでね☆
いずれにしても、流出といい、こうしたことであつくなってさせてしまう話題提供というのは、考えなければならないことに目つぶしをさせてしまう利益誘導であることだけは確かだろう。誰がどうのというわけではないけれども……。
くだらん。熱で頭が痛く、酒呑んで気持ちよく消毒して帰宅したのに。なんたるちあじゃ。
大滝秀治(1925-ばりに「つまらん」ぢゃ。
くたばれ、国民国家主義者ども。
そして、くたばれ、優等生ども。
つーか、調子がわるくて(微熱、しかも年間2/3がそういう状態なので、強烈な消毒が必要だという意味では一般的なレベルで〝調子がわるい〟)、仕事が済んでから飲み屋でアルコール消毒したのに、帰宅してから、ニュースにもんどりがえっておりますわ。
ほんと、ええ、かげんしてくれ。
永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) 著者:カント |
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