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サンデルを読む前に、ゲーデルを読め

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数理経済学者 もちろん、政治形態としての民主主義に異議を申し立てるつもりはありませんが、アロウの不可能性定理が明確に示しているように、多数決の原理そのものに大きな方法論上の欠陥があることは認識しておくべきだと思います。

司会者 そうですね。アロウの不可能性定理といってもあまり知られていないようですが、もっと幅広く議論されるべき重要な結果だと思いました。
 さて、ここまでのお話で、集団の社会的選択を理性的に行うことがいかに難しいか、その限界はどこにあるのかが見えてきました。それにしても、パラドックスや限界が生じるのは集団の話であって、個人の合理的選択とは別なのではないでしょうか?

情報科学者 いえいえ、必ずしもそうではないと思いますよ。
    --高橋昌一郎『理性の限界』講談社現代新書、2008年。

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高橋昌一郎先生の『理性の限界』(講談社現代新書、2008)を再読しています。

先生の『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書、1999)も実は出版された時に、「ゲーデルを踏まえておかないと」って読んだのですが、再読後の読後感を少し連投します。
※ホントはもっと整理して論じるべきですが、そうゆう「勢い」というのも大事かと思い、少し手を入れてのアップです。

先に言及したとおり、最初に読んだときは、正直「ふ~ん、そんな考え方もあるんだよね」と素通りしてしまったことを恥じます。

9月からキチンと数学者・論理学者・ゲーデル(Kurt Gödel,1906-1978)を読もうというのが課題で再読を開始しました(先ずは『理性の限界』から)。

先程、序章、第一章を読み終えました。

再読にあたり、アロウ(Kenneth Joseph Arrow,1921-)、アクセルロッド(Robert M. Axelrod,1943-)、そしてノイマン(John von Neumann,1903-1957)あたりを併せて読み直したのですが、いやー、驚きましたw

まだゲーデルには至っておりませんが、正直、脱帽しました(……ってアタリマエの話ですが)。

邦訳含む原著は対象箇所前後しか摺り合わせておりませんが、御意。

俗な言い方で失礼かもしれませんが、よくぞココまで、まとめあげたっ!って驚きでひっくりかえりました。森巣博さんが姜尚中氏との対談で「新書は、100知っている人間が10で書く」(趣意)と言っていましたが、その美しい模範がこの本だろうなあと驚きです。

二章以降も同じように摺り合わせながら読んでいこうと思うのですが、いやはや知的好奇心が収まりません。専門は神学ですので、専門をやらずに(やっていないわけではない!)、何やってんだかと思うところはありますが、再読してよかったと思います。

さて一章までゆっくり読み直しながら一つ回路が接続されたところがありますので、そちらも書いておきます。

要するに、フィクションをフィクションとして受容するということ。
そしてフィクションだからといって潰す必要もないけど、それを決して実体化させないこと。
そんなところを考えさせられました。

政治哲学者・マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)が日本で「受ける」ところに少し違和感があったのですが(議論が無駄というわけではないのですが)、アメリカだからこそその議論がやっぱり出てきたんだよなあというというところが氷塊です。

不可能性定理からのアプローチではなく、伝統的な旧大陸から思弁哲学の議論のそれですが、アメリカという土壌は、基本的に共通了解が存在しない地域です。

だからアイデンティティを人為的に立ち上げなければならないわけです。
実体化したフィクションがないんですよ。だからフィクションを意識的に立ち上げる必要があるということ。

それがいい意味ではアメリカのもつ積極的に評価されてしかるべきエートスだよなあと思っています。アメリカとは逆に文化的「連続性」が長い地域は、共有された「伝統」を優先し、文化や国家を実体化する眼差しが顕著で、それがひとつの不幸を生んでいるのです。要するに「○○年の伝統」とか「万世一系の」式の類です。

人為的国家・アメリカの場合、そうした蓄積された伝統がありません。
ですから、それを擬似と了解したうえで立ち上げていかなければならない……そういう筋道になるのですが(※そしてその負の側面はひとまずおきますが)、文化や国民国家という制度やシステムが仮象にすぎないことを承知した上で、導いていく……そうした文化が濃厚です。

だから人種的な議論としてアメリカ人を特定できないけれども、共通認識としてアメリカ人を立ち上げていく筋道になりますが、学問の分野ではやはりどこまでいっても、仮象を仮象として了解してそれをやっていく。

そこが旧世界にはない、冷徹したところなんだよなあ……と思っておりましてだからこそ「正義」が議論として出て来るということを感じていたのですが、それを別の側面から了解することができたと思います。

前者の流れで行くと、要するに、共通了解がないから「正義」を「さしあたり」の議論として立ち上げていかなければならない……わけですよ。
※もちろん、同志社の森孝一先生が指摘する通り、実体を帯びてしまうキリスト教「主義」の問題はあるのですが、これもひとまず置きます。

だから、コミュニタリアンだとかリバタリアンだとか立場は別にしても、異なる消息の人間同士の共通了解を意図的に立ち上げていかなければならないという課題が必然なんです。

