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2010年12月

「いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは」……

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 まことに私の言葉が錯綜しておって、かつ時間も少なくございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これで御免をこうむって山を降ろうと思います。それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少なくとも幾何かの遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日すすみましたならば、われわれの生涯はけっして五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。けっして竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない価値のない生涯ではないと思います。こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして、私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って私を励ますことであります。それで私のなお一つの題の「真面目ならざる宗教家」というのは時間がありませぬからここに述べませぬ。述べませぬけれども、しかしながら私の精神のあるところには皆様に十分お話しいたしたいと思います。己の信ずることを実行するものが真面目な信者です。ただただ壮言大語することは誰にでもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれによって異邦人であります。それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)。
    --内村鑑三「後世への最大遺物」、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波文庫、1976年、68-69頁。

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まあ、大晦日ですので、少し早いですが、読者の皆様、

「愛をありがとう」

……と最初に挨拶させて頂きます。何しろ大晦日も元旦も市井の職場は休みではありませんので……。

くどいのですが、

「愛をありがとう」

学問の仕事を辞めろ……というところから始まって新年を迎え、年度末に非常勤のオシゴトをひとつ授かり、なんとか今日まで歩んでくることができました。

現在の処、常勤の目処は未だ立たずというところですが、懸案状況であった博士論文も目処がつき……といってもまだまだ課題は山積ですが……、新しい年に最後の挑戦をして参ろうかとおもうところです。

まあ、いずれにしてもその消息は神のみぞ知るというところではありますが、神が知ろうが知らなかろうが、「真面目な」人間として「そのとおりにわれわれは実行しなければならない」というところは、信仰の異同にかかわらず共通しているところでしょう。

ということで、来年はさらなる飛躍を目指して、、、

ネオトミストの立場から世の中に「延髄蹴り」w

リバタリアンの立場から世の中に「卍固め」w

そして、アナーキストの立場から世の中に「辻説法」w

内村鑑三(1861-1930)の「ただただ壮言大語することは誰にでもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれによって異邦人であります。それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行しなければならない」を反芻しながら、新しい戦いへと駒を進めていこうかと思います。

諸法無我とは「捕らわれない(囚われない)」「離れよ」という立場。
原罪の思想とはある意味では、「現状否認」の所作。

これからまた新しいレコンキスタへと挑戦です。

読者諸兄、新しい年も宜しくお願いします。

……ということで、2010年最後の晩酌を少し楽しませていただきましょうかw

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「冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられて」しまいますよ。

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 戦争について意見をもち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基本的な論点(argument)を、しっかりと集約して示しておきたいと思う。
 「戦争はきらいだ、自分はどんな力の行使にも反対だ」という人に対しては、「目の前であなたの友人が外国の工作員によって、誘拐されようとしているとき、あなたは実力で救いだしてはならないと考えていますか」と問いかけなくてはならない。「自分は戦争をやりたいと思う。略奪も強姦もあらゆる暴力が承認された状態が戦争であって、戦時の人権侵害を禁止すべきではない。それは人間の根源的な暴力性の開放の祝祭である」とうそぶく人がいたら、「あらゆる犯罪を許容することと、どこが違うのか」と問いかけなくてはならない。そういう一見無駄で、ばかばかしくて、白々しいような応答の訓練をし、準備しておかなくてはならない。
 どんな問題にも、一見すると、まことしやかな、かっこいい、まやかしの議論がある。現代の日本では、特に戦争について、そういうまやかしの議論が横行している。
 たとえば、「日本軍が南京で三〇万人の中国人を殺害したはずがないから、南京事件はでっち上げだ」とか、「東京裁判では戦争が終わってから一方的に裁く側でつくった法律をもとにして裁いたから、日本は無罪だ」とか、こういう問題について論争をすると、どうしても感情的になってしまうかが、冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられてしまう。
    --加藤尚武『戦争倫理学』ちくま新書、2003年、7-8頁。

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「どんな問題にも、一見すると、まことしやかな、かっこいい、まやかしの議論がある」のは、戦争についての問題に限定されるわけではないんでしょうねぇ、とくに現代の日本においてはですが。

幅広く支持を受けている意見というものを冷静に観察するならば、「まことしやか」どころか「かっこいい」かどころか、それとは正反対の「まやかしの議論」ばかりが流通しているのが実情ではないかと思います。

だから、様々な問題について「意見をもち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基本的な論点」というものが存在するわけです。

そのへんの「基本的な論点」というものをすっ飛ばして、「誰がいっている」「そこに書いてある」「ネットでは……」などという珍妙な典拠をもとに「議論」のようなものが遂行されるので、不幸な不毛な殴り合いというものが存在するのかも知れません。

「冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられて」しまいますよ。

何が大事なのか……そのあたりの目的的意識を喪失することなく、相反する基礎的な見解に耳を傾けつつ、意見というものをひとりひとりが築き上げていかないかぎり、出来合いの意見や理論に、現実の人間が右往左往してしまうことになってしまいますよ。

……ということで、こんな時間……深夜の2時……ですが、かなり腹が減りましたので、蕎麦でも食べてから沈没します。

この場合、目的意識を喪失していない議論においても、そして出来合の意見や理論においても……、

「この時間に、食べるのはマズイだろう」

……ということですが、マア、これは一つの例外ということでご容赦を。

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仏教は、知的にも倫理的にも精神的にも歩みを止めない無限の道である。

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 当時、私はマレーシア理科大学の客員教授であり、たまたまペナンのグリーン・レーンにあるマレーシア仏教徒瞑想センターの近くに住んでいた。ある日曜日、私は思いきってそのセンターを訪れ、儀式に参加させてもらえないかと願い出てみた。私は心からの歓迎を受けた。その後、日曜日ごとに儀式に出席したが、ある時に、次の日曜日の集会で、仏教について何か話すようにと求められた。私は即座に、私は仏教徒ではないし、北欧のプロテスタントの国から来た異邦人にすぎないと言って、その申し出を断った。私は一般的なキリスト教徒でもないし、特にプロテスタントでもない。ただ、仏教に関心を持ち、それが一体何であるかを、より深く理解したいだけなのだと述べた。すると、「そういうあなたはすでに仏教徒なのです。仏教ではすぐ改宗するとかしないとかは問題ではありません。またかつて仏教徒でなかったということも問題ではありません。過程の問題、すでに仏教徒になりつつあるということが重要なのです」との答えが返ってきた。私はその発言の正しさを証明することができる。仏教は、知的にも倫理的にも精神的にも歩みを止めない無限の道である。仏教に入るのはやさしいが、過程が重視され、汲めども尽きぬ展望を持っているのである。
    --ヨハン・ガルトゥング(高村忠成訳)『仏教--調和と平和を求めて』(財)東洋哲学研究所、1990年、5-6頁。

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昨夜は22時から賢者たちと、Skypeを使って勉強会をしました。
参加された皆様、ありがとうございました。

詳細は措きますが、昨夜は平和学の泰斗・ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung,1930-)の思索と行動を検討。

戦争がない=消極的平和という在り方よりも、一層突っ込んだ積極的平和を構想する学としての「平和学」を切り拓いた先達として同氏は有名ですが、その切り替え構想の根底には、業の転換という発想が見え隠れします。

その発想のもとに具体的アプローチが存在するわけですが、具体的アプローチに引っ張れすぎてしまうと、ガルトゥング自体が使命感をおびて挑戦しているその足跡を正しく理解することが不可能です。

昨夜はそんなこと少し考えさせられた次第です。

別に特定の教派に属して何をやるというわけではありませんが、その土壌から薫蒸される豊かな宗教性を自分自身の糧にして世界を耕していく--その美しい見本と実践は、たんなる手段的営みでないことだけは確かです。

ここがガルトゥングを理解するうえでのホシになるのだろうと思います。

平和学という学問自体がまだまだ若い学問ですが、ガルトゥング自身についてはそれ以上にまだまだ正確に理解されていないというのが実情でしょう。

ワタクシ、ちょいと風邪ひきで調子が悪うございましたが、様々な角度から対象を検討することができ、あっという間の2時間半のライヴとなりました。

本当にありがとうございます。

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【覚え書】たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である

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 社会の変革、自治社会の樹立は、生産の過程の中で単独に中心的に成就されることは明らかにできなかったしできない、人類学的な変化をともなう。そうでないとすれば、社会の変革という思想は、興味のない虚構である。でないとするなら、既成秩序の否認、自治のための闘い、個人的・集団的な新しい生活のあり方の創造は、社会生活のあらゆる領域を(闘争的に対決的に)侵蝕するし、侵蝕するであろう。それらの領域の中で、(決定的な)役割を果たすいかなる領域もない。たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である。
    --コリュネリュウス・カストリアディス(江口幹訳)『社会主義か野蛮か』法政大学出版局、1990年、423-424頁。

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《決定的なもの》という発想じたいが、傲慢なのかもしれませんな、思想の世界においては。《決定的なもの》へと高めていくことは可能でしょうが・・・。

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著者:コルネリュウス カストリアディス
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子どもに向かって、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という教育方法に対して、私はいささか疑問を抱いています

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 子どもに向かって、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という教育方法に対して、私はいささか疑問を抱いています。
 どうしてそういう教育方法に疑問があるかというと、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」というときには、「きちんとことばにする」という要請の方が優先して、「これはほんとうに『自分のいいたいこと』だろうか?」という自問に割く時間がその分だけ削られてしまうからです。

 大学に入ってきたばかりの一年生たちに、自由なテーマでエッセイを書かせると、あまりおもしろいものに出会いません。というか、ほとんど「非常につまらない」ものばかりです。
 型にはまっているからです。
 「小論文の書き方」みたいなものをたぶん高校の現国の授業や予備校で習ってきて、そこで習得してきた技法なんでしょう。論題について「具体例を挙げ」、それについての「一般的見解」を紹介し、ついで、「私なりのちょっと違う視点からのコメント」を付して、最後にどうでもいいような「結論」(「日本はこのままでいいのだろうか?」、「若い人たちにも少しは考えて欲しいものである」、「メディアの論調に無批判に従うのはいかがなものか」など、どこにでも使える決まり文句--「根岸の里の侘び住まい」みたいな--が十個くらいあります)で締め、という定型のとおりに、学生たちはエッセイを書いてきます。
 こういうものを何十編も読まされていると、読んでいる方は重い徒労感にさいなまれてきます。
 そういう定型的なことばづかい、ストックフレーズの乱れ打ちというのは、一種の暴力として機能するからです。私のような、劫(ごう)を経た教師でも、そういうものを浴び続けると、それなりに息が詰まってきて、胸苦しくなってくるのです。「お願いだから、どこかで扉を開けてくれ」といううめき声が漏れてくるのです。
 「扉」というのは「訂正への扉」のことです。つまり誰かが何かを言うと、「それって、『こういうこと』?」という問い返しがあって、それに対して「いや、そうじゃなくて」というふうな「訂正」があって……というふうに受け渡しが始まるきっかけになる、コミュニケーションの「開錠」のことです。
    --内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書、2005年、124-126頁。

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内田樹先生(1950-)の『先生はえらい』は発刊と同時に読んでから、「先生はえらい」ということを考えなきゃいかんと思い……などと表現すると、「お前も教師やんけ、何えらそうなことをほざいておるんや」などとどやされそうですがそーいうことが本意ではなく、チクショー、こういうことを弁明しなければいけない、民主主義的「誤解」こそ糞食らえと思いつつ、別に「先生はえらく」ないけど「えらい」んやと思いつつ、ワケワカランようになるのでひとまず措く、というか戻る……、水曜日に指導教官の鈴木先生の仕事場で、論文指導をうけてから、ひさしぶりに紐解いたわけですが、同志社のある先生は、この「中学生に向けた」一冊を新入生に読ませるようにしているという話も聞いたことがあって……

「はあ、たしかになア」

……と思うこと屡々。

上の引用文は、本論ではなく各論という部分になりますが、マア、しかし、内田先生のこの吐露は分からなくもありません。

本来、学力考査で推し量れない、そのひとの思索力を伺いしろうということで、導入されたのが大学入試における「小論文」というヤツなのでしょうが、もはやそれがシステムとして出来上がってしまうと、学力考査にヒケをとらない、点数を取る体系へと整備されてしまうのでしょうね……ぇ。

子供に限らず、「しなさい」という言い方には……まあ機械的は反復作業としての経済活動は除きますが……、あんまりいい結果を導くことはないのでしょうネ。

「これはほんとうにそうなのだろうか」

そう自問する時間が殆どない現実がorzです。

……というわけで、「霧島」がまだ残っておりますので、丹波産の黒豆を煮てみましたので、それを肴に少し呑んでから沈没しようかと思います。

でわ☆

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改良をすなわち「作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止すること」と受け取ってしまうと永遠の循環論の罠に陥ってしまうことになる

