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2011年3月

「レディーメイドの処方箋」と「盲目的なしきたり」を避けながら……

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 ひとたび教育学が、その妥当な範囲をふみこえて、経験にとって代わろうとし、教師が機械的に適用さえすればよいレディーメイドの処方箋を定めようとすれば、それはまったく勝手なでっちあげに堕してしまう。だが他方、経験が教育学的反省をまったく無視した場合には、今度は経験が、盲目的なしきたりに堕すか、あるいは少なくとも充分な知識も体系ももちあわせない反省に引き廻されてしまうことになる。教育学とは、教育実践に供すべく用意されたところの、もっとも体系的にして、かつ、もっとも確実な資料に基づく反省にほかならないのである。
    --エミール・デュルケム(麻生誠・山村健訳)『道徳教育論』講談社学術文庫、2010年、46頁。

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30日は、千葉の短大で新年度の学事説明会があったので、朝早く自宅を立ち、ひさしぶりに遠出をしてきました。

震災後、満員電車を利用するのも初めてでしたが、それ以前・以後とも同じ日常の光景が展開しているわけですが、何か、どこかでひっかかったような、人々の緊張感を感じつつ、3時間近くかけて大学の最寄り駅で下車。

千葉の中央部にありますので、のどかな郊外です。

春の訪れを土の匂いに感じざるをえない時間となりました。
まだ大地は土毛色ですが、もう2-3週間もすると辺り一面は緑の大地になるのでしょう。

人間だけがリキんて空転している……そんなことをそれとなく諭されたような気がします。

さて……
学事説明会は2時間程度で終了。
在学者に福島出身の方が1名いたそうですが、無事とのこと。

4月1日から新学期。

まったくもて行く末が見通せませんが、人間を人間たらしめていく聖業に真剣に取り組んで行こうと緊褌一番して参ろうかと思います。

でわ。


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[東日本大震災の記録]3月30日。

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千葉の短大へ新年度の学事説明会議へ出席。

その折りの数ショット。

1.JR西船橋駅
  節電のため、仄暗い構内。
2.大学のエレベーターは停止。
  節電と計画停電での事故を避けるため。
3.(自宅近所ですが)茶番の都知事選、オオモノ候補のポスターがだいたい揃う。

4.それでもまけず生命を充満させるタンポポの花。

※すべてiPhone3GSでの撮影。

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【覚え書】トルストイ『人生論』:人間の生命は幸福への志向である

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 人間の生命は幸福への志向であり、その志向するものは人間に与えられているのである。死や苦しみという形であらわれる悪が人間に見えるのは、人間が自分の肉体的な動物的生存を自己の生命の法則と思いこむ場合だけである。人間が、人間でありながら、同bつのレベルまで身をおとす時だけ、死と苦しみが見えるのである。死と苦しみは案山子(かかし)のように四方八方から人間をおびえさせ、前にひらかれているただ一つの、理性の法則に従い、愛の中に表現される人間の生命の道にかりたてる。死と苦しみは、人間による生命の法則の侵犯にほかならない。自己の法則に従って生きる人間にとっては、死も存在せず、苦しみも存在しないのである。
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」
 「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」
 「わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」(訳注 「マタイによる福音書」第一一章二八-三〇節)
 人間の生命は幸福への志向である。人間の志向するものは与えられている。死となりえない生命と、悪となりえない幸福がそれである。
    --トルストイ(原卓也訳)『人生論』新潮文庫、平成十年、207-208頁。

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「文明とは人の安楽と品位との進歩をいうなり。またこの人の安楽と品位とを得せしむるものは人の知徳なるが故に、文明とは結局、人の知徳の進歩というて可なり」

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……然らば即ち何事を指して文明と名るや。いわく、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を穣(ゆたか)にして人品を貴くするをいうなり。あるいは身の安楽のみを以て文明といわんか。人生の目的は衣食のみにあらず。もし衣食のみを以て目的とせば、人間はただ蟻の如きのみ、また蜜蜂の如きのみ。これを天の約束というべからず。あるいは心を高尚にするのみを以て文明といわんか。天下の人、皆陋巷にいて水を飲む顔回の如くならん。これを天命というべからず。故に人の心身両ながらその所を得るにあらざれば、文明の名を下すべからざるなり。然り而して、人の安楽には限りあるべからず、人心の品位にもまた極度あるべからず。その安楽といい高尚というものは、正にその進歩する時の有様を指して名けたるものなれば、文明とは人の安楽と品位との進歩をいうなり。またこの人の安楽と品位とを得せしむるものは人の知徳なるが故に、文明とは結局、人の知徳の進歩というて可なり。
    --福澤諭吉(松沢弘陽校注)『文明論之概略』岩波文庫、1995年、60-61頁。

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福澤諭吉(1835-1901)は周知の通り、新しい文明の唱導者、啓蒙思想家として有名であり、その事実を否定することはできません。

そして『福翁自伝』では次のような有名なエピソードもあります。すなわち、少年時代ですが、神社のご神体を見たら目が潰れると言われていたけれども、どうしても見たくなって、ある時、祠を開いて覗いてみたら、それはただの石だった。そして、それから数日経っても何も災難が起こらなかったので、今度はその石を庭石と取り替えてみた……。しかし村の人々はそれからもありがたく拝んでいた……という話です。

この挿話に見られるように、徹底した世俗主義者・合理主義者・反権威主義者であるからこそ、物質文明としての理知を窮めることを第一とし、文明開化を唱導したという福澤像が形成されたといっても過言ではありません。

また福澤自身もそのことを全く否定しておりません。福澤にしてみれば、儒学的徳論はむしろ権威主義を招く陋巷にほかなりません。

しかし、だからといって、では物質一元論的還元主義者だったのかといえば、一慨にそうだと首肯することもできません。

「痩せ我慢の説」や新政府との対応でみられるように、福澤諭吉とは、基本的には、絶妙なバランス感覚の上に自説を展開し、何かに拘泥してしまうことを慎重に退けた人間というのがその真相でしょう。

何かに拘泥してしまうことを「惑溺」と福澤は表現し、そのことを極端に廃したわけですが、そこからまた別の福澤に対する一面的な評価(風見鶏的なそれ)が出てくるわけですが、ここではひとまず置きます。

さて……戻ります。
福澤は旧態依然とした封建主義的徳論を「親の敵」とまで表現して、徹底的に対峙し、西洋文明の導入につとめたわけですが、新しい文明か、それとも旧態依然とした文明の対決かという二極構造を演出し、前者をのみ「正しい」ものとして示して見せたわけではありません。

その消息がうえに示した福澤の文明論の集大成ともいうべき『文明論之概略』に見て取ることができるというものです。

確かに、福澤の見た文明は、人力から蒸気へ、幕府から政府へ、暗記から理学への展開であったわけですが、それが文明の総てではないという眼差しを見て取ることが出来るかと思います。

「いわく、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を穣(ゆたか)にして人品を貴くするをいうなり」。

「文明とは人の安楽と品位との進歩をいうなり。またこの人の安楽と品位とを得せしむるものは人の知徳なるが故に、文明とは結局、人の知徳の進歩というて可なり」。


そして文明というのものをそうした単純に見ていたのは現在の吾々の眼差しであり、二元論的に文明と徳育のようなものを対決させてきたのは現代の吾々かもしれません。

文明とは何か。
たしかにそれはテクノロジーであり、技術であり、電気であったりします。
しかし重要なことは、「そのことが人間にとって何を意味するのか」そのあたりの省察が散逸してしまうと、それは文明とは全く以て似て非なるものになってしまうのかも知れません。


人間の問題と切り離して文明を議論してきたことに問題があったのかも知れませんね。


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「文化 青年に薦めたい 内村鑑三『後世への最大遺物』 鈴木範久」

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青年に薦めたい 内村鑑三『後世への最大遺物』 鈴木範久
失意の其処で読み、希望を胸に再起

日蓮を最初に世界へ紹介
 内村鑑三は、日蓮の人と思想を最初に海外に紹介した人物である。1894年(明治27年)に刊行した英文『代表的日本人』(原題 Japan and the Japanese)のなかだった。
 鑑三は、1861年(万延2年)3月に生まれた。ちょうど本年は生誕150年にあたる。青年時代にアメリカに渡り、帰国後、勤めていた第一高等中学校で「不敬事件」を起こし失職、苦難の生活が始まる。そのなかで『代表的日本人』が著された。そこに描かれている人物は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人である。
 日蓮の部分は、この5人のなかで最後に位置し分量も一番多い。それだけ鑑三の思い入れの強い人物だった。
 日蓮の出家が16歳ならば、鑑三のキリスト教への入信も16歳である。日蓮が宗派への疑問を抱けば、鑑三も教派の存在に対して疑問を持つ。日蓮は鎌倉の仏教、鑑三は東京のキリスト教のあり方に、共に不満を見出す。日蓮は度量なる法難に襲われ、鑑三も信念により職場を追われた。
 鑑三が、日蓮の生涯のなかに人生の先駆を見出し、近代日本の日蓮たらんと志したのも不思議ではない。鑑三は、『代表的日本人』のなかで日蓮の強さのみならず優しさをも描いた。鑑三は、一見いかつい顔をしているが、その優しさのわかる書物を次に述べよう。

勇ましい高尚なる生涯を
 数多い鑑三の著作のなかで、宗教の別も信不信の相違も超えて広く愛読されている書物は、この『代表的日本人』と『後世への最大遺物(いぶつ)』の2冊である。良書はすでに日本の古典になっているといってよい。
 『後世への最大遺物』は、単行本としての刊行こそ1897年(明治30年)であるが、3年前の1894年夏、箱根で行われた講演がもとになっている。
 この点でも『代表的日本人』と『後世への最大遺物』とは、同じ年に生まれた双生児である。
 後者は、この美しい地球に生まれたからには、何も後世に遺(のこ)さずに逝(ゆ)くべきではない。では何を遺すか。教育か、実業か、事業か、文学か、思想か。それらの才能の無い人は何も遺せないのか。しかし、何も才能も無い人にもできる、ただひとつの道がある。それは「勇ましい高尚なる生涯」でえある。こう結ぶ鑑三の話を読んで、どれだけ多くの青年たちが人生の真の意味を見出し、勇気づけられたことか。
 鑑三は、『代表的日本人』のなかで、日蓮を、あいつぐ不慮の災禍と法難に出あいながらも毅然として立ち、人々に新しい教えと希望を示した人物として描く。
 同じように、みずからも、失職、国賊視、妻の死、生活難の渦中にありながら、青年たちに、だれにでも可能な意義ある生き方を語った。

幾多の人々が、座右の書に
 わたしの手元には、『後世への最大遺物』に励まされ、新たな息吹を吹きこまれた青年たちの話が、しだいに集まるようになった。
 大賀一郎、正宗白鳥、西田幾多郎、矢内原忠雄、大塚久雄、森敦、木下順三……。こうした人々が本書に出会って座右の書としたのは、無名の青年時代であり、まさに失意のどん底に喘いでいる最中だった。
 たとえば、腸チフスなどの伝染病に肉親と共に襲われる。やがて肉親を失う。生活難から遺された自分も学校を退学する。そのとき本書に接し、文字通り蘇生し、希望を見出す。同じような境遇の青年たちの話が実に多いのに驚かされた。
 今回、刊行した『近代日本のバイブル』(教文館)は、副題に「内村鑑三の『後世への最大遺物』はどのように読まれてきたか」とあるように、そんな青年たちの記録ともいえる。しかも「バイブル」のように、くりかえし読まれている。
 このなかには、のちの著名人もいるが、不登校の苦しみから、やっと再起したばかりの青年たちも含まれている。
 現代の青年にも、ぜひ薦めたい一書である。(立教大学名誉教授)
 すずき・のりひさ 1935年、愛知県生まれ。専門は宗教学、宗教史学。近著に『信教の自由の事件史』『中勘助せんせ』、訳書に『代表的日本人』など。
    --「文化 青年に薦めたい 内村鑑三『後世への最大遺物』 鈴木範久」、『聖教新聞』2011年3月27日(日)付。

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学問の師匠の文章がありましたので、【覚え書】として紹介しておきます。

以下は関連エントリ。


「いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは」……
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b612.html

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後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)Book後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)


著者:内村 鑑三

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近代日本のバイブル―内村鑑三の『後世への最大遺物』はどのように読まれてきたかBook近代日本のバイブル―内村鑑三の『後世への最大遺物』はどのように読まれてきたか


著者:鈴木 範久

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我々は後世に何を遺してゆけるのか―内村鑑三『後世への最大遺物』の話 (学術叢書)Book我々は後世に何を遺してゆけるのか―内村鑑三『後世への最大遺物』の話 (学術叢書)


著者:鈴木 範久

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たえず実現を約束しながらけっして実現することのないような、不可能な理想というものは存在しない

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 人間がほとんど品物のように見なされ、土地に所属して土地財産の一部を構成し、土地とともにに売り買いされている国において、財産にたいする、偶像崇拝的な観念がすこぶるわずかしか発達していないことは一見すると奇妙なことに思われるかもしれない。わが国では所有権は頑強に擁護される。しかし、権利としてではなく、獲得としてである。かかる権利の有効性と正当性とにたいする確信をうえつけることは困難であった。かかる権利の不合理なることは、農民を所有している地主にとっても、おのれの所有地の所有者であない農奴にとっても、ともに明らかなことであった。ひとは地主の権利の起源がかなり不明確なものであることを知っている。ひとは多くの勝手な方策、警察的な方策が農耕的ロシヤをすこしずつ貴族的ロシヤの権力に隷属せしめてきたことをよく知っている。それゆえに農耕的ロシヤを解放すべき別の手段を考えることは可能であった。
 はっきりと定められた法律的概念の欠如そのもの、もろもろの権利の不明確性が一層所有権の思想の確立をさまたげ、それが一定の形をとることをゆるさなかったのである。ロシヤの国民は共同体の生活だけを知っていた。彼らは共同体との関係においてのみおのれの権利と義務とを理解していた。共同体のそとには彼らの義務をみとめず、ただ暴力のみを見る。彼らがそれに服従するのはただ力に服従しているだけである。彼らは立法の一部があきらかに構成を欠いているのを見て、その他の部分をもさげすむようになった。裁判における完全な不平等が法律にたいする国民の尊敬の念をその芽生えのうちにつみとってしまった。ロシヤ人は、それがいかなる階級の者であっても、罰せられるおそれさえなければ、必ず法律を破る。政府もまたこれと全くおなじことをしている。これは現在にとってはつらく悲しいことである。しかし、未来のためには、それはすこぶる大きな長所となる。
 ロシヤにおいては目に見える状態のうしろに、現存秩序の神化であり変形にほかならぬような、目に見えない状態というようなものは存在しない。たえず実現を約束しながらけっして実現することのないような、不可能な理想というものは存在しない。最高権力がわれわれのまわりにはりめぐらしているところの柵のうしろには何ものも存在していない。ロシヤにおける革命の可能性は帰するところ物質的な力についての問題である。まさにこのことが、さきにのべた諸原因のほかに、わが国を社会的なよみがえりのための最良の地盤たらしめている。
    --ゲルツェン(金子幸彦訳)『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫、1974年、211-213頁。

