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2011年1月

私たちの「認識作用」は、量を確立することに制限されている。

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   五六三(861)
 私たちの「認識作用」は、量を確立することに制限されている。しかし、私たちがこうした量の差を質とみなすことを妨げるものは、何もない。質は私たちにとっての遠近法的真理であって、いかなる「それ自体でのもの」でもない。
 私たちの感官は、その範囲内でこの感官の機能がはたらく中間として特定の量をもっている。言いかえれば、私たちは、私たちの生存の諸条件との関係いかんによって、大きくも小さくも感覚する。私たちの感官が十倍も鋭くなったり鈍くなったりすることがあれば、私たちは破滅するにちがいない。--言いかえれば、私たちは、大きさの関係をも、私たちの生存を可能ならしめるという観点から、質として感覚するのである。
    --ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 下 ニーチェ全集 13』筑摩書房、1993年、98頁。

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最初はどうなることか思いましたが、先ほどにて一週間断酒計画が無事遂行しました。

最初の一日目は正直なところキツかったのですが、はじめてみると、

「別に呑まなくても……」

……という感覚にて、確かに寝つきはよくないのですが、

「別に呑まなくても……」

……とどこおりなく日常は進むといいますか、否、むしろ生産的な一週間を過ごすことができたことに我ながら驚きます。

まったりと呑みながらやるわけではありませんので、仕事が捗るだけでなく、何よりもおどろいたのはその減量効果!

たしかに呑みませんので肴もやりませんので体にはいいですよね!

おそらく今後は呑む日は呑むでしょうが、、、使命感を帯びて「マイニチ・ノンデル」ことはないことだけは確かだと思います。

また外で呑んでもふらふらになるまではやらないとも思います。

酒を常用するにようになってから一週間断酒したのは人生のなかではじめてのことでしょう。

そしてその意志をを貫き通すことのできた自分に拍手ですwww

きっかけをあたえてくれた諸氏に感謝です。

さて、先ほど一週間ぶりに、ビールを口にしてみました。

ホントはどこかによって呑んで帰ろうかと思っていたのですが、日曜ですので近所はほとんど閉店。

しかたなく近所の24時間営業のマクドナルドにてベーコンレタスバーガーセットをゲットして、エビスではじめた次第です。

いつものように、

「ゴキュゴキュ」

……って速攻に蒸発させるかと思いきや、ゆっくりと味わうように頂きました。

旨いというわけでもマズイというわけでない……「こういうものなのよねん」というのが正直なところのインプレッション。

この後少しだけ日本酒を熱燗と冷やで一合づつ頂こうかと思いますが、おそらく今後は鯨飲することはもはやない……そのことだけは確かだと思います。

いやはや、良い機会になりました。

呑む日は呑むでしょうが、もう毎日はやらないでしょうねぇ。

でわ☆

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「考える」ことの中における<遊び><息抜き>について

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……ここでは「考える」ことの中における<遊び><息抜き>について少々触れてみたい。
 まず頭を柔軟にすることである。一つの思想運動をやっていると一定方向だけ見つめて他のことは全くわからないということになりがちだ。世の中のことをわからないで「社会を変革する」だとか、一般の人よりも勉強もしないで、「無知蒙昧な大衆を啓蒙する」などと大言壮語をしがちだ。一般の人を啓蒙しようなどと言うのなら少なくともそれ以上に勉強し、努力しなければならない。それと同時に頭を柔らかくして感受性を鋭くしておかなくてはならない。そうでなければ、発想を促すことは出来ないし、それを原稿、運動に投影することも出来ない。
 自分の場合は、何度も言うように、年齢、職業、思想、研究分野の違う各種の人々と意識的につき合うようにしている。そこから吸収できるものは何でも吸収する。自分では若いつもりでも知らず知らず頭がかたくなっていることがあるので年代的に若い人間と話す機会を持つ。下らないと思うかもしれないがこれは精神を若く保ち、発想を促す基になる。下らないものでも、どんどん見聞し、その中で感覚的に参考になるものは取ればいい。あとの大部分は思い切って捨てることである。
 下らないことのついでだが、テレビや映画、漫画などは思い切って下らないものを見る。これは意識的にやっているというよりも、好きだからといった方がいいのかもしれない。日曜日の「新婚さんいらっしゃい」や「TVジョッキー」などは欠かさずに見てるし、コメディも好きだ。思い切って笑えるものは精神衛生上いいのだ、などと自分で理屈をつけている。それに下らないものの中に、世の中のことが本当に分かる、そんな瞬間があるような気がする。
 映画も時間のある限り見ることにしている。最近は本と同様に映画も一つの思想だと思わされるものがある。そうしたものは必ず見るようにしている。本を読んで考え、ヒントを得ると同じように映画を見てヒントを得、発想を促されることもあるからだ。だが忙しい時に映画館に行ったりすると時々罪悪感におそわれることがある。仕事をしなくてはならないし、もっともっと勉強しなくてはならない。それなのに楽をして映画なんかを見ていいのだろうかと。これは他の息抜きをしている時もそう思うのである。イライラして、これでは息抜きにもならないし、精神衛生上も悪い。
 だからこれも「仕事」だと思うようにしたのである。あるいは「義務」だと言ってもいい。
    --鈴木邦男『行動派のための読書術』長崎出版、1985年、176-178頁。

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大学に自分の研究室があるわけでもありませんし、研究所にオフィスがあるわけでもありませんので、学問の仕事場はどうしてもウチになってしまいます。

それでも狭い賃貸住宅ながらも、1室をあてがわれていることには家人に感謝をしなければならないのですが、そこで仕事をしていて、つまり、狭い意味で言えば、教育というよりも、教育に関する仕込みとか、自分自身の専門研究の仕事をしていると、やっぱり「煮詰まってくる」ものです。

これはウチであろうが、研究室であろうがオフィスであろうが、どこでやっていても「煮詰まってくる」ことはあるのですが、「煮詰まってくる」とどうしてもそれを解きほぐしてやらなければなりません。

終日何もない一日であれば、散歩にでかけるとか、それこそ映画を見にでかけるとか、ウチから出て気散じをすることが可能ですけれども、数時間後に市井の仕事とかアポイントがあったりすると、なかなか、おいそれと足を延ばすこともできず、どうしても、ウチのなかでそのぉ~気分転換をしなければなりません。

ですから、ちょいとした息抜きにネットショッピングを楽しんだり(この場合購入するのが目的ではないのでウィンドウショッピングと同じ)、お気に入りのDVDを見たり、音楽を聴いたり、漫画や小説を楽しんだりするわけですが……

ウチでやっていると分が悪いことって結構あるんです。

そう、くつろいでいる時に、家人が急に入ってきて

「遊んでいる~」

……という訳です。

いや、別に遊んでいるわけではなく……というのが正直なところなのですが、

家人が急に入ってくるときに限って、だいたい「煮詰まってくる」精神や体を解きほぐしているときになってしまうのが不思議なものです。

ですから「遊んでいる」⇒「何もやっていない」という方程式が成立するようでして……。

ホントは、そんなことないんですけどねぇ。

しかしそうした気散じといいますか、もっと幅広く言えば、世界総てから学ぶという市井がないと、細かく重箱の隅をつつくような研究もキチンとしたものにならないはずですから、それすべてが「学ぶ」「探求する」うえでのやり方の一つなんですけどね。

冒頭には、新右翼の鈴木邦男(1943-)さんの、しかもかなり古い一節からですけれども、

「これも「仕事」だ」

あるいは

「「義務」だ」

……と捉えるようにはしているのですが、それを口に出して家人に言うのは、、、、

どうしてもはばかれてしまいます。

いやはや。

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酒が無くとも「さようでございます、いい按配で……」

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 二合の酒で、いつになく長谷川平蔵は、微酔いになった。
 日暮れには、まだ、間がある。
 「窓を開けてくれぬか」
 酒を運んであらわれた座敷女中にそういいつけた平蔵は、
 「おだやかな日和がつづくことよ」
 独言のように、いった。
 「さようでございます、いい按配で……」
 顔なじみの年増の女中が、窓を開けてから
 「ほかに、御用はございませんか?」
 「うむ……」
    --池波正太郎「霜夜」、『鬼平犯科帳 16』文春文庫、2000年、263頁。

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マイニチ・ノンデルわけですから、二合の酒で「いい按配で……」となることの心地よさは誰よりも人一倍熟知しているわけですが、月曜日から、一週間断酒するぞと決意しましたので、ちょうど五日ほど断酒している氏家です。

まあ、この五日の時点で、酒を飲むようになってからは記録更新という快挙であり、自分自身の世界新記録達成というわけですが……、そうした私の進路を邪魔する勢力というものも、船が進めば波が立つように不可避的に存在するというのがこの世の中のオモシロイところです。

金曜は休日でしたし、大阪から帰ってきてからその前後を含め、家族と「何かうまいものでも……」というスチュエーションがありませんでしたので、

「鮨に行きたい」

……などと息子殿が申すものでしたから、いく羽目に。

鮨にいけば呑むだろう……という魔の囁きと向かい合いながら、

「呑みたくないので、今日はかんべんしてくれ」といったのですが、今日ぐらいしかいく日取りもありませんでしたので、生き地獄といいますか連れて行かれた次第です。

さて近所の回る鮨やですが、丁寧に握ってくれる行きつけのところへ三人で早い夕方に訪問。

寒鰤が今日の目玉でしたので、寒鰤のトロから早速始めさせて戴いた次第です。

しかし、固く決意しておりましたので、お酒は頼むことなく……楽しませて戴くことができました。やはり「武士に二言」なしというやつです。

まあ、ノンアルコールの麒麟のフリーは頂きましたが、連日呑んでいた時はこれが「すげぇ、マズイ」って思っていたのですが、それすら「甘露」に思える始末(苦笑

鰤を中心に、中トロ、炙りブリ、鰯、中落ちトロ軍艦、穴子に寒鰤のブリ大根という流れで箸を進ませて戴きました。

ゆっくり頂戴してから店を辞しましたが、結局アルコールを全く頼みませんでしたので、会計がいつもの2/3

酒を飲まないとは、まあ体にも財布にもやさしいものかもしれませんな(苦笑

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非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない

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第三八節 頽落と被投性
 世間話、好奇心、曖昧さは、現存在が日常的におのれの「現」を--世界=内=存在の開示態を--存在しているありさまの性格である。これらの性格は現存在にそなわる実存論的規定性であるから、そこに客体的に存在する性質ではなく、現存在の存在の構成にあずかっている。それらにおいて、そしてそれらの存在連関において、日常性の存在の根本的様相が現われてくる、これを、われわれは現存在の頽落(Verfallen)となづける。
 この名称は、なんら否定的な評価をするものではなくて、現存在がさしあたってたいていは、配慮された「世界」のもとにたずさわっているということにほかならない。このように……たずさわってそれに融けこんでいることは、たいていは、世間の公開性のなかでわれを忘れているという性格をもっている。現存在は本来的な自己存在可能性としてのおのれ自身から、さしあたってはいつもすでに脱落していて、「世界」へ頽落している。「世界」へ頽落しているということは、世間話や好奇心や曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在のなかへ融けこんでいるということである。われわれがまえに現存在の非本来性となづけておいたものは、いま頽落の解釈をつうじていっそう鮮明に規定されることになる。非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない。もしそうだとすれば、現存在はこの存在様態をとるやいなや、そもそもその存在を喪失するということになるであろう。
    --マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年、372-373頁。

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すいません。更新を怠っておりまして……。
何しろ、ホント休みがないものでして、そんでもって休みの日はたまった学問の仕事と研究を片づける「うぃる」という感じで、ほんと、なんとかしてくれやいなアと思うわけですが、誰かに頼んでもそれが遂行されるわけでもなく、、、そのどうしようもない日常を逸脱することなくレコンキスタしていくほか……あるまい、などと不敵に笑ってしまうワタクシです。

寝る前にと思ってハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の主著『存在と時間』(Sein und Zeit,1927)の中盤のひとつのクライマックス、すなわち、人間という存在(つまりこれが現存在ですな)が、日常生活のなかで日々の労務に埋没している状態を「頽落」と指摘したところがありましたので、ひとつ抜き書きしておきます。

まあ、ハイデッガー大先生は、人間がぐだぐだとした毎日の生活に埋没してしまう現実を峻厳に指摘しておりますが、単なる指摘でも終わらせないように配慮しておりますね。

ぐだぐだなその状態っていうのは、確かに「こんなん、わたしの思っている・考えている状況と違うやないけ」ということは否定しませんよ。

ですけどそう呟いたところで、「じゃア、どこかに本来的とか、本当の自分なんかがあるのかいな?」ってなってしまうのも事実です。

ですから「非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない。もしそうだとすれば、現存在はこの存在様態をとるやいなや、そもそもその存在を喪失するということになるであろう」という寸法。

金曜日は待ちに待った?!二週間ぶりの休日です(働きすぎだと思いますヨ、ホント)。

まあ、例の如く、山積みの研究をかたづけるほかありませんが、日常生活のなかに頽落しているようにみせかけつつも、そこで現存在の使命を、世界=内において、チト念入りに遂行していこうと思う深夜です。

つーか、はよ寝ぇやってところですね。

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十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた

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十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの本を抱えているわたしに気がつき感心して、肩をぽんとたたいて、何か言ってくれないかとわたしはどんなに望んでいたことだろう。でも何を言ってもらいたかったのかたしかなところは分からなかった……
 時折わたしが思うことは、不安がないわけではないが、十五、六歳の若者は大人になったら何になりたいと考えているのだろうかということだ。この本が若者の気に入ってくれることを望みたい。
 今ふとわたしの心に浮かんだのは、若い頃に探し求めていた認識と愛が、大人になったらなりたいと思っていたのと違った結果になったのではないかということである。もしわれわれが成人に達するのはわれわれの親の親になるのことによってであるなら、そしてわれわれが成熟するのは両親の愛に代わる適当なものごとを見出すことによるのであるならば、われわれ自身がわれわれの理想的な親になることによって、最終的に円環は閉じられ、完全さに到達することになるだろう。
    --ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』青土社、1993年、476頁。