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 プラトンもマルクスも、与えられた法を相対化する。--その点で彼らはもっともである。彼らはしかしながらまた、法といったものをも相対化する。--足がすべるのはそこでである。すべての法は、その抽象的な普遍性によっていつも欠陥があり不十分であるという、明白で根底的な検証から、プラトンは、正しい唯一の権力は《王にふさわし人間》か《哲学者の王》のそれという、《理想的な》結論と、運動を止めること、都市の実際の《質料》と法の間の、廃棄しえない原理によるずれを、できるだけ縮小するように計算した鋳型の中に、決定的に集団をはめこむこと、が必要であるという、《現実的な》結論を引きだす。マルクスは、疎外の廃止が、人間の本来よい性格をふたたび出現させるにしろ、《客観的な》社会的諸条件と主体の訓練が、個人の精神的・社会的な資質による制度と諸規則の完全な再吸収を可能とさせるにしろ、規則正しい自発性の社会に到達することによって、権利と法にけりをつけることが可能である、という結論を引きだす。二つの場合とも--今日におけるそのほかあらゆる哲学におけると同様--社会・歴史的なものの、制度の、本質、作られつつある社会と作られてしまった社会の間の関係、集団と法と法の問題の間の関係が、無視されている。プラトンは、自ら調整にあたる集団の能力を無視している。マルクスは、その調整が完全に自然発生的になる状態を、夢みている。しかし規則正しい自発性からなる社会という考えは、単に筋が通らない。アリストテレスは、その考えが野生の動物たちか神々にしか価しないであろうことを、道理をもって彼に想起させよう。もし、マルクスが夢みたような《共産主義の最高段階》において、権利も法もなくもがなのものであろう、というのも、社会的共存の諸規則が個人たちによって完全に内在化され、彼らの体質と一体化されているであろうから、と人がいったとすれば、こうした思想とは、死を賭して闘わねばならないであろう。完全に内在化された制度は、もっとも絶対的な圧制とも、歴史の停止とも、等しいであろう。制度に対するいかなる距離も、もはや可能ではないであろうし、また制度の変更も、考えられないであろう。われわれは、われわれが規則ではない限りでしか、ずれが存続している限りでしか、外在性が意地されている限りでしか--法がわれわれの前に提出されている限りでしか--、規則を判断し
変えることができない。これこそ、われわれは法に意義をとなえ、われわれが別な形で考えることができるようにする、条件そのものである。
 他治を廃止することは、作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止することではなく--それは、いずれにせよ不可能であろう--、前者の後者への従属を廃止することを意味する。集団は、自らに自らの諸規則を与えるであろうし、集団が自らにそれらを与えていること、それらが、いくぶんか、つねに、不適切であるか、不適切なものになるであろうこと、集団はそれらを変えうること、--それらは、集団がそれらを定期的に変えない限り、集団を拘束すること、を知っているであろう。
    --コリュネリュウス・カストリアディス(江口幹訳)『社会主義か野蛮か』法政大学出版局、1990年、427-428頁。

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最後の一段落に、改良することの出発点が明示されている。
この問題、改良をすなわち「作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止すること」と受け取ってしまうと永遠の循環論の罠に陥ってしまうことになる。

依存関係の脱却は外からの廃棄によってなされるのではない。外からの廃棄は、その永劫の繰り返しとなる。

大切なことは何か。「前者の後者への従属を廃止すること」である。

13年前の今日、コルネリュウス・カストリアディス(Κορνήλιος Καστοριάδης,1922-1997)は亡くなった。

しかし彼の指摘する問題点は未だ未解決である。

(参考)『ル・モンド』紙が報じた「カストリアディスとユートピアの精神」

http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/kasmond.htm

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彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた

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 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も美奈、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と行ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
    --新共同訳、「マタイによる福音書」(2:1-12)。

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昨夜は自宅で、厳かにクリスマスを楽しませて戴きました。
市井の仕事が夜勤ですし、12月はスクーリング出張なんかがあり、これまで、24、25日は休みになることが殆どなく、息子殿のことを細君に丸投げしてしまう両日でしたが、今年は何故か、24日は休みとなりましたので、昼は自宅で学問の仕事をしながら、夕方になってから、少し、家族ゲームをした次第です。

息子殿は、夕方から少し体調を崩したようですが、少しよこになってから参戦。

まあ、彼・彼女たちが喜んでいたのでそれはそれでよいのでしょう。

わが家のイエスは、今日も元気です。

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【研究ノート】無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」

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 福沢の影響を強く受けた武藤山治は、「福沢先生は明治の半より、塾生が一身の生活安定なくして余りに政治の方面に狂奔するのを見てこれを匡正せんとして盛んに塾生に向って金儲けの必要を説かれました」と語り、さらに「思うに福沢先生の御意中は先ずかくて塾生をして身を実業界に投じせしめ、各自、産をなさしめたる上、政治のためにも大いに尽くさしめようとの御心であったに相違ありません」と述べている。そして、慶応義塾出身者だけでなく、「総ての学校出身者は物質文明の波にゆられ、学界に身を置く少数の人々を除き、大多数は一生を金儲けに没頭して世事を顧みない教育ある素町人」になる傾向があることを厳しく批判する(48)。「金儲け」を人生の目標にすることに福沢は反対であり、生活の安定を確保したうえで、政治に対する関心を高め、必要に応じて参加していくことを福沢も望んでいたと武藤は力説する。おそらく、武藤と同じく、雪嶺の主たる目的も日露戦争後から大正初期の青年たちの精神状況に対して警鐘を鳴らすことにあったと思われる。
 だが、福沢が、一方では「痩我慢」の精神を強調しながらも、他方では、事態に応じて妥協的に行動したことに対する批判も雪嶺にはあった。それは「福沢雪池翁」で「或る主義を立てゝ世と奮闘するよりも世の勢に乗つて行く方である」と述べていることからも明瞭であろう。「或る主義」を固定化することなく、「価値判断の相対性」(49)を重視したことが福沢の思考方法の特徴であった。だが、それは福沢のような強靱な精神の持ち主であれば、絶妙なバランス感覚のもとに、具体的な状況を考慮して自らの判断で価値を選択することができ、現状追随的な態度に陥らずにすむかもしれない。しかも、福沢は自己の信条を遵守するためには少数者になることもいとわない「痩我慢の精神」を有しており、したがって、付和雷同的に多数者の趨勢に身を委ねることもなく、また、政治権力に阿ることもなかったのである。だが、無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」が欠如している場合、「或る主義」を固定化させない価値相対主義的な態度は単なる「世渡り上手」になりかねない。はたして、福沢の「痩我慢の精神」が、どれだけ青年層に浸透しているのだろうか。強靱な独立の精神によって裏付けられた福沢の「価値判断の相対性」を、明治末期の青年たちがどれだけ理解し、継承できるか、雪嶺は疑問に思っていたのであろう。多くの青年たちが「世渡り上手」に疑問をもたずに行動しているなかで、政治権力や財閥、さらには多数者の意見に迎合する「事大主義」が増長することに対する危機感を強めていったのであろう。自己の主義主張を簡単に放棄して、時代思潮に流されている青年たちを見て、雪例は福沢に対する評価を微妙に変化させたのではないだろうか。
    --長妻三佐雄「三宅雪嶺の福沢諭吉観」、『公共性のエートス』世界思想社、2002年、26-27頁。

(48)武藤山治『私の身の上話』(武藤金太〔非売品〕、一九三四年)二三頁。
(49)丸山眞男「福沢諭吉の哲学--とくにその時事批判との関連--」(『国家学会雑誌』一九四七年九月、松沢弘陽編『福沢諭吉の哲学』初秋、岩波文庫、二〇〇一年)六六頁以下。

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福澤諭吉(1835-1901)ほど理解されなかった大物はいないのかもしれません。他人のふんどしで相撲をとらないために、経済的独立(依存関係の廃棄)を主張したのが、「金儲け主義」と受け止められるし、事大主義を避けるための強靱な「価値相対性」の主張としての「痩我慢」が偏頗主義と受け止められるし……。

冷静に考えてみればわかるのですが、生活が他人の世話になっている段階では、最終的にその依存関係の枠内でしか発現はできません。子供の限界もここに存在します。

そして、論理における首尾一貫性が教条的なイデオロギーになってしまうからこそ、生きている現実の中で、妥当な価値判断をしていかなければなりません。絶妙なバランス感覚のもとに、具体的な状況を考慮して自らの判断で価値を選択していくことであり、これは「世渡り上手」の「価値相対主義的な態度」とは異なる態度であります。

物理的身体論を含む経済的独立と、精神的学問論を含む理性的独立は福沢のなかで一個の魂として凝縮されており、それが「独立自尊」という標語になってくる……。

だからこそ一番避けるべきは何かに対して「惑溺」してしまうこと。
原始仏教の言う「離れよ」という態度に近いのではないかと思います。

これをきちんと評価したのは丸山眞男先生(1914-1996)ぐらいでしょう。

和辻哲郎(1889-1960)なんかは福澤諭吉は「思想の紹介者」に過ぎないと評しましたが、丸山先生だけが「思想家」として評価しております。

ここには恐らく、戦後の世の中に独り立っていく自身の姿を、江戸-明治で先輩として同じように生き抜いた福沢の姿に重ね合わせたのだろうかと推察されます。

さて……。
昨夜は柚を買ってきましたので、冬至から少し立ちましたが、今日はゆず湯に浸かろうかと思います。

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先生はえらい

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 まず、はじめにいちばん大切なことから。
 「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。
 昔からいませんでした。「絶滅寸前種」どころか、はじめから存在しなかったのです。はじめから存在しなかったものを「存在しなくなった」と文句を言っても仕方がありませんし、それで何ごとかを説明することもできません。
 同じように、「先生運」などというものも存在しません。
 先生というのは、あちらからみなさんのところによってくるものではありません。
 「やあ、ヤマダくん。今日から私の弟子になりなさい。私こそは君が待望していた『いい先生』だよ。」
 「わ、ほんとですか。ばんざーい。」
 というようなチープでシンプルな出会いを期待しても無駄ですよ。それは「ある日、白馬に乗った王子様がやってきて……」というのと同種の妄想にすぎません。
 先生はあなたが探し出すのです。自分で。足を棒にして。目を皿にして。
 先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。ふところ手をしていて、昼寝をしながら「いい先生」のご到来を待つというような横着したって、何も起こりませんよ。
    --内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書、2005年、13-14頁。

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やはり、わたしの先生は偉かった。
わたしがエライと思うだけでなく、名実共に偉かった。
そしてその不肖な弟子を気遣う大恩に涙した氏家法雄です。

10月に博士論文(論文博士)の申請書類を大学に取りに行ったり、いろいろ準備というか仕込みもしたりしておりましたので、12月の頭に連絡をとってから、時間をつくってもらい、ちょうど昨日、近況報告と論文指導を受けてきた次第です。

こゆい3時間ですが、先生、時間を割いてくださいましてありがとうございます。

不肖のウンコ野郎ですが、かならずまとめて大恩に報じて参る決意です。

いやはや、ほんと、鈴木先生を先生としたのは自分でございますが、客観的にも書ききれないぐらいスゴイ先生です。

年代でいえば、最後の弟子になりますが、弟子を名乗ることが恥ずかしくないようなひとつひとつの積み重ねをしていかねばと襟を正した次第です。

しかし、不思議なことなのですが、そうだからかもしれません。

何がっ?っていわれると、、、

「いやさ、今はウンコなような状況やけれども、だから、全然、負ける自身がねぇーんだよね」

……そのことです。

もちろん、それがアカデミズムの仕事と直結するわけではありませんが、(哲学的な表現をつかえば)より真実へ、真理へ接近していくという意味では、拙い積み重ねだけかもしれませんが、たとえそれであったとしても、全然「負ける自身がねぇーんだよね」ってことです。

やはり、先生はえらい!