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これはひょっとするとロシアだけの話ではないかもしれんなア。
最近、疲れとストレスで安息がとれません。
覚え書のような素描ですいません(涙

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疑う余地のない命題に対して反論しようとする者には、「馬鹿げている」と言うだけでよいだろう。つまり答えるのではなく、正気づけてやるのだ(四九五)。

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われわれは地球が丸いということに満足している(二九九)。
    --ウィトゲンシュタイン(黒田亘訳)「確実性の問題」、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店、1975年、76頁。

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政府と東電の発表しかソースが基本的にないから、その数値がどうなのか自分で調べないといけないという二度手間がかるのが今回の問題の特徴。

そして発表される「言語技術」が稚拙極まりないため、「なにがどうなのか」要領がつかめない。

だから、とりあえずこちらで勘案しながら、紐解いていかなければならないという二重の面倒くささ。

だから「地球が丸いということ」の「満足」へなかなか到達することができない。

そしてもうひとつ問題なのが、イデオロギスト達のデマ合戦。
反原発でも推進派でも何でもよいのだが、問題は現在の原子炉をどのように冷却していくのかということが焦眉の課題であるのに、その後の議論で泥の投げ合い。

おそらくゆるやかな縮小・脱原発へとは転換せざるをえないでしょうが……まさに子供の喧嘩。

そして、その合間を縫って出てくるのが、拝外主義的レイシストたちの暴言。
これまたソースなし。

指摘してもそのことがなかなか理解してくれない議論が多くそのときには、次のように言うしかない。


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疑う余地のない命題に対して反論しようとする者には、「馬鹿げている」と言うだけでよいだろう。つまり答えるのではなく、正気づけてやるのだ(四九五)。
    --ウィトゲンシュタイン(黒田亘訳)「確実性の問題」、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店、1975年、124頁。

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本来、エネルギーを注ぐべき問題にエネルギーを注ぐことができないのが、この事件の実態だ。

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だから「想定しない」ものは全部「想定外」。

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 21世紀型ファシズムの始まり
 菅氏の行動原理を間近で見てきた菅伸子氏はこう述べる。
 <菅はロジックのあるものが好きで、読む小説も、歴史小説がほとんど。ですから、菅を「情」で説得してもダメ。理屈で説得されるほうが納得する人です。でも、一般的に女は情でなければ口説けません。だから、女性にはもてないと思います。私も、似ているところがあるので、ロマンチックな美辞麗句では頷かなかったかもしれませんね。>(菅伸子『あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの』76頁)
 ここで言う菅氏のロジックは、アリストテレスが定式化した同一律、矛盾律、排中律を核とする形式論理だ。目に見えない世界の論理である形而上学、人間の心情の論理である無意識の心理に菅氏は関心をももたない。関心をもたないというよりも、「目に見えないもの」があるということがわからないのである。
 この点では、菅伸子氏の方がより徹底している。
 <私の母は、菅直人ともよく似ていて、合理主義者です。二人の結婚に反対なので、それを阻止するために、「私が菅直人よりも条件のいい男を見つけてくれば、あなた、文句はないでしょう」と言って、次から次へとお見合いの話を持ってきました。
 あれはすごかった。そこで、私はそれに対抗する説得材料を作るために、点数表を作りました。容姿とか、学歴とか、職業とか、将来性とかを点数にして、それで、合計点で菅直人よりもいい男がいたら、しょうがない、その人と結婚するしかないかなあ、と。>(前掲書54頁)
 点数表を作って合理主義を結婚にまで適用しているのであるから、菅伸子氏は筋金入りの情勢論者である。人間を数値化し、それで評価するという発想がキリスト教の人間観と根本から対立する。
 これまで見てきたことから、菅氏は合理性によって最小不幸社会を実現することが可能と考えている。菅氏は、機械的モデルで国家や社会を操作可能と見ている。菅氏にとって官僚は道具である。ナイフを用いた殺人が起きた場合、ナイフを除去するという対処は正しくない。殺人にナイフを使うような人間を排除することが重要だ。まっとうな人間がナイフを用いるならば、リンゴの皮をむいたり、肉を切ったりと有益な目的のために用いることが出来る。官僚も道具である。自民党政権が道具である官僚を誤った目的のために用いていた。自分は正しい目的のために官僚を使うことができるので、権力を掌握した後、道具である官僚と対立する必要はないという結論が、菅氏の政治哲学から導き出される。思想史の系譜で見た場合、菅氏の発想が戦前、陸軍(当時、影響力が最も強かった官僚集団)と連携した左翼政党・社会大衆党と親和的だと私は考えている。菅氏の下で21世紀の日本ファシズムが育まれるかもしれない。もちろん、ファシズムという看板を掲げないファシズムである。そして、それは菅氏一人の問題にとどまらず、現下日本の政治エリート共通の問題なのである。この危険から抜け出すために、一方において、現在の社会の構造を冷徹に、存在論的に分析し、他方において、目に見えるこの社会を支える背後にある「見えない世界」を感知する力を取り戻さなくてはならないのである。いまここで新約聖書を読む意味は、まさにこの焦眉の課題を解決するためなのだ。
    --佐藤優「非キリスト教徒にとっての聖書--私の聖書論I」、『新約聖書I 新共同訳 解説・佐藤優』文春新書、2010年、351-353頁。

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昨夜のツィートのまとめで恐縮ですが残しておきます。

一元的還元主義の世界観の問題は、どの事象へ還元するかという問題はあるけど、付随する負荷が多すぎるものです。

このへんのイデオロギー分析は、(あまり好きではないけど)佐藤優氏(1960-)の『新約聖書I 新共同訳・解説』(文春文庫)の末尾の「非キリスト教徒にとっての聖書--私の聖書論I」が秀逸です。

理念先行は確かに悲劇を招いたけれど、理念のない情勢論も不幸を招いてしまうということ。

結局情勢に籠絡されてしまうということです。


僕は点数主義を否定しないけど、ゆとり教育は批判します。
だけど、同一律・矛盾律・排中律を核とする形式論理(点数主義)「外」をみとめない合理主義にはNo!

返す刀で斬りつけたいのは「外」のみを見つめる眼差し、江原某的「目に見えない」が代表ですが、これも同根。

いずれにしても形式論理から排除された世界を想定しない限り、世界は正しく理解できないと思う。そしてその逆も然り。

ここが落とし穴。
そして、その逆もまた然りなり。

だから「想定しない」ものは全部「想定外」。
世界を限定した枠内でしか認識・議論できないorzになってしまう。

ついでにいえば、江原某は、存在しない世界を演出しているだけというorz

サン=テグジュペリ(ntoine-Jean-Baptiste-Marie-Roger de Saint-Exupéry,1900-1944)のいう「みえないもの」はその両岸にないところに存在するのだろうねえ。

くどいようですが、菅首相をdisろうというのが主眼ではありませんし、すでにdisりすぎられておりますから、ぼくが新しいことをやる必要もないのですが、再度感じるのは、理念論と情勢論の対立関係からそれを有機的な相即関係に転換していかない限り、問題はどこまでも二律背反的に推移してしまう。

そら恐ろしや。


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新約聖書 1 (文春新書 774)Book新約聖書 1 (文春新書 774)


著者:佐藤優・解説

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英雄の誕生ほど、自由と平等を疎外するものはほかにない。

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 フランスの監獄から逃げ出すことは非常にむずかしい。しかるに一囚人が、一八八四年か一八八五年かに、あるフランスの監獄から逃げ出した。非常線が張られて、それに近所の百姓どもまでが捜索に出たが、その囚人はうまく一日蔭れていた。そして翌朝は、小さな村のすぐ傍の、溝の中に蔭れていた。たぶん何かの食物と着物を盗んで、自分の着ている囚衣を脱ぎ棄てるつもりでいたのだ。こうして溝の中に蔭れている間に、村に火事が起こった。焔の中に包まれている一軒の家から女が走り出て来た。そして焼けている家の最上階にいる一人の子供を救ってくれと言って、死者狂いになって叫んでいる。誰も救いに行くものがない。囚人はその蔭れ家から出た。そして火の中に飛び込んで、自分の顔は焼けただれ着物は燃えながらも、無事な子供を抱いて来てその母に渡した。勿論、この囚人は、すぐに、その場に居合わした村の巡査に捕って、監獄へ引かれて行った。この事実はフランスのあらゆる新聞に掲載された。しかしこの囚人の放免を要求した新聞は一つもなかった。もしこの囚人が、他の囚人に殺されようとする看守を助けたのであったら、すぐにも英雄にされたに違いないのだ。しかし彼の行為はただ人情から出たことに過ぎなかった。国家的理想を進めもしない。彼自身もまた、それをもって、神の恵みで授かった天来の霊感だとは言わなかった。これだけのことでこの男は世間から忘れられてしまうのに十分なのだ。それで彼は、「国家の財産」すなわち囚衣を盗んだということで、たぶんその刑期を六ヵ月か十二ヵ月か増された。
    --ピョートル=クロポトキン(大杉栄訳、現代訳・同時代社編集部)『相互扶助論』同時代社、1996年、295-296頁。

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情勢論が優位な精神風土だけれども、情勢論にひっぱられてすぎると道を誤ることがおおいのも事実。

こういう時期だからこそ、きちんとしたロジックを守りながら、存在論を示していかなければならない。

英雄の誕生ほど、自由と平等を疎外するものはほかにない。

英雄とは、被支配者が従順に服従するようにと支配装置が捏造するものだからだ。

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[東日本大震災の記録]3月23日。

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[東日本大震災の記録]3月23日。

23日、東京都水道局は23日、金町浄水場(葛飾区)から乳児の飲用に適さない濃度の放射性ヨウ素が検出されたことを受け、水道水を乳児の飲用や調乳に使用しないようにと発表。

それを受けて、「水」完売。

商業施設のネオンサインなどは節電モード。

23日夜半からの雨は20時過ぎに雪になった。


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【覚え書】従来の思考と行動のカテゴリーやパターンに全くあてはまらないような社会の変貌


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 高度に発達した豊かな西洋の福祉国家においては、今や二つの問題が生じている。すなわち一方では、「日々のパン」をめぐる争いで、それは他のすべての問題を隅に追いやるほどの重要性と緊急度はない(二十世紀前半あるいは飢餓に脅かされている第三世界との比較で言えばそれほどではない)。多くの人間にとって飢餓の代わりに登場したのが、もう一つの「飽食」にかかわる「諸問題」である(「新たな貧困」の問題については第三章四参照)。このため近代化の過程は、今まで貧困との闘いを正当化していた基盤を失った。つまり、かつては貧困が明白であれば、貧困と闘う場合にどのように多くの予期せぬ副作用が生じても、それを(すべてではないとしても)甘んじて受けたのである。
 これと並行して、もう一つの問題として、富の源泉が、増大する「副作用の危険」によって「けがされて」いるという認識が広がってきた。この認識は決して新しいものではない。貧困を克服しようと努力していたため長いこと気づかれなかっただけである。この陰の面はさらに、生産力の過度の発展により重大性を帯びてきた。そして近代化の過程により、人間の想像力をも超えるほどの破壊力が生じるようになった。以上の二つの問題を背景として、大衆による近代化批判が高まり、厳しさを増してきた。
 体系的に言えばこうである。社会が発達すると遅かれ早かれ、近代化過程の延長という形で、「富を分配する」社会の状況とそこで争いに加えて、新たに「危険を分配する」社会の状況とそこでの争いが発生する。西ドイツでは、--これが私の命題(テーゼ)であるのであるが--遅くとも七〇年代の初めから、このような移行がはじまった。その意味するところは、われわれの社会が当面する課題とそこでの争いが二重になっているということである。われわれは危険社会にまだ生きてはいない。だが、もはや貧困社会の分配闘争だけに身をおいているのでもない。この移行が完遂されたあとに実際に来るものは、従来の思考と行動のカテゴリーやパターンに全くあてはまらないような社会の変貌である。
    ウルリッヒ・ベック(東廉・伊藤美登里訳)『危険社会 新しい近代化への道』法政大学出版局、1998年。

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社会紛争の焦点が富の分配からリスクの分配へと変化しつつある現状を説得的に論じたベック(Ulrich Beck,1944-)の一冊。

久しぶりに読み直しておりますが、「従来の思考と行動のカテゴリーやパターンに全くあてはまらない」事態が進行していることだけは深く理解できる今日・このごろ。

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【覚え書】フィヒテ:生、愛、浄福が端的に同一のものであること

