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日本の知識人が好む表現の一つに〈××の終焉〉というのがある

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 日本の知識人が好む表現の一つに〈××の終焉〉というのがある。昨今はそれが特に著しい。曰く、欧米の思想家の口真似でしかない〈歴史の終焉〉、〈人間の終焉〉、〈自然の終焉〉、そして一九八九年のちゅうごくの天安門事件やベルリンの壁の撤去、東欧・ソ連の政治情勢の激動以来、猫も杓子も口にするのが〈冷戦の終焉〉、〈社会主義の終焉〉、〈マルクス主義の終焉〉ではなかったか。
 第二の世紀末を迎えて二十世紀思想を総括し、二十一世紀への展望を開く試みがなされるのはよいが、ここでもまた〈モダニズムの終焉〉に続く〈ポストモダンの終焉〉が云々される。これはモードの変遷に過ぎない。めまぐるしく移り変わるからこそ流行(モード)なのであって、〈ポストモダン〉から〈ネオモダン〉と呼びかえてみても、せいぜい我が国の七十年代半ばから八十年代後半にいたる表層的カルチャーの解説にしかなるまい。
 それにしても何故私たちは、異なるもろもろの文化や時代における人間の生き方の違いに対しては鋭い感覚をもっても、人間の原本的な特性に対しては奇妙に鈍感なのであろうか。現在問われているのは、資本主義か社会主義か、市場経済か計画経済か、生産中心主義か消費中心主義かなどの顕在的対立の底にある汎時的(=時代と地域を超えた)視点からとらえられる人間像なのである。
 汎時的視点とは、決して複数の相対的個別的文化(欧米、ソ連、中国、日本、第三世界など)から帰納して普遍的絶対を求めるものではない。特定共時文化とその歴史を横断的に、重層的なテクストとして読む営みを通して見えてくるものは、私たち一人一人の個体を深層において支配する原型でもなければ、人間の欲望の同一ルールでもなく、むしろその逆に、〈言葉を話すヒト〉、〈象徴を操り操られる動物〉が生きる世界の質的差異と文化の無根拠性である。
 具体的な手掛りの一つとして〈知と権力〉への垂直的アプローチがあげられよう。王や国家権力の分析にとどまらず知に内在するミクロな権力志向の解明、“政治学”だけでなく私たち誰もがもつ“政治的なるもの”をも明るみに出す必要があるのだ。
 「真理とはそれがなくてはある種の生物が生きていけないかもしれない誤謬である」と言ったのはニーチェであるが、このアフォリズムの力点は、「すべての真理は誤謬」というところにあるのではなく、誤謬であれ何であれ真理なしには「生きられない」というところにおかれている。文化の多様性と無根拠性を知っただけでは安直なペシミズムに陥るばかりである。何故私たちは、それでも神と真理を求め続けるのだろうか。
 歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とはほど遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。
    --丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社現代新書、1990年、10-12頁。

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それを「終わり」とみなし、
そしてそれを「構造」とみなし、
そしてそれを「体系」として受容するのが人間の常であるわけですが、それは「終わり」でもないし、「構造」でも「体系」でもないことが人間の生活世界の常でもあるのだろうと思います。

現実の構造に籠絡されることを退けつつ、それと同時に無意識に潜在する欲動に惑溺するのでもない。極端を排しながら、思考の永続的な円環運動の中に真の創造性を探究する丸山圭三郎先生(1933-1993)の言説は、こーゆう時代だからこそ、再読されてしかるべきなんだろうと思います。

人間が生きるということは、対象を「言分ける」ことに他なりません。
「終わり」となり「構造」となりやがて「体系」と化していく。なぜなら「言分ける」こと自体が欺瞞に他ならないからです。

その欺瞞を認識することは非常に重要でしょう。しかし全否定は、秩序を弛緩させ、その割れ目から生の欲望を充満させてしまう。その場合、「言分ける」欺瞞と同じ欺瞞を再生産させてしまうことになってしまう。

そうではない未知(道)がどこかにあるのか。

丸山先生の思索自体が、その道の探究ではなかったかと思います。

丸山先生は、フランス語教育からキャリアをはじめ、後にソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)の言語学の研究を始め、日本におけるソシュール言語学研究の第一人者として有名ですが、後期・晩年は、ソシュールの紹介というよりも、むしろ「丸山言語哲学」ともいうべき独自の思想を打ち出したことで知られ、一ソシュール研究家というよりも、思索を深める哲学者(哲学紹介者・解説者じゃなくてね)へと進化・深化した先達と評することができましょう。

ひさしぶりに、入門書のような「新書」を紐解いた次第ですが、若い時分にはよく読んだものですが、その内容は今なお色あせることのない輝きを放っているのでは無かろうかと実感。

実体主義を解体することは、恣意的な虚無主義の到来を預言するものではない。
そこからどう転回を試みるのか。ここがポイントになってくるんだろうなア。

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著者:丸山 圭三郎
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