自分に負けないで、ちとこの数ヶ月、最後の仕上げの闘いをして参ろうかと思います。

以上。

……ということで呑んで寝るw

霧島酒造(株)といえば、「黒霧島」「赤霧島」で有名ですが、「黒」でも「赤」でもないやつがラインナップされておりましたので。。。

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先生はえらい (ちくまプリマー新書) Book 先生はえらい (ちくまプリマー新書)

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信教自由の事件史―日本のキリスト教をめぐって Book 信教自由の事件史―日本のキリスト教をめぐって

著者:鈴木 範久
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【覚え書】ジャック・ラカン;自分の問いに答えを出すのは弟子の仕事です。

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 自分の問いに答えを出すのは弟子の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。
    --ジャック・ラカン(ジャック・アラン・ミレール編、小出浩之ほか訳)「セミネールの開講」、『フロイトの技法論(上)』岩波書店、1991年。

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さすが、一流の教師でもあったジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan,1901-1981)w

うまくいいますねぇ~。

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名古屋の皆様、愛をありがとう:「学問の道は、いったん開かれると決して雑草に埋もれることのない、また行人を迷わすことのない唯一の道である」

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哲学は、一切のものを智慧に関係せしめるが、しかしそれは学という道を通じてことである。学問の道は、いったん開かれると決して雑草に埋もれることのない、また行人を迷わすことのない唯一の道である。数学、自然科学はもとより、人間の経験的知識すら大方は偶然的な目的に対する手段として--とは言え、結局は人類の必然的、本質的目的を達成するための手段として、それぞれ高い価値を持っている。しかしこのことは純粋な概念による理性認識を介してのみ可能である、そしてこの理性認識が--これをどんな名前で呼ぶかは諸人の自由であるが、--即ち本来の形而上学にほかならないのである。
 こういうわけ形而上学はまた人間理性のあらゆる開発の完成でもある。たとえ形而上学が学として或る一定の目的に及ぼす影響を度外視するにしても、この学は人間理性にとって欠くべからざるものである。形而上学は、理性をその諸要素と最高の格律とに従って考察するものだからである、そしてこれらの要素と格律とは、若干の学を可能ならしめる根拠であり、兼ねてまた一切の学の使用の根底におかれねばならない。形而上学が純然たる思弁として、認識を拡張するよりもむしろ誤謬を防ぐに役立つということは、この学の価値を損なうものではなくて、却って検問官としての職権によってこの学に威厳と権威を付与するのである。この職掌の本分は、学という公共物の一般的秩序および調和、それどころか福祉をすら確保し、また豊かな成果をもたらす進取的な学的努力を、人類一般の幸福という主要目的に背反しないように規制するにある。
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 下』岩波文庫、1962年。

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2-3日、ブログをアップしておらずスイマセン。
先週末の金曜日から日曜日まで通信教育部の地方スクーリング(倫理学)担当のため、出張しておりましたが、いやはや、非常に心身共に応える数日間でしたので、記事をアップする気力・体力・知力とも萎々モードになっておりましたので、思索をまとめることが遅くなりまして……って、いつも思索してないやないけというツッコミは無しで……、まあ、さきにその非礼のお詫びをと冒頭で思った次第です。

さて、今回は16名の受講者(+オブザーバー参加1名)にて開講。
これまで何度か担当しておりますが、履修予定者すべての方が1名も欠席されず開催できたスクーリングは初めてでした。

年末のお忙しい中、体調を崩しやすい季節のなか、万全の状態で参加いただいた履修者の皆様の当日までの戦いに感謝です。

倫理学は、広義の哲学の中に分類される一部門です。すなわち、狭義の哲学(形而上学)、論理学ともに哲学を形作る実践哲学になるわけですが、この学問の特徴は何かといった場合、やはり倫理に関する考え方やその変遷を、できあがったシステムや理論として体系的に覚えるような学問ではありません。

むしろ過去の賢者たちの倫理に関する言葉に耳を傾けながら、「ああ、そういう考え方もあるのか」とか「この考え方には納得できないなあ」、「そう考えるしかないよね」と自分自身の頭と心を使って徹底的に探求していく学問です。

もちろん、そういう考え方の積み重ねを知識として覚える・学ぶということが無駄というわけではありませんが、それが主たる役割ではないことは確かです。

様々な考え方と対決しながら、今生きている自分が、どのような選択をしていくのか。世界や人間をどのように理解していくのか、そこが何よりも重要になってくるかと思います。

その意味では、どこまでいっても学問はひとりひとりの人間が幸福になるための手段であり、目的ではないと言い切ることもできるでしょう。

二日間の教室は、どこまでいっても「夢の教室」「幻の世界」でしかありません。

そこで学んだものをもって、生活世界においてひとりひとりがそこで生きる人間として、ほんものの教室・教科書・ノートが立ち上がるはずです。

勝つ必要はありませんが、負けない・諦めないひとりひとりの一歩一歩を大切にして欲しいなあ、そう思う次第です。

二日間、誰一人寝ることもなくw、徹底的にそうした問題を、白熱議論できたことは本当に参加された一人一人の皆様のおかげです。

そしてこうした教鞭をとる機会を与えてくださった大学の創立者に感謝すると共に、現状に満足することなく、私自身もさらに研さんを深め、より深化した学問というものを構築していかなければならない……と、衿をたださせて頂いた次第です。

「倫理学」@名古屋スクーリングに参加されました一人一人の皆様、ほんとうありがとうございました。

学問とは何か。

「学問の道は、いったん開かれると決して雑草に埋もれることのない、また行人を迷わすことのない唯一の道である」。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)のこの言葉を今一度深く味わいたいものです。

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純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5) Book 純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

著者:カント
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行いつつ知ること、知りつつ行うこと

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 心情の理解は単なる理解でなくして、それは同時に行為であるが如き理解である。「愛」、詳しくは「神の愛」の概念はまさしくこのことを現わす。愛は理解と行為との合一である。我々はパスカルが神の認識における実践的なる要素を高調しているのを到る処に見出す。神を知るためには自愛の心を滅し、情慾の火を鎮めなければならない。情念はひとを盲にして神の真理を観ることを妨げるが故に、ひとはまず汚れる情念から自由にならねばならぬ。
 「彼はいう、もし私が信仰をもっていたならば、私は程なく快楽を棄てたであろう。これに反して私は諸君にう。もし君が快楽を棄てたならば、君は程なく信仰をもったであろう」(240)。神の認識には生全体の転換が必要である。そのためには何よりも自然的なる生において「すべての我々の行為の源」であるところの情慾を憎むことを知るのが大切である。かようにして宗教の真理の認識は知的行であり、行為知である。人間の存在におけるディアレクティク、神の存在に関するアンチノミーを解決するものは宗教であった。我々は今このデイアレクティク、このアンチノミーの究極は行いつつ知ること、知りつつ行うことによって解決されるのを知る。生の矛盾、不可解性を残りなく解くものは最後には知識でなくて、かえって実行である。この特殊なる意味において、生の問題を解決するものは生自身であると言い得る。すなわち生の問題はこの優越なる意味において生きることによって解決される。これがパスカルの確信であって、そして我々はそこに彼の最も深き思想を見るのである。
    --三木清『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫、1980年、189-190頁。

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現代の特徴とは何なのでしょうか……ねぇ。

おそらく有機的な全体性の解体、一点の肥大化にそのひとつの特徴を見出すことができるかと思います。しかし、人間の生の「全体」性は、認識や知によって代表されるものでもなければ、行為のみによって理解されるわけでもありません。

三木清のパスカル観にその一端を見て取ることができるでしょう。

しかし、三木清(1897-1945)もパスカル(Blaise Pascal,1623-1662)も、そしてモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533-1592)も読まれなくなって久しい。

そこが実は現代社会の問題点かもしれませんね。

より深い人間に対する洞察や共通了解としての教養の欠如が生み出すものは、うすっぺらい言葉の暴風でしかないはずなのですが・・・。

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パスカルにおける人間の研究 (岩波文庫) Book パスカルにおける人間の研究 (岩波文庫)

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「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」 名古屋の味と酒の歳時記(2)

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 「いや、どうも、こんなにしていただいたのじゃあ、わるうございますねえ」
 恐縮しながらも明神の次郎吉、わるい気もちではなかった。
 行き倒れの坊さんの始末をしたのは、はじめての次郎吉であるが、これまでには小さな善行を何度もつみかさねてきていて、そのたびに、人びとから感謝されるときのうれしさは、
 (こいつ、たとえようもねえ……)
 ものなのである。
 他人のものを盗み取る稼業ゆえに、盗(つと)めをはなれているとき、他人へつくす親切には骨惜しみをしない。
 差し引き勘定で、
 (このおれは、きっと、畳の上で死ねるにちげえねえ。いや、神さま仏さまが、それぐれえのことをして下さらあな)
 などと、思っているのだ。
 それにしても、今夜は特別に気持ちがよかった。
 なんといっても、浪人ながら大小の刀を腰にした左馬之助が、
 (取るに足らねえ、このおれを荷車に乗せ、梶棒を把っておくんなすったのだものなあ)なのである。
 三次郎は、先ず、鯉の塩焼を出した。
 鯉の洗いとか味噌煮というけれども、実は、塩焼がいちばんうまい。
 酒も、とっておきのを出してくれた。
 「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」
 次郎吉は、舌つづみをうち、「あんまりのむと、こんなあうめえものが腹へ入りません。ですからすこしずつ……」と、なめるように、ゆっくりと酒をのんだ。
    --池波正太郎「明神の次郎吉」、『鬼平犯科帳 8』文春文庫、2000年、108-110頁。

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ということで、その(2)w

さて初日の講義をおえるともはやふらふら。
何しろ2時間ぐらいしか寝ておらず、またしても忘年会といいますか、本葬といいますか・・・。

一端、ホテルへもどってから、再び名古屋駅に向かい、名古屋っぽい「派手」で「エキサイティング」な趣向?で知られる「戦国浪漫 天下統一 名駅店」へ移動。

くのいちや裃姿のスタッフに少しドン引きしながら、今回は飲み放題のコース料理。
やはり前日の鯨飲がたたっておりましたので、次郎吉ではありませんが、

「あんまりのむと、こんなあうめえものが腹へ入りません。ですからすこしずつ……」

ということで、鯨飲することもなく、料理を味わうというよりも、再会や新しい出会いに「舌鼓」という2時間をゆっくりと楽しく過ごさせて戴きました。

11名の猛者たちに、感謝いたします。

■ 戦国浪漫 天下統一 名駅店
愛知県名古屋市中村区名駅南1-4-12 ガーデンビル2F
052-571-4192
http://r.gnavi.co.jp/n010401/

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さて、これで終わるわけにもいきませんから(苦笑

「鳥開 総本家 名駅南店」へ移動。
フリーで入りましたが、22時前でしたから、ちょうど座席も空いており、まずは乾杯。

ビールしか呑んでなかったので、ここでは、久保田(百寿)×1、黒龍×2を竹筒の徳利でゆっくりと頂きながら(お銚子ももちろん青竹)、名古屋コーチンの焼き物を堪能させて頂きました。

揚げ物や手羽先は頼まず、焼き物1本で勝負させて戴きましたが、名古屋コーチンにこだわり抜いた料理の数々に、鶏の料理道奥深しとため息がでるばかりです。
肉といえば、イコール牛という単純な見取り図はもはや名古屋では通用しない・・・ただそのことを深く実感した次第です。

店の作りも掘り炬燵の座敷がゆっくりとつくられてい、なかなか落ち着いたたたずまいです。ゆっくり味わいながら、仲間達と丁寧に言葉を交わすには絶好の隠れ家とでも評せましょうか。

■ 鳥開 総本家 名駅南
愛知県名古屋市中村区名駅南1-17-14
052-561-7705
http://r.gnavi.co.jp/n126502/

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24:00に店を後にしてから、錦のホテルへと向かったわけですが、近辺にホテルをとっているオッサン3人で最後の戦いがここから開始です。

昨年も利用させていただいた、深夜まで営業している高級蕎麦処「百寿庵」です。
場所的に、水商売の方々が待ちあわせに利用されることが多い店舗ですが、出してくれる蕎麦は本物。つゆが少々「辛いか」という感はありますが、やはり呑んだ後は、「蕎麦」に限ります。

ということで、不良オヤジ3人組はのれんをくぐるのでありました。
私はといいますと、定番の「茶蕎麦」をお願いしてから、信州風に大根おろしをいれてずるずると。

辛いつゆだからこそちょうどほどよく中和されて深い味わいに酒で疲れた臓器が回復するというわけです(苦笑

■ 百寿庵
愛知県名古屋市中区錦3-13-7
052-951-5661
http://r.tabelog.com/aichi/A2301/A230103/23000287/

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同道した方々と再会を帰して、それぞれのホテルへ。
しかし、「何かたらねぇ」ってことで、コンビニでビールを買い込み呑んだことは言うまでもありません。

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翌朝はすっきり起床。
蕎麦が効果覿面だったようですネ。

いつもより早めに目覚めたので細君からのモーニングコールが不要になった旨、電話をいれたり、ホテルを後にする片づけをやったりしてから、会場へ移動。

最終講義まで、びっちりと学生さんひとりひとりと白熱教室をさせて頂いた次第です。

最終講義が済んでから、受講生の一人が、教員志望ということでしたので、教育実習もすませ、本年度で卒業予定の学生さんも参加しておりましたので、

「じゃあ、少し話をしながら、ゆっくりしますかッ」

ってことにてタクシーにて名古屋駅・高島屋(JRセントラルタワーズ)へ移動。
日曜の夕刻でしたので、どこもかしこも込んでおり、「テラス席でしたら開いてます」ということで、カフェーといいますかビストロといいますか、“こじゃれたガレット料理”やへ着席w ⇒ 「ガレット料理 ブレッツカフェ クレープリー」