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 生即ち浄福である、と私は云つた。それ以外ではあり得ない。何となれば、生は愛であり、生の形式と力とは愛の中に存し、愛より発生するからである。--かく云ふことによつて私は認識の最高の命題の一つを陳べたのである。但し此の命題は、眞に懸命に集中された注意を以てすれば直ちに明らかになるであらうと思ふ。愛は、それ自身に於ては死せる存在を分ち、存在を存在の前に置くことによつて、いはば二重の存在となし、かくしてそれを、自己自身を観、自己自身を知る自我又は自己となすのである。此の自我の中に総ての生の根元が存する。更に愛は、此の分たれた自我を内的に合一し、結合する。自我は、愛なくしては、ただ冷ややかに、無関心に自己自身を観るに過ぎないであらう。此の一によつても、かの二は仕様せられず永遠に残るものであるが、此の二に於ける一こそ生である。此のことは、課せられた概念を鋭く思考し、結合する人には直ちに明かになるに相違ない。さて又、愛は自己自身に対する満足でえある、自己自身に対する喜びである、自己自身の享受である、従つて又浄福である。かくの如くにしで、生、愛、浄福が端的に同一のものであることは明らかである。
    --フィヒテ(高橋亘訳)『浄福なる生への指教』岩波文庫、1938年、15-16頁。

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権力が保証する幸福の利益のために権力を意欲する人間たち

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 七二一 〔三四〇〕(524-25)
 権力への無能力。この無能力がよそおう偽善と聡明さが、服従(隷属、義務の矜持、道義心・・・)にほかならない。恭順、献身、愛(代償や間接的な自己の引き立てとしての命令者の理想化、神格化)にほかならない。宿命論、諦念にほかならない。「客観性」にほかならない。自虐(ストア主義、禁欲、「無私」、「聖化」)にほかならない。批判、ペシミズム、悲憤、憂悶にほかならない。「美しき魂」、「徳」、「自己神格化」、「隠遁」、「この世の汚れからの逃避」その他にほかならない(--権力への無能力の洞察が軽蔑としておのれを変装している)。なんらかの権力をなんとか行使しようとの、ないしは、おのれ自身が権力をもっているとかりに見せかけようとの欲求が、いたるところにあらわれている--陶酔として。
 権力が保証する幸福の利益のために権力を意欲する人間たち、すなわち、政治的党派。
 幸福や福祉には不利であり、それを犠牲にすることが見えすいているにもかかわらず権力を意欲する他の人間たち、すなわち野心家。
 さもなければ、おのれが依存したくない他人の手にその権力がにぎられるという、たんにそれだけの理由から権力を意欲する他の人間たち。
    --ニーチェ(原祐訳)『権力への意志 下 ニーチェ全集3』ちくま学芸文庫、1993年、244頁。

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どうやらこの國の権力エリートというものは、官民とわず、ひとりひとりの人間を虫けら同然に考えていることがはっきりした。

そしてそれをマス・メディアが補完していくという件。

なんたるちあだ。

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[雑感]つねに生きつつ、つねに死につつ

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    おお、つねに生きつつ、つねに死につつ
おお、つねに生きつつ、つねに死につつ、
おお、過去と現在のわたしの埋葬、
おお、現身(うつしみ)のまま、目に見える姿で、今も変わらず傲慢不遜で、大股で進んでいくわたしの、
おお、今は死んだわたし、かつて何年もわたしであったものの埋葬、(嘆くものか、いとも満足)、
おお、わたしの残したその骸(むくろ)からわたし自身を解き放ち、投げ棄てたその場所をふり返っては眺めんがため、
そしてそのまま進みつづけて、(おお、生きつつ、つねに生きつつ)、骸たちを背後に残していくために。
    --ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)『ホイットマン詩集 草の葉(下)』岩波文庫、1975年、175頁。

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東京で暮らしておりますが、震災の影響で大分、ストレスが溜まってきてなかなか仕事が思うように捗りませんが、それでもひとつ考え直さなきゃいけないのは、生とか死との概念を日々更新していかない限り、人間はその立ち位置というものから切り離されてしまうのではないだろうか……などとフト思う次第です。

すこし、ホイットマン(Walter Whitman,1819-1892)でも読みつつ、自分で自分を励ましながら、今日をまた新しく生きていこうかと思います。

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[東日本大震災の記録]3月19日。

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東日本大震災の記録。

灯油売り切れ。
ガソリンをもとめてガソリンスタンドまで渋滞。

3月19日。


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「誰かが自分を正しく幸福にしてくれるのではないのです。自分で自分と闘い、自分を少しでもよくしていくしかないのです」。

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今の世の中はどこかおかしいと、誰もが感じています。政治家もおかしい。経営者もおかしい。役人もおかしい。子供たちもおかしい。どこをどう改革するべきか議論も盛んです。それはそれで大いに必要でしょう。
 しかし、社会といっても結局は一人一人の人間ならば、その人間を生み育てるのは母親です。どんな偉い人も、母親のお腹から出てくるのです。一人の心をどう育んであげるか。機構や制度以前に、その「一人」に焦点を当てなければ手遅れになる時代が来ています。
 女子高生や女子中学生までもが、援助交際という聞こえのいい売春行為を平然としています。罪の意識もなく、お金のためなら手段を選ばないということに、恐ろしさを感じます。テレビで彼女たちが「お金がほしい私たちと、若い女の子と遊びたいオヤジがいるんだからいいじゃない」と話しているのを聞き、本当に悲しい気持ちになりました。
 同じインタビューで、彼女たちから「オヤジ」と呼ばれていた男性は、「今の政治家なんかもっと悪いことを平気でしている。それに比べれば自分がしていることはかわいいもんだ。アイツらが変わらない限り、今の日本はダメだ」などと、もっともらしいことを喋っていました。
 今の日本は、ある意味で指導者の質が変わらなければならないことは否定できませんが、やはり自分で自分をどう変えるかを忘れてはいけないと思います。誰かが自分を正しく幸福にしてくれるのではないのです。自分で自分と闘い、自分を少しでもよくしていくしかないのです。
 遠回りなように思えますが、結局、一人の人間が、自分で自分を変える闘争を開始しないと何も変わらないのだと痛感します。そして、人間は闘争すれば変われるのだということを、自分も闘いながら、人に伝えていかないといけないのです。
 彩花が生まれていなかったら、もともとエゴの強い私は、とてもいやな人間になっていたと思っています。彩花に教えられ、ハッと気づかされ、自分で自分を軌道修正したことがどれほどあったでしょう。
 子供を産んだところで、親である私たちが人間というものの質において、どれほどわが子にまさっているといえるでしょうか。
 そうであるならば、親自身が、自分で自分の歪みと闘い続ける姿勢を見せていくことこそ、最高の教育だと思うのです。
 平凡な人間であったとしても、世の中に歪みに無関心にならず、世の中を歪みと闘おうという意志を子供に見せ続けることが大切だと思うのです。
 大人たち、なかんずく、私たちの母親の責任は重大です。
    --山下京子『彩花へ 「生きる力」をありがとう』河出文庫、2002年、142-144頁。

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今、もういちど、『彩花へ 「生きる力」をありがとう』を読み直しております。

1997年の「神戸連続児童殺傷事件」の被害者のお母様が事件後、その心境を綴った一冊です。

天災も人災も「いやおうなく」襲ってくるものであることは理解しております。
だから、それをどのように受容していくか、そこが大切になってくる……だから読み直した次第です。

しかし、それが一種の諦念になってしまうと、防ぐ手だてを講じないままにもなってしまうというものです。

だからこそ、現実を正面から受容しつつも、何から手を付けていくべきなのか考えることが必要なんです。

正直なところ、日本政府は機能していないし、政治家ども馬脚がチラホラ見え始めておりますし、まさに「アイツらが変わらない限り、今の日本はダメだ」というのはごもっともであります。

しかし「アイツらが変わらない限り、今の日本はダメだ」という判断を下すまえに、「一人の人間が、自分で自分を変える闘争を開始しないと何も変わらない」というのも事実です。

よくいわれますが、人間は自分自身を見つめ直すことがもっとも苦手な生き物だそうです。

たしかに、自分自身のorzなところを直視することは疲れますし、嫌なものです。

しかし、ときどきそれを点検しながら、「自分で自分の歪みと闘い続ける」ことは必要不可欠でしょう。

確かに「アイツらが変わらない限り、今の日本はダメだ」というのはごもっともです。
そのことは徹底的に追及し、変革への烽火を挙げていくべきです。

しかし、それと同時に、「一人の人間が、自分で自分を変える闘争を開始しないと何も変わらない」のも事実です。

自分が変革できずして、相手を変革できるわけがないじゃないですか。

だからこそ、僕はいまこそ「人間は闘争すれば変われるのだということを、自分も闘いながら、人に伝えていかないといけない」と思う。

他人事として論評する時代はもはや終わった。

さあ、なすべきことに着手しよう。

「誰かが自分を正しく幸福にしてくれるのではないのです。自分で自分と闘い、自分を少しでもよくしていくしかないのです」。

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学者はしばしば常識を軽蔑する。しかし実践的常識がすでに無反省的に心得ているこの矛盾の関係を、学問は果たして充分に解いているであろうか。

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 そこで我々は、わかり切った日常の事実として、我々が常に何らかの資格において動いていること、その資格は何らかの全体的なるものに規定せられていること、しかもその全体的なるものは一定の資格における我々が作り出すところの間柄であること、などを確定することができる。簡単に言えば、我々は日常的に間柄的存在においてあるのである。しかもこの間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉せられている。一方は間柄が個々の人々の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄が先立ってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄自身からその成員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先立ってそれを規定する間柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。しかもその矛盾する関係が常識として認められているのである。
 我々はかくのごとき矛盾的統一としての「間柄」を捕らえてそこから出発する。かかる間柄は人間関係以外の諸関係、すなわち対象と対象との間の関係や項と項との間の関係として考えられるものとは、根本的に区別されねばならぬ。それは間柄であるがしかもその成員に否定的に対立するものである。かかる間柄の構造が後節の分析において徐々に明らかにされるであろう。
 学者はしばしば常識を軽蔑する。しかし実践的常識がすでに無反省的に心得ているこの矛盾の関係を、学問は果たして充分に解いているであろうか。否、学問は永い間この矛盾に気づかずにさえいたのではなかろうか。でなければ矛盾律に基づく論理を人間存在に適用しようなどと考えるはずはなかったのである。十九世紀以来発達した社会学はちょうどこの間柄的存在を取り扱うように見えるが、しかしそこで個人と社会の関係は果たして実践的常識が心得ている以上のところまで追究せられたであろうか。我々は遺憾ながらしかりと答えることができないのである。社会学が個人の問題を離れて「社会」をのみ取り扱い得るかのごとくふるまうところにすでに右のごとき矛盾関係からの回避がある。社会存在の論理がさらに新しく反省されなくてはならないゆえんもそこに存する。しかし社会的存在の仕方は実は「論理」ではなくして「倫理」なのである。我々はその出発点を右のごとき相依関係において認める。
    --和辻哲郎『倫理学(一)』岩波文庫、2007年、87-90頁。

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なさけない話だが、情況がどういう形で進行しているのか全く分からない。

だから、冷静になる必要が歴然として存在する。

特に信用ならないのが、テレビでけんけん諤々の議論をしたり、何かを隠したり、何かを誇張している「ような」学者たち。

めんどくさいから自分で調べることにしはじめた。

現実と学問を、「倫理」と「学問」を接合させることができるのはひとりひとりの自分でしかない。

だからテレビを消して自分で調べている。

しかし、あれからおよそ一週間。

正直疲れも出てきましたね。

さて、これからもう一仕事して、情況を確認しながら漸進していこうと思う。

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[東日本大震災の記録]私は自分の感覚の門を決して閉ざすまい

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 そうだ、私は自分の感覚の門を決して閉ざすまい。見たり聞いたり触れたりする歓喜はあなたの歓喜を伝えるであろう。
 そうだ、私の幻想はみな燃えて歓喜の照明となって輝き、私の欲求はみな熟して愛の果実となるであろう。
    --渡辺照宏訳『タゴール詩集』岩波文庫、1977年、289頁。

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東日本大震災の記録。
都下は輪番による計画停電が実施中。

3月17日19:30頃、都下。ISO3200で撮影。
空が真昼のようですが、自動車や自転車のライト以外真っ暗。

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卒業式中止のなか卒業される皆様へ

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卒業される皆様へ

卒業式の中止には驚いております。

言葉が出ないのが正直なところですが、言葉は人間を生かすものでもあれば人間を殺すものでもあります。

決して「中止」という「言葉」に圧倒されないで欲しい。
それよりも「中止」という言葉から人間を「生かす」きっかけを創っていきたいと思います。

だけど、、、

悲しい人は悲しいから泣いてください。
涙を流す人は涙を流してください。
空元気をはって突っ張る必要はありません。

、、、それは向き合った事実ですから。


それでいいのです。

しかし、それで終わらせないで生きていくことができるのも人間という生き物なんです。
そのことだけは失念しないようにしましょう。

人間を生かす言葉を立ち上げていきませんか。

その言葉を紡ぎ出すことで今までの自分から「卒業する」。

確かに「式典」をすることが今やるべき事なのかはどうかの判断は僕には分かりません。安全性やライフラインの問題を勘案すると東京の一極に大勢の人が集まるべきではないのかもしれません。

卒業式は確かに行うことができません。

そう「中止」となりました。

だけど「中止」できない「今やらなければならないこと」は歴然として存在します。

寝ることもそうだし、ご飯をいただくこともそうだし、洗濯することもそのひとつです。
災害への支援もあれば、節電もそうだし、仕事や課題にとりくむこともそうでしょう。

それは人によって違います。

しかし大切なことは、「悲しみ」に惑溺しない、ふりまわされないことです。
そして日常生活と人間世界から離れていかないことなんです。

だからこそ、離脱することもできない不可避の日常生活を一緒に丁寧に生きていくことから始めましょう。

泣いたひと、涙をながしたひと、そして我慢したひと。
少し時間がたってから空を見上げてください。

今日も月は照り、星が煌々と輝いております。
朝になれば陽がのぼり、夕方になれば沈みます。

月や星、そして太陽も毎日「営み」を続けております。

僕たちも僕たち自身の営みを「新しく」続けていきましょう。
その決意と祈りと実践が僕たちの「卒業式」です。

そして式典のない卒業式を経験できるのも今回の卒業式だけです。
誰も真似できません。

ひとりひとりが唯一の卒業式を迎える卒業式です。

丁寧に生きていきましょう。


詩聖タゴールは次のように謳っております。

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 あなたの贈り物は私たち人間のすべての必要を満足させてくれ、しかもそっくり其の儘あなたのもとに戻って行く。
 河は日々の仕事をしなければならず、野や村を横切って急ぎ去り、しかもその絶えせぬ流れはあなたの足を洗いに戻って行く。
 花はその香りで空気を薫らせるが、しかもその終局の勤めは、あなたに身を捧げることである。あなたを礼拝して世界は貧しくはならない。
 詩人の言葉のうちから、人人は自分の気に入る意味を受けとるが、しかも、その言葉の終局の意味はあなたに向けられている。
    --タゴール(渡辺照宏訳)『タゴール詩集 ギーターンジャリ』岩波文庫、1977年、289-290頁。

