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【覚え書】ハーバーマス:多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない

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 多数決原理は時間的制約下において相互了解のプロセスを理性的に操作可能なものとするが、その際に本来前提されているもろもろの条件に較べて、実際の政治的決定過程がいかにずれているかは、多数決の社会学が冷ややかに明らかにしてくれているとおりである。それにもかかわらずわれわれは、多数の決定には少数派も尊重してしたがうべきであるという原理を、デモクラシーの王道として守っている。今日においてこの考えを本気でひっくり返そうとする者はいないであろう。だが、多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない。つまり、生まれにもとづく少数グループ、例えば文化的伝統やアイデンティティの分裂などにもとづく少数グループがいない場合にのみ、多数決は可能なのである。また多数派といえども、取消し不可能な決定をしてはならないのである。多数決原理は、ある特定のコンテクストにおいてのみ人々を納得させうるのである。多数決原理の価値は、時間の足りない中で、また限られた情報に基づいてなされる決定が、ディスクルス(討議)によって得られる意見の一致や、公平なものと予測される妥協という理想的結果からどの程度離れているかという理念を基準に測りうるものでなければならない。
 現在は、市民的不服従がどのような意味で正当であるのかを、一歩も譲らずに明らかにすべき時であろう。これは、市民的不服従への呼びかけとして言っているのではない。このような危険を引き受けるかどうかの決定は一人一人が行うべきことであろう。市民的不服従の「権利」は、もっともな理由からの正当性と合法性のあいだのゆらぎのなかにあるのだ。だが、この市民的不服従を下劣な犯罪であるかのように告発し、追及するような法治国家は、権威主義的リーガリズムの次元に陥ることになる。「法は法だ」「恐喝は恐喝だ」というきまり文句が法律家たちから発せられ、ジャーナリストたちが喧伝し、政治家たちの採用するところとなっているが、これは実際は、あのナチスの海軍法務官(*7)の信念、つまり当時合法であったものは今日も正当であるはずだという信念と同じメンタリティに発しているのである。というのも、法治国家における市民的不服従と、不法国家に対する積極的抵抗との関係は、法治国家における権威主義的リーガリズムと、不法国家における疑似合法的な抑圧の関係に対応しているからである。
 一九四五年直後ならばおそらく誰もが認めたであろう当然のことが、今日ではなかなか耳を傾けてもらえないのである。新保守主義の先唱者たちが、過去のポジティヴな面に共鳴するのが国民の義務であると唱え始めて已来、現代における偽りの実定的制度は、過去のそれに歴史的に支えて貰おおうとしているのである。これは足元の大地が揺れ出すにつれて、ますます執拗になんらかの一義的なものにしがみつこうとする精神的態度であり、その点は軍事に関しても、歴史に関しても、またいわずもがなのことだが法律の取扱いに関してもまったく共通している。しかも実定性があいまいで怪しいという点に関しては、使用しないためにできるだけ完璧なものにするとされるあの武器よりも明白な存在を獲得したものはないのに、である。
 両大国が(引用者註……この文章は1984年に著されたもので、この両大国とはアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦のこと)、この核時代においてすら(勝てる戦争)という一義性に戻ろうとしているのが本当だとするなら、安全保障というこのユートピアには、「闘うデモクラシー」(*8)についてなされる誤解と同じものが見られることになる。つまり、「闘うデモクラシー」を法実証主義的に誤解すると、市民的不服従が持つあいまいさをきれいさっぱりぬぐい去って一義性を得ようとすることになるが、こうした思考構造が、安全保障のユートピアにも繰り返し現れていると言える。権威主義的リーガリズムは、一義的ならざる、あいまいなものが持つあの人間的実質を、民主主義的法治国家がまさにこうした実質によって滋養を得ている当の局面において、否定しているのである。
(*7)バーデン=ヴェルテンブルク州の元首相フィルビンガー(キリスト教民主同盟)を指す。フィルビンガーは、その穏かな風貌と言辞で州民のあいだで比較的信頼を集めていたが、こともあろうにその彼が、敗戦直後、つまり武装解体寸前のドイツ海軍にあって、脱走し逮捕された若い兵士に殆ど即決裁判で死刑の判決を下し、執行させたことが二十数年たって発覚し(一九七八年)、辞職を余儀なくされた。辞職間際に彼が言った捨て科白「当時合法であったものは、今日でも正当であるはずだ」は、旧世代のリーガル・マインドの典型とされ、広く引用された。
(*8)ヴァイマール民主制の崩壊への苦い反省から、民主主義を破壊するものに対しては「民主的」ではあり得ないとして、危険を「芽のうちに摘み取る」「守りの強い」「闘う」民主主義という標語が戦後唱えられ始めたのだが、次第に共産主義批判、テロリズム追及と結びついて多用されるに至った。平和運動にあっても、それを批判する保守の側が好む表現となった。こうした誤用のうちにハーバーマスは、権威主義的リーガリズムと同じものを感じとっているわけであろう。彼から見れば市民的不服従こそ「闘う民主主義」の実践のひとつであるということにもなろうか。
    --ユルゲン・ハーバーマス(三島憲一訳)「核時代の市民的不服従 --国家の正当性を問う」、『近代 未完のプロジェクト』岩波書店、2000年。

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