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『正義論』で有名なハーバードの教員・ジョン・ロールズ(John Rawls,1921-2002)の同僚であり、真っ向からその立場を異にしたのがリバタリアンのノージック(Robert Nozick,1938-2002)です。

まあリバタリアニズムと一口でいっても右から左まで、その特徴や強調点によって様々な違いがあるわけですが、ノージックのそれは、「メタ・ユートピア論」にカテゴライズされるものです。

ノージックの最大の問題とは何でしょうか。

それは人間の自由とは何かということにつきるでしょう。
だから、人間が自由を手にするにあたって、その仮象の共同体としての「国家」は何をなすべきかが問題とされます。

だから、逆に言えば、国家が自由であってもしょうがないという寸法です。

国家の正当性は無限大でもないし、かならず限界があります。ここが本朝ではなかなか理解できないところでしょう。

さて最小国家を探求したノージックの論点は3つあります。ひとつは「自己所有は何か」という問題、そして「権利は衝突するか」という議論、最後に「危害の強要と、安全・安心の強要は同じではないのか」という問い……。

そこから単一支配主義からエスケープしていく方途が論じられるわけですが、その辺を今日は考えようとしたわけではなく(苦笑、彼の自伝とも言うべき、The Examined Life: Philosophical Meditations(Simon and Schuster, 1989)の末尾から、少し日常生活の一コマについて考えてみようかと思います。

その部分をちょうど冒頭に引用しているわけですけれども、少年時代のノージック先生は、「わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた」そうですねぇ。

学問をやる上で大切なのはこの感覚なんですワ。

昨今、どちらかといえば、それを扱うデバイス類に集中・注目してコンテンツが置いていかれるっていうことに危惧を抱く昭和人ですので(苦笑

確かにアンドロイド端末やiPadやら、そうした「何かを扱う」デバイスのことに関しては話題になることが多いのですが、それを「外側に見えるようにして歩」くだけでなく、できれば、「ペーパー版プラトンの『共和国』」をそのように小脇に抱えてですね……「その一部を読んで、余りよく理解できなかった」としてもですね……歩いて、「なんとくなくすばらしさを感じて」欲しいものです。

自分が学生時代……90年代初頭、ワープロ全盛期で、ぼちぼちモバイルPCが出始めた時代ですが、まだまだそうした雰囲気はキャンパス内でも結構ありましたものですから……、苦言を呈するわけではありませんけど、そうしたエートスが失われてしまうのはチト寂しいなアと思う次第です。

それが分かろうが分かるまいが、いい本をもって歩くっていうのは大事ですよ。

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「思考の歴史的制度から脱け出す」こと

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 合理的に考える人がすべて合理主義者とは限らない。合理主義者とは、合理主義という思考のパラダイム、いいかえれば思考の歴史的制度から脱け出すことのできない人のことであるといってよい。その意味でいえば、合理主義それ自体が一種の非合理主義だということになる。合理主義という思想の幻想から解放されていない人を、ぼくらは合理主義者と呼んでいるにすぎない。つまり思考の合理性は、しばしば、思考の合理的体系を突破し、解体せしめるように機能する。
    --山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』彩流社、1997年。

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金曜日まで休みがないので少しだけ。

2-3日、更新をしていなくてすいましぇん。

先週も休み無く仕事をして、週末は大阪で倫理学を講じており、そのままもどって短大の試験、それから市井の仕事という怒濤状況で、久しぶりに「考える暇」がないという状況で許して丁髷です。

さて、これにて今年度の授業は基本的に終わりました。
4月からの新年度が次のスタートとなります。

倫理学にせよ、哲学にせよ、そうした学問を講じる中で、大切だなと思うのは、「思考の歴史的制度から脱け出す」ことなのではないのかなと縷々実感するところです。

人間は生きていく中、様々な知識を学ぶわけですが、まあ、それが都合がいい体系へと変貌させられてしまうのがよくあるパターンかと思います。

それがそのひとが生きていく上でのひとつのパラダイムの骨格を形成するわけですが、そのパラダイムというものが「合理主義という思想の幻想から解放されていない人を、ぼくらは合理主義者」と呼ぶような状況を招いてしまうというものです。

だからこそ、それをずらしていくのが、高等教育の目的なのではないのか……というところなわけです。

というわけ、本年度、お世話になりました皆様、ありがとうございました。

久々の更新ですが、今日は、早々に沈没いたします。

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「俺だけど」における「俺」も誰か特定の人物を指示してはいない。

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……われわれが言葉の意味について語る典型的な場面は、その意味を人に説明するときである。だからこそ、『青色本』は次のようにして始まる。「語の意味とは何か。/この問題に迫るためにまず、語の意味と説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うて見よう。」(七ページ)
 ウィトゲンシュタインはここで、「Xとは何か」という哲学的問いに対して、「X」という語の使用を明らかにせよ、という処方箋を示しているのである。時間とは何かーー「時間」および関連する言葉の使用を明らかにせよ。そして、「意味」とは何かという問いに対してもまた。それゆえ、少なくともウィトゲンシュタインの意図に即して言うならば、ここに「意味の使用説」のような学説を読みとるのは『青色本』の誤読と言わざるをえない。
 もう一例あげよう。ウィトゲンシュタインは「私は歯が痛い」という発語をうめき声と類比的なものとして捉えようとする。問題はここにおける「私」にある。これが「彼は歯が痛い」であれば、その発言がまちがっている可能性はある。例えば母親に連れられて歯医者に入ってきた男の子を見て「彼は歯が痛いんだ」と言ったのだが、じつは歯が痛いのはその子どもではなく、横にいる母親の方だったということもあるうるだろう。だが、「私は歯が痛い」の場合には痛んでいるのが誰なのかを取り違えることはありえない。そしてこのことは独我論への入口になるのである。「彼は歯が痛い」の「彼」は他の人物たちと区別された特定の人物を指す。他方、「私が歯が痛い」の「私」はそうではない。そこでは他の人物たちと区別された特定の人物ではなく、唯一無二の私、この経験を引き受ける主観、自我(エゴ)、そのような何ものかが意味されているはずだ。そんなふうに考えられてしまうのである。
 これに対してウィトゲンシュタインはこう述べる。「「私は歯が痛い」という言明をするとき誰かを私と間違えることが不可能なのは、誰かを私と間違えてその痛みにうめくのが不可能なのと同じである。「私は歯が痛い」と言うことは、うめきと同様、或る特定の人間についての言明ではない。」(一五四ー五ページ)そしてここから、「一人称現在形の感覚報告は、自分の感覚のあり方を記述したものではなく、むしろ痛みの表出そのものなのである」といった主張(表出説)が引き出されもする。だが、ここでもウィトゲンシュタインの意図は、そのような学説を提示することにはない。
 ウィトゲンシュタインはただひたすら哲学的治療を施そうとしている。「私は歯が痛い」という表現と「彼は歯が痛い」という表現と「私は歯が痛い」や「私は骨折している」といった表現の間には決定的な文法の違いがあるにもかかわらず、それらは似た形をしているために、われわれはそこで混乱する。そして「私は歯が痛い」における「私」という語は唯一無二の自我を指示しているのだと言いたくもなる。そこでウィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い」という発語をうめき声に類するものとして見てみよとわれわれにアドバイスするのである。ポイントは、そうすることによってわれわれの混乱を少しでも振り払うことにある。
 ウィトゲンシュタインの出す例ではないが、別のエピソードを考えてみよう。電話口で「俺だけど」と言う。いったい、これはどういう発言であろうか。実際、この「俺」は誰を指示しているものでもない。おそらくは「俺だけど」の一言で分かるはずの人物であることを相手に示唆しているのである。同様に(この「同様に」はまったく論理的ではない。しばしばこのような「同様に」によって混乱から救い出されもする)、--そう、同様に、「私は歯が痛い」における「私」も誰か特定の人物を指示してはいない。「私は歯が痛い」という発語をうめき声に類するものと捉えさせることによって、ウィトゲンシュタインは、「私」という代名詞が使われるときには必ずそれは何かを指示しているはずだというわれわれの思い込みを断ち切ろうとするのである。それゆえ、ウィトゲンシュタインから「表出説」のような主張を読みとろうとすることもまた、誤読であると言わねばならない。
 だが、私自身の意見を言わせてもらうならば、治癒だけが哲学だとするほど哲学は狭いものではない。ウィトゲンシュタインの言葉に触発され、そこから理論的主張を引き出すというのもまた、ウィトゲンシュタインのひとつの利用法だと言えるだろう。実際、われわれはウィトゲンシュタインの洞察からいくつもの理論的主張を引き出すことができる。さらには、それを火種として、理論的構築を試みることもできるだろう。だが、そのさいにそうした理論的主張をウィトゲンシュタインに帰すことには慎重であらねばならない。ほとんどの場合、あるいはおそらくすべての場合に、自分がそのように理論構築に利用されていることをもしウィトゲンシュタインが知ったならば、彼はきっと怒りだすに違いない。
    --野矢茂樹「解説『青色本』の使い方」、ウィトゲンシュタイン(大森荘蔵訳)『青色本』ちくま学芸文庫、2010年、179-182頁。

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「俺だけど」における「俺」も誰か特定の人物を指示してはいない。
そしてタチが悪いことに本朝の昨今で広く流通している「俺だけど」は、「(俺の)感覚のあり方を記述したものではなく、むしろ痛みの表出そのものなのである」わけでもないこと。それは、感覚のあり方を記述したものでもなく、痛みの表出そのものでもなく、単なるトートロジーに過ぎないことをお忘れなく。

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『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。

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 かつて、社会を階級社会としてとらえ、その社会の土台における経済的搾取、上部構造における政治的支配を重視したのはマルクスだった。いま私は、それらに加えて、社会的管理あるいは管理社会化の問題を取り上げたい。
 管理の極限に『一九八四年』があるかもしれない。しかし、いくらか賢明な政治権力は、『一九八四年』は稚拙な支配形態であると考えている。それは、権力の永久支配ではなく、むしろ権力の動揺と混乱を招きやすい。
 大衆支配、硬いしかたではなく、柔軟なしかたで行われる。一元的ではなく、多面的多様的に行われる。とくに、生活、文化、教育、意識の管理が重要になっている。保守的政治家たちにも、中央集権的ではなく、他方「分権」的発想が生まれている。「文化の時代」とか「地方の時代」とか一国の首相が言うとき、それはけっして空手形ではない。
 まえに権力の「柔構造」や「抑圧的寛容」がさかんに議論されたことがある。しかしそこではまだ等値技術の面に重点がおかれていた。いまや民衆のなかへ浸透しているのは「時代」そのもの、「文化」そのもの、「生活」そのものである。政治や経済の領域だけで現代社会を見るのは浅い。
 管理社会は、いわゆる体制のちがいを超えてひろがっていく。資本主義社会も社会主義社会も管理社会化への道を進む。
 第一に、利益誘導がある。いまでは損得が暗黙のうちに時代の物差しとなった。それを権力も積極的に抑圧しない。むしろ莫大な、あるいはささやかな利益の提供によって、大衆を権力の構造のなかへ吸収することを考える。大衆自身が「買収」されることを期待している。
 七〇年代後半、「構造汚職」が大きな問題となった。しかし国民は、それがまった氷山の一角であると感じている。「構造汚職」の問題性は、摘発されない腐敗のほうがはるかに大きいだろうと、国民の大半が信じているところにある。そして構造汚職は、経済的活動というより、もはやひとつの「文化」の問題である。もちろん、利益誘導のかなり多くは密室のなかから開放されており、大義名分つきである。大土木工事や莫大な補助金行政はその一例である。
 もし政権政党に国民の三分の一に利益をばらまく能力があれば、それは長期的に政権を担うことができる。衆院選の棄権率を三分の一として、有権者の三分の一を獲得できれば、過半数に達する。
 第二。いまの大衆の生活、文化、教育は「おしきせ」のものである。「おしきせ生活」「おしきせ文化」「おしきせ教育」のなかに大衆ははめこまれている。その「おしきせ」性は快適さと無縁ではない。そこには強制感がない。流行を追いかける女性は、「おしきせ」流行におしきられることに大きな幸福を感じる。
 カラーテレビや車の普及は産業界の大戦略だったにちがいない。しかし、大衆自身、強制されてそれらのものを購入したという感覚がない。それは快適で便利で興味深い。もはやそれらは生活必需品でえあり、そうである以上、もしそれらを放棄しなければならないような政策が現われたならば、大衆は反乱をおこすだろう。大衆の生活それ自体が政治の一面を規制してるのであって、政治が大衆の生活をあやつっているだけではない。こうして、「管理しているものが、管理されているものによって管理される」という逆説が生まれる。しかし、最初の主導権は、やはり管理するものの手にある。
 第三。差別と格差が温存される。たとえば学校格差(学歴社会)。あるいは男女差別。あるいは部落差別や民族差別や障害者差別など。支配や作者や管理のかくれた技術は、差別・格差の利用であることは、あらためて指摘する必要もない。その利用のしかたはますます洗練されてくる。そしてその差別・格差の温存は、必ずしも直線的、政治的支配や経済的搾取と結びついているわけではない。
 第四。疎外と排除。社会の、あるいは職場の管理体制に異議を唱えるものは、公然と、あるいは隠微のうちに、利益享受のレールからはじきだされる。それらはつねに少数者である。少数者の手きびしい排除は、見せしめである。多数派を目ざし、権力を目ざす労働組合や政党は、この少数者を救う力と意志をしだいに放棄している。そのため少数派はますます少数派となる。それは体制外存在である。彼らを支持する声が極小化されるとき、彼らにたいしてだけ『一九八四年』がおとずれる。どのような「文明」国であっても、第二次世界大戦後という一時期のなかで、警察の留置場や監獄のなかなどで、秘密の拷問と殺人、私的隣地の数々を行わなかった国は存在しないだろう。そしてその度合いが強まるならば、不幸なことに、反抗するがわからさまざまの形の対抗的暴発も起こってくる。
 第五。もちろん、最後にナショナリズムが加わる。「第七体育学校」はその典型である。このことについては、ほとんど説明の必要はないだろう。その各国ごとのバラエティについては、一冊の本を書いても書き足りないほどに豊富な資料が存在する。
 管理社会化は、大衆に利益をかえし、個人に名誉や地位をあたえるので、それを批判することはやさしくない。たとえば、「第七体育学校」はゆきすぎだというものもいるだろう。あるいは日本のなかのエリート大学への進学準備や受験塾はゆきすぎだというものもあろう。しかし、「ゆきすぎ」と「ゆきすぎではない」との境界線はどこにあるのだろうか。それはなだからかに連続しているかのように見える。
 その境界線をはっきりと引くことができないというあいまいさが、管理社会化の「利点」であり、つけめである。それは露骨な政治的弾圧や経済的搾取が引きおこしやすい批判や攻撃から身をかくすことができる。『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。
    --日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980年、106-110頁。

