理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。
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ポストコロニアル批評で知られるガヤトリ・チゥクラヴォルティ・スピヴァク米コロンビア大教授が今月、国際文化会館などの招きで来日した。インド出身のスピヴァク氏は、世界で最も著名なアジア系女性の人文研究者の一人といわれる。毎日新聞などの共同インタビューに応じ、第三世界の下層民との関係における知識人の役割を語った。【鈴木英生】
スピヴァク氏は、代表作『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)で、ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズというフランス現代思想を代表する2人の討論を例に、西欧の知識人を批判した。そこから知識人と被抑圧者との関係を問うている。
サバルタンとは「多様な被抑圧下層民」といった意味。イタリアのマルクス主義者、アントニオ・グラムシ由来の言葉である。
「フーコーとドゥルーズは、自分たちの理論(の問題点)を棚上げすることで、ダブルバインド(矛盾した心理的拘束による葛藤)を回避しました。だから、彼らの議論は現実の構造に組み込まれ得ないのです」
スピヴァク氏の分析は難解だが、大づかみに言えばこうだ。フーコーらは資本主義下での抑圧構造を分析し、抑圧される側が社会変革の主体であるかのように説いた。しかしその理論は、経済発展を遂げた先進国でしか妥当しないという。しかも、先進国の住民は金持ちも貧乏人も、第三世界の経済的犠牲の上にいる「勝ち組」だ。ところが2人は、第三世界の被抑圧者を無視するか、先進国のそれとまるで同列で扱う。こうして、現実の世界の複雑な問題から目を背けている。
さらに、インドの女性を例にして、フーコーらに表れた西欧の視点の問題性を示す。ヒンズー教的な文化の抑圧下にいる貧しい女性たちは、背景が西欧とは違いすぎる。だから、そのまま西欧人の理解できる文脈に即して自らを語ったり、社会変革の主体になったりはできない。むしろ、この女性たちの主体は西欧の文脈からこぼれ落ちるところにあるという。
なのに西欧の側は、インドの女性のような立場を自分たちの社会的文脈に無理やり当てはめて理解する。たとえば「ヒンズー教の犠牲者を西欧文明の力で救い出す」というように。こうして彼女たちは、やはり自分自身の声を奪われ続けるという。
もちろん、西欧人の理解できる表現で語れないからといって、弱者が抑圧されたままで良いわけがない。
「グラムシは『サバルタンが自ら語れるようになるために、知識人が法的、教育的なインフラを構築すべきだ』と主張しました」。そこでスピヴァク氏は、彼女たち下層民のただ中に入りながら、教育者として振る舞う。故郷のもっとも貧しい地域に、教師養成の学校を開いている。ただし、その現場にべったり張り付いているわけではない。
「一方、私はニューヨークで博士課程の学生に教えています。両極を行き来しながら、グラムシの言う有機的な知識人について考えています」
最下層の人々と触れ合うインドの女性知識人が、最下層の犠牲で成り立つ資本主義の中心で、最先端の研究と教育に携わる。この矛盾に居続けることこそが大切なのだ。有機的知識人とは「専門バカ」の対極にある、常に人々とかかわり、説得し続けるような存在だという。
彼女のような世界的知識人ではなくとも、あらゆる人はダブルバインドの中で生きている。たとえば、インドでの教育活動の協力者は、教師養成学校の開校日に漏らした。
「この学校は、(建設に協力した)政治組織の腐敗した構造を利用しなければ実現できなかった」と。
「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」
理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。この思いこそが、スピヴァク氏を支えているようだ。
ガヤトリ・チゥクラヴォルティ・スピヴァク Gayatri Chakravorty Spivak 1942年生まれ。カルカッタ大を経て米コーネル大で博士号。邦訳に『サバルタンは語ることができるか』、『ポストコロニアル理性批判』など。
--「ポストコロニアル批評 スピヴァク・米コロンビア大教授に聞く/第三世界の知識人の役割とは」、『毎日新聞』2007年07月23日付。
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通信教育部の「倫理学」でも、短大の「哲学」でも必ず取り上げるようにしているのがガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)です。
サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)以降のポストコロニアル批評を考える上で、とりわけ重要な思想家のひとりがインド出身のスピヴァク女史になります。
アジア出身でもっとも著名な女性知識人と評されており、主著のタイトルにもなっている「サバルタンは語ることができるのか」というその挑発的な彼女の問いは、現代世界において「知識」の「権力性」の問題を考えるうえでは、避けてはとおれない重要な問いかけとなっております。