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行動に意味を与えるのは、僕たちひとりひとりなんです。

道は自然には創られません。

荒野に自分たちの道を創っていきましょう。

荒野から卒業し、世界に意味を与えていくのが僕たちの卒業式。

以上。

呑んでいて感傷的に書いてしまってすいませぬ。


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見つつ畏れよ

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 人を恐怖させるのではなく、畏怖させるようなものを、どこに探し求めたらよいのか。この問いは簡単に片付くとは考えられない。それが人間の内心の事柄にかかわっているからで、今日では内面世界の事柄は多くの人々にとってすでに飽きのきた、改めてかかわりあうのも煩わしい問題になってしまっている。畏怖すべきものに対応するのは「見る」ではなく「観る」視力だけであり、この視力は人間に時として過酷な強制や制約を要求する。「畏れる」と「観る」は連続しつつ重なり合ってゆかなければならない。それは苦痛であり、ありていえば、そこに現代人の恐怖があろう。しかしそうであるならば「見つつ畏れる」ことは「見つつ更に観る」とほとんど同義になってしまう。いやそれならば「見つつ畏れる」とは、結局のところただの一語「観る」ことに帰着するにちがいない。現代人が失ってしまったものを精神態度の問題としていえばただそれだけであり、古代ギリシア人の言葉でいえば「テオリア」が失われてしまったのである。
 しかし私は、「観る」能力の頽落に関して、それを過度にモラルに結びつけたり、いたずらに嘆息したりする姿勢には、さして意義を認めない。元来、ものを「見る」ことは、人間が視線となって己の外に飛び出してゆき、外部で「もの」と出会いをとげることであって、それ自体はじめから冒険を含み、人間をいわば拡散させるような性格を秘めていると思うからだ。むしろ視覚が人間を拡散させるからこそ、人間は視覚によって己を拡充し、すべての精神活動に踏みこむことができたというべきなのだ。それを人間の矛盾と感ずるところに視覚そのものの純粋化や強化がはじまり、「もの」は「神」になりもしたのである。
    高橋英夫「見つつ畏れよ」、『神を見る 神話論集1』ちくま学芸文庫、2002年、109-110頁。

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この数日の光景を見続けることにする。

絶対に忘れない。

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「国民が教養を積む内面的な営みをつづけること」を拒否し続けると「輝ける悲惨」もぼろっと出てしまう。

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 ルソーは文明よりも未開の状態が望ましいと語ったが、われわれ人類がこれから登りつめようとしている最後の段階を見逃すならば、これはそれほど間違っていたわけではない。われわれは芸術と科学の力のおかげで高度の文化を所有している。あらゆる種類の社交の礼儀と典雅さにかけては、複雑なほどに文明化されている。しかしわれわれが道徳化されているかどうかを考えてみれば、まだ欠けているところは大きい。というのは、道徳性の理念は本来は文化に属するものであるが、われわれはこの理念を名誉欲や外的な上品さというみかけだけの道徳の意味だけで使っているのであり、これでは道徳性はまだ文明に属するにすぎないのである。
 しかし国家が、虚栄心のもとで権力の拡張の意図を推進することに全力を傾け、みずからの思想を内側から育む国民のゆっくりとした営みを妨げようとするならば、そしてこうした営みへのあらゆる支援を拒むならば、国民の思想の形成は期待できないのである。すべての公共体では長い時間をかけて、国民が教養を積む内面的な営みをつづけることが必要だからである。道徳的な善をめざす気持ちに結びつかない善はすべてまったくの偽善であり、輝ける悲惨にほかならない。これまで説明してきた方法で、混沌とした国家のありかたから脱出するまでは、人類はこのような状態にとどまざるをえないだろう。
    --カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、54−55頁。

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被災地での献身的な努力。
そして非被災地からの祈りにも似た応援。

そしてそれとは裏腹にヒステリックかつパニック的な買い占め行為。

日本人は礼儀正しく事態に対応しているという評価があり、これを否定することもできませんが、エートスとしてそう馴化されている反面、集団パニックは起こさないものの、集団ヒステリー的な「善」と錯覚した我利我利行動を発動してしまうのかもしれません。

非常事態のときに人間性が試される。

ぽろっ出てくる悪意に少し悩まされた1日です。

GMSでも仕事をしているのですが、連日、売り場はカラッポ。

「なんでものがないんじゃ」
「おまえら後方に隠しているんだろう」

……てか、アリエナイし。

道徳性の理念を個々人が「名誉欲や外的な上品さというみかけだけの道徳の意味」で使ってしまった場合はそれは意味のないものだし、「民は愚かに保て」とばかりに「長い時間をかけて、国民が教養を積む内面的な営みをつづけること」を拒否し続けた領域国民国家の本朝ですから、「輝ける悲惨」もぼろっと出てしまう。

この地震をきっかけに、もういちど、「人間とは何か」を考え直さなきゃいけない。

疲れたorzorzorz


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必要なのは、それがそれとして機能するように注文・監視していくことなのではないだろうか。

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 ところでまったく強制だけによる権力といったものはない。どんなときでも、同意というものがたいせつである。交差点で警官が白い棒を挙げたとする。この場合、車の列を止めたのは、なんだろうか。あきらかに、警官の物理的な力ではない。それならばある必然性、つまり交通は規制されなくてはならないという必然性、それいついてのなにか漠然とした判断からなのだろうか。行為者がみな哲学者なら、そんなことにもなろう。けれどもこんな問題を反省・熟慮したあげく、警官の制止に従ったという人たちが、いったいどのくらいいるだろうか。そうではなくて、かれらは力はいちばんないけれども、いちばん権威をもった者に本能的に従った。それだけのことである。
 権力のイメージというのは、みんなこんなものだと言ってよい。人はときとして、専制君主のことを考える。そしてかれは散弾で人民からの畏敬を保ち、あるいは銃で嚇して、人びとを仕事から引裂いているかのように想像する。これは結局、考えかたの都合であって、さらに言うと、精神の簡素化にすぎない。実際、散弾なんて、そう対して役に立つものではない。これが本当に働くような場合は、たまにしかない。しかもこれで大衆に仕事が強制できるかというと、それも疑わしい。なるほどたくさんの人間は、これで殺すことができる。が、計算にとって必要なのは、散弾そのものではない。むしろ散弾についての理念である。もっと言うと、人を支配するさい、散弾を利用するところの理念である。これ以上、言うことはないだろう。わたくしは、すべて権力の問題では、理念が力に勝ると考えたい。そうでないと、権力は散弾を繰る人たちのものとなってしまう。つまりかれらに命令する士官には属さない。いわんやこれらの士官に命令する人、さらにはいわゆる素手の人には属さないことになるからだ。
    --ロジェ・カイヨワ(内藤莞爾訳)『聖なるものの社会学』ちくま学芸文庫、2000年、80-81頁。

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権力が権力として機能していないorz
メディアがメディアとして機能してないorz

注文は必要だけど、足をひっぱるのはよそう。

必要なのは、それがそれとして機能するように注文・監視していくことなのではないだろうか。

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「呪術は、人が事物にも人間にも命令できる、ひとつの観念」ですけども・・・

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 接触もなく、媒介者もいなくて、いろいろな結果を生みだす可能性が、もし呪術だとすれば、あらゆる権力は、現に生きている呪術だと言ってよいだろう。そこでは事物は、すっかりまたたちまち柔軟なものになってしまう。ところで事物そのものは、別に従順とかそうでないとかいったシロモノではない。だからこれを動かすには、やはり力が必要となる。またこの力をどこに適用するかが問題となる。巫者の呪禁にしても、なにかきまった操作が加わらないと、その効目が現われない。ところで人間は、事物よりも柔軟な存在なので、かれらの多くは、言葉や合図で手に入れることができる。これほど簡単なものはない。が、とにかく呪術は、人が事物にも人間にも命令できる、ひとつの観念だといってよいだろう。
    --ロジェ・カイヨワ(内藤莞爾訳)『聖なるものの社会学』ちくま学芸文庫、2000年、79頁。

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国家が巫者であり、その拡散者がメディアであることは、現代社会の仕組みにおいて否定できない事実です。そのことに賛成しようとも反対しようとも。

しかし、巫者が巫者の役割を放棄し、メディアが巫者を自認してしまっているのがこの数日の出来事かもしれません。

しかし、ひとりひとりの人間は、巫者や拡散者が想定しているよりも、たやすく操作される存在でもありません。

ただし、ふりまわすことはいい加減にやめてほしい。
何が必要で、何が不必要なのか。その感覚を取り戻すために、人間を人間として眼差すしかない。

その原点に立ち返って欲しいと切に願う。

人間は数字や物量でカウントして、OKとする発想は、決して人間を幸福にすることはない。

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すごいのは日本人というマスではなく、状況と向かいあう一人一人の人間だ

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昨夜、少しツィートした内容で恐縮ですが、やっぱり大事だと思うので、ブログの方にものこしておきます。

自然災害は、まさに「天災」ですから防ぎようがありません。

だから、この大地のひとびとは、その情況をうけとめ、ほかのひとと手を取り合いながら、前へ進もうと努力しております。そのことは被災地の方も同じですし、被災されなかった地域の方も同じです。

だから、災害に乗じた混乱もパニックも極めて少なく、人間が他の人間のためにと手をさしのべる姿は確かに美しい。

そしてそれが日本でリアルタイムに推移している。

しかし、そのことを「だから日本人はすごい」という言説に等値するのはやめよう。

すごいのは日本人というマスではなく、状況と向かいあう一人一人の人間だからだ。

ひとりひとりの人間こそ英雄なのです。

だから現在進行形で推移している善の営みをちっぽけな「日本」という枠組みに排他的・独占的に還元しないようにしたいと思う。

他の誰にも・抽象的な集合としての固有名詞にも還元されない代換え不可能なひとりひとりの人間がすごいんです。

そのために手を結ぼう。

そして祈ろう。

できることをしよう。

状況よりも考え方を優先させた偉そうなもの言いですいませんでしたが、ぼくはそう思う。以上。


因みに今日はホワイトデーですね。

全国の男性諸氏へ

こんなときだから言いますが、物でなくいいですから、少し愛と真心といたわりの心を増量した言葉を大切な人に捧げて下さい。

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うわさの渦中の友人には、問いただせ。

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うわさの渦中の友人には、問いただせ。彼は何もしていなかったのかもしれない。何かしていても二度とはしなくなるだろう。
うわさの渦中の隣人には、問いただせ。彼は何も言わなかったのかもしれない。何か言っていても、二度とは言わないだろう。
うわさの渦中の友人には、問いただせ。しばしば中傷にすぎないから。うわさは一切信じるな。うっかり口を滑らせることもある。舌先で罪を犯さない者がいるだろうか。
うわさの渦中の隣人を脅さず、問いただせ。その後は、いと高き律法に任せよ。
    --『シラ書』19・13-17。

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土曜日の地震に関して、インターネット上では、その手軽さや速報性がフルに活用され、被災地の状況や避難所の様子など多くの有益な情報が交わされましたが、その一方で、は、根拠のないデマもあり、情報の正確さについて考えさせられることが多い1日でした。

今日だけでも数件以上のチェーンメールがまわってき、例えば、地震のあとに起きた千葉県の石油コンビナートで起きた火災について、「有害物質の雨が降るので、傘やレインコートを使用しましょう」というのもそのひとつ。

石油会社では「タンクに貯蔵されていたのはLPガスで、燃焼により発生した大気が人体へ及ぼす影響は非常に少ない」として、「情報は事実ではない」と否定しているようですが、おおもとの発信者は、こうしたときだからこそ、人間を愚弄するような内容は控えて欲しいと思う。

企業や自治体、政府がたしかに今は公にできないこともあるけれど、そうした情報と摺り合わせながら、冷静に。

即座に「やべぇ~」となってしまうのが一番怖いんです。

こういう時期だからこそ、冷静に対応したいものです。

大正期の関東大震災の人間狩りを再現したくはありませんから。

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辛抱が大切ですが、希望を失わず、対処していきましょう。

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 三月十一日
 生活を(肉体的生活をも)、十分健康で力強いものにしたければ、生活に喜びがなくてはならない。だから、なんらかの正しい喜びを持つようにしなさい。けれども、あなたが賢明であるなら、永続的な、つねに得られる喜びを、決して不正でない、つまり、自責や後悔を伴わない喜びを、求めなさい。世間一般の喜びの多くは、とかくこのような感情をまぬかれないものである。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠れぬ夜のために 第一部』岩波文庫、1973年、96頁。

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2011年3月11日。
「じしん……」posted at 14:48:43
http://twitter.com/#!/ujikenorio/status/46085119609544704

「自身で部屋がorzな件」posted at 14:53:27
http://twitter.com/#!/ujikenorio/status/46086313002287104

被災者の皆様にはご冥福と、1日も早い日常生活への復帰を心よりお祈り申し上げます。

自宅で、市井の職場へ出かけるまで仕事をしていたのですが、

「きたな」

……って感じで、東京に住んでいると、

「いつものことだろう」

……ってスルーするところだったのですが、強く・長い。

妻子と一緒に外へ逃げました。

まだ余震が続き、津波もうち寄せてきてる情況です。

冷静沈着。
整然。
慎重。
周到な準備。

辛抱が大切ですが、希望を失わず、対処していきましょう。

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眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)Book眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)


