油断はするな、万一に備へよとの警告は依然として必要であるけれども、然しながら我々の国家生活の理想は最早富国強兵一点張りであつてはならない
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新しい国家生活において最も必要な具体的な政策とは何か――。吉野によれば即ちそれは「人間の能力を自由に開展さすること」にほかならない。吉野はこの政策を総称して「デモクラシー」ないしは「民本主義」と定義する。そしてそれは「純政治的要求」と「社会的要求」の二つの要求としてあらわれる(34)。
前者は、「国民各自をして国家の運命の最高の決定に参照せしむる」要求であり、具体的には「精神生活の自由と向上」をはかる文化政策であり、後者は、「国家として彼等各自の生活を充実保障する」要求であり、具体的には、「貧富の差をなくし日常生活を安楽」にする社会政策である。そしてこれを為政者への進言ではなく、国民の立場から政府に対して要求する政策であると踏み込んでいく。
この頃より、吉野は「民本主義」という言葉よりも「デモクラシー」という言葉の方を多く使うようになるが、この言葉遣いと実質的要求を掲げる姿には、実質的な国民主権を主張するという強い意志が伺える。
世界は道義の支配する世界である。我々国民は対外体内両面の生活に於て著しく道義の支配を感ずることになる。一躍して黄金時代が来ると見るのも間違だけれども、道義を無視して尚且つ栄える途があると思ふならば、之れ日天に沖して尚前世紀の悪夢に迷ふものに外ならない。油断はするな、万一に備へよとの警告は依然として必要であるけれども、然しながら我々の国家生活の理想は最早富国強兵一点張りであつてはならない。道義的支配の疑なき以上、我々は腕力の横行に警戒し過ぎて、無用の方面に精力を浪費するの愚を重ねてはならない。我々は過去に於て富国強兵の為に如何に多くの文化的能力を犠牲したかを反省するの必要がある。従来は之も致し方なかつた。併し之からは遠慮する所なく、我々の能力を全体として自由に活躍さすることが必要である。我々のあらゆる能力の自由なる回転によつて、茲に高尚なる文化を建設することが国家生活の新理想でなければならない(35)。
そして、政府に対して政策を突きつけるだけでなく、理想的な状況をこの世に建設するための取り組みを吉野自身このころより取り組み始める。文化的生活の模範を示すために、経済学者森本康吉、作家の有島武郎らと文化生活研究会を一九二〇年五月に結成する。ここでは生活に関する科学的な研究を行い、生活改善運動をすすめることとなった。また学問からほど遠い民衆のために、通信教育という方法で生活全般にわたる学問研究の成果を伝える「大学普及運動」も展開されていく。
また第一次世界大戦中に立ち上げた賛育病院(一九一六年一〇月)を軌道に乗せ、簡易法律相談所(一九一八年)や家庭購買組合の設立(一九一九年八月)など、具体的な取り組みに関しても熱心に従事する。
単なる大学人・論壇の人間に収まりきらない吉野らしい姿である。国家に頼らずともできるところからは実践していくなかで「高尚なる文化を建設」を立ち上げていく面目躍如の活躍である。
これらひとつひとつの実践に関しては紙幅の都合で詳論することはできないが、理想とされるものを「将来の遠い理想郷」として観照するだけでなく、自ら汗をながし、格闘した足跡に関しては、今後の課題としたい。
(34) 吉野作造「政治上のデモクラシー」、『新人』一九一九年四月。
(35) (33)に同じ。
--拙論「吉野作造<中期>のナショナリズム--第一次世界大戦前後の軌跡」、『東洋哲学研究所紀要』第26号、東洋哲学研究所、2010年、65-66頁。
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手前味噌で恐縮ですが、昨年まとめた論文が1本、製本されて到着しました。
ダサイ話ですが、活字になるとうれしいものです。
中身は、吉野作造(1878-1933)のナショナリズムをまとめた1本が、その中盤の部分です。
基本的には、国家主義からそれを相対化させていくのが吉野のナショナリズムというわけですが、簡単にNoとか廃棄!って叫ばないところに、その慎重さと思慮深さを感じてしまうというものです。
「国家生活」などという表現を使いながら、国家への「依存」を脱構築していく。
かくありたいものですね。
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