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子どもに向かって、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という教育方法に対して、私はいささか疑問を抱いています

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 子どもに向かって、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という教育方法に対して、私はいささか疑問を抱いています。
 どうしてそういう教育方法に疑問があるかというと、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」というときには、「きちんとことばにする」という要請の方が優先して、「これはほんとうに『自分のいいたいこと』だろうか?」という自問に割く時間がその分だけ削られてしまうからです。

 大学に入ってきたばかりの一年生たちに、自由なテーマでエッセイを書かせると、あまりおもしろいものに出会いません。というか、ほとんど「非常につまらない」ものばかりです。
 型にはまっているからです。
 「小論文の書き方」みたいなものをたぶん高校の現国の授業や予備校で習ってきて、そこで習得してきた技法なんでしょう。論題について「具体例を挙げ」、それについての「一般的見解」を紹介し、ついで、「私なりのちょっと違う視点からのコメント」を付して、最後にどうでもいいような「結論」(「日本はこのままでいいのだろうか?」、「若い人たちにも少しは考えて欲しいものである」、「メディアの論調に無批判に従うのはいかがなものか」など、どこにでも使える決まり文句--「根岸の里の侘び住まい」みたいな--が十個くらいあります)で締め、という定型のとおりに、学生たちはエッセイを書いてきます。
 こういうものを何十編も読まされていると、読んでいる方は重い徒労感にさいなまれてきます。
 そういう定型的なことばづかい、ストックフレーズの乱れ打ちというのは、一種の暴力として機能するからです。私のような、劫(ごう)を経た教師でも、そういうものを浴び続けると、それなりに息が詰まってきて、胸苦しくなってくるのです。「お願いだから、どこかで扉を開けてくれ」といううめき声が漏れてくるのです。
 「扉」というのは「訂正への扉」のことです。つまり誰かが何かを言うと、「それって、『こういうこと』?」という問い返しがあって、それに対して「いや、そうじゃなくて」というふうな「訂正」があって……というふうに受け渡しが始まるきっかけになる、コミュニケーションの「開錠」のことです。
    --内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書、2005年、124-126頁。

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内田樹先生(1950-)の『先生はえらい』は発刊と同時に読んでから、「先生はえらい」ということを考えなきゃいかんと思い……などと表現すると、「お前も教師やんけ、何えらそうなことをほざいておるんや」などとどやされそうですがそーいうことが本意ではなく、チクショー、こういうことを弁明しなければいけない、民主主義的「誤解」こそ糞食らえと思いつつ、別に「先生はえらく」ないけど「えらい」んやと思いつつ、ワケワカランようになるのでひとまず措く、というか戻る……、水曜日に指導教官の鈴木先生の仕事場で、論文指導をうけてから、ひさしぶりに紐解いたわけですが、同志社のある先生は、この「中学生に向けた」一冊を新入生に読ませるようにしているという話も聞いたことがあって……

「はあ、たしかになア」

……と思うこと屡々。

上の引用文は、本論ではなく各論という部分になりますが、マア、しかし、内田先生のこの吐露は分からなくもありません。

本来、学力考査で推し量れない、そのひとの思索力を伺いしろうということで、導入されたのが大学入試における「小論文」というヤツなのでしょうが、もはやそれがシステムとして出来上がってしまうと、学力考査にヒケをとらない、点数を取る体系へと整備されてしまうのでしょうね……ぇ。

子供に限らず、「しなさい」という言い方には……まあ機械的は反復作業としての経済活動は除きますが……、あんまりいい結果を導くことはないのでしょうネ。

「これはほんとうにそうなのだろうか」

そう自問する時間が殆どない現実がorzです。

……というわけで、「霧島」がまだ残っておりますので、丹波産の黒豆を煮てみましたので、それを肴に少し呑んでから沈没しようかと思います。

でわ☆

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著者:内田 樹
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