「本気で始めるとは、みずからを不可分に保有しながら始めることである。したがって後戻りができないということである」
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本気で始めるとは、みずからを不可分に保有しながら始めることである。したがって後戻りができないということである。船に乗り込み、もやい綱を切ることである。そうなったらとことん冒険を続けなければならない。ほんとうに始まってしまったものを中断するのは、事を失敗に終わらせることではあっても、始まりそのものを廃棄することではない。失敗も冒険の一部なのだ。中断されたものは、演戯のように無の中に消えてしまいはしない。つまり、行為は存在への登録なのだということである。そして行為を前にしての後ずさりとしての怠惰は、実存を前にしてのためらい、無精で実存したがらないということなのだ。
--エマニュエル・レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』講談社学術文庫、1996年、46-47頁。
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金曜日は休日で、本当は短大の演劇部の卒業公演を観賞する予定でスケジュールを組んでいたのですが、細君が所用で外出のため、子守りをしなければならず急遽予定を組み直して、帰宅した息子殿と時間を過ごしていたのですが……、
まあ、予定もなくなったのなら、前日に仕上がっていたスーツを取りに行くかッってことで、百貨店まで取りに行くことにして、息子殿をひとりにするわけにもいかず、様々な司法取引によるバーターを行い(おもちゃの購入等々)、一緒に行った次第ですが、、、
駅まではどうしても自転車です。
生憎、子供を乗せることのできるガジェットの装着された自転車は細君とともに不在w
よって、息子殿は自分の自転車にて駅までいかなくてはならないのですが、
「正直、大丈夫なのだろうか」
……と心配したわけですが(細君から大丈夫とは聴いておりましたが)、
まあ、見ている方からすれば、すこし、おっかなびっくりなところもあり不安をぬぐうことは完全には出来ませんでしたけれども、それなりに乗りこなしている姿に驚いた次第です。
まあ、本人も神経を最大限にとぎすませ、肉体の各所に力を込めて自転車を操縦していたようですが、その成長ぶりには少々驚きと同時に成長した姿というものを感じた次第です。
しかし、その真剣に自転車を操る姿というものは、まさに「本気で」運転するという様子。
レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「本気で始めるとは、みずからを不可分に保有しながら始めることである。したがって後戻りができないということである」というところでしょうか。
その真摯な姿に、自分自身もまた真剣に、本気で生きていかないとネ……などと考えさせられた次第です。
息子殿、ありがとう。
実存から実存者へ (ちくま学芸文庫) 著者:エマニュエル レヴィナス |
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