ガレットと呼ばれるそば粉の特性クレープの簡単なディナーセットを頼んで、しばし懇談。

テラス席ですが、暖房もあれば、膝掛けストールも準備されており、28席のテラス席をほぼ独占するような状態で、味わいつつ、丁寧に話し合うことができたのは幸いです。

とくに通信教育で大学の学問を学ぶ場合、どうしてもひとりひとりの人間が孤立してしまいがちです。そうなると苦しくなってしまう。先に進めなくなってしまう。そういうことが多々あります。

だからこそ、人間は人間と結び合っていく、このことが大事と思い、一席を設けましたが、正解だったようです。

ここではエビス×2、ハウスワインのシャルドネをグラスで一杯やってこ1時間。
再会と成長を期して、店を後にした次第です。

■ ガレット料理 ブレッツカフェ クレープリー
JR名古屋高島屋13F
052-569-1185
http://www.jr-takashimaya.co.jp/

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さて……。
これで呑み足りるわけもなく、新幹線の発車までには時間があるということで、卒業予定の学生さんも……ちょいと“足らない”……などと抜かしておりましたので、蕎麦屋「やぶ」にして小休止。

おでんセット(アルコール1品とおでん(5点もりくらい?)+小鉢)を頼んで再度乾杯。

速攻でビールが学問への情熱によって蒸発しましたので、地酒をオーダー。

メニュー見てから「これを呑まずんば帰京できず」というこで(株)萬乗醸造の「醸し人九平次 純米吟醸 件の山田」を1杯。

はっきり言って、酒に「破れました」。

上手すぎました。

最終講義で泣くようなものです。

「醸し人九平次」シリーズでは、「ベーシック純米吟醸」と呼ばれる一品ですが、ワインのような香りと深い味わいにはもはや脱帽という次第です。

■ 蕎麦屋 やぶ JR名古屋駅店
住所:名古屋市中村区名駅1-1-4
   JR名古屋駅構内うまいもん通り内
電話:052-541-5698

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サクッと呑んでから、新幹線の人へ。
名古屋駅で買ったスーパードライのロング缶は乗車してからすぐ呑みましたが、そのまま、車中では卒倒していたようで、気が付くと新横浜w

大関のワンカップを買っておりましたので、これは呑んでおかないとマズイと言うことでほぼ一気呑みw

そして東京駅へ。
中央線で最寄り駅の国分寺で下車しましたが、、、

不覚ながら・・・

「なにかが足らない」

⇒ ということで、「居酒屋 ぶんじ 国分寺店」で途中下車。

はやく帰れよ!ってことですが、不覚ですからイタシカタありません。

晩酌セット(小鉢×5、酒×2)というお得なセットをお願いしてから、プレミアムモルツの生中、冷や酒がまたしても蒸発したので、山崎ハイボールを4杯ほどやりながら、メバルの唐揚げなど楽しみつつ、満足を覚えたので、自宅へ。

■ 居酒屋 ぶんじ 国分寺店
東京都国分寺市本町2-10-5 3F
042-323-3238
http://r.gnavi.co.jp/g179305/

いやはや、しかし、よく呑んだなw

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鬼平犯科帳〈8〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈8〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」 名古屋の味と酒の歳時記(1) 

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 「いや、どうも、こんなにしていただいたのじゃあ、わるうございますねえ」
 恐縮しながらも明神の次郎吉、わるい気もちではなかった。
 行き倒れの坊さんの始末をしたのは、はじめての次郎吉であるが、これまでには小さな善行を何度もつみかさねてきていて、そのたびに、人びとから感謝されるときのうれしさは、
 (こいつ、たとえようもねえ……)
 ものなのである。
 他人のものを盗み取る稼業ゆえに、盗(つと)めをはなれているとき、他人へつくす親切には骨惜しみをしない。
 差し引き勘定で、
 (このおれは、きっと、畳の上で死ねるにちげえねえ。いや、神さま仏さまが、それぐれえのことをして下さらあな)
 などと、思っているのだ。
 それにしても、今夜は特別に気持ちがよかった。
 なんといっても、浪人ながら大小の刀を腰にした左馬之助が、
 (取るに足らねえ、このおれを荷車に乗せ、梶棒を把っておくんなすったのだものなあ)なのである。
 三次郎は、先ず、鯉の塩焼を出した。
 鯉の洗いとか味噌煮というけれども、実は、塩焼がいちばんうまい。
 酒も、とっておきのを出してくれた。
 「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」
 次郎吉は、舌つづみをうち、「あんまりのむと、こんなあうめえものが腹へ入りません。ですからすこしずつ……」と、なめるように、ゆっくりと酒をのんだ。
    --池波正太郎「明神の次郎吉」、『鬼平犯科帳 8』文春文庫、2000年、108-110頁。

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作中の明神の次郎吉が、岸井左馬之助のもてなしをうけたのは「梅雨が明けたばかりの或日の夕暮れであった」わけですが、倫理学徒・氏家法雄が、名古屋の味わいを堪能したのは、そろそろ冬至を迎えようとする或日の夕暮れであった。

仕事で名古屋で2泊3日させて戴きましたが、せっかく写真も撮っておりますので、少しだけ、その味と酒の記録を歳時記としてまとめておきます。

ちなみに自分は、盗(つと)め人ではありませんが、

金曜日の夕刻、新幹線にて名古屋に到着。

愛知の人間から、「名古屋の地下鉄はいっぺん、乗っておいた方がいいですよ。東京のそれと全然違いますからw」と言われていたので、錦のホテルまで二駅ですが利用。

たしかに、少し古い日比谷線の匂いがすると思ったのと、やはり車両が短いということが乗車インプレッション。

駅から5分ということでホテルへ向かうものの、城下町ですからこの地域は碁盤の目の状態。いけどもいけどもホテルへたどり着けず、しょうがなく、客引きのニイチャンに教えてもらってから、なんとか荷物をおろしたものの・・・

夕刻からは、豊橋に住む学生時代の後輩と一献やろうとなっておりましたが、時間がギリギリ。少し遅れる旨連絡入れてから、タクシーにて名古屋駅へとんぼ返り。

半年ぶりの再会に歓び、

「渋くていいところへつれていきますよ」とのことで、案内されたのが、「のんき屋」。

「とんやき」を初めとするホルモン系の焼き物、揚げ物、おでんなどをつまみつつ、「名古屋メシ」を堪能。

おどろくほどやすいことに吃驚すると共に、その味わい深さに度肝をぬかれたことは言うを待ちません。

名古屋のB級グルメを語るうえでは外すことの出来ない名店に感謝です。
しかしホント、安いです。串はだいたい1本・65円ですからねえ。

ちなみに、「とん焼き」とは何かといいますと、いわゆる「ホルモン串」といわれるものがそれに当たるのではないかと思います。

コチラの地域では、豚ホルモンを「とんちゃん」、牛ホルモンを「てっちゃん」と呼びならわしているようです。
※ちなみに隣県の岐阜になりますが、鶏ホルモンは「けいちゃん」

しかし一番の驚きは、日本酒が、未だに2級、3級、特級の分類だったこと。
もちろん、特級を三合ほど頂戴しました。

■ のんき屋
愛知県名古屋市西区名駅2-18-6
052-565-0207
平日 17:00-22:00
土曜 16:30-21:30
日・祝定休
http://r.tabelog.com/aichi/A2301/A230113/23000077/

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さて……。
同日、20:30から次の忘年会?の予約が入っておりましたので、後輩くんに名駅経由で次のお店に案内してもらってから、次の戦い。

ちょうど翌日からスクーリングで倫理学講義の予定なのですが、その翌日に愛知近郊の学生さんたちと忘年会をやる予定になっていたのですが、

「じゃあ、前日にプレ忘年会をしましょうよ」

……という怖るべき提案がありましたので、それに受けてたった次第です。
※皆さん、ありがとうございました。

「センセは、いつもキチンと食べずに呑んでばかりだから、名古屋のお約束の料理をきちんと案内しますよ」

⇒ということで、「手羽先」に白羽の矢が立っておりましたので、訪れたのが、「風来坊」。

「世界の山ちゃん」は東京などに進出しておりますので、どこでもやることができるのですが、「風来坊の方がウマイ!」……ということでお店をセレクトして戴き、

再度乾杯。

お恥ずかしい話ですが、味を覚えておりません。
記憶と共にどこかに忘れてきたようですね(苦笑

ちなみにこのあと、名古屋コーチンの名店で実は昨年も2次会で利用した「樞 くるる 名駅店」にいった「ようです」。

■ 風来坊 名駅センチュリー豊田ビル店
愛知県名古屋市中村区名駅4-9-8 センチュリー豊田ビルB1
052-533-2677
http://r.gnavi.co.jp/n851500/

■ 樞 くるる 名駅店
愛知県名古屋市中村区名駅4-3-11
052-541-7772
http://r.gnavi.co.jp/n002803/

まあ、一日で、ディープ名古屋から定番の名古屋まで堪能させて戴き、ありがとうございました。お陰で……次の日、授業の初日はきつかったです。
※とはいえ、最高の授業をつくったことは言うまでもありません(キリッ

蛇足ついでですが、昼食は「コメダ珈琲」にて、(小さいサイズの)「シロノワール」を頂きました。甘い味わいに疲れが癒されたというものです。

いわゆる初コメダという次第です。

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鬼平犯科帳〈8〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈8〉 (文春文庫)

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不良教師名古屋へ行く

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世界は道義の支配する世界である。我々国民は対外体内両面の生活に於て著しく同義の支配を感ずることになる。一躍して黄金時代が来ると見るのも間違だけれども、同義を無視して尚且つ栄える途があると思ふならば、之れ日天に沖して尚前世紀の悪夢に迷ふものに外ならない。油断はするな、万一に備へよとの警告は依然として必要であるけれども、然しながら我々の国家生活の理想は最早富国強兵一点張りであつてはならない。道義的支配の疑なき以上、我々は腕力の横行に警戒し過ぎて、無用の方面に精力を浪費するの愚を重ねてはならない。我々は過去に於て富国強兵の為に如何に多くの文化的能力を犠牲したかを反省するの必要がある。従来は之も致し方なかつた。併し之からは遠慮する所なく、我々の能力を全体として自由に活躍さすることが必要である。我々のあらゆる能力の自由なる回転によつて、茲に高尚なる文化を建設することが国家生活の新理想でなければならない。
    --吉野作造「国家生活の一新」、『中央公論』一九二〇年一月。

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どうも氏家法雄です。

週末は名古屋にて倫理学を講じてきます。

現在、新幹線の車中の人です。

ビール呑みながら、仕事をしております。

いろいろと社会情勢的にアタマに来ることばかりですが、負けずに取り組んでいこうと思います。

さて、、、

ここ数日は、更新など遅れると思いますがご容赦のほどを。

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「目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たち」でありたい

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 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪--これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を染めたのは少数です。公けの目にふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった苦難を嘗めなければならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞することができました。

 シナゴーグの放火、略奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒瀆があったとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
 ドイツ人であるというだけでの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻み(エアインネルン)つづけることがなぜかくも重要であるかを理解するために、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解(フェアゼーヌング)を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一時を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。
 忘れることを欲するならば追放は長びく
 救いの秘密は心に刻むことにこそ
 これはよく引用されるユダヤ人の金言でありますが、神への信仰とは歴史における神のみ業への信仰である、といおうとしているのでありましょう。
 心に刻む(エアインネルン)というのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生みだすのであります。神のみ業の経験を忘れる者は信仰を失います。もしわれわれの側が、かつて起こったことを心に刻む代りに忘れ去ろうとするようなことがあるなら、これは単に非人道的だということにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまうことになるでありましょう。
 われわれ自身の内面に、智と情の祈念碑が必要であります。
    --『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波書店、1986年、14-18頁。

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昨日は『「この趣味を切ったほうがいい」と知事が言ったから十二月十五日は良心の自殺記念日』(駄空無知)。

Io non dimentico mai questo giorno.

E, io non dimentico mai membri di riunione della riunione metropolitana che doveva difendere la tolleranza limitarono la libertà di espressione.

