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「私は人間である」という命題が、論理によってではなく、詭弁によって成立している

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ヴィクター・フランケンシュタインが自然科学の知識を動員し、「狂乱に近い衝動」で創造した人間は完全な失敗であった。ヴィクターは、みずからが創造主になり、彼が創造した人間から神のように祝福されるために人間を創造した。彼が理性にしたがって「手足は均整がとれ、要旨も美しく選んだ」はずの人間は、創造主であるヴィクターですら痙攣し、恐怖をいだく、醜悪な容姿の持ち主であった。
 アダムとイブを楽園から追放した後も人間を見放さず、神の分身としてのイエスを人類の原罪をあがなうために地上につかわし十字架にかけさせたデウスとは違って、ヴィクターは一瞬にしてこの醜悪な生物を見捨ててしまったのである。しかし、モンスターが非「人間」的なのは、八フィートある身体と醜悪な容姿だけなのだ。創造主であるヴィクターは、無責任にもモンスターの外見上の醜さに対する偏見から、モンスターに対するいっさいの共感を持たず、創造主としての責任をとろうとしない。
 『フランケンシュタイン』で繰り広げられる殺人と破壊は、すべてヴィクターがモンスターを捨てたことから発生しているのであり、彼は創造主から見放された孤児、永遠に救済を予定されていない、不幸と分裂を病んだ存在なのである。
 かれが人間的な共同体から排除されているのは、彼は八フィートの巨人であり、醜悪な容貌を餅、異常な音声を発生する存在だからである。彼が普通の人間よりもはるかに戦災な神経を持ち、共感的な能力に満ちていることは後にも述べるが、彼は人間の概念が厳密化されることによって、身体的な特徴という理由のみによって共感の共同体から排除されるのである。
 身体的な形質による人間の差別は、現代の社会では不公正で非人間的な差別として否定される。しかし、十八世紀のヨーロッパは、植民地の拡大によって、非ヨーロッパ世界には多様な形質を持った「人間」が存在することを発券し、彼らがはたして「人間」なのか、非「人間」として動物と人間との中間的な存在として扱ってよい存在なのか、つまりどこに「人間」の境界線を引くかに関心を持ち始める。
 その一方、産業革命による自然破壊と田園的風景の荒廃によって、ヨーロッパはかつてソン愛したノスタルジックなアルカディアをを追い求め、それが十九世紀に発生する「ナチュラリストの誕生」(D・E・アレン)につながってゆくわけである。他方で、ルソーがパリの荒廃を非難し、「高貴な野生人」を自然状態の人間に発見したように、植民地世界の「人間」に産業革命以後の人間の疎外と文明によって汚染されていない「高貴な野生人」を発見するようになる。
 レヴィ=ストロースは、ジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に人類学の発生を見いだした。それは十八世紀が「人間」と非「人間」の境界を設定しようとしたときに発生したのが人類学(anthropology)、つまり「人間」(anthropo)に関する学問であったことを明確に物語っている。つまり、人類学の起源は、「人間」と非「人間」の境界を設定する学問の形態をとって証明することにあった。
 『フランケンシュタイン』のモンスターが、「人間」か非「人間」かの境界設定に巻き込まれ、彼が「高貴な野生人」ではなく、非「人間」として排除されたことは、ルソーの共感の共同体が「人間」を特権化していることと無関係ではない。
    --櫻井進『江戸の無意識 都市空間の民俗学』講談社現代新書、1991年、143-146頁。

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どはっ。

強烈に疲れているのですが、少しだけ書いておきます。

市井の仕事……GMSの業務……をしていると、まあ、接客経験者にはよく理解できるかと思いますが、売り場でお客様に声をかけられると、

ちょと「マジ??」的な……、、、

なんといいますか「クレームか、はたまた、面倒な依頼かっ!」などと身構えることってあるんです。

まあ、それはびびり過ぎのチキン野郎だからじゃねえかッ!