著者:ヒルティ

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寛容こそ、人々をその住地に定着させ、各々の職分において多くのことを達成せしめるために必要な条件である

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 寛容こそ、人々をその住地に定着させ、各々の職分において多くのことを達成せしめるために必要な条件である。宗教的迫害行為に赴き易い教条主義や不寛容主義は、国家をしてその住民を根絶させ、貧困ならしめ、かつ無秩序の状態を現出せしめるにいたるであろう。
    --丹後杏一『ハプスブルク帝国の近代化とヨーゼフ主義』多賀出版、1997年。

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政治の季節になってくると、お互いがお互いに対して嫌がらせ合戦をして、それを論争と勘違いしてしまう輩が多くでてくるのが本朝の民主主義受容の実態ではないでしょうか。

そんな事をしてる間は、世の中は絶対に良くならないし、だれのためにもならないはずなのですが……。

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何らかの弁明の理由がありうるとしても、奴隷制が、奴隷や社会にとっての不利益を十分に上回る利益を奴隷所有者にもたらすということは、決して奴隷制についての弁明の理由ではありえない

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 奴隷制の一定の黙認が正当化されているか、あるいは多分それよりはましであろうが、その弁明の理由があるという状態を検討してみるならば、これらの状態がかなり特殊な種類のものであることがわかる。おそらく、奴隷制は過去から受け継いだものとして存在しており、それを徐々に取りこわしてゆくことが必要であることもわかるであろう。時には、奴隷制が、以前の制度よりも一歩前進したものと考えられることもあろう。さて、特殊な状況の下での奴隷制については、何らかの弁明の理由がありうるとしても、奴隷制が、奴隷や社会にとっての不利益を十分に上回る利益を奴隷所有者にもたらすということは、決して奴隷制についての弁明の理由ではありえないのである。このような仕方で論じる人は、おそらく途方もなく的はずれな議論をしているわけではないが、道徳的な誤りをおかしているのである。道徳的諸原理の序列についての彼の考え方には混乱がある。というのは、奴隷所有者は、彼自身の認めるところによっても、奴隷所有者として彼が受けとる利益については、いかなる道徳上の権利ももっていないのである。奴隷と奴隷所有者の双方の各々の地位の基礎を成している原理を、奴隷が承認する用意がないのと同様に、奴隷所有者も、それを承認する用意はないのである。奴隷制は、彼らが相互に承認しあうことのできる諸原理と合致しないのであるから、彼らは各々、奴隷制が不正義であるということに同意すると想定されるであろう。奴隷制は、承認すべきでない要求を承認し、そうすることによって、拒否すべきでない要求を拒否するのである。それ故、自分達の共同の実践の形態を論じている一般的状態にある人々の間では、ある実践が、これらのまさに拒否されるべき要求を容認しつつ、それにもかかわらず、それが現存の諸利害に一層効率的に適合しているということは、その実践を支持する理由としては提示されることができないのである。それらの要求の充足は、まさに要求の性質からして、重要性をもたないものであり、利益と不利益のどのような一覧表の作成にあたっても記入することのできないものである。
 さらに、道徳の概念から、奴隷所有者が、奴隷に対する自分の地位は不正義であると認めるかぎりにおいて、奴隷所有者は自分の要求を押しつけることを選ばないであろう、ということが導き出される。奴隷所有者が自分の特別の利益を受けとることを欲しないということは、彼が奴隷制を不正義であると考えていることを示す方法の一つである。それ故、彼らのために実践が設計されており、実践の利益が彼らのところへ流れてゆく、そのような人々が、その利益に対していかなる道徳上の権利をももたないことを認め、その利益を受けとることを欲しないならば、その場合、ある実践のもたらす不利益よりも利益の方が大きいということが、その実践をもつことの一つの根拠である、と立法者が考えるのは誤りであろう。
 これらの理由により、正義の諸原理は特別の重みをもっている。そして、欲求の最大限の充足という原理との関連では、自分達の共同の実践の理非を論じる人々の間の一般的状態において引き合いに出したように、正義の諸原理が絶対的な重みをもっている。この意味において、正義の諸原理は偶然的なものではない。これは、正義の諸原理を実際に満たしている実践については、功利主義的な意味での効率という一般的仮定(それが存在すると仮定して)によって説明することのできる説得力よりも、正義の諸原理の説得力の方が大きいという理由によるのである。
    --J・ロールズ(田中成明訳)「公正としての正義」、田中成明編訳『公正としての正義』木鐸社、1979年、61-63頁。

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「不正義」であるのは奴隷制だけじゃないでしょうねえ。

奴隷制以外のその他もろもろの考え方のなかにも、「不正義」であるにもかかわらず一定の「弁明の理由」があるから「正義」とはいわないまでも「不正義」ではないとするマヤカシの議論で本朝は充満しているようですね。

がっくしorz


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公正としての正義Book公正としての正義


著者:ジョン・ロールズ

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正義論Book正義論


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[覚え書]セネカの徳をめぐる議論

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 それゆえ、真の幸福は徳のなかに存している。この徳は君に何を勧めるであろうか。それは第一に、徳にも悪徳にも関係のないものを善とも悪とも考えてはならない、ということである。次に、悪に対抗するためにも善に従うためにも確固として立ち、それによってでき得るかぎり神を真似ることに努める、ということである。このような努力に対しては、徳は君に何を約束するであろうか。それは広大な、神の力にも等しいものである。君は何ものにも強制されず、何ものをも不足せず、自由であり、完全に守られており、傷も受けないであろう。何を試みても失敗することはなく、妨げられることもないであろう。万事が君の考えどおりに運び、何一つ反対なことは起こらず、期待や意志に反することも何一つ起こらないであろう。「では、どうか。幸福に生活するためには、徳だけで十分であろうか。」徳が完全で神のごときものであれば、それだけで、どうして十分でないだろうか。いな、むしろ十分過ぎるほどではないか。すべての者たちの欲望の圏外にある者が、一体何に不足するというのか。自分の一切を自分自身の内部に集中した者が、外部に何を必要とするか。しかし現に徳に達しようと努めている者にとっては、たとえすでに相当の進歩を遂げているとしても、今なお人間の諸問題で奮闘中ならば、そのような束縛、つまり浮世の鎖をことごとく解きほぐすまでは、或る程度は運命の支配も当然である。だから何の相違があろうか--或る者はがんじがらめにしばられているが、他の者は手足を一緒に、あるいは別々にしばられているといっても。すでに上位に進んで、自分を一段と向上させている者は、引きずっている鎖も緩んで、まだ自由の身ではないとしても、すでに自由の目前に迫っている。
    --セネカ(茂手木元蔵訳)「幸福な人生について」、『人生の短さについて 他二篇』岩波文庫、1980年、149-151頁。


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「徳にも悪徳にも関係のないものを善とも悪とも考えてはならない」という冒頭の一説が沁みる。

何にも関係しないものは善でも悪でもない。

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セネカ入門―セネカと私Bookセネカ入門―セネカと私

著者:茂手木 元蔵
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理想主義と現実主義という二つの思考軸の交差する空間に定位し展開するということ

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まず吉野の思想は、理想主義と現実主義という二つの思考軸の交差する空間に定位し展開していたと考えることができるかと思う。前者、理想主義の思考軸によって位置づけられるものとしては、何よりも彼が情熱をこめて説いた人間性についての信頼、たとえば「吾人は人類を信ずる。適当の機会に置けば其性能の限りなく発展してやまざることを信ずる」(「無用の干渉」一九二四年五月、『公人の常識』三二-三三頁)という彼の信念などはそれであろう。この信念は、根底において彼のキリスト教信仰に支えられるものであったが、彼の生涯を通じて変わることのなかった言論の自由、思想の自由、良心の自由など人間の内的領域の自由を擁護するための多彩な主張を可能にした。それは、米騒動についての報道をめぐる大阪朝日事件(白虹事件)、森戸事件、治安維持法批判などに代表されるが、そこではたとえ思想的立場を異にする場合でも、内面的自由に対する権力の介入についてきびしく対決する姿勢をつらぬいたのであった。
 また彼の理想主義的立場は、維新いらい朝野を問わず日本を支配してきた富国強兵的価値観を排して、個人の人格の進歩向上、あるいは文化的価値の創造を究極の価値尺度とする人格主義・文化主義の哲学として彼の思想の一つの特質を形づくった。それは、国家の自己目的化と国家への無条件的服従を当然のこととして求めるそれまでの国民道徳観念の転換を意味する点で注目すべきものがあった。
    --松本三之介『吉野作造』東京大学出版会、2008年、343-344頁。

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ところで他方、現実主義的思考にかかわるものとしては、何よりもその師小野塚から受け継いだ実証的な政治学が挙げられよう。国家についての法的・形式的な組織を主要な考察の対象とする政治学に代えて、国家の現実の動態を社会的な視点から考察する方法を目指した小野塚の政治学は、そのまま吉野の現実政治を捉える視座を形づくった。「私の立論の基礎はつねに政治の実際に即して漸次的改革を策する態度にある」(「統帥権問題の正体」一九三〇年六月)という彼の言葉はそれを示している。主権の法的主体の問題を避けて、もっぱら主権の実際的運用を問題とした吉野の民本主義に代表される立憲政治論は、まさしく「政治の実際」に即した彼の現実主義的所産であった。
    --松本三之介『吉野作造』東京大学出版会、2008年、345頁。

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何度も書いているかもしれませんが、だいたい、世の中に一番多いパターンというのが、理想主義のみに惑溺するパターンと、現実主義を嘯くパターンというふたつの両極ではないかと思います。

前者は連合赤軍事件を、後者はヘルメットを被った学生さんが就活に入るや否や、運動から「卒業」する事例に眼をやれば、その落とし穴を見て取ることが可能です。

本当に必要なのは何かといえば、その両方なのですが、ひとはときとしてどちらか一方に重点を置いてしまう生き物なのかもしれません。

その両者をたくみに生き方に転換したのが、吉野作造(1877-1933)の歩みではないかと思います。

さて……。
吉野において理想と現実を交差させるひとつの翠点は何かと問うた場合、それは「ひとにたよらない」という生き方ではなかったかと思います。

もちろん、協力を要請したり、連合したり、さまざまな知恵はぎりぎりまで絞って奮闘いたします。しかしながら、「あのひとにたのんでおけば大丈夫」「組織の力にまかせておけばOK」という精神でものごとにあたらなかったことが、その生涯からみてとることができます。

先に「ひとにたよらない」と表現しましたが、これは「だれかを宛にしない」生き方といってよいでしょう。

もちろん自分一人できないことも存在します。

しかし、吉野作造はぎりぎりまで自分で挑戦し続けた……そこにキリスト教神学研究者としての自分もキリスト者・吉野に惚れ込んでいるのかもしれません。

さて……。
本日は細君の誕生日ですから、(贈答品は用意しましたが今日届かないので(涙))、、、花ぐらいは準備しました。

できることはきちんとやっていく……これは大切かもしれません。

思っているだけではだめなんですよ。

形にしないとね(ニヤリ


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近代日本の思想家〈11〉吉野作造 (近代日本の思想家 11)Book近代日本の思想家〈11〉吉野作造 (近代日本の思想家 11)


著者:松本 三之介

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現実から遊離するな、生と一体化せよ、生に責任を感ぜよ

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 不運なことに、このヨーロッパの民主主義思想はドイツにおいてはあまり強い政治的力を持つにいたらず、権力は決してこれと結びつこうとはしませんでした。むしろ、他の諸国の場合とは異なって、この理念は歴史的にはドイツの無力とほとんど同義になっていきました。「行動において貧しく、思想において豊かな」と、ヘルダーリーンは、古く、敬虔な、精神的な、そして無力なドイツを呼びました。そしてこの言い方には愛情のこもった響きがあり、同意と肯定の響きがあります。しかし、精神と権力、思想と行動の間のドイツ的乖離、文化の高さと政治の惨めさの間の矛盾も悩みの種でありました。ヘルダーリーンよりは地に足が着いた天性の持主だったゲーテはこの悩みをはっきりと口にしましたし、時おりドイツ人の性格の世間知らずな理論癖を呪いました。一八二九年に、ゲーテはエッカーマンにこう言っています。「ドイツ人が哲学の問題の解決に苦しんでいる間に、豊かな実際的分別を備えたイギリス人はわれわれを笑いとばして、世界を手中に収めている。」
 さて、率直に申し上げて、私はこの言葉は好きではないと断言いたします。第一に、イギリスは、当時の貧困で精神的非実際的なドイツを決して笑いとばしたりはしませんでした。逆にイギリスはドイツに対して深い敬意と賛嘆の気持ちを抱いておりました。このことは、ワイマルを巡礼のごとく訪れた多くのイギリス人たちが老ゲーテに対して示すこともあったはずです。第二に、イギリスをただ実際的な世間知だけに限定して、イギリスと東インド会社とを等値するのは正しくありません。なぜなら、イギリスは世界に最も偉大な劇作家、多数の重要な思想家や著作家、それに精妙な抒情詩を送り出したからであります。それに、ゲーテが二つの国民を対置した言葉からは、ドイツは選ばれた精神の民族であるとでもいったような意味の、かすかな国民的思い上がりすら聞き取れます。しかし第三に、そしてこれが最大の問題点ですが、このゲーテの言葉には、イギリスに倣って世界の獲得に向けて方針を切り替えるようにという、ドイツ人に対するある種の励ましたが--つまり、競り合うような嫉妬心をけしかける調子が含まれています。この嫉妬心は、やがてドイツ史において非常に不幸な役割を演じたのでありました。
 以上、ゲーテの言葉に異論を唱えたわけでありますが、この言葉は教育的な気持ちこめて語られた言葉であり、事実また教育的価値に欠けておりません。なぜなら、ゲーテが「実際的分別」を賞讃しているのは、精神と思考とに対して警告し、現実から遊離するな、生と一体化せよ、生に責任を感ぜよと言っているのに等しいからであります。これが狙いとしているのは民主主義的プラグマティズムであり、これこそ事実ドイツにおいて常に欠如していたもの、「生」が最高の価値としてディオニュソス的に大いに讃美された時にすらあまりにも欠如していたものであり、ドイツ最大の詩人が精神の尊大さに対抗してこの民主主義的プラグマティズムの肩を持ったのは、今引用した折りにふれての発言の時ばかりではありません。
    --トーマス・マン(青木順三訳)「ゲーテと民主主義」、『講演集 ドイツとドイツ人 他五篇』岩波文庫、1990年、157-159頁。