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戦後民主主義を代表する進歩的知識人の言説ですから、かなりマルクス主義的な体制VS的な権力図式がぷんぷんしますけれども、その生-権力的な管理スタイルへの洞察は、30年たった現代に紐解いても、その生命は失われていないことだけは確かですね。

一方に権力を置き、一方に支配される側を置くという図式はもはや崩れ去り、そのものの見方そのものが多様な現実を抽象化してしまいますが、それでもなお、フーコー(Michel Foucault,1926-1984)が指摘したとおりの、馴化のディシプリンだけは着々その足場を固めていることだけは確かでしょう。
※もちろんスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の指摘の通り、デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)、フーコー式のカウンターパンチも限界があることは確かですが、ここではひとまず措きます。

システムというものは露骨じゃないんですよね、ホント。

「だれの眼から見ても嫌悪すべき存在」は全く怖くありません。

しかし「微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない」そのものこそ戦慄すべきものはありませんネ。

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加藤典洋さんの「ねじれ」「さかさま」の認識

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 日本が先の戦争に敗れて半世紀がたとうとしている。半世紀といえば、けっして短い期間ではない。まだ、「戦後五十年」などといっているのか、という声が聞こえそうでもあるが、このように、敗戦後何年、という呼び名がいまにいたるまで生きていることに、意味があるかといえば、わたしはこのことには、意味があると思う。
 これはよくいわれることだが、戦後という時間は敗戦国によってこそ濃密に生きられる。米国でいま、戦後といえばヴェトナム戦争以後であり、ヴェトナム戦争はかの国にとっての有史以来はじめての負けいくさだった。
 負けいくさが、それ以前とは違う時間を負けた国にもたらすのは、それをきっかけにその国が、いわばぎくしゃくした、ねじれた生き方を強いられるからである。
 ヴェトナム戦争の傷には、一つにはその戦争が「正義」を標榜したにもかかわらっず、「義」のない戦争であったことからきている。日本における先の戦争、第二次世界大戦も、「義」のない戦争、侵略戦争だった。そのため、国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」、--「自由」のため、「アジア解放」のためとそのおり教えられた「義」を信じて戦場に向かった兵士の死--は、無意味となる。そしてそのことによってわたし達のものとなる「ねじれ」は、いまもわたし達に残るのである。
 日本の戦後という時間が、いまなお持続しているもう一つの理由は、いうまでもなく、日本が他国にたいしておこなったさまざまな侵略的行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていないからである。
 電通、博報堂的な感覚からいえば、まだ「戦後」か、ということになるが、呼称をいくら目新しいものに変えても、この異質な時間が半世紀をへてなお、わたし達を包んでいることの責任の一半は、わたし達にある。
 わたしはここで、このうち、戦後という時間をいまなお生きながらえさせている前者、「ねじれ」の側面について考える。戦後とは何か。それはすべてのものがあべこべになった、「さかさまの世界」である。そして、それが誰の眼にも「さかさま」には見えなくなった頃から、わたし達はそれを、「戦後」と呼びはじめている。
    --加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫、2005年、12-13頁。

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加藤典洋(1948-)さんの「ねじれ」「さかさま」の認識は、左右両者から批判をあびているけれども、この「ねじれ」「さかさま」の状況は今なお解消されていないし、極左も極右も進歩派も保守派も、この「ねじれ」「さかさま」の状況を精確には「認識」していないのだろうと思ってしまう。

ねじれを認識することと、ねじれを認識した上での評価は違うはずなのですけどね。
本朝では、どうしても精確な認識を欠如した「評価」が一人歩きする傾向が強く、うえの議論も最初に提示されてから10年以上が経過しましたが、再読するたび、変わらぬ茫漠たる状況に深く痛痒してしまいます。

だからアレント(Hannah Arendt,1906-1975)の議論も、(知的流行としてのそれは措きますが)おそらくきちんと受容はされていないのだろうなあ。

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【研究ノート】ガダマー;「生とは理論と実践の統一のことであり、この統一こそがすべての人の可能性と課題なのである」

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 アリストテレス的な神学の古くからの問題は<神の「思惟」は自己自身以外のものを思惟することはできない>--思惟は常に何ものかについての思惟であり、そしてただ「それと並んで」のみまた自己自身に気づくことができるという事実があるにもかかわらず--ということのうちに成立するが、この問題もまた以上のことによって解決されるとでも言うのだろうか。思惟すること《noein》が観想すること《theorein》であるとするならば、そのときにはまさに<そのような観想の対象は何でありうるのか>という問いは何ら意味のあるものではなくなる。すなわち、それは、存在するところのものへ、「われわれにとって」われわれの「現」の最高の充実であるところのものへ没頭していることの仕方(Wie)だからである。--それは「自己意識」ではないが、しかし、まさしくギリシア人たちが《theoria》と呼んだ生の高揚、その持続的な現在のなかにギリシア人たちにとっては神的なものが成立していた、生の高揚のことなのである。
 現代の科学が理論のこの概念を自己の生の制約として自分なりの仕方で依然として前提にしているのはなぜか、ということを示すのは困難なことではなかっただろう。しかし、それにしてもいったいわれわれはどこへ行ってしまったのか。それとも、われわれはなおも人間の根本構制へそのように立ち返る際に理論を問題にしているのだろうか。むしろ実践を問題にしているのではないか。むしろ人間と人間との関係や人間とものとの関係に関わる経験--われわれはたしかにそれを理論的な経験と呼びたからないだろうが--を問題にしているのではないか。理論と実践はどのような事情にあるのか。すでにアリストテレスが強調していたように、理論とは結局のところひとつの実践なのか。それとも、もしかして実践とは、それが真に人間的実践でありさえすれば、常に同時に理論なのか。理論は、それが人間的なものであるのなら、自己自身から眼を転じて他のものに視線を当てること、自己自身を度外視して他のものへと耳を傾けることではないのか。そうだとすれば生とは理論と実践の統一のことであり、この統一こそがすべての人の可能性と課題なのである。自らを度外視して存在するところのものへ視線を当てること、それは、陶冶された意識、--あやうく「神的」と言いそうになっているのだが--神的な意識のあり方なのである。それが科学によってそして科学へと陶冶された意識である必要はない。--それはただ単に、他人の観点をともに思惟することを学び、共同のものへと思念されたものへの意志疎通を探すことを学んだ、人間的に陶冶された意識でありさえすればよいのである。
 しかしそのとき、われわれの理論頌から何が生じたのか。実践頌であるのか。個々人は事柄についての知を必要とするのであるから、彼が理論的な知を彼の実践的な生の知へと繰り返し常に組み入れていかなければならないように、科学に基づけられた文化の生にとっても同じ事が打倒することになるであろう。すなわち、科学に基づけられた文化に固有な生の制約が立っているところは、その文明の装置の合理的な組織化はそれ自体が自己目的ではなくて、われわれが肯定しうるような生を可能にするものである、というところなのである。あらゆる実践は結局のところ、実践を越えて指し示すところのものを目指している。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二訳)「理論を讃えて」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年、42-44頁。

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理論が人間存在に対してどのように関わってくるのか。
西洋哲学史を概観しながら、哲学的解釈学者ハンス=ゲオルグ・ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)が導き出したひとつのスケッチ。

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Book 理論を讃えて (叢書・ウニベルシタス)

著者:ハンス・ゲオルク ガダマー
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思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまった

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 従って本書のなかには人間たちが自らの内奥の真実から身をそらせ、内奥の真実から逃れようとする事実から生じる屈従に代償を与えたいという欲求があるけれども、本来の私の意図はそういう欲求を大きく超えてはみ出している。「普遍経済論」の第二巻である本書が追求しようと努めているものがなにであるかというと、それは人間たちの活動を、自らの諸資源の無益な消尽という目的以外の他の目的へと服従させるようなさまざまなイデーを全般的に批判することである。従属的な諸形態を基礎づけている諸々の見方を破壊することが問題なのである。
 私の考えでは、思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。実際、一種の病的肥大にまで達している現代の政治的・技術的思想は、それが立脚しているはずの有用な諸目的という面そのものの上で、結局のところ取るに足らない結果へとわれわれを導いてしまったのである。なにごとも隠蔽してはならず、問題となっているのは結局人類(人間性)の破算であると言わねばならない。もっともこの破算が関わっているのは全体としての人間ではないだろう。<隷従的な人間>、有用でないものから、なにものにも役に立たないものから眼をそむけてしまう人間のみが、巻き込まれ、問い直されているのである。
 しかし今日あらゆる方面で権力を掌握しているのは、そういう<隷従的な人間>なのである。そして<隷従的な人間>が人類全体を自分たちの諸原理へと還元してしまったというわけではまだないのは真実としても、少なくともそうした隷属性を弾劾する声、そしてそれが破算へと導かれることを不可避にしているものをはっきりと告げる声が発せられていないということもまたたしかであろう……そういう声を発することはきわめて困難なことに違いない…… それでも結局のところ次の二つのことがともに確認されることになる。すなわち<隷従的人間>が権力を占拠している権利にはっきりと異議を申し立てるすべをこころえている者がまだ誰も現れていないこと、--が、しかし<隷従的人間>の破算が途轍もない結果をもたらすということである。
    --G・バタイユ(湯浅博雄・中地義和訳)『エロティシズムの歴史』哲学書房、1987年、13-15頁。

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起きたら、大阪へ向けて出発しなければならないにもかかわらず、荷造りは済んだものの、種々準備がおわらず……。

こういうときは、蕩尽するに尽きる!

……とは思うものの、酒も底をつきており、テキトーに嘗めてしまうと、終わってしまうという状況で、どうすることもできず、テキトーにごまかしごまかし呑みながら、作業をすすめている状況です。

すべて数値に変換され、その合理性・経済性が追及されるのが現代社会の特徴ですが、それが人間世界のすべてではありません。

合理性・経済性のみ追及するということは、合理性・経済性に対する<隷属>になってしまうはずなのに、それこそが最高目的と勘違いしているのが、マア、現代世界の陥穽というやつでしょう。

そのあたりをバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897-1962)は文学的に突いてくるわけですが、なかなかそれも励行できず、淋しい毎日を送ってしまうというorzです。

……ってなことを考えずに、あとはパワーポイントの最終調整だけですので、少し呑みながらがんばりますかッ……ねぇ???

しかし、おつまみがベビースターラーメンしかないという一抹の寂しい風が股座を吹き抜けていく深夜www

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エロティシズム (ちくま学芸文庫) Book エロティシズム (ちくま学芸文庫)

著者:G・バタイユ
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【覚え書】詩の真実と史の真実

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 しかし、もし歴史が、しばしば芸術であるとすれば、それはどのような型の芸術であろうか。この手がかりを提供する小道は、簡単に古くまでさかのぼりうるのであるが、たどるにつれてだんだんわかりにくくなってしまう。歴史家が主に忠節を誓うのは真理だけであるという主張--この点については誰も今まで異論をはさんだものはいないが--は、たとえこのように主張したとしても、一瞬たりとも、歴史とほかの文学とを差別するものではないのである。歴史家が自分の真理を披瀝するときに使うスタイル上の工夫は、小説家や詩人が、自分の小説や詩を書く時に使う工夫と酷似しているのでえある。逆に、想像を主体とする著作家でも、作品を通して真理を述べ伝えうることは、かれの最大の自慢--空想物語作家以外の全作家、ときにはこれら空想物語作家さえを含めて--である。よく引用されるアリストテレスの定言、詩は史より真実という定言は、多くの反響を呼びおこしてきた。ブルクハルトは、この定言に、つつましく同意を与えた歴史家のうちでも唯一人の、しかももっとも有名な歴史家であった。
 しかし、思うに、われわれは、詩の真実と史の真実とを同一視する前に、どうしても躊躇するが、それはそれで当を得ていることである。ここで、アナロジーの手法を使わせて頂きたい。この手法は、魅惑的であるが、もちろん危険極まりない指針ではある。ジクムント・フロイトは、隠された心理過程をすばやく、直感的に把握する小説家や詩人(Dichter)がうらやましくてしょうがないとつねづねよく言っていたものである。しかし、そうかといってかれは、心理学の技法と詩の技法とを混同するようなことはしなかった。直感的な予知は、しばしば、あっと言わせるような、心理への近道を準備するかもしれないが、それは因果関係を忍耐強く追求したり、科学的な証明に基づく厳格な検証の代用品には決してならなかったのである。しかし、小説も歴史も、ともにスタイルを持っているが故に、小説の真理が何と何とで後世されているかを列記することは、この際重要といえよう。たしかに小説家は、詳細に真理を提供することができる。小説家や詩人は、研究にはまったく不向きという訳ではない。バルザックは『幻滅』で、印刷業について、読者が知りたがっていること以上に、読者に伝達したのである。またメルヴィルは、『白鯨』の中で、鯨や捕鯨についての、専門的な知識を、とことんまで積み上げている。またトーマス・マンは、『魔の山』で、結核の原因やその治療法について、とくに熱心という訳ではないが、詳しく論じている。本質的には、これらの事実は、ルポルタージュ文学が扱う事実と等しい。これら事実が目下その持つ機能を果たす場である小説という看板がはずされてしまえば、これら事実は、一種のジャーナリズムとなるか、学問的業績となるか、または歴史にさえなりうるであろう。しかも作家がつくり上げた世界、に読者を無理なく誘い込むために存在していることは、忘れてはならない。つまり真理とは、虚構のための任意の手段であり、その虚構のための必須の目的ではないのである。
    --ピーター・ゲイ(鈴木利章訳)『歴史の文体』ミネルヴァ書房、2000年、225-226頁。

