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【覚え書】たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である

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 社会の変革、自治社会の樹立は、生産の過程の中で単独に中心的に成就されることは明らかにできなかったしできない、人類学的な変化をともなう。そうでないとすれば、社会の変革という思想は、興味のない虚構である。でないとするなら、既成秩序の否認、自治のための闘い、個人的・集団的な新しい生活のあり方の創造は、社会生活のあらゆる領域を(闘争的に対決的に)侵蝕するし、侵蝕するであろう。それらの領域の中で、(決定的な)役割を果たすいかなる領域もない。たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である。
    --コリュネリュウス・カストリアディス(江口幹訳)『社会主義か野蛮か』法政大学出版局、1990年、423-424頁。

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《決定的なもの》という発想じたいが、傲慢なのかもしれませんな、思想の世界においては。《決定的なもの》へと高めていくことは可能でしょうが・・・。

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