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理性の発言は、常に自由な国民の一致した意見にほかならない。そして国民の一人びとりは、自分の懸念を--それどころか各自の拒否権をすら憚ることなく表明し得なければならない

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 理性は、その一切の企てにおいて批判に随順しなければならない、またこの批判の自由を禁令によって侵害するようなことがあってはならない。もしそのようなことをしたら、理性は自分自身を傷つけ、かつ自分にとって不利な疑惑を招くことになる。効用の点ではいかに重要なものであっても、またいかに神聖なものであっても、吟味と検討とを尽くして探究する批判を免れることは許されない。そしてまたこの批判は、個人の権威を無視して顧みないものである。理性の存在すら、この自由を根底としてのみ成立する。しかし、理性は、専制君主的な権威をもつものではない、理性の発言は、常に自由な国民の一致した意見にほかならない。そして国民の一人びとりは、自分の懸念を--それどころか各自の拒否権をすら憚ることなく表明し得なければならない。
 しかし、理性は、たとえ批判を拒み得ないにせよ、それだからといって必ずしも批判を恐れ憚る必要はない。
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 下』岩波文庫、1962年。

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人間というものを小馬鹿にした風潮が日一日一日と強くなってきているなアと実感する毎日です。

人間世界には問題がつきものです。

だからこそ、それがどうなのかひとびとの間で相互に批判をすることが必要なのです。

しかしそうした手続きを欠落させたまま、権威によって批判が独占され、故人の権威が無視され、ものごとが結果オーライ的に進んでいってしまうことには、遺憾の意を超え、極めて危険な状態である……などと認識してしまうものです。

マア、権威化した人間ほど批判というものを恐れるものですからイタシカタナシですが、それをそのままイタシカタナシと放置することもできません。

自由な人間は何処にいるのか。

このことを考えていかないとドエライ状況になってしまうと思いますよ、ホント。

人間が生きるということ自体がひとつの表現なんです。

その表現が問題であるかどうかは、人間自身が理性を駆使した討議と批判によって判断すべきなのですが、そうしたことが、どうもこの世界の人間は苦手なようですね。

糞。

Le gouverneur de Tokyo comme l'écrivain a prononcé une sentence à mort sur la liberté d'expression. Cependant, il vient cacher une propre carrière par l'acte.

Le parti politique qui devrait défendre la liberté de l'esprit a été d'accord avec l'ordonnance que limites la liberté d'expression.

L'action suicidaire de la conscience est quelquefois celle exécutée facilement.

Est-ce que je devrais dire, "Approbation et à votre santé de la Loi de la Conservation de la Paix à l'époque Heisei?"

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【覚え書】森本あんり「今を読み解く アメリカ史左右する宗教」、『日本経済新聞』2010年12月12日(日)付。

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SUNDAY NIKKEI
今を読み解く:アメリカ史左右する宗教
象徴・信念の国柄示す

 日本の最重要相手国アメリカを理解するのは、簡単なようで案外むずかしい。理由の一端はその宗教性にある。たとえば昨年1月のオバマ大統領就任式の報道では、テレビ中継の通訳者は「主の祈り」を知らず、新聞社はアメリカ愛国歌の誤訳を掲げ、パールマンとヨーヨー・マの演奏する曲に二つの賛美歌がアレンジされていることを指摘した人はいなかった。これでは人々があの就任式にどのような意味を込め、どのような思いでそれを見つめていたのかを理解するのは今案だろう。
 民主主義は、大衆の心に語りかける言葉を必要とする。アメリカの政治かたちの言葉は時に強いアピール力をもつが、それは彼らが歴史的伝統に培われた宗教や象徴の喚起力を駆使するからである。「今を読み解く」ための鍵は、その「今」という断面図を構成する歴史に隠されている。
 
 ●差別と対立の歴史
 アメリカの歴史を大きく左右してきた二大要素は、宗教と人種である。マーク・A・ノール『神と人種』(赤木昭夫訳、岩波書店・2010年)は、建国期の奴隷制からオバマ大統領誕生まで、アメリカ史がいかにこの二本の縦糸で織りなされてきたかを解明してくれる。著者によれば、それは宗教に規定された差別と対立の歴史である。アメリカを分断しかけた南北戦争は、聖書理解をめぐる宗教戦争であったし、原理主義やネオコンの台頭も、結局は黒人勢力の伸張に対する白人福音派の反動によるものであった。
 とりわけ公民権運動以降のアメリカ政治は、白人福音派と黒人プロテスタントという二大グループにより動かされてきた。共和党的な「小さな政府」論も、この二勢力の力学が働いている。南部の抵抗を排して公民権運動を押し進めたのは連邦政府だったし、中絶や同性愛といった私的領域で白人保守層の信仰を踏みにじる憲法判断をしたのも連邦最高裁だったからである。先進諸国の中でアメリカだけに見られるあの特異な進化論拒否も、科学への反対というより、家庭教育に介入する連邦権力への政治的な反対である。
 こうして見てゆくと、今次中間選挙の「ティーパーティー運動」にも、宗教と人種の微妙な線引きがあることがわかってくる。
 だが、そもそもなぜアメリカはかくも宗教的なのか。この問いには「いやそれはピューリタン入植以来の歴史だから」と答えるのは、実は不正解である。そのような前史にもかかわらず、アメリカは政教分離による史上初の「世俗国家」として成立した。そして、まさにその政教分離こそが、今日も公私両面にわたって見られるアメリカの豊かな宗教性表出を可能にしているからである。このからくりを理解している人は、専門家にも多くない。

 ●歴代大統領の信仰
 藤本龍児『アメリカの公共宗教』(NTT出版・09年)は、トクヴィルやテイラーを引用しつつ、この点をていねいに解説してくれる。宗教を前世紀の遺物と考える近代啓蒙主義は、世界的な宗教復興を前に潰え去ったが、現代宗教の行方は私的領域に限定されているわけではない。著者はベラーの「市民宗教」という用語を「公共宗教」と読み替えて、このもっとも世俗化しているはずの国に満ちあふれている宗教の社会的な実相を解説する。本書は、ネオコンや宗教右派といった政治減少ばかりでなく、それらを下支えしてきたリバイバル(信仰復興)の歴史やbにゅー英二運動といった大衆の宗教性、さらにはコミュニタリアニズムの政治哲学や文化多元主義の軋轢にも触れており、一冊で何度もおいしい便利な解説書となっている。
 なお、宗教右派の退潮と近年注目される「宗教左派」のことを知るには、堀内一史『アメリカと宗教』(中公新書・10年)の終章あたりを覗くとよい。また、二本では大統領の飼う犬の名前ほどにも興味を持たれていないことだが、栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治』(キリスト新聞社・09年)は、ワシントンからオバマまでの大統領の信仰と政治の関係を紹介してくれる。まことに、アメリカ合衆国は壮大な象徴と信念の体系である。
    --森本あんり「今を読み解く アメリカ史左右する宗教」、『日本経済新聞』2010年12月12日(日)付。

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21世紀を生きるひとびとのマニフェスト:ポパーの寛容論

01

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VI
ですから、こんにちでも「わたくしは、自分が何も知らないということ、そしてそのことをほとんど知っていないということを知っている」というソクラテス的洞察がきわめて実際的である--おそらくソクラテスの時代よりもはるかに実際的である--ことを示す四つの理由が存在します。またわれわれは寛容を養護するために、この洞察から、エラスムス、モンテーニュ、ヴォルテールそしてのちにはレッシングが引き出した倫理的帰結を引き出す根拠をもっています。そしてさらに、それ以上の帰結を引き出す根拠ももっています。あらゆる合理的討論、つまり、真理探求に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、倫理的な原則です。そのような原則を三つ述べておきましょう。
 一、可謬性の原則。おそらくわたしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 二、合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 三、真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら三つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を含意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探求のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が含意を導かないときでさえ、討論から多くのことを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。
 ですから、自然科学の基礎にあるのは倫理的な原則です。根本的な規制原理としての真理の理念は、そのような倫理的原則です。
 真理探求および真理への接近という理念は、さらにそれに付け加えられるべき倫理的原則です、知的正直さの理念、そして、われわれが自己批判的な態度と寛容へと導いていく可謬性の理念もまたそうです。
 われわれが倫理の領域でも学びうるということ、これもまた非常に重要な点です。

VII
わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。
 わたくしは、みなさんに、ひとつの新しい職業倫理を表すいくつかの原則、つまり、寛容と知的正直さの理念とに堅く結びついている原則を提出しておこうと思います。
 そのために、最初に古い職業倫理の特徴を述べ、そしておそらくは少しばかり戯画化しておくことになるでしょう。といいますのも、古い職業倫理をわたくしの提案する新しい職業倫理と比較するためです。
 両者、つまり、古い職業倫理と新しい職業倫理の基礎にあるのは、明らかに、真理、合理性そして知的責任の理念です。しかしながら、古い職業倫理が基礎をおいているのは、個人的な知および確実な知の理念であり、したがって権威の理念です。それに対して、新しい職業倫理が基礎をおいているのは、客観的知および不確実な知の理念です。これによって、基礎にある思考様式も、したがってまた、真理、合理性そして知的正直さと責任の理念の役割も根本的に変化しました。
 古い理想は、真理と確実性を所有し、そして可能とあれば、論理的証明によって真理を確実なものにするということでした。
 このこんにちでも依然として広範に受け入れられている理想には、賢者という個人的理想--もちろん、ソクラテス的意味においてではなく、ひとつの権威である知者、つまり、同時に王として支配する者でもある哲学者というプラトン的理想--が対応しています。
 知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。
 あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん同僚の権威を守らなければならないというのです。
 わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないのです。そこから、誤りは誤りとして承認されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そして、それはまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を保護するためにあやまちのもみ消しを招くのです。

VIII
ですから、わたくしは、とりわけ、自然科学者のために、しかし、自然科学者のためにのみということではありませんが、新しい職業倫理を提案したいと思います。わたくしは、その倫理を以下の一二の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 一、われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域においてもあてはまる。
 二、すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。誤りはあらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。
 三、もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何びとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。直感はわれわれを誤った方向に導くこともある。
 四、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。
 五、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。なぜなら古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。
 六、新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 七、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 八、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
 九、われわれは、誤りから学ばなければならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばなければならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを起こしたことがあることをいつでも思い出すべきである。またわれわれは最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思い出すべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、繰り返し誤りを犯すことは人間には避けがたい。
 一〇、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 一一、われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばなければならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 一二、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。
 わたくしは、みなさん方と以上に述べたようなことがらを提案として考察してくださるようお願いします。わたくしの提案は、倫理の領域においても討論可能で改善可能な提案がなされうることを示す一助となるべきものです。
    --カール・R・ポパー(小河原誠訳)「寛容と知的責任(クセノファネスとヴォルテールからとられた)」、小河原誠・蔭山泰之訳『よりよき世界を求めて』未來社、1995年、315-321頁。

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入力したら息絶えた。

スマソ。

今日はねまふ。

コメンタリーは後日以降で。
※そのまえにさえずるとはおもいますが・・・苦笑。

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「先生……では、“生命、自由、幸福の追求”については、どうなのですか?」

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 「…… 人間というものは、どんな種類のものであれ、生まれついての権利など持っていることはあり得ないのだから、その結果は予言できたはずなのだ」
 デュボア先生は話をとぎらした。だれかがその餌にとびついた。
 「先生……では、“生命、自由、幸福の追求”については、どうなのですか?」
 「ええと、そうだ、“奪うことのできない権利”だな。毎年のように、だれかが、このりっぱな詩のような文句を引っぱりだしてくるな。生命か? 太平洋のどまん中で溺れかかっている男に、どのような生きる“権利”があるというんだね? 大海原は、この男の叫びなどに耳を傾けはしない。子供らを救うためには自分の命を捨てなければいけない父親にとって、なにが生きる“権利”なのだ? もし、その父親が自分自身の生命を助けるほうを選ぶとしたら、“権利”があったからそうしたとでも言うのか? ふたりの男が餓死しかかっており、人肉を食べることだけが生存を意味するときには、どちらの人間の権利が“奪うことのできないもの”なんだ? そしてこれが、はたして権利だろうか?
 自由についていえば、重大な文章に署名した幾多の英雄たちは、かれらの生命で自由をあがなうことを誓約した。自由とは、断じて奪うことのできないものではない。これはときどき愛国者の血で新しく生まれ変わらせなければ、常に消え失せてしまうものなのだ。これまでに発明されてきたすべての、いわゆる“人間本来の権利”のうちで、自由は安価なものであったためしはなく、無料で手に入れられることなど絶対になかった。
 三番目の権利は? 幸福の追求だったとな? これもまったく奪うことのできないものではあるが、これは権利などではない。暴君だってとりあげることはできないし、愛国者も返すことのできない単なる普遍的条件なのだ。わたしを地下牢に放りこんでみるか、火あぶりで焼くも結構、それとも王侯中の王にしてみたまえ……それでもわたしの脳が生きているかぎり、わたしは“幸福を追求する”ことができる……だが、神であれ、聖者であれ、賢者であれ、はたまた不可思議な薬であろうとも……わたしが幸福をつかむことを保証することはできないのだ」
 デュボア先生はそれからおれのほうに向きなおった。
 「わたしは、“青少年非行者”とは用語そのものが矛盾しているということをきみに話したな。“非行者”とは“義務を怠る者”の意味なのだ。しかし、義務とは、成人の美徳だ……だからこそ、人間が義務という知識を獲得し、生まれながら持っている利己的な愛情よりもなお一層の愛情をこめて抱きしめるとき、そのときこそ、青少年が成人に達したときなのだ。“青少年非行者”などというものは、存在せず、あり得ないものなのだ。しかし、すべての少年犯罪者には、つねにひとり、あるいはそれ以上、大人の犯罪者が混じっているものだ……義務を知らないか、それとも知っていながら失敗してしまったか、どちらかの、青年に達したものどもだ。
 そしてこれが、多くの点で讃歎すべきものであった文化を破壊してしまった弱点だったのだ。街を年少者の愚連隊がのさばり歩いているのは、より大きな疾病が存在する徴候なのだ。その時代の市民たち(かれらはみなそのように称したのだが)、かれらは“権利”と称する神話を賛美した……そして、かれらの義務の進路を見失ってしまった。そんなことになってもまだ存続できるほどにまで組織された国家など、どこにもあえり得ないのだ」
    --ロバート・A・ハインライン(矢野徹訳)『宇宙の戦士』ハヤカワ書房、1979年、216-217頁。

