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『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。

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 かつて、社会を階級社会としてとらえ、その社会の土台における経済的搾取、上部構造における政治的支配を重視したのはマルクスだった。いま私は、それらに加えて、社会的管理あるいは管理社会化の問題を取り上げたい。
 管理の極限に『一九八四年』があるかもしれない。しかし、いくらか賢明な政治権力は、『一九八四年』は稚拙な支配形態であると考えている。それは、権力の永久支配ではなく、むしろ権力の動揺と混乱を招きやすい。
 大衆支配、硬いしかたではなく、柔軟なしかたで行われる。一元的ではなく、多面的多様的に行われる。とくに、生活、文化、教育、意識の管理が重要になっている。保守的政治家たちにも、中央集権的ではなく、他方「分権」的発想が生まれている。「文化の時代」とか「地方の時代」とか一国の首相が言うとき、それはけっして空手形ではない。
 まえに権力の「柔構造」や「抑圧的寛容」がさかんに議論されたことがある。しかしそこではまだ等値技術の面に重点がおかれていた。いまや民衆のなかへ浸透しているのは「時代」そのもの、「文化」そのもの、「生活」そのものである。政治や経済の領域だけで現代社会を見るのは浅い。
 管理社会は、いわゆる体制のちがいを超えてひろがっていく。資本主義社会も社会主義社会も管理社会化への道を進む。
 第一に、利益誘導がある。いまでは損得が暗黙のうちに時代の物差しとなった。それを権力も積極的に抑圧しない。むしろ莫大な、あるいはささやかな利益の提供によって、大衆を権力の構造のなかへ吸収することを考える。大衆自身が「買収」されることを期待している。
 七〇年代後半、「構造汚職」が大きな問題となった。しかし国民は、それがまった氷山の一角であると感じている。「構造汚職」の問題性は、摘発されない腐敗のほうがはるかに大きいだろうと、国民の大半が信じているところにある。そして構造汚職は、経済的活動というより、もはやひとつの「文化」の問題である。もちろん、利益誘導のかなり多くは密室のなかから開放されており、大義名分つきである。大土木工事や莫大な補助金行政はその一例である。
 もし政権政党に国民の三分の一に利益をばらまく能力があれば、それは長期的に政権を担うことができる。衆院選の棄権率を三分の一として、有権者の三分の一を獲得できれば、過半数に達する。
 第二。いまの大衆の生活、文化、教育は「おしきせ」のものである。「おしきせ生活」「おしきせ文化」「おしきせ教育」のなかに大衆ははめこまれている。その「おしきせ」性は快適さと無縁ではない。そこには強制感がない。流行を追いかける女性は、「おしきせ」流行におしきられることに大きな幸福を感じる。
 カラーテレビや車の普及は産業界の大戦略だったにちがいない。しかし、大衆自身、強制されてそれらのものを購入したという感覚がない。それは快適で便利で興味深い。もはやそれらは生活必需品でえあり、そうである以上、もしそれらを放棄しなければならないような政策が現われたならば、大衆は反乱をおこすだろう。大衆の生活それ自体が政治の一面を規制してるのであって、政治が大衆の生活をあやつっているだけではない。こうして、「管理しているものが、管理されているものによって管理される」という逆説が生まれる。しかし、最初の主導権は、やはり管理するものの手にある。
 第三。差別と格差が温存される。たとえば学校格差(学歴社会)。あるいは男女差別。あるいは部落差別や民族差別や障害者差別など。支配や作者や管理のかくれた技術は、差別・格差の利用であることは、あらためて指摘する必要もない。その利用のしかたはますます洗練されてくる。そしてその差別・格差の温存は、必ずしも直線的、政治的支配や経済的搾取と結びついているわけではない。
 第四。疎外と排除。社会の、あるいは職場の管理体制に異議を唱えるものは、公然と、あるいは隠微のうちに、利益享受のレールからはじきだされる。それらはつねに少数者である。少数者の手きびしい排除は、見せしめである。多数派を目ざし、権力を目ざす労働組合や政党は、この少数者を救う力と意志をしだいに放棄している。そのため少数派はますます少数派となる。それは体制外存在である。彼らを支持する声が極小化されるとき、彼らにたいしてだけ『一九八四年』がおとずれる。どのような「文明」国であっても、第二次世界大戦後という一時期のなかで、警察の留置場や監獄のなかなどで、秘密の拷問と殺人、私的隣地の数々を行わなかった国は存在しないだろう。そしてその度合いが強まるならば、不幸なことに、反抗するがわからさまざまの形の対抗的暴発も起こってくる。
 第五。もちろん、最後にナショナリズムが加わる。「第七体育学校」はその典型である。このことについては、ほとんど説明の必要はないだろう。その各国ごとのバラエティについては、一冊の本を書いても書き足りないほどに豊富な資料が存在する。
 管理社会化は、大衆に利益をかえし、個人に名誉や地位をあたえるので、それを批判することはやさしくない。たとえば、「第七体育学校」はゆきすぎだというものもいるだろう。あるいは日本のなかのエリート大学への進学準備や受験塾はゆきすぎだというものもあろう。しかし、「ゆきすぎ」と「ゆきすぎではない」との境界線はどこにあるのだろうか。それはなだからかに連続しているかのように見える。
 その境界線をはっきりと引くことができないというあいまいさが、管理社会化の「利点」であり、つけめである。それは露骨な政治的弾圧や経済的搾取が引きおこしやすい批判や攻撃から身をかくすことができる。『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。
    --日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980年、106-110頁。

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戦後民主主義を代表する進歩的知識人の言説ですから、かなりマルクス主義的な体制VS的な権力図式がぷんぷんしますけれども、その生-権力的な管理スタイルへの洞察は、30年たった現代に紐解いても、その生命は失われていないことだけは確かですね。

一方に権力を置き、一方に支配される側を置くという図式はもはや崩れ去り、そのものの見方そのものが多様な現実を抽象化してしまいますが、それでもなお、フーコー(Michel Foucault,1926-1984)が指摘したとおりの、馴化のディシプリンだけは着々その足場を固めていることだけは確かでしょう。
※もちろんスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の指摘の通り、デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)、フーコー式のカウンターパンチも限界があることは確かですが、ここではひとまず措きます。

システムというものは露骨じゃないんですよね、ホント。

「だれの眼から見ても嫌悪すべき存在」は全く怖くありません。

しかし「微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない」そのものこそ戦慄すべきものはありませんネ。

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