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この手の魅惑に駆られることがしばしばありますよね。

ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)が自伝に『詩と真実』(Aus meinem Leben: Dichtung und Wahrheit,1811)と名付けたこともそのひとつの証左でしょう。

しかしながら、魅惑に駆られる以上に忙しく、今日も覚え書ですいません。

ちと酒呑んで寝ます。

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Book 歴史の文体 (Minerva21世紀ライブラリー)

著者:ピーター ゲイ
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ゲーテ全集〈9〉自伝―詩と真実第1部・第2部 Book ゲーテ全集〈9〉自伝―詩と真実第1部・第2部

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【覚え書】太宰治と聖書「日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だった」

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 「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といってもいいかも知れない。王制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容れてやった。然るに鳩は、いくらはばたいても飛び上がる事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上がる事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。」
 「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。
 「あ、」と固パンは頭のうしろを掻き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」
 「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ち着き払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追及して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物質界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だった。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」
    --太宰治「パンドラの筺」、『パンドラの筺』新潮文庫、平成元年、295-296頁。

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「日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だった」という太宰治(1909-1948)の言葉は有名です。

ちょいと久しぶりに出くわしたので覚え書として残しておきます。

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パンドラの匣 (新潮文庫) Book パンドラの匣 (新潮文庫)

著者:太宰 治
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聖書の日本語―翻訳の歴史 Book 聖書の日本語―翻訳の歴史

著者:鈴木 範久
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最初の叡智的行為とは、和平(La paix)である

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レヴィナス 私は今日の哲学における形而上学関係者からの批判はまったく意に介していません。けれども「形而上学」という言葉は、それでもやはり、伝統的にいささか意味を積み込み過ぎであるようです。もし私の聞き方が間違っていなければ、あなたは「形而上学」という言葉を「根源的省察」という意味で用いられたようです。おそらくは始原的であると同時に究極的な省察という意味を込められたのでしょう。もし、そうであれば、私の回答はこうなるでしょう。人間性の先決的省察とは、まさに聖性という理想によって動機づけられた精神のうちにあり、意味あることが現れ、意味し、重要性を有するのは、なによりもまず、私と他の人間との関係のうちにおいてである、と。もしこういう別の言い方をしてもよろければ(ママ)、行為とは、最初の叡智的行為とは、和平(La paix)である、と私は答えるでしょう。和平、その言葉によって、私が言おうとしているのは、私が他の人間に懇願している、ということです。和平は私の思考の仕方に先行します。本来の意味における認識することへの欲望に先行します。対象的な主題化に先行します。和平があるとき、人と人のあいだに平和な関係があるとき、そこには理があります……
    --エマニュエル・レヴィナス/フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)「レヴィナスとの対話」、『暴力と聖性 --レヴィナスは語る』国文社、1991年、137-138頁。

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月曜は、短大の「哲学」の最終講義でした。

まずは15回の授業への出席、皆様ありがとうございました。

はっきり言ってウンコのような授業で至極申し訳なかったと忸怩たるを得ないのですが、それでも皆様が生きていく上で、哲学していくことの重要さは共有できたのではないかと思います。

昨日は、「哲学に答えはない」ということのイエスでありノーである部分を少し言及しましたが、人間が考えるということの、まあ、「根源的省察」というものは、人間が人間として生きていく上では必要不可欠なんです。

授業は昨日で終わりましたが、ひとりひとりの受講生が、若き賢者として生活世界のなかで、負けずに人間として生き抜いて欲しい……そう節に願う次第です。

そのことによって「最初の叡智的行為」としての「和平(La paix)」はこの世に実現するはずだと思います。

……って皆様だけに押しつけるものでもありませんので、私自身も私らしく、挑戦と応戦の日々を送っていこうと、襟を正した次第です。

しかぁ~し!

さすがに授業やって、市井の職場へ行って仕事して、さきほどまで自宅で少し仕事をしていると疲れ果てましたので、今日はこれからすこしゆっくりと呑ませて戴きます。

しかぁ~し!

酒の肴が、イチゴしかないという件。

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「ケミカルコンビネーション」ではない「樹木のように成長する思想」へ

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上坂  第二回目の新人賞が映画評論家の佐藤忠男さんの『任侠について』。あの人のは名文でしたね。
鶴見  佐藤忠男はあれを貫いた。
上坂  あの人はきちっとしています、ほんとに。
鶴見 彼は新潟県で中学校の試験に落第したんだよ。だから中学校に入っていない。教科書を丸暗記する人が上の学校に入る。佐藤忠男は、はじめから授業なんて受けてませんから、そもそも合格する人ではないんだ。彼は代わりに予科練に入ったんです。
上坂  あの頃の少年らしいわ。
鶴見 私は樹木のように成長する思想を信じるんだ。大学出の知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目だという考えです。私と接触がある人では、上坂さんにしても佐藤さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。
    --鶴見俊輔・上坂冬子『対論異色昭和史』PHP新書、2009年、151-152頁。

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気が付いたら、今日が短大の「哲学」の最終講義でした。

準備はさきほど終わったのですが、今日は最後にがっつり吠えてこようかと思います。

哲学なんざア、虫食い問題を解くような科目ではありませんので、ひとりひとりの人間が、全体との関係を絶つことなく、磨き続けていかなければならない科目ですから、大学の授業・講座・教室で、

「はい、終わりw」

……って形でマスターできるものではありません。

この学問のもつ性質はもう受講生たちには理解して戴いているとは思います。
覚えることがわるいわけでもありませんし、知らないことが恥ずかしいわけでもありませんが、そういう考え方をヒントにしながら自分自身の考え方を洗練させていくことが大切な学問です。

……などというと、

「結局、答えはない」んですね。

……と早計されることが屡々ありますが、それはそれでまた違うんです。

これまでの義務教育では、基本的に「答え」は存在するよう設計されておりますし、模範回答集もありますが、哲学にはその意味での「答え」はありませんが、「答えはない」わけではありません。

自分で掴みとってほしい……ということです。

そのことにより自分自身を大きく成長させていく……そのひとつのきっかけになればと思う次第です。

私淑する哲学者・鶴見俊輔先生(1922-)が指摘しておりますが、「ケミカルコンビネーション」じゃダメなんです。「私は樹木のように成長する思想を信じるんだ。大学出の知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目だという考え」というところです。

哲学に限らず、大学で学ぶ本当の学問とは手段にしかすぎません。
それをヒントに自分をどう育んでいくのか。

「樹木のように成長する」一人一人になって欲しいなあ、と思うわけですが、今日も手を抜かずにがんばりますので、受講者の皆様、どうぞ宜しくお願いします。

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顔は殺意に立ち向かう

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 存在者との関係は顔への請願であり、すでにして発語であるということ。この関係は地平との関係であるよりもむしろ深さとの、地平にうがたれた穴との関係であるということ。私の隣人は存在者の最たるものであるということ。光り輝く地平線上に存在する、それ自体では無意味なシルエットとして、地平線上に現前することでのみ意味を獲得するものとして、存在者をあくまで捉えつづけようとするのであれば、いま述べたことはいずれもかなり驚くべきことと映るかもしれない。しかるに、顔はこのようなシルエットとは別の仕方で意味する。顔においては、われわれの権能に対する存在者の無限の抵抗が殺意に抗して確証される。顔は殺意に立ち向かう。というのも、顔は完全に剥き出しのものとして自力で意味を有するからであり、このような顔の裸は何らかの形式を備えた形象ではないのだ、顔は開けである、とすら言えない。そう述べるだけで、顔とその周囲を充たすものとが関係づけられてしまうからだ。
 事物は顔をもちうるのだろうか。芸術とは、事物に顔を付与する鋭意ではなかろうか。家の正面、それはわれわれを見つめているのではなかろうか。これまでの考察では、これらの問いに十全に答えることはできない。ただ、芸術においては、リズムの非人称的な動きが魅惑的で魔術的なものと化して、社会性、顔、発語にとってかわるのではないだろうか。
 地平を起点として把持されるような了解と意味に、われわれは顔の「意味すること」(signifiance)を対置する。顔の観念を導入した際、われわれはごく簡略な説明をしたにすぎない。顔はほとんど存在するとさえ思われていない諸関係の領野を開くものなのだが、この説明だけで、顔が了解のなかで果たす役割や顔の諸条件のすべてを少しでもご理解いただけであろうか。われわれが顔の観念についてかいま見たことは、ただし、カントの実践哲学によって示唆されているように思われる。われわれはカントの実践哲学に対して格別の親近感を覚えているのである。
 どの点において、顔のヴィジョンはもはやヴィジョンではなく、聴取と発語であるのか。顔との遭遇、言い換えるなら、道徳認識は、いかにして、意識そのものの開示の条件として記述されうるのか。意識はいかにして殺人の不可能性として確証されるのか。顔の現れ、殺人への誘いとその不可能性の条件はどのようなものなのか。いかにして私は自分自身に対して顔として現れるのか。最後に、他者との関係ないし集団はどの程度、了解には還元不能な無限との関係であるのか。こうしたテーマこそ、存在論の優位に対する初めての異議提起から生まれたものである。いずれにせよ、哲学的探究は自己や実存に関する省察に甘んじてはならない。こうした省察がわれわれに証すのは、個人的実存の物語、孤独な魂の物語でしかない。たとえ自分から逃げるかに見えても、孤独な魂はたえず自分自身に回帰してしまう。権力ならざる関係に対してのみ、人間的なものは姿を現すのである。
    --レヴィナス(合田正人訳)「存在論は根源的か」、合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年。

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こころないツィートにこころが痛んでしまいます。

「心ない発言。人は志で生きる動物です。 RT@masason 悲しい。 RT @lowmissile おいおい乗せられんなよ在日による日本のインフラ乗っ取りじゃん RT @masason: 当然他社を排除すべきじゃない。 RT 地下鉄アンテナ工事(費用当方負担)許可戴きたく」

http://twitter.com/#!/inosenaoki/status/26295169682771969

本朝の極端なひとってどうしてこんなに頭がわるいのかしらん?

右でも左でも白で黒でも何でもいいのだけど、それを根拠とする理性的な言説がでてこないところがorzなのです。

好きか嫌いかの二者択一。なけてきますワ。

人間ですから、好きか嫌いかはありますよ。

それはわかります。

しかし、それだけですべてを住ませてしまうと、とんでもないことになってしまいます。

だからこそ、理性的に話し合う必要があるんです。

しかも顔と顔を、そして眼差しと眼差しを向けないながら。

媒体(メディア)は何でもいいんです。

しかし、そこに人間が存在するとして、話し合う必要があるんです。

その難事をすっとばして、はっしょって、その人間の肩書きを初めとする属性のみで判断してしまうことがどれだけ愚かなことなのか。

人類の歴史を振り返ってみればその証拠には枚挙の暇がありません。

何を信じ、何を主張しようともいいんです。

しかし、信じ、主張するそのひとが人間であることを承知するならば、相手も人間であることを踏まえなければならない。

そのへんがねぇ~。

極端主義っていうものは、結局、何か自分の外にある構築物によってしか自己表象できないところがorzなんです。

別に自分自身に胸をはれってことを強要するつもりではないけれども、自分自身ではなく、自分が所属する団体や組織によってしか自己肯定できないこと、そしてそれを強要する態度に泣けてくるんです。

結局、人間そのものをみることができないからそうなるのかしらん。

何しろ生身の人間っていうのは光り輝いているからね。

まぶしき過ぎて真正面からみることができないから、その人間ではなくその人間を形容する事象によってしか議論ができない……なんたるちあです。

しかしその光り輝く人間を人間として真正面から見ていかない限り、どのような問題も解決不可能であることだけは間違いありません。

ほんと。

ふぅ。

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みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。

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キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている。心の優しいキリストも、ついには弟子達を叱って、「ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合うか。末だ悟らぬか。五つのパンを五千人に分ちて、その余を幾筐ひろい、また七つのパンを四千人に分ちて、その余を幾筐ひろいしかを覚えぬか。我が言いしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。」と、つくづく嘆息をもらしているのだ。どんなに、キリストは、淋しかったろう。けれども、致しかたがないのだ。民衆は、そのように、ケチなものだ。自分の明日のくらしの事ばかり考えている。
 寺内師の講義を聞きながら、いろんな事を考え、ふと、電光の如く、胸中にひらめくものを感じた。ああ、そうだ。人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、--ああ、それは十字架へ行く路なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない。たべものの事ばかり気にしている。僕はこのごろ、一個の生活人になって来たのだ。地を匍う鳥になったのだ。天使の翼が、いつのまにやら無くなっていたのだ。じたばたしたって、はじまらぬ。これが、現実なのだ。ごまかし様がない。「人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。」これは、たしか、パスカルの言葉だったと思うが、僕は今まで、自分の悲惨を知らなかった。ただ神の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。それでは、いつか必ず、幻滅の苦杯を嘗めるわけだ。人間のみじめ。食べる事ばかり考えている。兄さんが、いつか、お金にならない小説なんか、つまらぬ、と言っていたが、それは人間の率直な言葉で、それを一図に、兄さんの堕落として非難しようとした僕は、間違っていたのかも知れない。
 人間なんて、どんないい事を言ったってだめだ。生活のしっぽが、ぶらさがっていますよ。「物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。我は今、精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。」これだ、これだ。みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。理想に邁進する事が出来る筈だ。いつも明日のパンのことを心配しながらキリストについて歩いていた弟子達だって、ついには聖者になれたのだ。僕の努力も、これから全然、新規蒔直しだ。
    --太宰治「正義と微笑」、『パンドラの筺』新潮文庫、平成元年、149-150頁。

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ひさしぶりに太宰治(1909-1948)の「正義と微笑」を再読しましたが、作中の「僕」の心境というものはわからぬものではありません。

理想の探求と生活世界での拘泥という二極対立がそれですが、若い頃というのは前者に傾きがちで、生活に「慣らされて」しまうと後者へと傾いてしまう。

若い「僕」のような人間にはそれが「許せない」わけでし、そのことは「敗北」を意味していると受け止められてしまうことがあります。

わたしもありましたが……

しかし、生活に「慣らされて」拘泥をよしとすることは論外として起きますが、生活に拘泥しながらも、探求することは恐らく可能なのではないのか--などとは経験上からですけど思ってしまいます。

しかし、なかなかそこがうまく表現ができないんです。

ですから「兄さん」のように、「お金にならない小説なんか、つまらぬ」というような反語表現しかできないのですが……、このへんを言語との真摯な格闘によって表現できるようになれば、二極対立のなかで引き裂かれない在り方へと転換できるきっかけにはなると思うのですが……、マア、ワタクシも語彙が豊富な方ではありませんから、反語表現ないしは教科書的記述によってしか表現できません。

まあ、いずれにしても、アリストテレス主義者を自認するものとしては、「日常生活に即した理想」だとか「生活を離れた理想」というような二者択一の思考に引きずられるないようにはしたいものです。

ということで、今日より月末まで休日が全くなしorz

冬休みあけのレポートの山も到着しましたので、出張前には終わらせないと……まずいという現実生活世界に「拘泥」しているという状況です。

なので、かる~く呑んで寝ますか。

今日は青森の銘酒「純米酒 桃川」(桃川株式会社・青森県)!