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金がないので古い本を再読することが多いのですが、ハインライン(Robert Anson Heinlein,1907-1988)の「問題長篇」というやつは一種の「正義論」なのかもしれませんネ。

つうことで、真剣に調子が悪いので、今日は沈没いたします。

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「無族協和」を謳う忘年会

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▼無族協和とは何か--リイマジンド・フォーエバー(巨人軍は消滅しても、再想像は永遠です)

森巣 「五族協和」ってのがあったでしょう。一九三二年、満州国の建国宣言の中に出てきた言葉で、満州に住む五族が共存共栄していくことを説いていた。ちなみに、その五族ってのは、漢(漢族)、満(満族)、蒙(モンゴル人)、日(日本人)朝(朝鮮人)なんです。
姜 そうですね。
森巣 実はこれ、中国国民政府が五族代表の協和体制の実現を目指して北伐を展開していたのに対して、日本側が対抗したものでした。中国国民政府が使っていた言葉は「五族共和」と言って、満州国のそれとは一字違い。これに含まれる民族は、漢(漢族)、満(満族)、蒙(モンゴル人)、回(回族)、蔵(チベット人)だった。
姜 はい。
森巣 で、共存共栄を謳うのはいいとして、それがなんで、たったの五族だけなのか、と。それで、私が考えたのが、「族」という概念を殺したところで成立する「無族協和」。
姜 ああーー、それはすごい。
森巣 共存共栄を目指すのに、ケチケチするな、と。で、繰り返しますが、私としては、民族概念に対して、そんなものありゃせんわと徹底的に批判する立場をとっています。もちろん、前述したように、非対称的権力の構図の中で、民族というスティグマを付けられ、「進歩」の時間軸から取り残された者として、一方的に抑圧・収奪されている少数者が、正のベクトルで使用する限りにおいては、民族概念を積極的に認めたいとも思っている。
姜 ええ。
森巣 でも、私のように、あらゆる集団レベルのアイデンティティからの自由を目指す人間でも、姜さんのように民族アイデンティティの重みを背負って生きたきた人間でも、誰もが共存していけるような、世界の在り方というのは一考に価するのではないかと思うんです。
姜 非常に刺激的な提案ですね。
森巣 先ほどの一億総在日化や難民問題がさらに先鋭化していけば、例えば、「在日」のような人たちを外部化して、国民国家の共同幻想を維持していくのは、限界です。この世界に、もはや外部なんて存在しない。それに、今や、右も左も、国民国家のフィクション性を認める時代です。
    姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』集英社新書、2002年、214-215頁。

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昨夜は、池袋にて、通教生のみなさまの大忘年会に参加させていただきました。

みなさま遅くまでありがとうございました☆

ま、いろいろありますが、ここにひとつの「無族共和」の世界があるのだろうと思う次第です。

ということで、これに懲りずにまたどうぞよろしくお願いします。

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ナショナリズムの克服 (集英社新書) Book ナショナリズムの克服 (集英社新書)

著者:姜 尚 中,森巣 博
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「私は人間である」という命題が、論理によってではなく、詭弁によって成立している

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ヴィクター・フランケンシュタインが自然科学の知識を動員し、「狂乱に近い衝動」で創造した人間は完全な失敗であった。ヴィクターは、みずからが創造主になり、彼が創造した人間から神のように祝福されるために人間を創造した。彼が理性にしたがって「手足は均整がとれ、要旨も美しく選んだ」はずの人間は、創造主であるヴィクターですら痙攣し、恐怖をいだく、醜悪な容姿の持ち主であった。
 アダムとイブを楽園から追放した後も人間を見放さず、神の分身としてのイエスを人類の原罪をあがなうために地上につかわし十字架にかけさせたデウスとは違って、ヴィクターは一瞬にしてこの醜悪な生物を見捨ててしまったのである。しかし、モンスターが非「人間」的なのは、八フィートある身体と醜悪な容姿だけなのだ。創造主であるヴィクターは、無責任にもモンスターの外見上の醜さに対する偏見から、モンスターに対するいっさいの共感を持たず、創造主としての責任をとろうとしない。
 『フランケンシュタイン』で繰り広げられる殺人と破壊は、すべてヴィクターがモンスターを捨てたことから発生しているのであり、彼は創造主から見放された孤児、永遠に救済を予定されていない、不幸と分裂を病んだ存在なのである。
 かれが人間的な共同体から排除されているのは、彼は八フィートの巨人であり、醜悪な容貌を餅、異常な音声を発生する存在だからである。彼が普通の人間よりもはるかに戦災な神経を持ち、共感的な能力に満ちていることは後にも述べるが、彼は人間の概念が厳密化されることによって、身体的な特徴という理由のみによって共感の共同体から排除されるのである。
 身体的な形質による人間の差別は、現代の社会では不公正で非人間的な差別として否定される。しかし、十八世紀のヨーロッパは、植民地の拡大によって、非ヨーロッパ世界には多様な形質を持った「人間」が存在することを発券し、彼らがはたして「人間」なのか、非「人間」として動物と人間との中間的な存在として扱ってよい存在なのか、つまりどこに「人間」の境界線を引くかに関心を持ち始める。
 その一方、産業革命による自然破壊と田園的風景の荒廃によって、ヨーロッパはかつてソン愛したノスタルジックなアルカディアをを追い求め、それが十九世紀に発生する「ナチュラリストの誕生」(D・E・アレン)につながってゆくわけである。他方で、ルソーがパリの荒廃を非難し、「高貴な野生人」を自然状態の人間に発見したように、植民地世界の「人間」に産業革命以後の人間の疎外と文明によって汚染されていない「高貴な野生人」を発見するようになる。
 レヴィ=ストロースは、ジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に人類学の発生を見いだした。それは十八世紀が「人間」と非「人間」の境界を設定しようとしたときに発生したのが人類学(anthropology)、つまり「人間」(anthropo)に関する学問であったことを明確に物語っている。つまり、人類学の起源は、「人間」と非「人間」の境界を設定する学問の形態をとって証明することにあった。
 『フランケンシュタイン』のモンスターが、「人間」か非「人間」かの境界設定に巻き込まれ、彼が「高貴な野生人」ではなく、非「人間」として排除されたことは、ルソーの共感の共同体が「人間」を特権化していることと無関係ではない。
    --櫻井進『江戸の無意識 都市空間の民俗学』講談社現代新書、1991年、143-146頁。

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どはっ。

強烈に疲れているのですが、少しだけ書いておきます。

市井の仕事……GMSの業務……をしていると、まあ、接客経験者にはよく理解できるかと思いますが、売り場でお客様に声をかけられると、

ちょと「マジ??」的な……、、、

なんといいますか「クレームか、はたまた、面倒な依頼かっ!」などと身構えることってあるんです。

まあ、それはびびり過ぎのチキン野郎だからじゃねえかッ!

……っていわれてしまいそうですが、伺ってみると賞賛のお言葉であったとしても、最初に「ちょっと、店員さん!」などと声をかけられると、警戒してしまうものなんです。

さて……。

「お豆はどこにあるのかしらん?」

……などと声をかけられた次第ですが、

私の場合、細かい方なので、、、

「豆???」

「青果の豆かッ、それとも加工された菓子類の豆製品かッ、それとも農産乾物か……、はたまた……」

……などと脳みそがフル回転するものですから、とりあえず、、、季節的にも正月準備だしと思い直して、、、

「ぜんざいなんかでご利用されますか、小豆類でしょうか??」

と伺ったところ、、、

「いえいえ、あ、あれ、フジッコのおまぁ~めさんっ」

……と、後半部分は、少し調子をとって歌いながら答えてくれたものですから、

少し安堵したものです。

さてここに見られる構図というのは、実は相手を対象化して「人間」として扱っていない眼差しが潜んでいると言うことです。

「フジッコのおまぁ~めさんっ」という一言が出るまでは、もろに警戒していた自分が恥ずかしくなった次第ですけれども、人間は、人間を人間として扱わず、この場合「お客様」という抽象化された立場で警戒していた眼差しに、、、、そして警戒しすぎていたことに少しだけorzしたということ。

別に対したアレではありませんが、人間は、自分が設定した「共感の共同体」の枠の中だけに人間を設定し、それ以外を非人間として「処理」しているわけだよなあ……などとふとおもった次第です。

これが人間という存在の次元に属する暴力性というやつで、これを徹底的に排除して「神の視座」から生きることはできませんから、どこからでそれを点検して相対していかなければならない……そんなことを考えた次第です。

ということで呑んで寝ます。

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 『フランケンシュタイン』や『八犬伝』が生成した「人間」は、排除によるアイデンティティーの成立を物語っている。アイデンティティーを求める運動自体が排除を必然的に生み出してゆくのである。彼らが生成した「人間」は、イマジネールな存在である。非「人間」として排除されることを恐れる人々が、非「人間」をいけにえとしてまつりあげ、排除する。こうすることによって、排除以前には存在していなかった「人間」の共同体が、はじめから存在していたように言いくるめられるのである。
 フランスのフロイト派の精神分析学者ジャック・ラカンは、「私は人間である」という命題が、論理によってではなく、詭弁によって成立していると言っているが、それはロマン主義の生成した「人間」についても妥当することは言うまでもない。
  (1)人間は人間ではないものを知っている。
  (2)人間達は人間たちであるためにお互いのあいだに自分を認める。
  (3)私は、人間たちによって人間ではないと証明されるのを恐れながら、自分は人間であると断定する。
 「私は人間である」という断定に潜んでいるのは、他者から「お前は人間ではない」と言われることへの恐怖である。つまり「人間」の共同体から排除され、非「人間」の烙印を押される前に、いち早く「私は人間である」と断定することによって、「人間」としての身分証明書を獲得しようとする衝動なのである。遅れて「私は人間である」と断定した者や、「私は人間である」と考えなかった人々は、非「人間」の領域に排除される。いちはやく「人間」であることだけを宣言した者だけが「人間」の資格を得るのである。
 『フランケンシュタイン』のモンスターは、すでに存在を宣言していた「人間」によって非「人間」の烙印を押され、八犬士は他者に先んじて「人間」であることを宣言した。十九世紀には、「人間」をめぐる広範な闘争が存在していたのであり、ヨーロッパは植民地支配と、特権的な存在としての「人間」の生成とは無関係ではない。それは、徳川政権が蝦夷地を植民地として制圧し、アイヌたちを経済的な隷属状態に置き、彼らに「日本語」と「日本」の風俗を強制したことの背景には、非「人間」を排除することによって成立している「人間」=「日本人」という特権的な概念が存在していたのである。
 「人間」から排除された『フランケンシュタイン』のモンスターは、特権的存在としての「人間」への復讐を誓い、「人間」になろうとする崇高な理想から脱落し、残虐な殺人者となって自滅していった。「八犬伝」の八犬士は、みずからの「想像の共同体」を形成し、そこから無数の人々を排除し、権力空間の主体としての農民を民兵として動員した。つまり、彼らは特権的な「人間」の権力的空間から闘争=逃走したのにもかかわらず、再び規律=訓練的な権力社会を再現してしまったのである。分裂した不幸の意識を治癒しようとするロマン主義の運動は、過去に存在した自己充足的共同体や純粋無垢な子供の領域に、病んだ無意識を解放する空間を生成することを意図した。しかし、そういった主観的な意図にもかかわらず、そこに実現されたのは、排除の力学によって生産された特権的な「人間」の権力的空間であった。
 そのことは、規律=訓練的な権力空間から逸脱しようとする運動が、けっしてイノセントだとは主張できないことを示している。『フランケンシュタイン』のモンスターや八犬士もまた、「人間」の権力性と暴力性を持っているという点においてイノセントな存在ではなかったのである。
    --櫻井、前掲書、158-160頁。

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だから、とくに・・・ロマン主義は嫌いなんじゃ(ボソッ

http://www.youtube.com/watch?v=BLgmBJjHgDc

02 03

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人間に奉仕するための道具であるにすぎない

01

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 国家は、政治団体の一部、すなわち特に法の維持・共同の福祉と公共の秩序との促進・公務の処理を担当する部分にすぎない。国家は、全体の利益というものを専門に司る部分である。国家は一個人でもなければ、人々の一団でもない。国家は、一群の制度が組み合わされて一つの最高級の機械となったものである。この種の技術作品は、人間によって作られ、人間の頭脳とエネルギーを用いるものであって、人間なしには無にすぎない。しかし、国家は、理性の優れた具現、非個人的・永続的な上部構造を成すものである。その作用の仕方は、そのうちにおける理性の活動が、法と普遍的な規則の体系によって拘束されていて、われわれの個人的生活におけるよりも一層抽象的であり、経験や個性という偶然的要素から一層ふるい分けられたものであり、また一層冷酷でもあるかぎりにおいて、第二次的な意味で理性的であるといえよう。
 国家は、ヘーゲルの唱えたような「理念」の最高の化身ではない。国家は、一種の集合的な超人でもない。国家は、権力と強制とを用いる権限を与えられ、公共の秩序と福祉との専門家・熟練者から組成されている機関であり、人間に奉仕するための道具であるにすぎない。人間をこの道具に奉仕させるのは、政治的倒錯である。個人としての人間人格は政治団体のためにあり、政治団体は人格としての人間人格のためにある。しかし、人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである。
    --ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和三十七年、15-16頁。

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さすがネオ・トミストのジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882-1973)w

「人間に奉仕するための道具であるにすぎない」!