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作家のトーマス・マン(Paul Thomas Mann,1877-1955)は、第二次世界大戦後の1949年5月、イギリスのオックスフォード大学から名誉博士号を授与されたのですが、その機会に、ゲーテ生誕二百年を記念しつつ行われた講演が「ゲーテと民主主義」という一篇です。

「偉大さが常に非民主主義的肥大化の傾向を示すドイツ」においてその潮流に屹立として立ち向かった人間ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)の足跡を辿りながら、民主主義の文脈で読み直していくという、マンのひとつの試みとなっております。

ゲーテそのものは貴族主義的な傾向が十分に存在しますが、そこに議論が引きずられすぎるとゲーテを誤読してしまうことになります。

ゲーテは、ドイツ的ロマン主義的死の礼賛には強く抵抗して常に「生を肯定」し、生と親しい関係にあったこと……そのことをマンは強調しております。

「詩人と哲学者の国」と表現されることの多いドイツですが、第二次世界大戦の惨劇を産み出したのもドイツ。

ナチス経験から故国を追われたマンにとってその引き裂かれた状況というのは決して他人事ではなかったことだと思います。

壮大な物語と死を美化するロマン主義的うぬぼれから眼をさまし、「実際的分別」を十全に働かせながら、「生に責任」を感じていくことからしか、他者への責任、自己への責任、そしていきているこの大地への責任というものは導かれないのかもしれません。

まあ、このことはドイツから遠く離れた日本においても決して「他人事」では済まされない問題ではあるわけですけどネ。

なんだか最近は、真面目に「生に責任」を感じて、ものごとに取り組んでいく姿勢に冷や水をかけたり、考えなければならないことを考えようとするとその行為を阻害するような騒音のようなもので巷はあふれかえっているようですが、喧噪に飲み込まれることなく、「精神と思考とに対して警告し、現実から遊離するな、生と一体化せよ、生に責任を感ぜよ」と自ら励ましていくほかありません。


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Bookドイツとドイツ人 (Daigakusyorin‐B〓cherei (Nr.779))


著者:加藤 真二,Thomas Mann

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創造と伝統を水と油のような相反する概念と捉えてしまうことが問題なのだ。

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 歴史は二重の創造であるということ、初め作られたものが更に作られるところに歴史があるということは、歴史の本来の主体が個人でなくて社会であるということを意味している。個人もまた社会から歴史的に作られたものである。歴史は社会が自己形成的に形を変化してゆく過程である。人間は社会から作られたものであって、しかも独立なものとしてつくられ、かくてみずから作ってゆくのであるが、人間のこの作用は社会の自己形成的創造の一分子として創造することにほかならぬ。従って人間に置いては自己の作るものが同時に自己にとって作られるものの意味を有している。そこに歴史というものがある。自己の作るものが自己にとって作られるものであることは特に伝統というものにおいて明瞭である。それだから伝統を我々にとって単に与えられたもののように考えるという誤解も起り得る。伝統は我々の作るものであり、それが同時に我々にとって作られるものの意味を有している。いわゆる伝統主義者は人間の独立的活動を否定することによって伝統と単なる遺物を区別することさえ忘れている。人間の独立性を否定することは社会の創造性を否定することである。社会の創造性は社会から作られる人間が独立名ものとしてみずから作るところに認められねばならぬ。独立な人間と人間とは物を作ることにおいて結び附く。我の作ったものは我から独立になり、我を超えたものとして我と汝とを結び附ける。我々の作るものが超越的な意味を有するところに人間の創造性が認められる。かようにして作られたものは元来社会的なものである。我が作ることは社会が作ることに我が参加しているにほかならないのであるから。人間と人間とは作られたものにおいて結び附くのみでなく、むしろ根本的には作ることにおいて結び附くのである。我が作ることは実は社会の自己形成の一分子としての作用にほかならないのであるから。
 伝統は社会における人間の行為が習慣的になることによって作られる。行為が習慣的になることがなければ伝統はつくられないのでああろう。しかるに習慣的になるということは自然的になるということであり、習慣的になることによってイデー的なものは自然の中に沈むのである。かくして伝統は次第に身体の中に沈んでゆき、外に伝統を認めない場合においても我々は既に伝統的である。伝統は伝統的になることによって愈々深く社会的身体の中に沈んでゆく。我々の身体はその中に伝統が沈んでいるところの歴史的身体の一分身である。伝統は客観的に形として存在すると共に主体的に社会的身体として存在する。伝統は元来超越的であると同時に内在的である。のである。身体のうちに沈んだ伝統はただ我々の創造を通じてのみ、新しい形の形成においてのみ、復活することができる。創造が伝統を生かし得る唯一の道である。
    三木清「伝統論」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年、28-30頁。

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創造と伝統を水と油のような相反する概念と捉えてしまうことが問題なのだ。


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僕は池波正太郎のファンですと自己紹介して、私に名刺をくれた。ファンというより池波キョウかなと

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 行きつけの酒場でひとりで飲んでいたら、となりの客が話しかけてきた。もちろん、酒場ではこういうことはべつに珍しくない。はじめて会った客同士が意気投合し、肩を組まんばかりにして、つぎの酒場へと出かけてゆく光景もときどき見かける。逆に先刻まで仲よく話あっていたのが、口ぎたなく罵りあい、つかみあいの喧嘩をしていることもある。
 その夜、私に声をかけてきた、まだ三十代はじめのひょろひょろした内気そうな青年はひとりでオン・ザ・ロックスを飲んでいた。彼とはおたがいに顔も職業も知っていたが、それまで言葉をかわしたことはなかった。酒場で顔を合わせれば、目で挨拶してきたにすぎない。それに、いつもおたがいに誰かといっしょだったから、カウンターにとなりあわせにすわっても、口をきく機会がなかった。
 彼もひとり、私もひとり、ほかに客がカウンターのすみにいるだけだったからだろう。青年は親しげに、僕は池波正太郎のファンですと自己紹介して、私に名刺をくれた。ファンというより池波キョウかなと彼が言ったのをおぼえている。キョウは「狂」でもあり「教」でもあります、と彼はひとりで笑った。釣られて、私も笑いだした。
    --常盤新平「解説」、池波正太郎『剣客商売3 陽炎の男』新潮文庫、昭和六十一年、302頁。

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せっかくの休日だったにもかかわらず、爆睡してしまい、気が付くと昼過ぎ。

夕方まで少し仕事は片づけましたが、生産性のひくい1日になってしまったのが最大の恥辱です。

ただ、考えても仕方ありませんので、明日からまた仕切直すしかありませんね(苦笑

そーいうときは私淑する池波正太郎先生(1923-1990)の作品でも読みながら、ゆっくりと過ごすことがベストです。

ちなみにわたしも「池波キョウ」の一人ですから。

でわ。

酒を飲みながら……。


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陽炎の男 (新潮文庫―剣客商売)Book陽炎の男 (新潮文庫―剣客商売)


著者:池波 正太郎

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餓死目前の人々に、あなたは実は仏そのものだと説くことが、果たしてどれほど意味のあることなのだろうか……。

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 天台宗をはじめとする伝統仏教の色濃い影響を残しながらも、日蓮が『立正安国論』において独自の世界を切り開くことができた原因はどこにあったのだろうか。
 『立正安国論』執筆に先立つこと七年の一二五三年(建長五年)、日蓮はいわゆる「立教開宗」を行って、激しい念仏批判を開始した。彼は留学帰りのエリート学僧としての平穏な生活と決別し、あえてみずからの信念に身を委ねた。『立正安国論』の提出も、その生命すら危機にさらしかねない行為であることは、日蓮自身よく承知していたはずである。にもかかわらず、日蓮はわざわざ火中の栗を拾うような行動に出たのであろうか。
 『立正安国論』は、正嘉年間に東日本を襲った飢饉がもたらした凄惨な状況から説き起こされている。一二五七年(正嘉元)から、大地震に襲われた東日本では寒冷な気候が続き、それに長雨と嵐が加わった。飢餓によって体力を失った人々を、今度は疫病が襲った。街道と市街のいたるところに行き倒れの死体が散乱し、その周囲を餓死寸前の人々が徘徊していた。
 日蓮が比叡山で学んだ天台の教えでは、あらゆる人々がその本質において仏であり、この世界を離れては浄土もありえないと説かれていた。煩悩にまとわれた凡夫はふだんはそのことに気づいていないが、自分が仏であることを覚醒した瞬間、周囲も即座に永遠の浄土と化すのである。
 しかし、現状はといえば、地面に倒れ伏して死を待つだけの無数の老若男女がいるだけだった。これらの人々は、何の罪あってこうした目に遭わなければならないのであろうか。餓死目前の人々に、あなたは実は仏そのものだと説くことが、果たしてどれほど意味のあることなのだろうか……。
 真の意味での仏教者としての日蓮は、この惨状を直視することからスタートを切ったといってよい。日蓮は周囲で繰り広げられる地獄の光景に深く心を痛めると同時に、その原因を作った者たちに対して、激しい怒りの念が沸き起こってくるのを禁じえなかった。日蓮の憤りは第一に、問題を引き起こした張本人でありながら、現実に背を向けた人々に彼岸への亡命を勧める念仏者に向けられた。次いで、安国実現の使命を忘れて悪法を尊ぶ権力者が批判の槍玉にあげられた。日蓮の怒りはまた、衆生救済の精神をどこかに置き去りにしたまま、空虚な教学を弄ぶ既成仏教の僧侶たちにも及んだ。日蓮は、それまでの人生で得た地位のすべてをなげうつ結果となっても、彼らと正面から対決する道を選んだ。
 かつて権門寺院から異端として排撃され続けてきた専修念仏も、日蓮の時代にはすでに旧仏教との和解を実現し、幕府権力と結び付いて体制仏教化していた。それゆえ、鎌倉幕府に対する日蓮の『立正安国論』提出という行動は、同時代の政治的・宗教的権威に対して、ともに挑戦状を突き付けたことを意味した。激しい反発は当然予想された。しかし、日蓮は身命を惜しまず信念を貫く実践こそが、仏から授けられた聖なる使命であると確信していたのである。
    --佐藤弘夫『日蓮「立正安国論」全訳注』講談社学術文庫、2008年、47-49頁。

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教理が先に立つと人間から離れてしまう。
論理が先に立つと人間から離れてしまう。

そして逆に人間生活世界に惑溺してしまうとずるずるべったりとなってしまう。

極端を排しながら、人間生活世界のなかで、人間のなかで、教理と論理を確認しながら進むしかない。

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日蓮「立正安国論」全訳注  (講談社学術文庫 1880) Book 日蓮「立正安国論」全訳注 (講談社学術文庫 1880)

著者:佐藤 弘夫
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「日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします」ってか???

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  ザビエルは日本人が合理的な話を喜ぶことについて語っている。

 日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話は全く切りがありません。彼らは地球が円いことを知らず、また、太陽と星の動きについても何も知りませんでした。ですから彼らが私たちに質問し、私たちが水星や稲妻や雨の原因について説明すると、彼らは私たちの話に夢中になって楽しそうに聞き入り、私たちをたいへん偉い学者だと思って心から尊敬しました。私たちはすぐれた知識を持っていると思われたために、彼らの心に教えの種をまく道を開くことができました。
    --ピーター・ミルワード(松本たま訳)『ザビエルの見た日本』講談社学術文庫、1998年、89頁。

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いつからこのようになってしまったのだろう……と、缶珈琲BOSSのCMでおなじみの宇宙人ジョーンズが「この惑星の住民は……」という雰囲気で「この国の住民は……」“いつからこのようになってしまったのだろう”とぼやきたい昨今です。

恨みと意趣返しのスケープゴート叩きを“祭”と崇めて、自分のふがいなさをスルーするルサンチマン根性に「この国の住民は……」いつからなってしまったのでしょうかねぇ。

まあ、そのひとつは通俗的ですが、やはり徳川政権の宗教を利用した精神支配のくびきということになるでしょうが……もちろん、それにすべてを「還元」しようとは思いませんが……、統一政権誕生以前の庶民の暮らしぶりというもののレポートを読んでいると、自由で闊達、知的好奇心旺盛なひとびとというのがたくさんいたということが見て取れます。

ちょうどザビエル(Francisco de Xavier,1506-1552)の滞在日記を抄録した本を読んでいたのですが、当時の庶民たちは、僧侶という特定階層がorz……要するに実は頭が悪いけれども悪徳の限りを尽くすことでは誰の追従も及ばないという件……だったというこは極めて理解しており、それと同時に、だから自分たちで探求していかなければならない……という精神であふれていたことが見て取れます。

まあ、それが前述したとおりの切支丹摘発「管理・官吏」としての地位の安定とその見返りとしての寺請制度によって大きく転換させられてしまうんだよなあっーて考えざるをえませんよね。

くどいけど、それだけが原因ではないんですけどね、「自分で考えない」人間を量産する体制の病根は大きいですね。

しかも労農派と講座派のマルクス主義者たちが「日本資本主義論争」において、明治維新をどのように評価するかとけんけん諤々の論争をしたけれども、彼らは正鵠を得ていない。

なにしろ、維新後に必要なのは、社会主義革命(労農派)でも民主主義革命(講座派)でもありませんよ。

そもそも、明治維新そのものが革命でも転回でもなくなんでもなく、支配者と装置の入れ替えにしかすぎませんし、「民は愚かに保て」という認識では同一線上でしょうw

ぐだぐだ考察するよりも、自分自身がそうした知的風土に拘束されている上で@スピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)、足跡をのこしていく他ないんだが……、

まあ、いずれにしても、1603年の江戸幕府成立以降現代にいたるまでの知的精神文化はまったくかわっていないよ、ホント。

辟易とするね。

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俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している