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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、智恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしその始めには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1961年。

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あ、そうそう蛇足ですけど、少し付け加えておきます。

「キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている」というくだり。

これはキリストにだけ限定された問題ではなかろうですよ、宗教史をひもとくとあちらこちらで散見されます。いやはや、追随者というものが大切なものをダメにしてしまうとは--orz

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「京都市西京区三条下ル、花小路右入ル、煙草屋ノ角左折シ、ずずっト進ンデ、門ニ見越シノ松アル(おやそうかい、ごくろうさん)庭ニ山茶花咲ク家三番地」

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  発見不能な「自己同一性」
 亡くなった江藤淳は、全共闘運動が終焉に向かった一九七〇年に「『ごっこ』の世界が終わったとき」と題する論文で、
 「日本人としての真性の自己同一性」
 なるものの模索を試みた。
 それ以降、ずっと模索をお続けになり、結局、発見し得ないまま、江藤は自死を遂げた。
 わたしに言わせれば、当然だ。
 「日本人としての自己同一性」
 なんてものは、どこをどう探したって存在しないのだ。
 つまり、「同じ日本人」でありながら、江藤と神戸の少年Aは異なる。オウムの浅原尊師とも違う。違って当たり前である。
 わたしと小林よしのりとは異なる。また異なって欲しい。あんなみっともない人と同類に思われては、たまらん。
 「死者に鞭打つ言説は避けるべきだ」
 「良識」を有する「健常なる」人々からの声が聞こえてくるようだが、わたしはそう考えない。
 「死者も生者も鞭打たれるべきである」
 と私は考える。
 これをちゃんとやっておかないと「歴史」は書き変えられてしまうからだ。
 「日本人としての真性の自己同一性」
 と江藤が言った際、その「日本人」とは、アイヌやウイルタやニブヒのいわゆる「日本国」内の少数民(族)を含んでいたのか? 沖縄や小笠原の人々を包摂していたのか? 「元在日」であった二十万人を超す「帰化」人たる「元」朝鮮・韓国人たちはどうなのだ?
 江藤を含み「日本人」という主語を多用する人たちを、わたしは「日本人論」者と呼んでいる。彼ら彼女らの著作を読んで、すぐに気付くのは、そこで述べられた「日本人」の範疇に右記の人々が含まれていない、という点だった。
 いやいやそれだけではない。
 身体障害者、精神障害者、犯罪歴のある人、新宿の公園で寝てる人、失業中の人、フェミニスト、同性愛者、神戸の少年A、オウムの浅原尊師、和歌山の林真須美被告、そして「非国民」たち、アカ、シロ、ピンク、ブルー、パープル、イエロー、ブラック。
 みんな、すべて、さっぱり、きれいに、全部、まとめて排除されていた。ひどい「日本人論」者の主張だと、「日本人」の範疇に日本人口の過半数である女性すら含めない。なんじゃい、こりゃ。
 そこに存在するのは、エクスクルーシィヴ exclusive =排除・淘汰の論理であり、インクルーシィヴ inclusive =包容・共生の思想ではない。
 つまり江藤の言う「日本人」や、多くの「日本人論」で述べられる「日本人」とは、
 「京都市西京区三条下ル、花小路右入ル、煙草屋ノ角左折シ、ずずっト進ンデ、門ニ見越シノ松アル(おやそうかい、ごくろうさん)庭ニ山茶花咲ク家三番地」
 在住の小泉純疣痔(じゅんいぼじ)さん一家のご主人さまなのだ。
 「東京都北区王子駅前、ヨク出ル店ト評判ノ、極楽ぱちんこ店」
 店主・金田痔太郎さん一家の三女・由香里さんではあり得ないし、また、
 「青森出身高校中退。希望ハ破レ、夢弾ケ、今ジャ場末ノぴんさろがーる。知ラヌ男ノちんぽヲ嘗メテ、イツカ涙モ涸レ果テタ。知ラザア言ッテキカセヤショウ。顔射OK中出シアリノ、生ふぇらオ潤トハ、アタイノコトダベサ」
 こと錦糸町三丁目うらぶれ荘七号室在住の本名・加藤潤子さん二十四歳でもあり得ない。

  「飛鳥は日本人の心の故郷」
  などとほざく阿呆たちが、よく居るでしょう。ごくろうさん、と申し上げたい。
  しかし「日本人の心の故郷」が、なぜ、「飛鳥」であるかを考えたことがあるのだろうか?
換言すれば、石川県羽咋郡を「心の故郷」とする人たちは「日本人」ではないのか?  沖縄県読谷村を「心の故郷」でどこが悪い?
  これが日本のエクスクルーシィヴの論理なのだ。
  「飛鳥は日本の心の故郷」
  との主張は、石川県羽咋郡や沖縄県読谷村を「心の故郷」とする人たちを「日本人」の範疇から排除する。差別して、抑圧する。
 この石川県羽咋郡や沖縄県読谷村という地名を、鳥取県由良あるいは岩手県腹帯という地名に置き換えても同様だ。あんたら、「日本人」じゃなかったのよ。知っていましたか?
 「排除と差別の論理によって少数者が抑圧される社会とは、じつは多数者にとっても住みづらい社会である」
 との「発話者の位置(ポジション)」をわたしは知る。
 エクスクルーシィヴ=排除・淘汰の論理には荷担し難い。わたしは、インクルーシィヴ=包容・共生の思想を支持する。なぜなら前者ではなくて後者によって、少数者のみならず多数者にも住みよい社会の構築が可能となる、と考えるからだ。
 「日本人としての真性の自己同一性」
 なるものは、最初(はな)から存在していなかったのだ。そんなものを模索しても、見付け出せるわけがなかったのです、江藤センセイ。ともあれ、合掌。

    --森巣博『無境界家族』集英社文庫、2002年、169-173頁。

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自己同一性のマジックにおちいった頭のわるい復古主義者やら修正主義者、そして、本来の自然科学の手法とはかけはなれた俗流・科学“主義”を科学と盲信して病まない物証主義者をこのところ眼にすることが多く、頭を悩ませておりますので、長くなりましたが冒頭に引用させていただきました。

結局は同定できないはずの現象を同定したと錯覚する陥穽に陥っているというか・・・
水面に映った月を月そのものと錯覚しているというか・・・

自分自身が排除されているにもかかわらず、排除の構造に荷担してしまっているというか・・・

自己同一性の追求なんざ、テキトーにうっちゃるべきなんですよ、ホント。

そこのところに神経質になると神経症になってしまうじゃアないですか。

ホント、揺らぎやすい自己を同定できるとは・・・片腹痛いものの言い方ですね。

さて、考えても、まともに相手にしてもしょうがいないので、今日は呑んで早めに休みます。

なにしろ、今日が一月最後の休みになりそうなのだからです。

土曜日からそのまま仕事で、済んでから週末は大阪出張。
それが終わると、そのまま仕事で、再来週の金曜日が休み。

めちゃくちゃな設定になっている。。。

しかし、考えなければならないこと、指摘しなければならないことは山のようにあります。

無邪気は時として罪になり、盲目と無知はその歩みを誤らせてしまうものです。

だから、、、呑んで吠えるしかありませんねぇ(苦笑

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【覚え書】幕末の戊辰戦争にあっては、旧徳川軍は日の丸で戦った

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 国旗は、たとえば李氏朝鮮のばあいには大極旗があり、清朝のばあいには黄龍(イエロー・ドラゴン)がある。しかしイエロー・ドラゴンは清国の国旗ではなく、王朝もしくは清朝皇帝の旗である。五行説にのっとった東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、そして中央の黄龍という方角の守り神の形象である。中央の色は皇帝が立つところの黄色であり、黄龍は皇帝のシンボルにほかならない。
 日本のばあい、幕末にペリー(=アメリカ)が来て、「開国と通商」を求め、その一年後に日米和親条約も結ばれた。外交関係が近代国家と国家との間にできあがってくるのだから相互の国のしるし、つまり国旗が必要になったのである。このとき薩摩の島津斉彬という西郷隆盛の先生である藩主が、「日の丸」のデザインを幕府に提案し、それで国旗のデザインが決まった。したがって、二〇〇〇年に、国旗・国歌法案を決めるときに、共産党は「日の丸には法的な根拠がない」と主張したが、それは当たっていない。幕府は安政元年(一八五四)、正式に決めて、すべての藩に通達するというかたちをとり、それを明治国家が踏襲した。
 幕末の戊辰戦争にあっては、旧徳川軍は日の丸で戦った。五稜郭に翻っていたのも、徳川の中黒の旗ではなくて、日の丸であった。それに対抗するために明治政府の薩長軍は、何とか日の丸を超えるようなものがないか、あるいは対等に戦えるようなものがないかと考え、天皇家の菊の御紋を選んだ。戊辰戦争は日の丸と菊の御紋との戦いであったとも言える(拙著『開国のかたち』参照)。実際、庄内藩での戦いでは、庄内藩と松山藩と会津藩という連合軍がつくられたが、徳川幕府のために戦うのではなく、日本国のために戦うので、連合軍は日の丸で戦った。それらの歴史記念館には、いまでも当時の日の丸が残っている。
 五稜郭でも、箱館政府が陣地に掲げていたのは日の丸だった。ここに加わった新撰組は、もともと山型に「誠」と書いた有名な紋章をもっていたが、これは京都にいたときだけの紋章であり、のちに鳥羽伏見の戦いで負け、江戸に帰り、その後会津に入ったときから新撰組の旗は、山型の上に日の丸が入っていた。これもすべて当時の実物が残っている。
 このように、国家というものは「想像の共同体」であるから、実際にかたちは見えない。それを、国旗という国のしるしで見えるようにしたり、国の美しさをうたう国歌で表そうとしたりしたのである。
    --松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年、144-146頁。

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日の丸の大好きな君へ

有名な話ですが、きちんとまとまっている一文なので、覚え書として紹介しておきます。

国旗が何であろうが・国歌が何であろうが、リバタリアンのアナキストとしてはそれが何であろうが「どうでもええやん」というところがありますが、市民のひとりとしては、うえの事実をわすれてはいけませんですわな。

規定の約束事を超越させた「旗印」というものが出てきた時というのは、だいたいろくなことはありゃアしません。

以上。

寒い+調子が至極悪いので呑んでねる。

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「自分には愛国心がありますが、隣の席の○○君は政府の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増える世の中はいやですな

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 愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を誹る言葉になる。僕はそう思う。
 慶応大学の憲法学の小林節教授は改憲運動の先頭で闘ってきた。自民党、民主党、公明党にもよく呼ばれ、改憲の話をしている。読売新聞の改憲案作成にも携わっている。ところが最近、「こんな改憲ではダメだ」と悲観的になっている。「こんな連中に改憲されるくらいなら、まだしも今のままがいい」とまで言っている。「裏切りではないか」と改憲論者からは言われている。
 小林先生に会った時、聞いてみた。「自民党の改憲案の何が一番気にくわないのですか」と。即座に小林先生は言った。「愛国心を強制しようとすることだ」と。「憲法に書いたからといって国民は愛国心を持つものではない。また政治家がそんなことを言うのはおかしい」と言う。政治化は、国民がこの国を愛せるような国にすることが責務だ。そのために仕事をするのだ。それを忘れて、国民に対し、「この国を愛せ」と言うのはおこがましい、と言うのだ。なるほどと思った。「三島由紀夫も、“愛国心という言葉は嫌いだ”と言ってますよ」と言ったら喜んでいた。愛国心は抽象的だし、人間の心の問題だ。それを憲法で規定するのはおかしい。
 福岡の小学校で通信簿に「愛国心があるかどうか」の欄があり、問題になったことがある。これもひどい話だ。大人だって愛国心があるのかどうか分からないのに、子供じゃなおさら無理だ。「私は愛国心があります」と言ったら、それだけを信じるのか。あるいは試験をするのか。そんなことをしたら、「自分には愛国心がありますが、隣の席の○○君は自民党の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増えるかもしれない。また愛国心のあるなしを競うというのも変な話だ。
    --鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2006年、70-71頁。