ここを失念して、アリガタイ構築物と見なして議論するから訳が分からなくなっちまうのだろうと思います。

アリガタイ構築物と見なしてしまうから、防衛の論理であぶり出しの魔女がりになっちまうわけなんですわ。

まあ、しかしながら、「人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである」というくだりは、国家に限らずあらゆる共同体においてそうなのであるわけですけども、そうならないという現状にorzとなってしまうわけですけれども個人的生活における挑戦はまだまだ続くのであった……(謎

ということで、非常に調子も悪いので、今日はこのへんで沈没しようかと思います。

でわ

02 03

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匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、<きみ>とこれに対応する<私>との責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。

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語る者を聞く者にむすびあわせるものは、たいていの場合たしかに、両者が互いに共に語りあう主題である。そのばあい主題は主題化された主題ではなく、会話の-主題なのである。会話の主題として、主題は一箇の伝達である。根源的にいえば、伝達されたものは、ただ伝達することにおいてのみ現に存在する。或るものを共に分かつ伝達にあって一者は、或るものを伝達することにおいて同時にじぶん自身を他者に分かち与える。分かつこと(タイルング)における「共に(ミット)」の本来の意味は、一者-他者(アイン・アンダー)にある。両者が互いに-伝達するもの(アイン・アンダー・ミットタイレン)は、或る他者にそのつど完全に伝達される場合にかぎって「分かたれる」のだ。
 相互(アイン・アンダー)という意味で互いに(ジッヒ)なにごとかを伝達するとき、一者はつねに他者たちのうちの或る者と共に語っている。匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、<きみ>とこれに対応する<私>との責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年、254-255頁。

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昨夜は人生の先輩と少し語り合う機会がもて、充実したひとときを送ることができました。

ブログでの表記で恐縮ですが、ここに感謝の意を表したいと思います。

想像することはひとりでもできますが、何かを創造することは、語り合う空間から立ち上がるのではないだろうか……そんなことを少し考えつつ、さて、仕事へ出かける準備をいたします。

でわ。

02 03

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今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家(ステート)による社会的自発性の吸収である

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 今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家(ステート)による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。大衆がなんらかの不運を感じるか、あるいは単に激しい欲求を感じる場合、彼らにとっての大きな誘惑は、ただ一つのボタンを押して強力な機械を動かすだけで、自分ではなんの努力も苦闘もせず、懐疑も抱かなければ危険も感じずにすべてのものを達成しうるという恒久不変の可能性をもつことである。大衆は「われは国家なり」と独語するが、これは完全な誤りである。国家は、二人の人間がどちらもフワンという名前ではないという点で同一だといいうるという意味においてのみ、大衆である。今日の国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致している。ところが大衆は、実際に自分が国家であると信じているのであり、勝手な口実をつくっては国家を動かし、国家を用いて、国家の邪魔になる--政治、思想、産業などいかなる分野でも国家の邪魔になる--想像的な少数者を押しつぶそうとする傾向をますます強めてゆくであろう。
 この傾向は致命的な結果をもたらすことになろう。つまり、社会の自発性は国家の干渉によって幾度となく暴行を加えられ、いかなる新しい種子も実を結ぶことができなくなるであろう。社会は国家のために生き、人間は政治という機械のために生きねばならなくなるであろう。そして、国家はつまるところ一つの機械に他ならないのであって、その生存と保守は、機械を維持している周囲の生命力に依存しているのだから、社会の髄まで吹つくした後は、自分自身痩せ細り、骨だけになってゆき、ついには死に絶えてしまうだろう。
    --オルテガ・イ・ガゼット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、1995年。

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少しだけ、抜き書きといいますか。

都青少年健全育成条例改正案への疑義を少しだけ。

私は、基本的に国家が人間の自由(例えば信教の自由・表現の自由)を規制するあらゆる謀略には反対の立場です。

それがどのような容喙であったとしてもです。

歴史を振り返ればわかることです。

規制をしたければ、個々人において規制をすればよいし、子を憂う親がいればその判断においてなせばよい。

性的表現に関しては、私は保守的ですから、こころがわからぬでもありません。

しかし、人間の自由を脅かすあらゆる規制には反対いたします。

まあ、だからアナーキストのリバタリアンになっちまったわい、というところです。

さて、すこし関連を呟いたので、少し記録として残しておきます。

今日のそれは、それに対する反対の念を細かく表現しようと言うよりも、反対を叫ぶマジョリティの論旨の腰砕けに涙という筋合いですので、その文脈における議論を少しだけ。

①本質的洞察を欠いたままnoと叫ぶのは簡単だけど、そうした場合、自分の利害が直接関わらないところでは、雪崩式に権力の狡知を肯定してしまうんだろうなあというところが一番恐ろしい。支配の体系とディシプリンとはそんな枝葉の問題じゃないんです。

②その辺の甘ちゃんぶり的小学生の喧嘩では勝てませんよ。ヴォルテール(Voltaire,1694-1778)の名言をいま一度深く反省する必要はあるでしょう、くどいけどネ。 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。

③しかし、その加熱というのは結局「喉元過ぎれば熱さを忘れる 」という程度でしょ。そんなこたア想定で権力は二重三重にしかけてるんですよ。表現とは人間の存在の次元に属することを忘却した好きか嫌いかの二者択一的前世紀のアンチでは勝てませんぜ。

③質問者 「日本人には『私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る』を少しも実践できない人が多いような気がします。意識すらしてないような。何故なのでしょうか?」

④端的に言えば「お上」に全部「考えてもらった」からです。

⑤どのような思想を持とうが基本的には自由だとは思うんですけどね。その受容者が、撃たれ弱い・硬直しきった厚顔無恥な人間であればあるほど、受容された思想や論理までねじ曲げてしまうというのは怖ろしいものです。

以上。

寝ます。

02 03

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レヴィ=ストロースの宗教観;謙虚になること

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 L=S 私の両親は信仰をもっていませんでしたが、子供の頃には、とにかくユダヤ的伝統に近いところにいたことになります。両親がユダヤの祭日を祝うことはありませんでしたが、話題にはしていました。ヴェルサーユで、両親はバルミツヴァ〔ユダヤ教の成人式〕の祝いをしたことがあります。しかし、私にうんと言わせるために、これはただおじいさまを悲しませないためだからね、という以外の理由は聞かされませんでした。
 E 宗教心というものが気になることはありませんでしたか?
 L=S 宗教、という言葉で、ある人格神との関係ということをあなたが考えておられるのなら、そういうことは決してありませんでした。
 E その「無信仰」は、あなたのその後の知的生活において、なんらかの役割を演じたのでしょうか?
 L=S わかりません。青年時代、宗教ということに関しては私はひどく不寛容でした。しかし、宗教史、つまりあらゆる種類の宗教の歴史を学び、教えてきた今となっては、私は、十八や二十歳の時よりも、ずっと謙虚になっています。今でも宗教の与える解答を聞く耳は持ち合わせていませんが、宇宙とか、宇宙の中での人間の位置という問題はわれわれ人間の理解を超えたものであり、これからもそれは変わらないだろう、という気持ちはますます深くなっています。時には、根っからの合理主義者よりも、信仰を持つ人間の方が、自分に近いと思えることもあります。少なくとも、信仰を持つ人間は神秘の感覚を持っています。その神秘というのは、私の考えでは、人間の思考が原理的に解決することのできないもののことです。科学的認識はその神秘主義の周縁で、飽くことなき浸食を試みているのですが、人間にできることはそれだけなのです。しかし、科学的認識の筋道を辿ること、それも非宗教的人間としてそうすること以上に、精神にとって刺激的な、またためになることも、私は知りません。非宗教的人間として、と断ったのは、新しい認識の歩みが新しい問題を生み出し、認識の歩みは終わることがない、ということを自覚しておかなければならないからです。
    --クロード・レヴィ=ストロース、ディディエ・エリボン(竹内信夫訳)『遠近の回想』みすず書房、1991年、17-19頁。

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クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss,1908-2009)のアカデミズムというものは、単なる二者択一ではないことが、そのインタビュー集から見て取ることが出来る。

これも寛容論を考えるうえでは必要不可欠な視座でしょう。

宗教かその否定か。
科学かその否定か。

そうではない沃野にこそ、人間の現実があるという美しい見本のように思われます。

ということで、今日は講義日になりますので、そうそうに沈没いたします。

考察不足でスイマセン。

02 03

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身近な環境や自分が生まれ育ち生活した地方のことによく精通しており……

01 02

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 身近な環境や自分が生まれ育ち生活した地方のことによく精通しており、自分の近隣の自然や自然の産物のことをくわしく知っており、それらに十分精通しているというたしかな感じ、その生き生きとした意識ほど、幼児や少年や青年に真の力の感情を、また高尚な精神的生活の生き生きとしたたしかな感情をあたえるものはない。この感じこの意識ほど、真の力の感情、高尚な精神、生活の生き生きとしたたしかな感情を強め発展させ高めるように作用するものはない。この感じほど、彼らをして将来の人間としての、また市民としての職務をりっぱにまたとくに根気強くなしとげさせ実行させるようにするものはない。
    --フレーベル(荘司雅子・藤井敏彦訳)「地理学の教授」、小原國芳・荘司雅子監修『フレーベル全集3 教育論文集』玉川大学出版部、1977年。

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久しぶりの二連休二日目でしたが、今日は、自分で言うのも何ですが、倦むことなく読書のできた一日でした。

いやはや、人間の集中力というものは怖ろしい。

しかし、いつまでも自宅警備員という状態にも忸怩たるものがありますので、昼過ぎにぷらりと散歩。

といっても、自宅からすぐそばの植木屋の植木を眺めてきただけですけど、こーゆう南天(Nandina domestica)の緑や赤の色というのも目にまぶしくていいものです。

幼児教育の祖といわれるフレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel,1782-1852)の言葉をそのまま感じたオッサンですが、「身近な環境や自分が生まれ育ち生活した地方のことによく精通しており、自分の近隣の自然や自然の産物のことをくわしく知っており、それらに十分精通しているというたしかな感じ、その生き生きとした意識ほど、幼児や少年や青年に真の力の感情を、また高尚な精神的生活の生き生きとしたたしかな感情をあたえるものはない」ということだけは確かですね。

南天などを観賞しながら、南天⇒「難を転ずる」というゴロから生まれた縁起担ぎの俗信(鬼門または裏鬼門に植えると良いetc)を子供と話してみたり、その観賞植木の始まりが鎌倉時代の初期からなんだよなあ(※1)などと歴史の話をしたりしながら、散策すると、生きている郷土という大地から世界や歴史を学ぶことができるという意味では、郷土から学ぶというのはオモシロイ試みだとは思うのですけど、それだけ教養やら知識は必要不可欠で、教える方も大変になってくるわいナ……などと。

※藤原定家(1162-1241)の日記『明月記』のなかに当時の中宮権大夫が植えたとの記述があります。

ちなみに花言葉は「私の愛は増すばかり」、「良い家庭」だそうな。

さて、今日からまたしても、怒濤の仕事の連続になりますので、サクッと呑んで沈没しようかと思います。

氷温生貯蔵酒の「高清水 辛口生貯」(秋田酒類製造(株)・秋田県)で疲れた脳をゆっくりとほぐしていこうかと思います。

でわ☆

03

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「そうあるべきであるのに」というこの要望のみが、現状のままというあの他の要望を呼び起こした

01 02 03

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 三三二(671)
 あるべき人間、これは「あるべき樹木」ということと同じく、私たちの耳にはいとわしく響く。

 三三三(865)
 倫理学、すなわち「願望の哲学」。--「異なったものであるべきであるのに」、「異なったものとなるべきであるのに」、それゆえ不満足が倫理学の萌芽である。
 これからおのれを救いうるとすれば、それは、第一には、こうした感情をもたない境地を選ぶことによってであり、第二には、これが特権であり愚行であるとわきまえることによってである。なぜなら、或るものが現状とは異なったものであることを要望するとは、すべてのものが異なったものであることを要望することにほかならないからであり--これは全体を非難する批判をふくんでいる。しかし生がそれ自身そうした要望なのである!
 存在するものをあるがままに確立するということは、いずれの「そうあるべきであるのに」よりも、何か言いようなく高次の厳粛なことであると思われる。というのは、後者は、人間的な批判や越権として、笑うべきことに終わるのははじめから見えすいているからである。そこには、私たちの人間的な福祉に世界の仕組みが適合するよう要望する或る欲求が、また、この課題を目指して能うかぎりのことをするという意志が、表現されている。
 他方、「そうあるべきであるのに」というこの要望のみが、現状のままというあの他の要望を呼び起こしたのである。つまり、現状についての知識は、すでに、「どうして? それは可能か? なぜまさしくこうなのか?」というあの問いの帰結であるからである。私たちの願望と世界の運行との不一致についての響きが、やがて、世界の運行を学びしろうということになった。おそらくはもっと異なったものであるかもしれない、おそらくはあの「こうあるべきであるのに」が私たちの世界征服の願望であるかもしれないのである----
    --ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 上 ニーチェ全集 12』筑摩書房、1993年。

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あるべき病=願望への意志が、現状のままというあの他の要望を呼び起こすトリガーになっているとはネ。

「あなかしこ、あなかしこ」とは真宗の蓮如(1415-1499)さんのフレーズだっけ?