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 生命は幸福に対する志向である。幸福への志向が生命である。あらゆる人が生命をこう理解してきたし、現に理解しており、常にこう理解しつづけるだろう。それゆえ、人間の生命は人間的な幸福への志向であり、人間的な幸福への志向が人間の生命なのである。俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している。
 誤った科学は、生命の定義から幸福の概念を除去して、生命を動物的な生存の中で理解しているため、生命の幸福を動物的な幸福の中にのみ認めて、俗衆の迷いと一致してしまう。
 どちらの場合にも、迷いは個我、すなわち学者のいう個性と、理性的な意識との混同から生ずる。理性的な意識は個我を内包している。ところが個我は理性的な意識をうちに含んではいない。個我とは、動物と、動物である人間との特性である。理性的な意識とは一人の人間の特性である。
    --トルストイ(原卓也訳)『人生論』新潮文庫、平成十年、88-89頁。

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昨日は息子殿と前々から約束していたので、市井の職場で休みをとってから、家族三人で上野の国立科学博物館と恩賜上野動物園に行って来ました。

だいたい年に1度は訪れているのですが、この博物館+動物園というのはまさにフルコースといいますか、歩いてじっくりみてまる1日かかるコースですから疲れるものですね(苦笑

まあ、生き物とか生き物の歴史に息子殿は興味があるようで、ご同道した次第ですが、、それはそれで大事なことなので、きっちりとつとめをはたした次第です。

ただ、またまた家族ネタで恐縮ですが、そーいう子供の関心をどれだけフォローしていくことができるのかというのは、これまた通俗的で恐縮ですが、大事だろうというところもあり、何度も来ている博物館・動物園ではありますが、眼を輝かせ、その関心事を深めていこうとする集中力・好奇心には驚くばかりです。

このへんは、金をいくらかけるとかどうのという議論ではありませんが(もちろん密接にリンクはしていますけれども)、出来る限り応援はしていきたいものでございます。

まあ、親バカ的でこれまた恐縮ですが(しかし決してモンスターなんとやらとは違いますよ)、息子殿も私の背中を見て育った所為でしょうか……。

不幸にもw 研究者になりたいというのがあるようで、まあ、関心が自然科学ですので、是非そちらにはいっていってもらいたいとは思います。

なにしろ、人文科学の、それも最もマイナーな神学だの、宗教学だのに首を突っ込むとろくなことはありしゃしませんから、どんどんそちらの性質を伸ばしてほしいものだとは思います。

しかし、まあ、細君からは「あんたより、この子のほうが早く、専任になるとかwww」

……って、、

「ちょ、をい」

……という不幸の預言を頂戴したりしましたが、まあ、預言というのは神の言葉を人間が「預かる」から預言であるので、これは推察にすぎないとしてスルーしたいと思います。


ただ、しかし……。

いろんな展示があるなかで彼的にクリティカルヒットだったのは、「スンギール遺跡の墓」。

地球館地下二階、人類の進化のコーナーにある北部ユーラシアの墓内部の複製なのですが、スンギール遺跡から見つかった10歳ぐらいの子供二人の墓がそれです。

中央あたりに頭を寄せて二体並んでおりますが、寄り添うように寝ている二人にはマンモスの牙で装飾されていたり、云々かんぬんで、人間が人間を丁寧に弔うひとつの歴史的記録になるわけですけれども……、彼的な問題としては、

「果たして彼らは生まれる変わることができたのか」

……という形而上学的・神学・宗学的問題であり、

ただひとつ懸念事項としてになりますが、

「そちらに進むことは大変なことになりますよ」

……と先達は忠告したい、ということです。

しかし、そのへんの学問も大事なのだけれどもネ


すいません、あんまり公共的でない議論で。

でも彼が幸福になろうとする方途に対しては親としては全面的にフォローするというのがどうやらDNA的なものですな(苦笑


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「アテナイ人諸君よ、私は諸君を尊重しかつ親愛する者であるが、しかし諸君に従うよりも」……

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 「アテナイ人諸君よ、私は諸君を尊重しかつ親愛する者であるが、しかし諸君に従うよりもむしろいっそう多くの神に従うであろう。そして私の息と力の続く限り、智慧を愛求したり、諸君に忠告したり、諸君の中のいかなる人に逢っても常に次の如く指摘しつつ、例の私の調子で話しかけたりすることをやめないであろう。『好き友よ、アテナイ人でありながら、最も偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名最も高き市の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名声や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか』と。」そしてもしその時諸君のうちの誰かが、これに抗議して、自分はそれを気にかけていると主張するならば、それでも私はすぐには彼を放さずまた自分もそこを動かずに、彼に質問し、彼を精査しまた厳しく試問し、そうしてもし彼が徳(アレテー)を持たずして持つと主張すると私が認めたならば、私は、彼は最も貴きものを最も価値なきものと做し、かえって価値少なきものの方を高く評価するといって彼を非難するであろう。
    --プラトン(久保勉訳)「ソクラテスの弁明」、『ソクラテスの弁明 クリトン』岩波文庫、1964年、37-38頁。

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ときどき、頓珍漢な議論を正論と錯覚して大きな声で騒いでいるひとが多見されるのですけれども、それはそれで筋が通っていないので材料と論理で話し合いながら、その酔いをさましてもらうしか方法がありません。

しかし、そういうひとびととおなじぐらいおおくのひとが、たしかに言っている理屈や論理はわかるといいますか、否定できない・なるほどねと思うことがあるのですけれども、言い方が汚い・穏やかじゃないというケースもおなじぐらい多見することがあります。

大切にしているもの・正しいとおもっているものが、いくら大切で正しいものであったとしても、そういうやり方で、いわば相手をねじ伏せるようなことをしているのであれば、大切なものや正しいとおもっているものを、損なってしまい、最初に指摘した頓珍漢な議論をするひとびとと五十歩百歩じゃないのかしら……そんなことをつくづく実感します。

大切にしているものが大切であり、正しいものが正しいものであるならば、それを表現する・伝える手法も大切にしてほしいし、正しくあって欲しいと思うのだけどねぇ。

ぎゃふん。


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それがどれだけ、「健全と思われるある教義」であったとしても、それを「押しつけようとする」のはまずうござんす。

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 もちろん、健全と思われるある教義を国民に押しつけようとする欲求は新しいものではなく、また現代に特有なものでもない。けれども、多くの現代の知識人がこのような企てを正当化しようとする議論は新しい。そのいうところは次のようである。およそわれわれの社会において思想の真の自由はない。なぜなら大衆の意見や好みは、宣伝、広告、上流階級の手本、さらに人々の思考を必ず月並みの型にしてしまう、その他の環境的要因によって形づくられるものだからである。このことから、大多数のものの理想や好みが常にわれわれの支配することのできる事情によって形づくられるものとすれば、われわれは意識的にこの力を利用して、人々の思想を望ましい方向と考えられるところへ向けるべきであると結論されるのである。
 大多数のものが自主的にほとんど考えることができず、大部分の問題について彼らが既成の見解を受け入れ、また彼らがある一連の信念または他の一連の信念に引き込まれたり、甘言をもって引き入れられたりして、同じように満足しているということはおそらく真実である。いかなる社会においても、思想の自由ということは、おそらく単に少数のものにとって直接の意義がある。けれども、このことはだれかがこの自由をもっている人々を選択する資格があるとか、選択権をもっているべきであるというようなことを意味しているのではない。それはたしかに、ある集団が人々の考えたり、信ずべきものを決定する権利を要求するというような推定を正当化するものではない。いかなる種類の体制下においても、多数の国民はだれかの指導にしたがうものであるから、すべての人々が同じ指導にしたがうべきものとしても、なんら異なることはないということは、思想の完全な混乱である。知的自由がすべての人々に対して独自の思想の可能性を意味しないからという理由で、知的自由の価値に反対を唱えることは、知的自由に価値を与える理由をまったく見落としていることになる。知的自由をして知的進歩の主要な発動機としての機能を果たさせるために必要なことは、各人が何かを考えたり、書いたりすることができるということではなくて、なんらかの主張や考えがだれかによって論議されるということである。意見の相違が抑圧されないかぎり、常にだれかが同時代に支配的である考えについて疑問を抱き、その議論や宣伝の当否をたしかめるために新しい考えを提示するであろう。
 異なる知識や異なる見解をもっている個人のこのような相互作用は、精神生活を形づくる。理性の発展はこのような相違性の存在を基礎とする一つの社会的過程である。その本質はその結果が予言されえないということ、またどの見解がその発展を助け、どれが助けないかということが知られえないということ、簡単にいえば、この発展は現在われわれの抱いているなんらかの見解によって支配されるときは、常に妨げられるということにある。精神的発展またはそれに関するかぎりの一般的進歩を「計画化」したり、「組織化」することは言葉自体の矛盾である。人間精神がそれ自身の発展を「意識的」に統制すべきであるという考えは、それだけが何ものをも「意識的に統制」することのできる個人の理性と、その発展が依存している個人相互間の過程とを混同したものである。その発展を統制しようとすることによって、われわれはただその発展を妨げ、おそから早かれ思想の停滞と理性の低下をもたらすに違いないのである。
 集産主義的思想が理性を最上のものとしようとして出発するにもかかわらず、理性の発展の依存している過程を誤解するために、終局には理性を破壊することになるというのは、集産主義的思想の悲劇である。
    --フリードリヒ・A・ハイエク(一谷藤一郎・一谷映理子訳)『隷属への道 全体主義と自由』東京創元社、1992年。

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それがどれだけ、「健全と思われるある教義」であったとしても、それを「押しつけようとする」のはまずうござんす。

「健全と思われるある教義」ならまだしも、まあ、近頃は、イミフなイデオロギーを、あたかも「みんなやっているみたいですから、お宅もどうですかッ」みたいなフレコミで宅訪するインチキ・営業マンであふれかえっているご時世だけれども……。

「健全と思われるある教義」なんて、所与のイデア的存在としては存在しないのにネ。

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自然の意味を考えると、われわれは自然がひとつの訓育だという新しい事実にたちどころに到達する

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 自然の意味を考えると、われわれは自然がひとつの訓育だという新しい事実にたちどころに到達する。世界のこの効用には、それ自身の部分として、これまでに述べたさまざまな効用がふくまれている。
 空間、時間、社会、労働、寄稿、食物、運動、動物、機械力が、くる日もくる日もわれわれに、限りない意味をそなえた教訓を与えてくれている。「悟性」と「理性」をいずれも教育してくれている。物質に固有なあらゆる性質、--その個体性あるいは抗性、その惰性、その伸縮性、その形状、その可分性のひとつひとつが、悟性のための学校なのだ。悟性は加算し、分割し、結びつけ、測定して、この立派な場面のなかにおのれの活動のための養分と舞台を発見する。いっぽう、これらの教訓を「理性」は、「物質」と「精神」とを結び合わせるアナロジー〔類縁〕を認識することによって、ことごとく、おのれ自身の住む想念の世界に移してしまう。
    --エマソン(坂本雅之訳)「自然」、『エマソン論文集(上)』岩波文庫、1972年、67-68頁。

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自分自身はあまり意識せず生活をしていたのですが、細君は節句と季節のたべものをというものを非常に重要視して生きている人間のようでして、3月3日は桃の節句ということで、わが家は男の子でありますけれども、節目節目を大事にする人間ですから、今日は、珍しく!「はまぐりのお汁」を夕餉に用意しておりましたが……、

夕刻・息子殿が帰宅すると、やはりわが家で貝が出てくるのはやはり珍しいので(私が貝がNGなので)、まだ生きているはまぐりを少し観察していたようです。

生きているので「飼う」などと申しておりましたが、それができないことをきちんと説明すると納得したようで、夕餉の膳へと変換された次第です。

しかし、この節句には節句のもの、季節には季節のものをいただくというライフスタイルは大切かもしれません。

この世の中、マア、真冬でも西瓜を食べようと思えば食べることはできるわけですが、季節の節目、節目で旬のものをいただいたり、意義ある食べ物をいただくというのは、大事なことかもしれません。

もちろん、これは強制されるべきものでもなにでもありませんが、少しだけ、生活感覚に対して意識的に敏感に対応するようになると、そこから、大自然の営みに対して少し感動をもったり、その移り変わりに感謝できるようになるのかもしれませんね。


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だいたい「忠誠」や「服従」を強要することはろくなことを招きはしない。

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「自民が「国旗損壊罪」提出へ 君が代替え歌に刑事罰検討」
http://www.asahi.com/politics/update/0302/TKY201103020333.html

 自民党は2日、国旗損壊罪を新設する刑法改正案を今国会に提出する方針を決めた。日本を侮辱する目的で日章旗を焼いたり破いたりしたら2年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す内容。民主党や公明党など他党にも協力を呼びかけて成立をめざす。

 尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件などをきっかけに自民党は保守色を強めており、「君が代」の替え歌など国歌への侮辱に刑事罰を科す改正案も検討する。

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だいたい「忠誠」や「服従」を強要することはろくなことを招きはしない。


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 政府の権威は、私が進んで服従しようとしているものでさえ--というのは、私は自分よりも知識が豊かで実行力に富んでいるひとびとばかりでなく、それほど知識や行動にすぐれていないひとびとにも、いろいろな点で、こころよく従うつもりでいるからだ--、まだまだ不純な権威である。厳密な意味で正当な存在となるためには、政府は統治される側の承認と同意を得なくてはならない。政府は私の身体と財産に対して、私が容認するものを除いては、なんら純粋な権利をもち得ないのである。絶対君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進歩は、個人に対する真の尊敬に向かっての進歩である。現在、われわれが知っている民主制は、はたして政治において可能な進歩の最終段階を示すものであろうか?
人間の諸権利を認め、それを体系化する方向に向かって、さらに一歩前進することはできないものであろうか?
 国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国家は決してあらわれないであろう。すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家が、ついに出現する日のことを想像して、私はみずからを慰めるものである。そのような国家は、隣人や同胞としての義務をすべて果たしている少数の人間が、国家に口出しせず、かといって歓迎もされず、そこから超然として生きてゆくとしても、それが国家の安寧を乱すものだ、などと考えたりはしないだろう。国家がそのような実を結び、実が熟すればたちまち地上に落下するにまかせるならば、それはいよいよ完璧なすばらしい国家に向かう道を準備することになるであろう。私はこれまで、そのような国家についても想像をめぐらせてきたのだが、そうしたものはまだどこにも見あたらない。
    --H.D.ソロー(飯田実訳)「市民の反抗」、『市民の反抗 他五篇』岩波文庫、1997年、53-54頁。