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ちょとここ数日、個人的な問題において心が折れそうな毎日なのですが、折れてそのまんまになってしまうと、「何も始まらない」とスピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)にどやされますので、久しぶりの休日を利用して、研究と読書だけは朝から晩まで継続できたことに関しては、自分自身をほめてやりたいところ……などと思う凡俗です。

さて、今日はひとつ、五年ぐらいまえでしょうかねぇ、読んでいて眼からウロコだった一節をひとつ紹介しておきます。

著者の鈴木邦男(1943-)さんは、本朝の新右翼団体「一水会」の最高顧問として有名ですが、単なる街宣右翼とは早計すること勿れ。

まあ、本人も著作で言及しておりますが、もともとは暴力的行動派学生だったという通り、それと同じようなことはしておりますし、その事実を否定しておりません。

しかし、思索を深めるなかで言語の意味を行動のなかで徹底的に考え抜いている数少ない「活動家」のひとりであると評価できるでしょう。

決して民族主義に肩入れするつもりはありませんが、プチブル主義的な市民派の眼差しとか、「生きている人間」を忘れてしまう専従者のようなカッチンコッチンの教条主義的眼差しでは理解不能な探求者のひとりだとは思います。

だから、アナキストの故・竹中労(1930-1991)先生とも交流されていたわけですけれども、その鈴木さんが、自身の足跡を振り返りながら、何かをリスペクトするといことの問題点を衝いたのがうえの一節だと思います。

「愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を誹る言葉になる」ということに関しては、僕もそう思うし、それ以上に問題なのは末尾のところでしょう。

先に言及した通り、「何かをリスペクトする」問題です。

「何かをリスペクトする」ことは人間が人間である以上避けられない問題ですが、これが相対的競争原理の枠組みで機能してしまうと、リスペクトする人間を圧殺するだけでなく、競争相手をも打倒し、そしてリスペクトする対象すら汚辱してしまうのかもしれませんね。

くわばら、くわばら。

ということで、「黒龍」(福井県)の「逸品」でも呑んで寝ます。

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杉浦明平先生の見た一月の光景

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 あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える。
    --杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫、1954年、72頁。

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地域のボスとの闘争、日本共産党のガチンコ、そして独学によるルネサンスとダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci,1452-1519)研究、農に親しみながら作家、歌人、研究者、そして社会運動人として活躍した人物が杉浦明平(1913-2001)先生です。

生前に一度謦咳に接する奇遇を得ましたが、逝去からおよそ十年。
先生の全貌をとらえた「杉浦明平論」はまだ出ておりません。

さてその杉浦先生を産んだ大地が、愛知県の渥美半島。
杉浦先生は、渡辺崋山(1798-1841)をスケッチしましたが(⇒『小説渡辺崋山』朝日新聞社、1971年)、その渡辺崋山も同じく渥美半島の田原藩。

その渥美半島に住まう知人から、写メにて春の訪れを紹介してくれましたので、ひとつのせておきます。携帯電話のカメラでの撮影のため、粒子が粗くピンがわるくてスイマセンとのことですが・・・

十分に春の訪れを堪能させて戴きました。

そして杉浦先生と渡辺崋山をうんだ大地の匂いを感じさせて戴きました。

ありがとうございます。

しかし……

いやはや。

東京は本日最低気温ゼロ度。

今年一番の冷え込みです。

しかし、新幹線で1時間足らずのそこでは、もう菜の花が満開です。

いい酒の肴になりそうです。

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学問は方便なり、独立独行の生活は目的なり。

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 飯田広助 明治三十年一月六日

 新年目出たく申し納め候。
 一月一日縷々の来示、昨年中は色々ご心配の事のみ、兵役の方ご免除なれども、その後地方の水害、かたがたもってご出京もむつかしきよし。これは致し方これ無く、また退いて考うれば勉学必ずしも学問にあらず、近時交通便利の世の中、閑を偸て折々ご出京然るべし、随分利する所あるべしと存じ候。
 学問は方便なり、独立独行の生活は目的なり。勇を鼓して独立を謀り、これを謀り得て安心の境遇に至る上は、すなわち地方の改良に志し、人民一般の気品を高尚にするよう致したく、これに就ては色々お話申したき事にござ候。
 拙家は先ず無事安寧、本年元旦
  家を成してより三十七回目の春
  九人九孫寿を献ずるの人
  歳酒妨げず杯を挙ぐることの晩きを
  却って誇る老健の一番新たなるを
 ご一笑下さるべく候。妻を娶りて三十七年、四男五女を産み、今は九人の孫を得たり。老生年六十四、老妻五十三歳、先ず無事に暮し居り候。憚りながらご安意願い奉り候。
 右拝報まで匆々の如くにござ候。頓首。
  三十年一月六日    諭吉
    飯田広助様 几下
 老生書は甚だ拙なれども一葉認め候間、差し上げ申し候。
    --慶應義塾編『福沢諭吉の手紙』岩波文庫、2004年、186-187頁。

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176年前の本日、慶應義塾の創立者・福澤諭吉(1835-1901)大先生がご生誕遊ばされました。

いやー、目出度い。

慶應社中で「先生」と呼ぶことができるのは福澤先生しかいませんw(キリッ

いやー、うれしいねい。

だから疲れているけれども、酒が旨い。

福澤先生は、思想家ではなく文明の紹介者にすぎないという穿ったものの見方が広く流通しておりますけど、そんなことはありませんよ。

何のために学問をなすのか。

生きるためにやるわけです。

目的と手段の混同ほど怖ろしいことはありません。

今一度、「学問は方便なり、独立独行の生活は目的なり」というこの言葉をかみしめたいものです。

これは単なる実用一元主義ではありませんからあしからず。

学問と生活世界の豊かな相関関係を保持したリアリティのある言葉です。

ということで、一足早く春の訪れを告げるたらの芽の天ぷらで乾杯です。

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どうやら、この國では何をするにも「点」が必要になるように設計されている(>_<)

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 最後に、われわれは学問のために設立された、あらゆる種類の学芸が教えられている大学をもっており、そこでは人間の知性、心、言語が錬磨されるべきものとされている。
    --ヴィーコ(上村忠男・佐々木力訳)『学問の方法』岩波文庫、1987年、24頁。

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近代初頭のイタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico、1668-1744)によると、大学とは、「人間の知性、心、言語が錬磨されるべき」場所のようですネ。

しかし、その大学とやらへ入るためには、どうやらこの国土世間では、「点」というものが必要らしい。

しかし、その「知性、心、言語が錬磨されるべき」場所に機械的な総体的な「点」というものは必要なのかしらん???

そして、そこから社会という海原へ飛び出して、「就職」しようとしても、様々な「点」というものが必要になってくるという社会構造。

どうやら、この國では何をするにも「点」が必要になるように設計されている(>_<)

宇宙人ジョーンズではありませんがorzだわいな。

しかし、いずれにしても、今週末はセンター試験ですね。
受験生の皆様、がんばってください。

そして、「点づくり」から解き放たれた学問というものも僅かですが存在しますので、その醍醐味を堪能しつつ、「人間の知性、心、言語」を精一杯錬磨して欲しいと思います。

そのためには、私は何でもやりますからwww

ということで、調子が良くないので呑んでねる。

http://www.youtube.com/watch?v=LKt4_pOixOo

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ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書) Book ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)

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【覚え書】ハーバーマス:多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない

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 多数決原理は時間的制約下において相互了解のプロセスを理性的に操作可能なものとするが、その際に本来前提されているもろもろの条件に較べて、実際の政治的決定過程がいかにずれているかは、多数決の社会学が冷ややかに明らかにしてくれているとおりである。それにもかかわらずわれわれは、多数の決定には少数派も尊重してしたがうべきであるという原理を、デモクラシーの王道として守っている。今日においてこの考えを本気でひっくり返そうとする者はいないであろう。だが、多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない。つまり、生まれにもとづく少数グループ、例えば文化的伝統やアイデンティティの分裂などにもとづく少数グループがいない場合にのみ、多数決は可能なのである。また多数派といえども、取消し不可能な決定をしてはならないのである。多数決原理は、ある特定のコンテクストにおいてのみ人々を納得させうるのである。多数決原理の価値は、時間の足りない中で、また限られた情報に基づいてなされる決定が、ディスクルス(討議)によって得られる意見の一致や、公平なものと予測される妥協という理想的結果からどの程度離れているかという理念を基準に測りうるものでなければならない。
 現在は、市民的不服従がどのような意味で正当であるのかを、一歩も譲らずに明らかにすべき時であろう。これは、市民的不服従への呼びかけとして言っているのではない。このような危険を引き受けるかどうかの決定は一人一人が行うべきことであろう。市民的不服従の「権利」は、もっともな理由からの正当性と合法性のあいだのゆらぎのなかにあるのだ。だが、この市民的不服従を下劣な犯罪であるかのように告発し、追及するような法治国家は、権威主義的リーガリズムの次元に陥ることになる。「法は法だ」「恐喝は恐喝だ」というきまり文句が法律家たちから発せられ、ジャーナリストたちが喧伝し、政治家たちの採用するところとなっているが、これは実際は、あのナチスの海軍法務官(*7)の信念、つまり当時合法であったものは今日も正当であるはずだという信念と同じメンタリティに発しているのである。というのも、法治国家における市民的不服従と、不法国家に対する積極的抵抗との関係は、法治国家における権威主義的リーガリズムと、不法国家における疑似合法的な抑圧の関係に対応しているからである。
 一九四五年直後ならばおそらく誰もが認めたであろう当然のことが、今日ではなかなか耳を傾けてもらえないのである。新保守主義の先唱者たちが、過去のポジティヴな面に共鳴するのが国民の義務であると唱え始めて已来、現代における偽りの実定的制度は、過去のそれに歴史的に支えて貰おおうとしているのである。これは足元の大地が揺れ出すにつれて、ますます執拗になんらかの一義的なものにしがみつこうとする精神的態度であり、その点は軍事に関しても、歴史に関しても、またいわずもがなのことだが法律の取扱いに関してもまったく共通している。しかも実定性があいまいで怪しいという点に関しては、使用しないためにできるだけ完璧なものにするとされるあの武器よりも明白な存在を獲得したものはないのに、である。
 両大国が(引用者註……この文章は1984年に著されたもので、この両大国とはアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦のこと)、この核時代においてすら(勝てる戦争)という一義性に戻ろうとしているのが本当だとするなら、安全保障というこのユートピアには、「闘うデモクラシー」(*8)についてなされる誤解と同じものが見られることになる。つまり、「闘うデモクラシー」を法実証主義的に誤解すると、市民的不服従が持つあいまいさをきれいさっぱりぬぐい去って一義性を得ようとすることになるが、こうした思考構造が、安全保障のユートピアにも繰り返し現れていると言える。権威主義的リーガリズムは、一義的ならざる、あいまいなものが持つあの人間的実質を、民主主義的法治国家がまさにこうした実質によって滋養を得ている当の局面において、否定しているのである。
(*7)バーデン=ヴェルテンブルク州の元首相フィルビンガー(キリスト教民主同盟)を指す。フィルビンガーは、その穏かな風貌と言辞で州民のあいだで比較的信頼を集めていたが、こともあろうにその彼が、敗戦直後、つまり武装解体寸前のドイツ海軍にあって、脱走し逮捕された若い兵士に殆ど即決裁判で死刑の判決を下し、執行させたことが二十数年たって発覚し(一九七八年)、辞職を余儀なくされた。辞職間際に彼が言った捨て科白「当時合法であったものは、今日でも正当であるはずだ」は、旧世代のリーガル・マインドの典型とされ、広く引用された。
(*8)ヴァイマール民主制の崩壊への苦い反省から、民主主義を破壊するものに対しては「民主的」ではあり得ないとして、危険を「芽のうちに摘み取る」「守りの強い」「闘う」民主主義という標語が戦後唱えられ始めたのだが、次第に共産主義批判、テロリズム追及と結びついて多用されるに至った。平和運動にあっても、それを批判する保守の側が好む表現となった。こうした誤用のうちにハーバーマスは、権威主義的リーガリズムと同じものを感じとっているわけであろう。彼から見れば市民的不服従こそ「闘う民主主義」の実践のひとつであるということにもなろうか。
    --ユルゲン・ハーバーマス(三島憲一訳)「核時代の市民的不服従 --国家の正当性を問う」、『近代 未完のプロジェクト』岩波書店、2000年。

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「キリスト者は、あらゆる形での冷戦を拒否すべきであり、そしてもはや正義と自由のうちに平和に役立つことのない戦争には関わりを持つべきではない」

