« 『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。 | トップページ | 「思考の歴史的制度から脱け出す」こと »

「俺だけど」における「俺」も誰か特定の人物を指示してはいない。

01_4

-----

……われわれが言葉の意味について語る典型的な場面は、その意味を人に説明するときである。だからこそ、『青色本』は次のようにして始まる。「語の意味とは何か。/この問題に迫るためにまず、語の意味と説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うて見よう。」(七ページ)
 ウィトゲンシュタインはここで、「Xとは何か」という哲学的問いに対して、「X」という語の使用を明らかにせよ、という処方箋を示しているのである。時間とは何かーー「時間」および関連する言葉の使用を明らかにせよ。そして、「意味」とは何かという問いに対してもまた。それゆえ、少なくともウィトゲンシュタインの意図に即して言うならば、ここに「意味の使用説」のような学説を読みとるのは『青色本』の誤読と言わざるをえない。
 もう一例あげよう。ウィトゲンシュタインは「私は歯が痛い」という発語をうめき声と類比的なものとして捉えようとする。問題はここにおける「私」にある。これが「彼は歯が痛い」であれば、その発言がまちがっている可能性はある。例えば母親に連れられて歯医者に入ってきた男の子を見て「彼は歯が痛いんだ」と言ったのだが、じつは歯が痛いのはその子どもではなく、横にいる母親の方だったということもあるうるだろう。だが、「私は歯が痛い」の場合には痛んでいるのが誰なのかを取り違えることはありえない。そしてこのことは独我論への入口になるのである。「彼は歯が痛い」の「彼」は他の人物たちと区別された特定の人物を指す。他方、「私が歯が痛い」の「私」はそうではない。そこでは他の人物たちと区別された特定の人物ではなく、唯一無二の私、この経験を引き受ける主観、自我(エゴ)、そのような何ものかが意味されているはずだ。そんなふうに考えられてしまうのである。
 これに対してウィトゲンシュタインはこう述べる。「「私は歯が痛い」という言明をするとき誰かを私と間違えることが不可能なのは、誰かを私と間違えてその痛みにうめくのが不可能なのと同じである。「私は歯が痛い」と言うことは、うめきと同様、或る特定の人間についての言明ではない。」(一五四ー五ページ)そしてここから、「一人称現在形の感覚報告は、自分の感覚のあり方を記述したものではなく、むしろ痛みの表出そのものなのである」といった主張(表出説)が引き出されもする。だが、ここでもウィトゲンシュタインの意図は、そのような学説を提示することにはない。
 ウィトゲンシュタインはただひたすら哲学的治療を施そうとしている。「私は歯が痛い」という表現と「彼は歯が痛い」という表現と「私は歯が痛い」や「私は骨折している」といった表現の間には決定的な文法の違いがあるにもかかわらず、それらは似た形をしているために、われわれはそこで混乱する。そして「私は歯が痛い」における「私」という語は唯一無二の自我を指示しているのだと言いたくもなる。そこでウィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い」という発語をうめき声に類するものとして見てみよとわれわれにアドバイスするのである。ポイントは、そうすることによってわれわれの混乱を少しでも振り払うことにある。
 ウィトゲンシュタインの出す例ではないが、別のエピソードを考えてみよう。電話口で「俺だけど」と言う。いったい、これはどういう発言であろうか。実際、この「俺」は誰を指示しているものでもない。おそらくは「俺だけど」の一言で分かるはずの人物であることを相手に示唆しているのである。同様に(この「同様に」はまったく論理的ではない。しばしばこのような「同様に」によって混乱から救い出されもする)、--そう、同様に、「私は歯が痛い」における「私」も誰か特定の人物を指示してはいない。「私は歯が痛い」という発語をうめき声に類するものと捉えさせることによって、ウィトゲンシュタインは、「私」という代名詞が使われるときには必ずそれは何かを指示しているはずだというわれわれの思い込みを断ち切ろうとするのである。それゆえ、ウィトゲンシュタインから「表出説」のような主張を読みとろうとすることもまた、誤読であると言わねばならない。
 だが、私自身の意見を言わせてもらうならば、治癒だけが哲学だとするほど哲学は狭いものではない。ウィトゲンシュタインの言葉に触発され、そこから理論的主張を引き出すというのもまた、ウィトゲンシュタインのひとつの利用法だと言えるだろう。実際、われわれはウィトゲンシュタインの洞察からいくつもの理論的主張を引き出すことができる。さらには、それを火種として、理論的構築を試みることもできるだろう。だが、そのさいにそうした理論的主張をウィトゲンシュタインに帰すことには慎重であらねばならない。ほとんどの場合、あるいはおそらくすべての場合に、自分がそのように理論構築に利用されていることをもしウィトゲンシュタインが知ったならば、彼はきっと怒りだすに違いない。
    --野矢茂樹「解説『青色本』の使い方」、ウィトゲンシュタイン(大森荘蔵訳)『青色本』ちくま学芸文庫、2010年、179-182頁。

-----

「俺だけど」における「俺」も誰か特定の人物を指示してはいない。
そしてタチが悪いことに本朝の昨今で広く流通している「俺だけど」は、「(俺の)感覚のあり方を記述したものではなく、むしろ痛みの表出そのものなのである」わけでもないこと。それは、感覚のあり方を記述したものでもなく、痛みの表出そのものでもなく、単なるトートロジーに過ぎないことをお忘れなく。

02_4

青色本 (ちくま学芸文庫) Book 青色本 (ちくま学芸文庫)

著者:ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。 | トップページ | 「思考の歴史的制度から脱け出す」こと »

【研究ノート】」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「俺だけど」における「俺」も誰か特定の人物を指示してはいない。:

« 『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。 | トップページ | 「思考の歴史的制度から脱け出す」こと »