民族が共同体を形成するのではなく共同体が民族を創造する
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民族はいかにして形成されるか。この問いに対する「出エジプト記」の答に曖昧なところはない。歴史的には国家が民族に先行し、民族なるものは国家の鋳型の中で成長してくる。民族という存在は国家による民衆の強制的な訓練や教育の予期せぬ所産である。民衆を「民」として隷属させ国家の成員として訓練することによって、国家は意図せずして彼らに自治能力を発展させる機会を与える。そして彼らが必然的存在として受動的に受け容れてきた国家を自分たちの自由な選択の所産として再創造する政治的に組織された民衆になる時、民族とは、隷属民から--自治能力があるという意味で--「自由な」民に脱皮成長した人々のことである。
ヘブライ人にとってエジプトにおける苦難がそうした訓練の過程であったことは否定できない。かつては遊牧民的な部族社会しか知らなかった彼らは、奴隷としてではあるが、国家の成員になり国家という存在になじんだ。またエジプトで彼らは、国家の秩序は普遍的正義の観念に基づいて成立していることも学んだに違いない。古代エジプト語のマアトは真理、正義、正しい振舞いの作法を同時に意味する言葉だが、ファラオの任務はこのマアトの維持にあるとされていた。
ヘブライ人はエジプトに居留している間に、かつて彼らを結びつけていた族長時代の絆を喪失した。そして決定的に重要なことは、集団として奴隷にされていたことが彼らがそれに代わる新しい社会の絆を創出するための前提条件になったことである。エジプト人の社会に平等主義の要素は全くなかった。彼らの社会はファラオを頂点として政府高官、聖職者、貴族・軍人・書記・職人・農民・奴隷の順列でピラミッド型に構成されており、上位者への服従が社会の掟だった。しかるにヘブライ人は、外国人であるがゆえにこの社会からまとめて排除されたうえ、一様に奴隷にされていた。老若男女を問わず彼らは仲間うちでは奴隷として平等だった。そしてこの民族ぐるみの差別が、彼らが出エジプトをへて民族の成員としての平等という思想に到達するための前提条件となった。ファラオはヘブライ人の出エジプトを容易に許さず、モーセとアロンに誰が出国するのか訊ねる。そしてモーセは「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」(「出エジプト記」、十・九)と答える。約束の地に新しい国を創設する企てには、イスラエルの民全体が等しく深く関わらねばならない。モーセとアロンはこの民の代表にすぎず、権力エリートではない。
神はこのモーセを出エジプトの指導者に選ぶ。なぜモーセなのか。彼はカリスマでも英雄でも賢者でもない常人にすぎない。しかも神の召命にひるみ、吃音で話が下手なことを理由にそれから逃げようとするようなところがある。それでも神が彼に白羽の矢を立てる理由は、赤子の時に王女に救われるという奇遇によって彼がヘブライ人としては例外的にファラオの宮廷の高官になったこと以外にない。彼には国政の担当者としての豊富な経験があり、経歴上国家権力の功罪についても熟知している。そして「出エジプト記」におけるモーセの使命は、一貫して政治家として指導性を発揮することにある。奴隷の同胞たちが国家をしたからみていたのに対し、彼はファラオの高官として国家を上からみていた。彼にとって権力を行使することは、タブーでも神秘でもなかった。この国政術に通じた元権力エリートのモーセと民の協力なしには、すべての成員が神の子として平等であるような「イスラエルの息子たち」の国家を創造することはできない。彼が国家のエリートとして身につけた経験と能力を迫害された同胞のために使おうとしたことが出エジプトを可能にした。それゆえに、ここでも国家が民族形成に先行することが確認できる。
ーー関曠野『民族とは何か』講談社現代新書、2001年、88−90頁。
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国民国家としての民族国家が「国家」という枠組みの世界的な統一規格になってから、まだ200年ぐらいしかたっておりません。
この規格・企画が成功した理由は、政界経済の圧力という必然と、そして、他国の成功事例を模倣した努力の相乗効果にあるのだと思います。
そしてその枠組みの組み方・合わせ方をめぐって殴り合いを続けているのがその後の歩みであり、現状でありましょう。皮肉なことですが、外からの力の圧力によってそれが形成され、そして皮相的な模倣によって無限増殖していく国家なんてものは、しょせん、虚構に過ぎない「想像された共同体」(B.アンダーソン)なわけですが(苦笑、、、
まあ、頑迷な主義者であろうとも(縛、そのことを承知している人間というのは存在しますが、「国家は虚構だとしても、民族そのものは虚構ではない」と譲らない論者というのは多くいるもんです。
生物学的な差異はあるだろうという次第ですが、そのこと自体を全否定するつもりはもちろんありませんけれども、全てがイコールとされるラベルと対象というのはひとつの詐欺でしかないということは、ナチの優生学を引くまでもありません。
しかしその地平を乗りこえたとしても、順序としては、「民族が先、国家が後」ということを否定することははなはだ困難かもしれません。しかし個々人が「○○人」として主体化(言語・身振り・習慣)されていく生−権力論をざぁーっとでも俯瞰すれば、それが臆見というものなんですけどねぇ。
※もちろん差異と集団の枠組みとしてのグループを否定するわけではありませんよ。まあ、それが国家規定による「人種」「○人」とイコールじゃないつうことですよ。
まあ、しかし主体化されるひとびとはたしかに地上に存在するわけですが、やはり「ヒト⇒共同体」という形成図式から逃れることは、前述したとおり難しいのも事実でしょうねえ。
しかし、事態は逆のようかもしれません。
民族が共同体を形成するのではなく共同体が民族を創造するのがその実情なんです。
このホシを外すととんだ番狂わせをとなってしまいますよ。
いやさか、いやさかw
……もとい、
くわばら、くわばらw
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コメント
関曠野先生は、ぜひ再び、脚光を浴びるべき存在ですね。このような形で、取り上げられて、大変うれしいです。
投稿: | 2011年2月16日 (水) 23時29分
はじめまして。
氏家と申します。
ご指摘の点、仰るとおりだと思います。
今は東京を離れているようですね。関先生は覚えてないと思いますが、ちょうどうえの本が出版されたとき、一度お話を伺う機会がありました。
先生の切れ味の良さと発想の柔軟さ、そしてその洞察力……。ほんとうに再び脚光をあびるべき存在だと思います。
投稿: ujikenorio | 2011年2月17日 (木) 01時05分