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その成果が確実なものになればなるほどそれを収めた主体は意味を失ったほうがよい

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 前に我々が直ぐにヨオロッパというものと結び付けるのが政治と科学であると書いたが、その政治と科学が今日の我々が知っている形をとったのは確かに十九世紀に入ってからのヨオロッパだった。我々にとっての政治は何かの意味での代議制度とそれに附随する輿論とか演説とかいうことで、これも十九世紀のヨオロッパで政治の先ず同義語と見ていいものになり、ただもしそこに今日の我々と違ったものがあるならば当時はその代議制度や普通選挙や議会の権力の拡張が人間をただそれだけで幸福にするものと実際に信じる風潮があったことで、これも十八世紀の理性の名残りと一応は考えることが許されても十九世紀に入ると制度の尊重が制度に対する関心ばかりなってそれを人間の上に置く傾向が生じ、憲法というようなことが煩さく言われ出す頃から十九世紀が十八世紀とは明らかに別なものになって、それが批判を呼ばずにいなかった訳でもないのはこの時代の分権にある通りである。
 十三世紀の英国の大憲章が必ずしもいわゆる、憲法の観念に合致するものでないならば最初の成文の憲法が出来たのが、一七七六年にアメリカが英国から独立した際で、これに続いて一七八九年にフランス革命が起って第一次のフランス憲法が作られた後にナポレオンがスイス、イタリイに進撃するに及んでヘルヴェチア、チザルピナ、リグリアなどの憲法付きの共和国が次々に現れた。またフランス共和国とともにその支配下にあるそういう共和国が短命だったのが各自の憲法のせいではなかったということもあって憲法というものにタイする一般の信頼は少しも変らず、やがてスペインやポルトガルの南米の植民地が独立して共和国が幾つも出来ると言った時代になると先ずそういう際に問題になるのが憲法だった。カアライルはそのために憲法屋というものが出来て、これはどこかに新しく国が作られる毎に憲法が必要になるのでその注文に応じてよさそうなのを立案する商売だと言っている。
 これはそうした制度というものに対する過信にカアライルが反撥したというだけのことにも思えるが、そこにはもっと大きな問題が読み取れる。その憲法、あるいは代議制度、あるいは人権などというものを要約すれば民主主義であり、民主主義はその名称ではヨオロッパで発達したのであるとともにその名称を捨てればいつの時代にもどこにもでもあった。その両方のことがここでは大事であって、民主主義がどこにでもあるのはそれが政治に欠かせないものを含むからであるが、そのことに着目してその理論を極め、これを一つの普遍的に応用出来る体型に仕立てたのはヨオロッパだった。またそれ故にヨオロッパは、あるいは厳密には十九世紀になってからのヨオロッパは民主主義と憲法の普及と宣伝に力を入れて、それはヨオロッパのみならずヨオロッパ以外の世界も益し、この業績はヨオロッパの栄光の一部をなすことになったのであっても、その成果が確実なものになればなるほどそれを収めたヨオロッパというものは意味を失うことになった。もっと卑近な例を挙げてこれを説明するならば今日では誰も背広という服装がヨオロッパの産物であるとは思っていない。
    --吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年、68-70頁。

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ロマン主義は大嫌いなので、当然カーライルは大嫌いです。

しかしカーライル(Thomas Carlyle,1795-1881)の危惧はわからなくはない。

なにかをなしたことを、後々まで「誇り」にするつう心根というのは「埃」どころか「害悪」なのかもしれません。

それが確かに不朽の事業だったとしても、それを貶めて「埃」にしてしまうものですから。

しかもおまけにそれを商売にしてしまう連中まで出てくるとは……。

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