さて……。
正直、これは難しいのではないか……といつも教壇に立ちつつ頭を悩ませる言説でもあるのですが、やっぱり紹介してよかったとというのが正直なところ。
みんな、理念やら現実やらにひっぱられすぎているんです。
理念やビジョンも大切です。
そして同じように現実も大切です。
しかしひっぱられすぎるとあんまりいいことがないのも事実。
前者にひっぱられすぎると、それが「清く・正しく・美しい」ものであればあるほど、ぐだぐだな現実との相剋に引き裂かれてしまいます。
そして後者にひっぱられすぎると、「キレイゴト言わずに、現実見ろよ」って嘯いてしまうシニシズムへと陥ってしまいます。
そして、実際にはそうしたパターンがマジョリティを締めているのが現状だろうというところでしょうか。
大学生というのは基本的に真面目ですから、前者のパターンになる傾向が顕著で、社会人というのは、後者になるというそれが多いのでしょう。
しかし、どちらも重心を一方に起きすぎているような気もいたします。
たしかに、理念は現実をレコンキスタする指針にもなりますが、重心が置かれすぎると、現実の存在を分断してしまう暴力へと化してしまいます。
そして、同じように、現実一元主義へ修練してしまうと、ぐだぐだな現実を等閑視してしまう視座へと転落してしまいます。
このバランスが大切なわけですが・・・、なかなか難しい。
しかし、そのバランスをきちんととらない限り、現実をよりよくしていくことも、理念を地上に実現していくことも不可能なんです。
だからスピヴァクの「戦略」をお話しするわけですが・・・、やはり彼女の言説はそれでも少々難解な部分が多々あるのですが、月曜の授業でそこへ踏み込んだわけですが・・・
正直、、、
踏み込んでよかったというのがひとつの実感。
まじめな学生さんたちが多いので、かえってごりごりに固まったイデオロギッシュなところを氷解させると同時に、ダブルバインドを認識した上で、「どうすっぺ」という方向性への示唆ができたのではないか……リアクション・ペーパーを再読するとですが……と思われ、その試みが間違っていなかったことをひとつ確信です。
単純なもの謂いで恐縮ですが、遠大な理想をいだき目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活であることだけは確かです。
単純に前途か悪とかを立て分けずに、その矛盾をきちんと認識する。
そしてそのうえで、どうすっぺという戦略を練っていく。
ここにしか翠点は存在しないんです。
しかし、例えば、ここからここまでは悪で、ここからさきは善でというようなわかったようなわからないような見取り図に目を眩まさせられて、「はぁ~」って惚けて、やっていくことが多いのですが、そうした暴挙や酩酊をのりこえ、きちんと認識した上で、〝したたかに〟いきていく……ここが多分大切なんだろうね。
矛盾と聞くと、みんな否定的なイメージで捉えていることが多いんです。
たしかに哲学……特に論理学……は「矛盾」を嫌います。
しかし、現状認識の出発点としては「矛盾」に「満ちた」ことを自覚する必要があるんです。
そして、そこからどうすっぺというのが議論なのです。
その現状認識を排した、論理としての矛盾のなさこそ問題なんです。
そんなことを思いつつ、、、
スピヴァク女史の話を一コマしましたが、何より嬉しかったのは、学生さんひとりひとりが元気になってくれたこと。
これが一番ありがたい。
つうことで、講義がすんでから、市井の職場へ直行して、それからひとり慰労会。
少しだけ酒呑んで、軽く食べて帰りましたが、これがご褒美☆
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サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) 著者:G.C. スピヴァク |
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スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人 著者:ガヤトリ スピヴァク |
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スピヴァク、日本で語る 著者:G・C・スピヴァク |
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ある学問の死 惑星的思考と新しい比較文学 著者:G・C・スピヴァク |
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デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文 (平凡社ライブラリー (524)) 著者:G.C.スピヴァク |
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ポストコロニアル理性批判―消え去りゆく現在の歴史のために 著者:ガーヤットリー・チャクラヴォルティ スピヴァク |
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