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 バルメン宣言を現実化したフランクフルト神学宣言は、バルメン第五項を集団殺戮兵器の問題に適用したものであり、そこから導き出された結論を示している、国家にとって正当化されうる緊急防衛という限界状況であっても、集団殺戮兵器による核戦争には適用されないのである。
 なぜ適用できないのか。その答えは簡潔に、そしてまた明確に示されている。核による威嚇、集団殺戮兵器による威嚇は、全面的にして限界を持たない暴力であるからであり、どのようにしても正義と平和と自由に仕え、その実現を目指す限界ある暴力であることが出来ないからなのである。国家にとって正当化される緊急防衛という限界状況は、核戦争には適用されない。なぜなら、核による集団殺戮兵器は、「守ると称しているものを破壊する」(バルメン宣言第五項に対応するハイデルベクルテーゼ)ゆえに、決して正当な武器ではないからである。この立場に告白教会の神学者たちは立っていた。H・ゴルヴィッツァーがそうでえあるし、H・J・イヴァント、K・バルトもまたバルメン第五項の現実化のために労した人たちである。私はとりわけH・フォーゲルのことを考える。如何引用するフォーゲルの立場に、バルメン第五項の主要命題を読みとることは困難ではない。
 フォーゲルは、バルメン第五項を明確に、部分的に全く字義通り用いて次のように言っている。
  「正義と平和のために配慮し、悪を斥け善を求め、人間社会における人間の生命を確保するために仕える国家は、もしも国家が集団殺戮兵器を用いる時に、自らを滅ぼしてしまう」。
 また別の表現で次のようにも言う。
  「力の行使という手段が、人間に仕えるものでなく、正義と平和のうちに人間社会を確立するものでなく、国家の自己確保のためという緊急の利害関係に適用され、すべてを破壊する力において国家の自殺につながることになるならば、その手段は否定される」。バルメン宣言第五項は、「権力の行使は、人間に仕え、人間社会を守る限りにおいて、またその時の責任あるものとなる。人間自身の人間性を否定する権力手段の使用において、その正当な使用は人間に仕えるものとは考えられない」。
 したがって、バルメン第五項からキリスト者にとって次のようなことが語られる。
  「キリスト者は、あらゆる形での冷戦を拒否すべきであり、そしてもはや正義と自由のうちに平和に役立つことのない戦争には関わりを持つべきではない」。
 バルメン第五項における国家の定義の記述は、徹底してルターの「二王国説」と区別される要素が考えられ、フォーゲルは(いまだ救われぬこの世にあって……権力の威嚇をなしつつ……)という理解に立ちながら、ルター派の友人たちに呼びかけている。
  「まさに、社会を守るために悪の侵入に対して国家権力が力を行使するという、たびたび引用されるルターの理解にも言われることは、集団殺戮兵器は人間への奉仕としてはもはや考えられない。なぜならそれは、幼児までもふくめて全集団を抹殺してしまうからである」。

 命題

 イエス・キリストにおいて生起した解放と神の世への和解は、われわれの世界のあらゆる領域にわたる十字架の主の支配を含む(バルメン第一-第二項)。そこより国家に与えられた課題は、すでに和解がなされたが、しかしまだ救われていない世にあって、人間の理性の規準に従って、正義と平和と自由のために配慮することである--緊急の場合と限界状況においては権力の威嚇と行使も正当化される(バルメン第五項)。
 さらにまた、正当とみなされる国家の権力による威嚇と行使に集団殺戮兵器を導入することは、バルメン第五項からして、キリスト教的にゆるされない。
 なぜなら、国家にとって正当な緊急防衛という限界状況(バルメン第五項)を、核戦争にあてはめることは出来ないからである。核兵器による威嚇というおびやかしは、全面的な戦争を意味するし、核兵器による集団殺戮手段は、核戦争がそれによって守ろうとしているものを破壊する限り、決して正義の武器ではありえない。
ベルトールト・クラッパート(寺園喜基訳)「バルメン宣言とヒトラーの権力掌握」、寺園喜基編訳『和解と希望 告白教会の伝統と現在における神学』新教出版社、1993年、199-201頁。

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戦争と宗教の関係にはいろいろと問題があるし、お互いにお互いがその推進力を加速させる起爆剤となったことも確かです。特にキリスト教の場合はそのことが多々ありました。

だからこそ、その問題に関してどのように見ていくのか、どのように捉えていくのか……ということが常に課題であり、そのことは現代の文脈でいうならば、国家のもつ権力というものをどのように捉ええていくのか……という課題に他なりません。

特に、ヒトラー(Adolf Hitler,1889-1945)による権力掌握の過程で果敢に抵抗した告白教会の伝統を持つドイツにおいてもそのことは例外ではなく、戦後においては、ヒトラーとの戦いから次は冷戦をどのようにとらえていくのかということが問題になってきます。

良き市民でありながら、権力を相対化させていく眼差しというものでしょうか。

世界宗教とはすべからくこの世のものとしての国家をかならず超越してしまいます。まあ、だから国民国家というものは、宗教を管理したがるものなんです。

宗教の方においても国家に迎合するのか・それとも国家を廃棄するのか……という二者択一が簡単に想像されそうですが、現実には、そう単純なものでもありません。

もっともその両方の極端に走るパターンというのも多いですけどね。
ただしその両方の極端に走った場合、信仰の受益者が一番辛い目をみるというのがお約束のパターンというわけですが、まあ、この傾向が顕著に見られるのは本朝の精神風土でしょう。

さて、20世紀キリスト教世界の特徴とは何かといえば、そのへんを極めて丁寧にやろうと取り組もうとしているところ。

バルメン宣言は、ヒトラー主義に対する抵抗のマニフェストとして編まれたものですが、戦後これはフランクフルト神学宣言へと展開してまいります。

ひるがえって唯一の被爆国である本朝の宗教風土はいかがでしょうか。
一部の例外や一部の個人を除いて、それを神学的・宗学的に基礎づけることに成功しているとは……なかなかいえませんね。

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大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。

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 ツァラトゥストラは、これらの言葉を述べ終わると、沈黙したが、その有り様は、自分の最後の言葉を述べ終わっていない者のようであった。長いあいだ、彼は杖を自分の手に持って、どちらとも決しかねるふうに、釣り合わせていた。ついに彼は次のように語ったが、--彼の声は変化していた。
 今やわたしはひとりで行く、わたしの弟子たちよ! きみたちもまた、今や立ち去って、ひとりで行け! それがわたしの欲するところだ。
 まことに、わたしはきみたちに勧める。わたしから去り、ツァラトゥストラに抵抗せよ! そして、さらによいことには、彼を恥じよ! 彼はきみたちを欺いたかもしれない。
 認識の人は、自分の的たちを愛しうるばかりでなく、また自分の友たちを憎むうるのでなくてはならない。いつまでも単なる弟子にとどまるのは、師によく報いるゆえんではない。してきみたちは、まぜわたしの月桂冠をむしり取ろうとしないのか?
 きみたちはわたしを崇拝する。だが、きみたちの崇拝がいつの日にかくつがえったとしたら、どうだろう? 〔倒れかかってくる〕立像に打ち砕かれないよう、用心せよ!
 きみたちは、ツァラトゥストラを信じる、と言うのか? だが、およそ信者なるものになんのことがあろう!
 きみたちは、まだみずからを捜し求めないうちに、わたしを見いだした。およそ信者なるものは、そういうやり方をするものだ。それゆえ、およそ信仰なるものは、たいそうつまらぬものなのだ。
 いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見いだせ、と命じる。そして、きみたちがみなわたしを否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。
 まことに、わたしの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。
 そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。
 ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。
 そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡ってゆく者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。
 「すべての神々は死んだ。 いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」--これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを! --

 このようにツァラトゥストラは語った。
    --ニーチェ(吉沢伝三郎訳)『ツァラトゥストラ 上 ニーチェ全集 9』筑摩書房、1993年140-142頁。

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年頭からこれまたニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)を再読することを課題にしているのですが、ニーチェの言葉というものは、ゆっくり・じっくりと味わってこそナンボというものが多いですね。

『ツァラトゥストラ』にしても10代で読むだけは読んでおりますし、仕事や学習の関係上、20代で何度も紐解いた一冊ですが、「読まなければいけない」とか何らかの必要上で手に取るというのと違ったた動機、例えば、「まあ、じっくり読んでみようか」とめくってみると全く違うものですね。

マア、このことはニーチェ独りに限られたことではありませんが。

その意味で、誤読と誤解の総体というものは、なんらかの別の目的が対象より大きくなったときに発動するものかもしれません。

悪しきニーチェ「主義」もこりごりですが、読まず嫌悪というのもこりごりです。

引き返すことのできない歩みのなかで、何を認識し、何をなしていくべきか。
そんなことを考えさせられております。
ただしかし、このことは、認識以降において目新しい実践をせよということと同一視されても文脈が異なってしまうような感があるのも事実です。たとえ、そこで導き出された決断というものが、認識以前・行為以前と同じ実践であったとしても、違うものたらしめていくことが可能なはず。

違うものを夢想することを止め、「みずからを見出す」探求に倦まないことこそ……まあこれはチンケな自分探しゲームとは違いますよ、念のため……「自分が歩み行くべき夕暮れへの道」であり、祝福の時なのかもしれません。

マア、これがなかなかできないわけなのでしょうけどね。

さあ、続きをもう少し読みましょうか。

ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

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ニーチェ全集〈10〉ツァラトゥストラ 下 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈10〉ツァラトゥストラ 下 (ちくま学芸文庫)

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【覚え書】「異論反論 『消費=労働』の脱・経済社会 寄稿 岡田斗司夫」、『毎日新聞』2011年1月5日(水)付。

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異論反論 寄稿 岡田斗司夫
今年も続く不況の構造をどう見る?
「消費=労働」の脱・経済社会

 大学で教えていると、18~20歳ぐらいの生活感覚の差に驚く。試しに子どもや部下、生徒に聞いてみよう。彼らはびっくりするほど、お金を使っていない。
 なぜだろう?
 「1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体」(坂口孝則著)に「逆転経済」という言葉がある。この10年、商品の価格が不自然なほど安くなっている。なぜ、それほど下げることができるのか。簡単だ。メーカーがコスト=人件費削減という〝経営努力〟をするから「安くていいモノ」が作れるのだ。

低い報酬が支える信じられない安さ
 「本来は40万円支払うべき月給を20万円しか支払わない」「日本の工場を閉鎖し、海外に発注する」という〝国内不況の大幅増産〟で、今の激安ブームは維持されている。
 妻が「うわ~! 通販でこんなに安い!」と喜ぶ価格で売るためには、息子や娘の就職が決まらず、夫のボーナスが出ず、失業したりするのである。不自然に安いものは、巡り巡って私たちの首を絞めるのだ。
 でも政府はエコカー減税やエコポイント補助で、消費を増やそうとしている。結果、消費者は、より不自然に安くなったものを買い、「得した」と思う。すると、本来は妥当な価格で売れていたものすら売れなくなってしまう。
 そこまで無理して値を下げても、もはや私たちにとって「欲しいモノ」は存在しない。正当な報酬がもらえずに働いて、ようやっと手にしたカネで買いたい商品なんて、どこにも無い。
 だから売り手は「過剰な値引き」「過剰な宣伝」「ささいな違いを大げさにアピール」して売ろうとする。
 買い手は「値段」「性能差」「流行」に一生懸命に目を配り、自分が後悔しないモノ、人から笑われないモノを買わなくちゃいけない。
 お金があるから、何か買わなきゃいけない。買うためには、けっこう手間も頭も気に使う。時間もかかる。
 これはもう〝労働〟だ。
 そう、「逆転経済」下ではすでに消費=労働なのだ。
 会社で労働し、もらったお金で「買い物」という労働をする。
 ではお金に余裕のある人たちはなにをしているか?
 ボランティアや自己投資だ。つまり「お金を払って働いている」。
 なんだかアベコベだ。
 お金がもらえるような労働は、コストを下げるため賃金も安く働きがいもない。せっかく稼いだお金を使うことすら、もはや〝労働〟。「嫌な労働の2度払い」だ。
 逆に、お金を払って働き、買い物をしない人は「嫌な労働」から二重に解き放たれている。
 若者たちが「働きたくない」「専業主婦になりたい」という裏には、こういう〝脱・経済社会〟という巨大な流れが加速しているのだ。

おかだ・としお 評論家。1958年生まれ。オタク文化、現代社会評論で活躍。twitterはToshioOkada。公式サイト(http://otaking-ex.jp/)で、「貨幣経済から評価経済へのシフト」を問いかけている。
    --「異論反論 『消費=労働』の脱・経済社会 寄稿 岡田斗司夫」、『毎日新聞』2011年1月5日(水)付。

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経済学・経営学の専門でもありませんが、アダム・スミス(Adam Smith,1723-1790)ぐらいは読んだことはあるという中途半端でアテにならない認識ですけど、岡田斗司夫(1958-)氏の指摘は、正鵠を得ているのではないだろうか……。

一読して暫しそのような感慨に。

つまるところ、価値に価値が与えられなくなってきているのが21世紀の特徴であり、これがあたらしい経済社会の実像かもしれません。

「安い、安い」というのは確かに、買い手にとっては「儲けた気分」を演出するわけですが、それはどこまでいっても「気分」でしかないし、自転車操業的な負の拡大再生産の一コマにすぎませんし、それが加速度的に「演出」されている……そんなところでしょう。

安くていいものなんザ、ありゃしない。

このことをもう一度、自覚する必要はあるかもしれませんネ。

さて……。
仕事へ行く前に、年明け早々ですが、松屋で「牛めし」のお世話になったのですが、この「並盛り」が一杯320円。

たしかに安いし、手早く済ませることができますけど……、ホント、これで320円でいいのかッ……などと思いつつ、しかし、新年早々松屋で世話になるのもいかがなものかッ……と思いつつ、仕事をしてきたわけですが、

