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【研究ノート】ガダマー;「生とは理論と実践の統一のことであり、この統一こそがすべての人の可能性と課題なのである」

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 アリストテレス的な神学の古くからの問題は<神の「思惟」は自己自身以外のものを思惟することはできない>--思惟は常に何ものかについての思惟であり、そしてただ「それと並んで」のみまた自己自身に気づくことができるという事実があるにもかかわらず--ということのうちに成立するが、この問題もまた以上のことによって解決されるとでも言うのだろうか。思惟すること《noein》が観想すること《theorein》であるとするならば、そのときにはまさに<そのような観想の対象は何でありうるのか>という問いは何ら意味のあるものではなくなる。すなわち、それは、存在するところのものへ、「われわれにとって」われわれの「現」の最高の充実であるところのものへ没頭していることの仕方(Wie)だからである。--それは「自己意識」ではないが、しかし、まさしくギリシア人たちが《theoria》と呼んだ生の高揚、その持続的な現在のなかにギリシア人たちにとっては神的なものが成立していた、生の高揚のことなのである。
 現代の科学が理論のこの概念を自己の生の制約として自分なりの仕方で依然として前提にしているのはなぜか、ということを示すのは困難なことではなかっただろう。しかし、それにしてもいったいわれわれはどこへ行ってしまったのか。それとも、われわれはなおも人間の根本構制へそのように立ち返る際に理論を問題にしているのだろうか。むしろ実践を問題にしているのではないか。むしろ人間と人間との関係や人間とものとの関係に関わる経験--われわれはたしかにそれを理論的な経験と呼びたからないだろうが--を問題にしているのではないか。理論と実践はどのような事情にあるのか。すでにアリストテレスが強調していたように、理論とは結局のところひとつの実践なのか。それとも、もしかして実践とは、それが真に人間的実践でありさえすれば、常に同時に理論なのか。理論は、それが人間的なものであるのなら、自己自身から眼を転じて他のものに視線を当てること、自己自身を度外視して他のものへと耳を傾けることではないのか。そうだとすれば生とは理論と実践の統一のことであり、この統一こそがすべての人の可能性と課題なのである。自らを度外視して存在するところのものへ視線を当てること、それは、陶冶された意識、--あやうく「神的」と言いそうになっているのだが--神的な意識のあり方なのである。それが科学によってそして科学へと陶冶された意識である必要はない。--それはただ単に、他人の観点をともに思惟することを学び、共同のものへと思念されたものへの意志疎通を探すことを学んだ、人間的に陶冶された意識でありさえすればよいのである。
 しかしそのとき、われわれの理論頌から何が生じたのか。実践頌であるのか。個々人は事柄についての知を必要とするのであるから、彼が理論的な知を彼の実践的な生の知へと繰り返し常に組み入れていかなければならないように、科学に基づけられた文化の生にとっても同じ事が打倒することになるであろう。すなわち、科学に基づけられた文化に固有な生の制約が立っているところは、その文明の装置の合理的な組織化はそれ自体が自己目的ではなくて、われわれが肯定しうるような生を可能にするものである、というところなのである。あらゆる実践は結局のところ、実践を越えて指し示すところのものを目指している。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二訳)「理論を讃えて」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年、42-44頁。

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理論が人間存在に対してどのように関わってくるのか。
西洋哲学史を概観しながら、哲学的解釈学者ハンス=ゲオルグ・ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)が導き出したひとつのスケッチ。

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