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【覚え書】【研究ノート】アマルティア・セン 国籍と市民権 アイデンティティ

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 現代における国籍と市民権の重要性を否定することはできないが、われわれは次のようにも問うてみなければならない。国境を越えたひとびとのあいだの関係をどのように理解すればいいのだろうか、と。こうした人々のアイデンティティにはとりわけ民族や政治的な単位による区分「以外の」分類、すなわち、階級、ジェンダー、あるいは政治的・社会的信条などに基づいた連帯関係が含まれている。職業的アイデンティティ(医者であるとか教師であるとか)やそこで生まれる国境なき責務を、どう説明すればいいのか。こうした関心、責任、義務などは民族的アイデンティティや国際関係に付随していないばかりか、場合によって、国際関係とは逆の方向に向かうこともある。「人間」であるという、おそらく最も基本的なアイデンティティでさえ、正しく理解すればわれわれの視野を拡大してくれるものだ。われわれは分け持っている人間としての責務は、「民族」や「国民」の一員であることによって成り立っているわけではない。核爆発の余震が続く六月のカルカッタで、この講演の中身をあれこれ考えていると、「人と人との間で」国境を越えて直接通い合う共感や連帯感には、互いによそよそしい国家同士の民族中心主義を実質上超えるような展望があるように思われたのだった。

 事実、国境を越えた人の往来には、国家間の関係からは出てこないような規範や規則があるものだ。これは、急速にグローバル化しつつある、独自の規則と慣習をもった世界経済における市場や交換にまさに当てはまることである。法的規制が必要とされる場合には、当然、その処理にあたって国内法が依然として重要である。それでも、世界的な貿易では、独自の倫理、規則、規範を持った当事者間の直接的交渉が行われている。この相互交渉は、国家間の関係に限定されないような集団的相互関係によって、支持されたり、吟味されたり、批判されたりすることになる。

 これ以外のアイデンティティもある。医師ならこう自問するかもしれない。医者と患者の共同体に対して、それが同一の国家に属しているとは限らない場合、どんな形のコミットメントをもつべきかと(ヒポクラテスの誓いは、はっきりとであろうと暗黙のうちにであろうと、いかなる国家的契約によっても媒介されなかったことを覚えておこう)。同様に、フェミニストの活動家からこう思うだろう。自国の女性のみならず、女性一般の権利剥奪を訴えるためには、どのように関わるべきか、と。スーダンにおける性差別撤廃運動に参加しているイタリア人のフェミニストは、まずイタリア人としてではなく、フェミニストとして活動しているのである。

 先に論じたように、アイデンティティや所属関係の違いから、相反する要求同士の対立が起こるかもしれないので、承認された義務だからといってもその一つ一つが対立する利害関係のすべてに対して優先できるわけではない。そのために、各アイデンティティ間の優先順位に関する合理的な判断が--機械的な公式ではなく--必要とされるのだ。すべての所属関係をひとつの支配的なアイデンティティ--国家組織あるいは国民の一員--に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう。国家の国民としての政治的信条は、それはそれで大切である。しかしこの政治的信条が他の集団とのつながりに基づく信条や行動の仕方よりも優先されることはない。

 今日のところ、われわれが生きているこの世界において、もっとも望ましい正義の形態とは、どんなものかについて十分論を尽くして述べることはできない。今言えることは、これから進むべき方向は、違った人間関係や集団を巻き込みながら互いに重なり会うような原初状態であって、総合にぴったりと調和しあう局面を持つすっきりとした二層構造ではない、ということである。このような方向に進めば、おそらく、異なった忠誠心に基づく正義同士が互いにぶつかり合う可能性が高くなるでろう。しかしながら、正義論というものを、実際の行動計画に関するアルゴリズムの形をした青写真ではなく、個人や(「特に」政府を含む)団体が直面する倫理的な要求をはっきりさせるのに役立つ政治的思考法として理解するなら、こうした大雑把な定式も、われわれの複合的な利害関係やアイデンティティにちょうど相応しいものになるであろう。

    --アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』関西学院大学出版会、2003年。

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すんません。
論じる余力がなく、覚え書・研究ノートの類にて沈没します。

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