旧大陸だとか血縁社会の濃ゆい日本なんかですか「無言の圧迫」とでもいうべき「同化」の強制作用として累積されたエートスが稼働しますから、そんな共通了解を立ち上げる必要はねえよ、「お前も日本人だろう」式の実体論がメインストリームなわけなので、正義論のリアリティがありません。

要するに、正義論が歴史的構築物にすぎないにもかかわらず「常識」としての実体論として流通するから「考えるまでもない」ってなってしまうんです。

⇒しかしこれは逆に異質な他者を排除する構造として機能してしまうわけですが……。

だから、サンデルのショックは、ショックを与えはしたのでしょうが、たぶんブームとして終わるだろうなあ~……ということ。

来年はブックオフで山積みだろうなあ~。

学生時代は学生運動でヘルメットかぶるけれども、大学3年生後半で髪を染め直して就職活動するように……って危惧があったのですが、まあ、たぶんそうなるだろうねえ。

さて旧世界からのアプローチに戻ります。

要するに伝統的形而上学においては、正義は議論の対象となることが稀です。
何しろメインストリームは真善美ですからね(特に新カント派)。

だからどこまで行っても、正義は仮象の範疇にとどまり続けるという寸法です。
※諄いけどその善悪は措く。

プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)なんかが『国家』で正義を話題としてはふっておりますが、最終的には善のイデアに従属していきますし、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の目的論(『ニコマコス倫理学』)でも、最高善(=幸福)に従属されますし、フラタニテ(友愛)があれば「正義は無用」なんて最後にいっている通り。

だから本質的には、「正義論」はどこまでいっても仮象における「さしあたりの議論」にしかすぎないということなんですよね。

それを、文化土壌を燃料にして「実体化」(これもウソッパチなんだが)している地域では、「仮象」としての「さしあたりの議論」が見抜けないんだろうねえ・・・。

その意味では、笑い話ですが「これからの正義を語ろう」ではなく「さしあたりの正義を語ろう」が正しい副題かなあとは思いますよ。ふふふ。

などとおもって理解していたわけですが、不可能性原理はまた別の側面から、その議論を照射してくれた……そんな感慨です。

要するに「人間の合理的選択」が論理的に不可能であるわけだから、そこから「さしあたり」の「善さ」のレースをしていかなきゃいけないのが筋道であるから、「仮象」とらえて、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)的に言えば「ダブルバインド」として、議論をしなきゃいかんのだけど。

どうも伝統が重みを持っているところではその「仮象」が見抜けなくて、実体と措定して、「神々の殴りあい」をやっちゃう不幸に辟易とはする次第ですが、その出発点、要するに認識論・論理学としてはこの辺を最初にやっておかないとorzにはなるよなあ……と。

神学徒が「倫理学」「哲学」を講じておりますが、「応用倫理学」とか「倫理学(哲学)演習」なんかがあれば、その教材としては、これは最適ですね。

てか、サンデルを読む前に、対話の議論、流儀として「不可能性定理」、「不確定性原理」、「不完全性定理」を踏まえないと話にならないよなあというのが率直な感想です。

「不可能性定理」という出発点があるからこそサンデルの議論が有意味なわけなんですよ。

その共通了解を欠如したまま、スタイルとか議論の流れに乗ってしまうと、ホント、就職活動でヘルメットを脱ぐ学生さんでおわっちゃうだろうねえ。

すいません、イミフな事を連投してすいません。

すこしねえ、アロウ、アクセルロッドあたりと併せて読むと、この本の有効性を……すなわち議論のテーブルに付く前のテーブルマナーを教えてくれるようでねえ、感動のあまり連投した次第です。

ああ、それから、もひとつ。

ゲーム理論が本朝ではゲームに終わっていることも了解できました。
本来のゲーム理論は功利主義的数値理論の正邪を目的とした理論(目的論)ではないということ。あくまでも認識論。これを欠如して経営学でやるから不幸なんだろうなあ。

あ、それからくどいのですが、サンデルを読む前に、ゲーデルを読め……ということ。

行動規範が広く長く定着している地域は、有限性の自覚がないから、仮象をすべて実体として誤りますよ。

議論に参加することは大切なのですが、例えば、頭に来て相手をぶん殴らないとかってマナーってあるやないですか。

ゲーデルの議論を踏まえることはその流儀を学ぶことだとは思いますよ。

だから極左と極右が同根であることすら、当事者は理解していないという「神々の戦い」をやるのよねえ。仮象とみぬけば議論できるはずなんだが、実体としての認識しかないから、すぐに手がでる(苦笑 見ていてお粗末。

まあ、しかし、本朝のプラトン過ぎ(主義でなく「過ぎ」)な、経緯を励行する「正義論」は、ヤン提督(Yang Wen-li,宇宙暦767-800)が「保守と退嬰が手に手を取ってダンスしてる」と喝破したとおりなのやろうねえ。

ダンスでハアハアするのやけれども、それが夢幻だと喝破できない(涙)。

ゲーデルついでなのやけど、ノイマン再読して思ったが、ゲーム理論って、勝ち負けレースを商売指南するのではなく、認識論的出発点にしかすぎなかったのに、どこでどう変容したのかわからんのですが、その認識が、結果として勝ち負け理論になったのか……きわめて悩むって感じですよ。

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