まあ、「牛めし」に320円しか払えないような雇用・賃金体系が蔓延しつつあることは確かですよ。

いくらが適正な価値かは知るよしもありませんが、「それで妥当」というカネが払えないわけですから……。

はぁ。

どうなることやらw

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私にサルトルの悪口を言わせないでくださいよ。

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 E サルトルが提起した問題のなかには、確かに、フランス革命とフランス史におけるその創世的役割の問題がありました。それが重要な事件であったことは、少なくとも、あなたもお認めになっておられるのでしょう?
 L=S 認めるどころではありません。フランス革命はいくつかの理念と価値を流通させ、それらの理念と価値はヨーロッパを、それからさらに世界を魅了したものです。それはフランスに一世紀以上にわたって特別の権威と栄誉を与えたものでした。しかしながら同時に、西洋を襲った何度かの破局の原因がそこにあったかもしれない、と考えることは許されるでしょう。
 E どういう意味で、ですか?
 L=S つまり、人々の頭のなかに、社会というのは習慣や習俗でできているものではなくて、抽象的な理念に基づいているのだという考え、また理性の臼で監修や習俗を挽き潰してしまえば、長い伝統に基づく生活形態を雲散霧消させ、個人を交換可能な無名の原子に帰ることができるのだという考えをたたきこんだからです。真実の自由は具体的な内容しか持つことができません。小さな範囲の帰属関係と小さな団結がうまくバランスをとっている、その均衡状態から自由は成り立っているのです。これを、理性と言われる理論的思考は攻撃するのです。それが目標を達成した暁には、もはや相互破壊しか残っていないのです。その結果を我々は今日見ているわけですよ。
 E しかしフランス革命を近代社会の創始的事件であると考えることが、どういう点において、あなたには「神話的」問題であるということになるのですか?
 L=S ……とにかく、十九世紀の初めから終りまで熱心に築き上げてきた、そして今も二百年記念を機会に何とかして復活させようとしている、この神話に基づく問題であることは確かです。
 E サルトルがその継承者である、というわけですね?
 L=S 彼が歴史的事件について具体的なイメージを示していない限りそうですよ。彼は、フランス革命が現在の人類にとって神話の役割を演じられるような、歴史の抽象的な図式を作るのです。
 E あなたから見れば、サルトルは十九世紀の人間ですか?
 L=S 私にサルトルの悪口を言わせないでくださいよ。たとえどんな非難が彼に加えられようとも、サルトルは注目と敬意に値する能力を持った人間でした。十九世紀という時代について言えば、それは科学・文学・芸術の分野で、もっとも偉大な世紀の一つでした。その分野で十九世紀の人間であるということを望まない人がいるでしょうか?
 E あなたとサルトルとの論争は、いっそう激しくなっていた哲学と人間科学との間の論争を象徴するものでした。
 L=S そうでした。少なくとも、人々はそのようにあの論争を解釈しました。それでも、『野生の思考』の最終章は哲学的な臭いの非常に強い章だったのですがね。
    --レヴィ=ストロース/エリボン(竹内信夫訳)『遠近の回想』みすず書房、1991年、214-215頁。

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理念が優先されるべきか、それとも習俗・習慣が優先されるべきか。

物事はそんな単純な二元論ではないんです。

理念からも、そして習俗・習慣からもどれだけ自由になることができるのか。

そして、理念と習俗・習慣の両者に対してどれだけ知悉できるのか。

ここにつきるでしょうね。

鶏が先か、卵が先かという論法の滑稽さもここに存在するというわけです。

……ということで、呑んで寝る。

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遠近の回想 増補新版 Book 遠近の回想 増補新版

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宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる

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 人間の体の生存にとり、もっとも不可欠なものは衣食住である。同じく人間の精神にとり、もっとも大切なものは自由である。なかでも宗教は、精神の中核をなすものだけに、宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる。
    --鈴木範久『信教自由の事件史  日本のキリスト教をめぐって』オリエンス宗教研究所、2010年、3頁。

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今日になってようやく、年末に師匠から頂いた著作にようやく目を通すことが出来ました。

が、読み始めると、まずはあっという間に250ページ近くを読み進めてしまい、はあ、なるほど、やはりここかッ!……って唸らざるを得ませんでした。

人間精神の自由ほど貴いものはありません。

そしてそれは人間のが生きていくうえで、もっとも不可欠なものであるけれども、不可欠であるがゆえに、それは空気や水のような性質をもっております。

空気や水のように日頃その恩恵を実感することはなかなかないのですが、なかなかないがゆえに、時として、その大切さが喪失され、時として踏みにじられてしまう……。

特に、寛容の精神とはほど遠い、同調化の圧力釜のような本朝の精神風土においては、いともたやすく踏みにじられてしまう……それがこれまでの歩みだったのかも知れません。

だからこそこの問題に関しては、意識的に向かい合っていくしかないんだろうな~、そう思われて他なりません。

さて詳しい事件史は本書に譲りますが、あとがきの一節は少し抜き書きしておきましょう。

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 「はじめに」において、人間の精神にとりもっとも大事なものとして自由があり、そのひとつとして信教の自由があると述べた。本書では近代日本の信教の自由を、日本のキリスト教を中心とした事件によってたどってきた。
 そのなかで信教の自由を阻害するものとして、何よりも戦争のあることがわかった。これに対しては不断の平和への努力しかない。戦争には天皇制と国家神道とが密接に結合していた事実も忘れてはならない。ついで、宗教および宗派・教派意識が意外に大きな妨げの石となっていることもわかる。その解消には、宗教間、宗派間、教派間の対話と相互理解が必要となる。とりわけ日本において欠けているものとして、対話と相互理解を促すための宗教に関する教育、宗教を考える教育が大事である。
 なお日本のキリスト教に限るならば、本書で取り上げた事件は、概して日本のキリスト教でいうと、いわば「本流」からはずれた「傍流」の教派や人々が多く関わっている。しかし、書き終えてみて、「傍流」こそ信教の自由史のみならず日本のキリスト教史においても「本流」のような気がしてならない。
    --鈴木範久、前掲書、241-242頁。

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この問題はキリスト教に限定されるものではないでしょう。
およそ本流と呼ばれる立場は、体制保管構造へと傾きやすいものです。

傍流“上等”の意識で、まあ、今年も奮戦して参ろうかと思います。

つうことで、三が日はおせちをたべる気力もなかった……風邪・頭痛・腹痛の三重苦w……ので、今日ぐらいは少し正月的な食べ物で新年の雰囲気を味わおうかと思います。

……って、傍流“上等”じゃw

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【覚え書】「死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである」

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死にゆく者の隣人
 それが共同体を基礎づけるものである。もし最初にして最後の出来事、ほかでもない各人において共有の権能を呈ししてしまうこの出来事(誕生と死)が共有されるのでなかったら、共同体などありえないだろう。共同体は、「きみと私と」から、親しくきみと呼ぶことを宙吊りにしてしまう非対照的な関係だけを頑迷に留保しようとするが、この執着はいかなる渇望を表しているのだろうか。この共同体とともに導入される超越の関係は、権威や一体性、内部性といったものを、共同体の非支配的な領域である外の要請に直面させることによって転位させてしまうが、それはなぜなのか。この共同体がその限界からひとり語り出すとすれば、それはひたすら死ぬことについての長話をくり返すことになるが、それによって共同体はいったい何を語ろうとしているのだろうか、「ひとりは孤りで死ぬのではない。そして、死にゆく者の隣人であることが人間にとってこれほどまでに必要なのは、どのようなささいなかたちではあれ、互いに役割を分かち合い、死にながらも現在に死ぬことの不可能性につきあたっている者を、禁止の中でも最も優しい禁止によって、その傾斜の上にひき止めるためである。今、死んではいけない、死ぬことに今などあってはならない。『いけない』という最後のことば、たちまち嘆願へと変わってしまう禁止のことば、口ごもる否定辞、いけない--きみは死んでしまう」(『彼方への歩み』)。
 とはいえそれは、共同体が一種の不死性を保証するということを意味するのではない。あたかも、私は死なない、私の所属している共同体(祖国、世界、人類、あるいは家族)が存続する以上は、と素朴に語りうるかのように。むしろ、というよりほとんどそれは正反対である。ジャン=リュック・ナンシーは言う、「共同体は、不死のあるいは死を超えた上位の生の絆を、諸主体間に織りあげるものではない……。その成立からして共同体とは……、おそらく間違って成員と呼ばれている人々の死に向けて秩序づけられたものである」。事実「成員」とは、ある契約に従って、あるいは止むをえぬ必要にかられて、あるいはまた血縁や民族さらには人種のつながりを承認することによって結びつけられるような、充足した単位(個人)に送り返されるものである。
    --モーリス・ブランショ(西谷修訳)『語りえぬ共同体』ちくま学芸文庫、1997年。

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新年そうそうモーリス・ブランショ(Maurice Blanchot,1907-2003)など読むものではないと思うし、病み上がりというかそのような状況で読むものではないと思うけど、読み進めていかないと始まらない……。

ということで、読み始めておりますが、なかなか重厚ですね。

「死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである」。

まあ、現代世界は Memento mori とは対極の世の中ですけど、この一点を決して忘れてはいけないでしょう。

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明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) Book 明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

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「今日できることは明日にまわすな」か、それとも「明日できることは今日するな」

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 座右の銘などない。人生はカネだ、以外のフレーズは持たないようにつとめている。ラーメン屋の壁、ラップをかけられた芸人の色紙を思い出して、なんとなく恥ずかしい。しかし、しばしば心をよぎる言葉はある。
 「明日できることは今日するな」
 中東だかトルコのことわざとして記憶したはずだが、おそらく世界中にあるだろう。人の気の持ちようとしては素直だから、勤勉を旨とする日本にだって、ないわけがない。
 二十代の頃、私は意図してこの文句を口にしていた。日本人は働きものという通評を厭うところがあり、いわば反日の思いも私の内部にひそんでいた。オレは無精だから、と無精たらしくつぶやく友が男らしく見えもした。本当は不潔なだけで、その実、彼だってかなり計画性に富むタイプだったのである。のちに有名証券会社に入社して、いまではだいぶ出世したらしいが、そのときは彼の言を信じた。私はコドモだった。
 しかし、いちばん大きな理由は、二十代では明日などいくらでもあり、惜しむにあたらないという思いだったろう。その売るほどもある明日を使えばなんだってできると油断していたのである。
 三十代になると私は変わった。
 「今日できることは明日にまわすな」
 という気分になった。
 これもまた自然のなりゆきだ。要するに明日たちの数が二十代よりも確実に減ったことが実感されたからである。
 持ち時間に限りがあるとはまだ身に沁みては思えないものの、だらだらと日を過ごすのは、よほどの人物でなければ、じきに苦痛になる。寝ていたところで、いやでも目が醒める。目が醒めれば腹が減る。腹だけではなく、頭だってなにかをすることをくれと騒ぐのである。つくづく人間はぜいたくな生き物だと思う。
 三十五歳の悲しみ、と私は遊びで名づけたのだが、これで人生の半分は終わったなァとなんとなく感じられる朝がある。それはさびしい朝である。
 そのさびしさが体の内奥でなにかを急かせる。勤勉でなにが悪い、生きていたというせめてもの痕跡をとどめたい、そんな不思議な衝動に駆られもする。
 もっとも、衝撃は長い日常のなかでたやすく摩滅してしまうのだけれど、三十代なかばとはとかく前向きになりたがる年頃なのである。
 では四十代ではどうかという、再び、
 「明日できることは今日するな」
 になんとなく回帰する。
    --関川夏央「明日できることは今日するな」、『昭和時代回想』集英社文庫、2002年、125-127頁。

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実は、12月中旬の名古屋出張から帰京していらい、ずぅ~っと風邪っぴきで、先月の28日にいっぺんピークを迎え、それから落ち着き、安心していたところ、元旦にもっぺんピークになってしまい、

「まじかよ」

……などと独りツッコミをしつつ、

仕事を休むわけにもいきませんので、額をはじめ、体の各部位にひえぴたを張って仕事をしてきましたが……勿論レジもうつよん……、このまま、薬で治すのも限界があるだろう……ということで、元旦の仕事が済んでから、そのまま焼き肉へいき、少し贅沢した次第です。

昔から「風邪は病気の王様」とよく言うではないですか。
だからうまいものを食べる……という原始的な民間療法にいちるいの望みをかけ、深夜に独りで焼き肉やというかな~り、怪しいコースを歩みましたが、

いやはや、旨かったです☆

上カルビではじめ、ハラミ、ごろタン(味噌味)、牛ホルモンMIXへと箸をすすめ、最後に黒毛和牛特選カルビで締めるという流れでしたが、何気に一番うまったのが「長ネギ」。

帰宅してから、冷や酒を一杯だけ呷ってから沈没。

今朝おきるとだいぶ良くなっておりました。

ただ、頭痛は例の如く酷いのですが、やるべき学問の仕事もありますので、先ほどまで資料と格闘したり、洋書を読んでいたりと過ごしておりました。

まあ、自称ナイスミドルの30代ですから(苦笑)、「今日できることは明日にまわすな」となってしまいます。

ホントは、「明日できることは今日するな」と嘯いてみたいところですが、まあ現実には「今日できること」で精一杯ですから、なかなかそこへは到達できないというものです。

さて……。
皆様も風邪をあま~くみてはなりませんぜよ。

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Die Fahne hoch 旗を高く掲げよ

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 自省の能とは、己が今ま何を為しつつある、何を言ひつつある何を考へつつあるかを自省するの能を言ふのである。
 自省の一能の存否は、これ正に精神の健全なると否とを徴すべき証拠である。即ち日浄の事に徴しても、酒人が杯を挙げながら「大変に酔ふた」または「大酔ひである」などと明言する間は、さほどには酔ては居ない。少なくとも自省の能がいまだ萎滅しないのを証するもので、決して乱暴狼藉には至らぬのである。また精神病者が自身に「己れは少し変だな」などと言ふ中は、やはり酔漢と同じで、いまだ自省の能そ喪失しない、乃ち全然狂病者とはなつて居ない徴候である。
 吾人はただこの自省の能があるので、およそ己れが為したる事の正か不正かを皆自知するのである。故に正ならば自ら誇りて心に愉快を感じ、不正ならば自ら悔恨するのである。この点からいへば、道徳とはいはず、法律とはいはず、およそ吾人の行為は、いまだ他人に知られざる前に吾人自らこれが判断を下して、これは道徳に反する、これは法律に背くと判断するのである。故に道徳は正不正の意象とこの自知の能とを基址として建立されたるものである。啻に主観的のみならず客観的においても、即ち吾人の独り極めでなく、世人の目にも正不正の別があつて、而してまたこの自省の一能があるために、正不正の判断が公論となることを得て、ここに以て道徳の根底が樹立するのである。
 世にはこの自省の能の極めて微弱な人物が多々あるが、その人は恐くは世界不幸の極といはねばならぬ。
    --中江兆民「続一年有半」、井田進也校注『一年有半・続一年有半』岩波文庫、1995年、170-172頁

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明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いします。

今日から、自分の旗を高く掲げて参ります。

「自省の能とは、己が今ま何を為しつつある、何を言ひつつある何を考へつつあるかを自省するの能を言ふのである」とは中江兆民(1847-1901)の言。

本格的な挑戦と格闘の一年として参りますので、読者諸兄、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

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