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仏教は、知的にも倫理的にも精神的にも歩みを止めない無限の道である。

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 当時、私はマレーシア理科大学の客員教授であり、たまたまペナンのグリーン・レーンにあるマレーシア仏教徒瞑想センターの近くに住んでいた。ある日曜日、私は思いきってそのセンターを訪れ、儀式に参加させてもらえないかと願い出てみた。私は心からの歓迎を受けた。その後、日曜日ごとに儀式に出席したが、ある時に、次の日曜日の集会で、仏教について何か話すようにと求められた。私は即座に、私は仏教徒ではないし、北欧のプロテスタントの国から来た異邦人にすぎないと言って、その申し出を断った。私は一般的なキリスト教徒でもないし、特にプロテスタントでもない。ただ、仏教に関心を持ち、それが一体何であるかを、より深く理解したいだけなのだと述べた。すると、「そういうあなたはすでに仏教徒なのです。仏教ではすぐ改宗するとかしないとかは問題ではありません。またかつて仏教徒でなかったということも問題ではありません。過程の問題、すでに仏教徒になりつつあるということが重要なのです」との答えが返ってきた。私はその発言の正しさを証明することができる。仏教は、知的にも倫理的にも精神的にも歩みを止めない無限の道である。仏教に入るのはやさしいが、過程が重視され、汲めども尽きぬ展望を持っているのである。
    --ヨハン・ガルトゥング(高村忠成訳)『仏教--調和と平和を求めて』(財)東洋哲学研究所、1990年、5-6頁。

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昨夜は22時から賢者たちと、Skypeを使って勉強会をしました。
参加された皆様、ありがとうございました。

詳細は措きますが、昨夜は平和学の泰斗・ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung,1930-)の思索と行動を検討。

戦争がない=消極的平和という在り方よりも、一層突っ込んだ積極的平和を構想する学としての「平和学」を切り拓いた先達として同氏は有名ですが、その切り替え構想の根底には、業の転換という発想が見え隠れします。

その発想のもとに具体的アプローチが存在するわけですが、具体的アプローチに引っ張れすぎてしまうと、ガルトゥング自体が使命感をおびて挑戦しているその足跡を正しく理解することが不可能です。

昨夜はそんなこと少し考えさせられた次第です。

別に特定の教派に属して何をやるというわけではありませんが、その土壌から薫蒸される豊かな宗教性を自分自身の糧にして世界を耕していく--その美しい見本と実践は、たんなる手段的営みでないことだけは確かです。

ここがガルトゥングを理解するうえでのホシになるのだろうと思います。

平和学という学問自体がまだまだ若い学問ですが、ガルトゥング自身についてはそれ以上にまだまだ正確に理解されていないというのが実情でしょう。

ワタクシ、ちょいと風邪ひきで調子が悪うございましたが、様々な角度から対象を検討することができ、あっという間の2時間半のライヴとなりました。

本当にありがとうございます。

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