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【研究ノート】西洋の<哲学>と東洋や日本の伝統思想とではどこがちがうのだろうか。

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……西洋の<哲学>と東洋や日本の伝統思想とではどこがちがうのだろうか。まさにそのことを問題にして橋本峰雄(「形而上学を支える原理」、岩波講座『哲学』第十八巻「日本の哲学」一九六九年、所収)は次のように書いたことがある。
 すなわち、《明治以前のわが国の伝統的な諸「思想」、宗教・倫理・政治・経済・歴史文芸等の諸思想は「哲学」であるのかないのか。これは、もっと一般的に、西洋哲学に対して東洋哲学ということができるのか否か、という問題もであるだろう》。かえりみれば《「哲学」はギリシャにおけるその形成の当初から、第一に論理的な学問知としての側面、第二に世界観・人生観としての側面、この二つの側面をもち、西洋の哲学そのものにおいても第二の側面を第一の側面の中へ一元化することを成就しえていないのかが、西洋哲学史の全般を通じる「哲学」の実情である》。たしかに《ここに「哲学」自体の絶望があるだろうが、しかし第一の側面にこそ哲学を哲学ならしめる固有の要求がある。いくつかの基礎概念および基礎命題から全「体系」を演繹することが、「学問」としての哲学である》。したがって《日本の思想、一般に東洋の伝統的思想が、この第一の側面において弱いことは、それを哲学と呼ぶことに、ある落着きの悪さを伴わさせるのである》。
 およそ西洋の哲学は、<論理的な学問知>という第一の側面によって知的に大いに開かれたものになり、異例の普遍性を獲得してきた。と同時に、また、近代<科学>を生み出し、それと密接な結びつきを保ってきた。もちろんすべての西洋哲学がそうであったわけではないけれども、少なくとも正統的な部分はそういう側面を持ってきた。ところが、それに対して、日本や東洋の伝統思想では、第二の側面への傾斜が著しく、第一の側面がいかにも弱い。しかも西洋の哲学の固有性が第一の側面にあり、それこそが哲学を知の普遍的形態たらしめるのである。だからこそ、日本や東洋の伝統的な諸思想は<哲学>と呼びうるだおるか、と問われることになったのである。
    --中村雄二郎『西田幾多郎 I』岩波現代文庫、2001年、8-9頁。

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哲学の根源的二つの性質と東西での温度差をうまくまとめた一文。
覚え書としてひとつ紹介しておきます。

ここに西洋的学知の盲点があると同時に、東洋的学知の盲点のひとつは存在するのだと思います(概論ですが)。前者は、たえず理論と実践という対立構造に囚われることになり、後者は実践の優位という名の「巨人の星」的精神論の流行ということになる。

しかし哲学知というもが二つの側面(①論理的な学問知、②世界観・人生観)をもともと大切にしているというのであれば、その調和が成就できた時、哲学はその絶望から解放されるのかもしれません。


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