恐るべし。

さて、金がないけど、酒は呑んで寝よう。
朝は大雨でしたが、日中は一転して初夏のような状態。近所を少し散策して紅葉狩り。
なかなかいい色合いです。

「そうあるべきであるのに」にと力みすぎなくとも、紅葉は自然に赤くなるw

04

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

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「完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ」!

01

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 最後は権力である。権力は自由社会と共存できるものなのだろうか。人間解放の非常に古典的な考え方によると、解放と権力は対立概念である。その考え方では、矛盾のない自由社会というものは権力関係が廃止された社会ということになるのだろう。そういう状況では、権力の必要そのものがなくなっているのだ。マルクス主義が国家の消滅ということを考えたのは、こういう観点においてであった。しかしそういう透明な社会が本当に自由な社会であるかどうかは問題である。それを疑う重大な理由がある。自由には自己決定が含まれており、自己決定は自己決定者の意志が他の何ものによっても強制されないということが含まれている。自己決定としての自由は神にしかなく、われわれが唯一望みうる自由は、われわれ自身を超えた必然性の意識にすぎないことをスピノザはよく知っていた。つまりわれわれに開かれている行動の進路がアルゴリズムで決定されていない場合にしか、われわれは現実に選択する者ではありえないのだ。完全な合理性と選択可能性とは矛盾するのである。
 このことから、自由を制限する--権力のような--ものが、自由を可能にするものでもあるというパラドックスが生まれる。つまり先の二つの場合と同様に、あるものの可能性の条件が同時にそのものの不可能性の条件でもあるわけだ。決定不可能な領域で決定がくだされる場合、自由の条件である力が働いている。その力の前提は--あらゆる力の場合と同様--実現されていない可能性を抑圧するということである。この抑圧が同時に力の発動であり自由の行使でもある。つまり--権力が除かれた--完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ。権力は自由の影であり、アラブの格言にあるように、人は自分の影の外に踏み出すことはできない。ある種の社会的可能性を解放することはたしかにできるが、それは他の可能性を抑圧することによってでしかない。権力と自由の関係は絶えず交渉がなされ、相互間の境界が絶えず変更されるような関係であって、権力と自由という二つの条件はつねに残っている。最も民主的な社会でも権力関係のあらわれなのであって、権力が全くない社会とか権力がしだいに消滅していく社会というものではない。
    --エルネスト・ラクラウ(青木隆嘉訳)「脱構築・プラグマティズム・ヘゲモニー」、シャンタル・ムフ編『脱構築とプラグマティズム』法政大学出版局、2002年。

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調子が悪けれども、市井の仕事にでないことにはタツキもたちませんから、無理して出勤して業務を遂行してきたけれども、休憩時間になってから、ちょと読みかけの本を読もうかとすると、、、

「お客様が責任者を出せ」

だとか

「この商品の在庫はありますでしょうか」

だとか、

まあ、要するに「だとか、」の繰り返しにて、結局、一服することができなかったorzな1日でごわす。

ただ、ぴーんと頭に響いていたところだけは、iPhoneで入力だけはしていたのですが、マア、実は「ここダナ」@新渡戸稲造(1862-1933、新渡戸さんは、ここがホシだなと翠点を指摘するとき、必ず“ここダナ”と表現しております、キリッ)というわけです。

「完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ」!

上席者は、兵士よりも「自由」であるけれども、実は何かあると「自由」ではない。

「あったり前田のクラッカー」……という次第です。
ネタが古くてサーセンw

仕事をしているなかでそのことを実感するわけですけれども、社会をデザインする文脈ではその権力-非権力、権力-脱権力、抑圧-非抑圧の構造をすっぽりと忘れてしまっている……そんなことを暫し、実感した次第です。

特に党派性イデオロギーはあらゆる形態を取ろうとも「権力が全くない社会とか権力がしだいに消滅していく社会」やシステムというものは存在しないんだ!ってことを前提条件として認識しない限り、おいらが運営している枠組みはマア、ましなんだゼ……っていっても、全然マシじゃないことを理解する必要があるんだろうねぇ。

03

脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義 (叢書ウニベルシタス) Book 脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義 (叢書ウニベルシタス)

著者:ジャック デリダ,サイモン クリッチリー,リチャード ローティ,エルネスト ラクラウ
販売元:法政大学出版局
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「ルサンチマンによって明晰な意識からしめ出された憎悪が、ルサンチマンを抱く人を麻痺させる」のは嫌ですから・・・

01

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 復讐心・憎悪・妬みなどは、それがうまく発散されなかったり表現されなかったりする場合にのみ、またそれらが無力感という抑制力に直面する場合にのみ、またそれらが無力感という抑制力に直面する場合にのみ、ルサンチマンを生み出す。このルサンチマンによって明晰な意識からしめ出された憎悪が、ルサンチマンを抱く人を麻痺させる。彼は憎悪が現われそうなあらゆる態度、あらゆる言葉、あらゆる行為を恐れるのである。やがてそこから不安な状態が広がってくる。憎悪はまるで自己の存在理由を忘れてしまい、自己目的として存在しているかのようだ。何ものもこの憎悪を癒すことはできない。当初に抑圧されてしまった行為をもってさえも、癒すことはできないのである。ルサンチマンは何ものをも欲せず、何ごとをもなさない。以後、分析によって見出されることになるのは、このきわめて本質的な一つの態度であり、その態度を生じさせた出来事とはまるで無縁な一つの態度なのである。この態度は、このうえなくさまざまな外観をとる内容のもとで、いたるところに潜在している。「動機のない」といわれる多くの行為も実は「挫折した行為」でしかなく、ルサンチマンの露出にすぎない。ルサンチマンは、うわべは平静な状態--会話や仕事--や、時には長年の友情や愛情に染みとおっていたりするものなのだ。身体は意識を模倣し、不足感・虚脱感に生理的不安がつけ加わる。もはや何ものをも目指すことのないようなこの憎悪を、その時われわれが、己が身と己が弱さに振り向けるということもありえよう。これすなわち「自己憎悪・自己嫌悪・自己自身への復讐心」である。
    --モーリス・メルロ=ポンティ(加賀野井秀一訳)「キリスト教とルサンチマン」、『知覚の本性 初期論文集』法政大学出版局、1988年、23-24頁。

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ん~。

またしても久しぶりにアリエナイ具合の市井の職場の中心で「ありえねぇ~」と叫ぶ、宇治家参去です。

マア、年末進行でイタシカタないわけでございますが、今日はナイト・タイム(=わたしの仕事時間)に自分一人しかいないにも関わらず……、

「終わってないので、コレとコレ……」って寸法にて……。

をいをいと思いつつ、

「残業はなしよん」

……というアリガタイお言葉まで頂戴しましたので、キリキリと仕事をしましたがっ……、

なんとか終了。

年末ですので、マア、ホント仕方ないわけですが、ルサンチマン病に罹らないように、うまくやっていくほかありましぇん。

というわけでサクッと呑んでねまふ。

ただ、本が1冊しか読めなかったことだけが悔やまれます。

「それってルサンチマンやないけ!」

……ってツッコミはご容赦を。

02 03

Book 知覚の本性―初期論文集 (叢書・ウニベルシタス)

著者:加賀野井 秀一,モーリス メルロ・ポンティ
販売元:法政大学出版局
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【覚え書】【研究ノート】アマルティア・セン 国籍と市民権 アイデンティティ

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 現代における国籍と市民権の重要性を否定することはできないが、われわれは次のようにも問うてみなければならない。国境を越えたひとびとのあいだの関係をどのように理解すればいいのだろうか、と。こうした人々のアイデンティティにはとりわけ民族や政治的な単位による区分「以外の」分類、すなわち、階級、ジェンダー、あるいは政治的・社会的信条などに基づいた連帯関係が含まれている。職業的アイデンティティ(医者であるとか教師であるとか)やそこで生まれる国境なき責務を、どう説明すればいいのか。こうした関心、責任、義務などは民族的アイデンティティや国際関係に付随していないばかりか、場合によって、国際関係とは逆の方向に向かうこともある。「人間」であるという、おそらく最も基本的なアイデンティティでさえ、正しく理解すればわれわれの視野を拡大してくれるものだ。われわれは分け持っている人間としての責務は、「民族」や「国民」の一員であることによって成り立っているわけではない。核爆発の余震が続く六月のカルカッタで、この講演の中身をあれこれ考えていると、「人と人との間で」国境を越えて直接通い合う共感や連帯感には、互いによそよそしい国家同士の民族中心主義を実質上超えるような展望があるように思われたのだった。

 事実、国境を越えた人の往来には、国家間の関係からは出てこないような規範や規則があるものだ。これは、急速にグローバル化しつつある、独自の規則と慣習をもった世界経済における市場や交換にまさに当てはまることである。法的規制が必要とされる場合には、当然、その処理にあたって国内法が依然として重要である。それでも、世界的な貿易では、独自の倫理、規則、規範を持った当事者間の直接的交渉が行われている。この相互交渉は、国家間の関係に限定されないような集団的相互関係によって、支持されたり、吟味されたり、批判されたりすることになる。

 これ以外のアイデンティティもある。医師ならこう自問するかもしれない。医者と患者の共同体に対して、それが同一の国家に属しているとは限らない場合、どんな形のコミットメントをもつべきかと(ヒポクラテスの誓いは、はっきりとであろうと暗黙のうちにであろうと、いかなる国家的契約によっても媒介されなかったことを覚えておこう)。同様に、フェミニストの活動家からこう思うだろう。自国の女性のみならず、女性一般の権利剥奪を訴えるためには、どのように関わるべきか、と。スーダンにおける性差別撤廃運動に参加しているイタリア人のフェミニストは、まずイタリア人としてではなく、フェミニストとして活動しているのである。

 先に論じたように、アイデンティティや所属関係の違いから、相反する要求同士の対立が起こるかもしれないので、承認された義務だからといってもその一つ一つが対立する利害関係のすべてに対して優先できるわけではない。そのために、各アイデンティティ間の優先順位に関する合理的な判断が--機械的な公式ではなく--必要とされるのだ。すべての所属関係をひとつの支配的なアイデンティティ--国家組織あるいは国民の一員--に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう。国家の国民としての政治的信条は、それはそれで大切である。しかしこの政治的信条が他の集団とのつながりに基づく信条や行動の仕方よりも優先されることはない。

 今日のところ、われわれが生きているこの世界において、もっとも望ましい正義の形態とは、どんなものかについて十分論を尽くして述べることはできない。今言えることは、これから進むべき方向は、違った人間関係や集団を巻き込みながら互いに重なり会うような原初状態であって、総合にぴったりと調和しあう局面を持つすっきりとした二層構造ではない、ということである。このような方向に進めば、おそらく、異なった忠誠心に基づく正義同士が互いにぶつかり合う可能性が高くなるでろう。しかしながら、正義論というものを、実際の行動計画に関するアルゴリズムの形をした青写真ではなく、個人や(「特に」政府を含む)団体が直面する倫理的な要求をはっきりさせるのに役立つ政治的思考法として理解するなら、こうした大雑把な定式も、われわれの複合的な利害関係やアイデンティティにちょうど相応しいものになるであろう。

    --アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』関西学院大学出版会、2003年。

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すんません。
論じる余力がなく、覚え書・研究ノートの類にて沈没します。

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