……っていわれてしまいそうですが、伺ってみると賞賛のお言葉であったとしても、最初に「ちょっと、店員さん!」などと声をかけられると、警戒してしまうものなんです。

さて……。

「お豆はどこにあるのかしらん?」

……などと声をかけられた次第ですが、

私の場合、細かい方なので、、、

「豆???」

「青果の豆かッ、それとも加工された菓子類の豆製品かッ、それとも農産乾物か……、はたまた……」

……などと脳みそがフル回転するものですから、とりあえず、、、季節的にも正月準備だしと思い直して、、、

「ぜんざいなんかでご利用されますか、小豆類でしょうか??」

と伺ったところ、、、

「いえいえ、あ、あれ、フジッコのおまぁ~めさんっ」

……と、後半部分は、少し調子をとって歌いながら答えてくれたものですから、

少し安堵したものです。

さてここに見られる構図というのは、実は相手を対象化して「人間」として扱っていない眼差しが潜んでいると言うことです。

「フジッコのおまぁ~めさんっ」という一言が出るまでは、もろに警戒していた自分が恥ずかしくなった次第ですけれども、人間は、人間を人間として扱わず、この場合「お客様」という抽象化された立場で警戒していた眼差しに、、、、そして警戒しすぎていたことに少しだけorzしたということ。

別に対したアレではありませんが、人間は、自分が設定した「共感の共同体」の枠の中だけに人間を設定し、それ以外を非人間として「処理」しているわけだよなあ……などとふとおもった次第です。

これが人間という存在の次元に属する暴力性というやつで、これを徹底的に排除して「神の視座」から生きることはできませんから、どこからでそれを点検して相対していかなければならない……そんなことを考えた次第です。

ということで呑んで寝ます。

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 『フランケンシュタイン』や『八犬伝』が生成した「人間」は、排除によるアイデンティティーの成立を物語っている。アイデンティティーを求める運動自体が排除を必然的に生み出してゆくのである。彼らが生成した「人間」は、イマジネールな存在である。非「人間」として排除されることを恐れる人々が、非「人間」をいけにえとしてまつりあげ、排除する。こうすることによって、排除以前には存在していなかった「人間」の共同体が、はじめから存在していたように言いくるめられるのである。
 フランスのフロイト派の精神分析学者ジャック・ラカンは、「私は人間である」という命題が、論理によってではなく、詭弁によって成立していると言っているが、それはロマン主義の生成した「人間」についても妥当することは言うまでもない。
  (1)人間は人間ではないものを知っている。
  (2)人間達は人間たちであるためにお互いのあいだに自分を認める。
  (3)私は、人間たちによって人間ではないと証明されるのを恐れながら、自分は人間であると断定する。
 「私は人間である」という断定に潜んでいるのは、他者から「お前は人間ではない」と言われることへの恐怖である。つまり「人間」の共同体から排除され、非「人間」の烙印を押される前に、いち早く「私は人間である」と断定することによって、「人間」としての身分証明書を獲得しようとする衝動なのである。遅れて「私は人間である」と断定した者や、「私は人間である」と考えなかった人々は、非「人間」の領域に排除される。いちはやく「人間」であることだけを宣言した者だけが「人間」の資格を得るのである。
 『フランケンシュタイン』のモンスターは、すでに存在を宣言していた「人間」によって非「人間」の烙印を押され、八犬士は他者に先んじて「人間」であることを宣言した。十九世紀には、「人間」をめぐる広範な闘争が存在していたのであり、ヨーロッパは植民地支配と、特権的な存在としての「人間」の生成とは無関係ではない。それは、徳川政権が蝦夷地を植民地として制圧し、アイヌたちを経済的な隷属状態に置き、彼らに「日本語」と「日本」の風俗を強制したことの背景には、非「人間」を排除することによって成立している「人間」=「日本人」という特権的な概念が存在していたのである。
 「人間」から排除された『フランケンシュタイン』のモンスターは、特権的存在としての「人間」への復讐を誓い、「人間」になろうとする崇高な理想から脱落し、残虐な殺人者となって自滅していった。「八犬伝」の八犬士は、みずからの「想像の共同体」を形成し、そこから無数の人々を排除し、権力空間の主体としての農民を民兵として動員した。つまり、彼らは特権的な「人間」の権力的空間から闘争=逃走したのにもかかわらず、再び規律=訓練的な権力社会を再現してしまったのである。分裂した不幸の意識を治癒しようとするロマン主義の運動は、過去に存在した自己充足的共同体や純粋無垢な子供の領域に、病んだ無意識を解放する空間を生成することを意図した。しかし、そういった主観的な意図にもかかわらず、そこに実現されたのは、排除の力学によって生産された特権的な「人間」の権力的空間であった。
 そのことは、規律=訓練的な権力空間から逸脱しようとする運動が、けっしてイノセントだとは主張できないことを示している。『フランケンシュタイン』のモンスターや八犬士もまた、「人間」の権力性と暴力性を持っているという点においてイノセントな存在ではなかったのである。
    --櫻井、前掲書、158-160頁。

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だから、とくに・・・ロマン主義は嫌いなんじゃ(ボソッ

http://www.youtube.com/watch?v=BLgmBJjHgDc

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