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独創性や創造性といったものは、鎖国的な根性から生まれてくることはない。かならず世界との交流からうまれてくる……。

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 斯くて慶長頃の人としてロドリゲース、幕末頃の人としてはホフマン博士、之が日本語学界に於る二大偉人と称する事が出来ます日本人としての日本語学界の大先覚者大槻文彦を初代の校長として有する我が一中は、先生と共にまた西洋の二偉人を記憶するも強ち無用の事ではないと思ひます。只私の記述が粗略に過ぎて十分に二偉人を伝え得なかつたことは、私の呉々も遺憾とする所であります。
    --吉野作造「西洋人の日本語研究」宮城県仙台第一中学校学友会、大正十二年、10頁。

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吉野作造(1878-1933)が母校の宮城県第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校、吉野当時・宮城県尋常中学校)の創立30周年のとき、記念文集に寄稿したのが「西洋人の日本語研究」という小文です。

内容は、キリシタン時代からの明治最初期にいたる西洋における日本語研究(日本語学習の便覧や辞書)を概括したもので、吉野が在学時の校長で、『言海』の編纂者・大槻文彦(1847-1928)をリスペクトする内容としてまとめられております。

かならずどこかに世界との繋がりを意識してまとめている吉野の様子が、たった10頁の短い作品からもうかがえます。

独創性や創造性といったものは、鎖国的な根性から生まれてくることはない。
かならず世界との交流からうまれてくる……。

当時の中学生(現在の高校生)に対して、日本を誇ろうとするだけでなく、さりげなく世界との有機的な関係を示唆するところは、世界市民の吉野作造らしいですね。

右傾化の厳しい昨今ですが、歴史の健忘症を発症してしまったはだかの王様になってしまうのではなく、世界と有機的に繋がっている自分でありたいと願うものです。


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高貴の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは、生活の小さな目標だけしか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近な周囲だけしか考えないことである

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 高貴の反対は「不良」とか「悪性」とかではない、もちろん、これらは決して高貴なものではないが。高貴の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは、生活の小さな目標だけしか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近な周囲だけしか考えないことである。高貴というのは、ひろい眼界、すべての人に対する宏量、自分自身についての無頓着、他人に対する配慮などである。高貴であるためには、もの怖じしないこと、どんな事情のもとでもこの世の何かに威圧されないことがぜひとも必要である。もっとも、そういう性質は、真の高貴と、にせの高貴とに共通したものではあるが(ただし真の高貴はどこか愛すべき形をそなえ、真に尊敬すべきものに対しては、心からの敬意を払うが、にせの高貴にはそうしたものが欠けている)。なお、真の高貴には一種の高潔さもなくてはならない。どの方面でももはや動物でないということ、単なる肉体的存在にもはや決して従わないこと、このことが本来われわれの使命であって、それをばわれわれはまずこの世で学び、さらにのちの生活でそれを完成すべきものである。人間がただ一代で、そうしたまったく堅固な信念に達することは、経験上まれであるが、いったんその段階に進めば、高貴な魂にとって、卑俗なものは本性に反するものとなり、したがってまた肉体的にも厭わしいものに感じられてくる。しかし、魂の成長が低い段階にとどまる間は、卑俗なものを精神的にはすでに克服していても、依然としてその魅力を感じ、それに誘惑されるのである。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『幸福論(第二部)』岩波文庫、1962年、191-192頁。

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倫理学の学習とはアリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)がその初手を論じ、和辻哲郎(1889-1960)が大著『倫理学』で論じたように、「身近なものへ注目」することから始まります。

しかしながら「身近なものへ注目」することで盲目になることとは全く無関係でなくてはなりません。

正解と切り離され、自分の世界で惑溺するようなあり方というのは決して「高貴なもの」ではないのかもしれません。


ちなみに日本を代表する倫理学者・和辻哲郎博士の誕生日は3月1日。


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「陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認せられるならば、これこそかえって乱臣賊子ではないか。国体を破壊するものは、浪人会一派の諸君ではないか」という件。

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 “南明倶楽部の凱歌” --吉野、浪人会を論破
 吉野作造はもっぱら文筆の人として時代の啓発につとめ、名声をかちえたが、その吉野が、大衆の前に姿を現して気迫烈々たる論戦を展開する機会が訪れた。右翼団体浪人会との間に行われた立会演説会がそれである。
 浪人会は、大正六年、『大阪朝日新聞』に圧力を加え、鳥居素川(そせん)、長谷川如是閑、佐々木惣一、大山郁夫らの論客を追放することに成功していた。次いで吉野博士にねらいを定め、執筆を停止せよと迫ること数次に及んだ。吉野は屈せず、公衆を前に論争して是非を決しようと強い態度を示した。
 こうして、大正七年十一月二十三日夕刻、神田の南明倶楽部を会場として、浪人会対吉野教授の立会演説会が開かれることになった。--東大の学生数百人、他の大学からも多数の学生がつめかけ、鈴木文治のひきいる労働団体友愛会(戦後の労働団体「同盟」の源)の大衆も加わるなど、場外にまであふれた人々の熱気につつまれて論争が始まった。
 浪人会からは寺尾亨、小川運平、佐々木安五郎、田中弘之の四人が弁士として立ち、約束によって、四人の演説時間の合計と同じ時間を使って、吉野ひとりが反論した。論理展開の修練と表現の素養にかけて、吉野の実力には何の不安もなかった。明快な論旨の展開、言々句々にあふれる思想家としての信念、千万人といえどもただひとりで立ち向かう言論人の勇気--場内外にあふれるひとびとは説き来り説き去る吉野に魅了された。

 「いかなる思想にせよ、暴力をもって圧迫することは絶対に排斥されねばならない。思想にあたるに暴力をもってすることは、それ自体においてすでに暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするものである。……
 陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認せられるならば、これこそかえって乱臣賊子ではないか。国体を破壊するものは、浪人会一派の諸君ではないか。……」

 演説終わるや湧きおこる拍手と歓声が吉野の勝利を明らかに告げた。吉野を擁する人々は感激して「デモクラシーの歌」を高唱しつつ、博士はやっと渦中から出て市電に乗ることができた。世にこの出来事を“南明倶楽部の凱歌”と称し、それからというもの、「青春の意気天を焼く」と、土井晩翠作る讃歌を愛唱するインテリ青年が多かった。
 これが契機となって、東大「新人会」という団体が結成され、みんぽんしゅぎから社会改革運動へとつらなる思想運動の主柱の一つとなった。そのほか、この日の感銘から社会改革の指導者を志した若いインテリがどんなに多かったか、想像がつく。翌年二月には、早大「民人同盟会」が生まれ、やはりデモクラシーの普及徹底を通じて時代の開拓者たることを目ざした。早稲田にはやがて「建設者同盟」が生まれ、新人会のメンバーが労働運動との連携を強めたのに対して、建設者同盟の主力メンバーは農民運動の指導に飛び込んでいった。
 吉野自身も、大正七年十二月、同じく理想主義的民本主義者、福田徳三と協力し、穂積重遠、新渡戸稲造、大山郁夫らの知識人・思想家の参加を得て、思想啓発団体「黎明会」を作った。黎明会は、大正八年一月十八日、神田美土代(みとしろ)町青年会館を皮切りに、相次ぎ講演会を催し、五月四日、大阪での講演会などでは五千人の聴衆をあつめる盛況であった。

 武威も屈するも能ず--自主独立の討論者
 さて、いま“対話”や“討論”の時代に生きているはずのわれわれに対して、なお多くの教訓をこの民本主義者を中心とする当時の人々は与えてくれるのではないか。
 第一にどんな威圧にも負けない、つまり武威も屈する能わずという強い信念と風格を持った討論者の存在である。
 第二に、他人によりかからずおのれ一個の責任で一貫した論旨を展開する姿勢と能力である。
 思考の断片だけを散発的にぶつけ合って、あとはテキトウにだれかがまとめてくれるだろうといった甘えの対話や討論はきびしく反省されなければならない。そして、ヤジや暴力をともなった集団行動のうちに結論をウヤムヤにするのでなく、個々人に語らしめて是非を決するという態度を、“民主主義”のちに生きるはずの現代人が、大正の人々から逆に学ばねばならぬとは、皮肉といって片づけるには深刻すぎる事実である。
    --芳賀綏『言論と日本人 歴史を作った話し手たち』講談社学術文庫、1995年、82-85頁。

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吉野作造先生の議論の持ち込み方には学ぶところ多しです。

あたまごなしに、「おまえの考え方は間違っている」などと吠えることは簡単です。

しかし、それで相手が納得することは殆どありません。

相手の土俵という論理に乗っかかったうえで解体していく。

ここが翠点です。

ただしかしながら、大切なことは相手を論破することではありません。

ここがひとつの盲点。

それを踏まえながらスマートに「対話」や「討論」していくマナーを身につけることが必要でしょう。

それが末尾で指摘されているふたつのポイント。

すなわち……、
①「どんな威圧にも負けない、つまり武威も屈する能わずという強い信念と風格を持った討論」。
②「他人によりかからずおのれ一個の責任で一貫した論旨を展開する姿勢と能力」。

これがないから「思考の断片だけを散発的にぶつけ合って、あとはテキトウにだれかがまとめてくれるだろうといった甘えの対話や討論」になったり、「ヤジや暴力をともなった集団行動のうちに結論をウヤムヤにする」ようになっちゃったりするんでしょうね。

くわばらくわばら


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【研究ノート】人間の自己完成、そうした努力における究極の自己目的化の陥穽

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 儒教徒のばあい、富は、始祖の残した言葉が明らかに教えているように、有徳な、すなわち品位ある生活をおくり、かつ自己の完成に没頭する、そうしたことができるためのもっとも重要な手段だとされた。したがって、人間を向上させるための手段は何かと問われれば、その答えは「富ましむべし」であった。なぜなら、富裕であるばあいにのみ、「身分にふさわしい」生活をすることができるからであった。ところで、ピュウリタンのばあい貨幣利得は、意図しない結果にすぎないとしても、自己の徳性の現われとして重要視され、自己の消費的な目的のために富を支出することは現世への奉仕であって、きわめて容易に被造物神化に転ずるものとされた。富の獲得自体を孔子は蔑視したわけではないようであるが、しかし、それは不安定なものとみられたため、品位ある精神の平衡を乱すおそれがあると解され、こうして、およそ本来の経済的職業労働Berufsarbeitは、職人根性の〔小人がおこなう〕専門人の業Fachmenschentumにすぎないとされた。ともかく、儒教徒にとっては専門人Fachmenschなるものは、たとい社会的有益さという価値をもってしても、真に積極的に品位あるものと考えるわけにはいかなかった。けだし--これこそが決定的な点なのだが--「品位ある人間」すなわち君子Gentlemanは決して「道具ではない」〔君子不器〕からであった。君子は現世順応的な方向での自己完成、そうした努力における究極の自己目的であり、どのような種類のものであれ、事象的な目的のための手段などではない。儒教倫理の核心をなすこうした信条は、専門の分化、近代的な専門的官僚制、それに専門的訓練といったもの、わけても営利をおこなうための経済上の訓練を排斥した。しかし、ピュウリタニズムはまさに逆に、こうした「被造物神化的」な原則に反対して、現世および職業生活の特定かつ事象的な目的に即して自己の救いを証しすることを使命として押し立てた。儒教徒は学問的教養、いや、いっそう正確にいえば書籍的教養をそなえた人間であり、この上もなく鮮やかな姿における書籍-人Schrift-Menschであって、古代ギリシアにみられたような弁論と対話の尊重や熟達もなければ、また、軍事的であれ経済的であれ合理的行為へのエネルギーをも欠いていた。ピュウリタンの諸教派(デノミネイションズ)も大多数は(程度はさまざまだが)聖書の愛読(聖書は事実一種の民法典であり経営学〔の書物〕であった)をもちろん必要不可欠としたけれども、儒教徒には最高の誇りとなるような哲学的・文学的教養はむなしい時間の浪費であり、宗教的に危険なものだとして斥けた。スコラ哲学と弁証法、アリストテレスとおよそ彼に由来するものはピュウリタンたちにとって極悪であり危険であって、たとえばシュぺーナーなどは、そうしたものよりも、むしろデカルト的な合理的・数学的に基礎づけられた哲学をえらんだほどであった。有用な実学的知識、とりわけ経験的・自然科学的ならびに地理学的な性質の知識や率直明快な現実的思考、専門的知識などを教育目標として最初に計画的に奨励したのは、ピュウリタン、ことにドイツではピエティストの人びとであった。それは、一方では、神の創造物のうちにその栄光と摂理を認識しうるただ一つの道として、他方では、召命〔としての職業活動〕によって現世〔世俗生活〕を合理的に支配し、神の栄光をあげるという責務をはたしうる手段として、であった。儒教とピュウリタニズムの両者は、ギリシア思想と、また後期ルネサンスの本質とも相違している点では同じであったが、しかしその相違の意味はそれぞれでまったく異なっていた。
    --マックス・ヴェーバー(大塚久雄・張漢裕訳)「儒教とピュウリタニズム」、ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』みすず書房、1972年。

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手段-目的論の系譜学から評価すると難しいところなのですが、やはり、<高貴であること>とか<富裕であること>というものが、そのひとの存在とそのひとの共同体と全く無関係なものとなってしまった場合、うまく機能しないのかもしれません。

だから、「プロテスタンティズムが上で、儒教精神が下だ」などと単純化しようとは思いませんが、価値判断以前の問題として、関係性がまったく切り離されたあり方で定立された場合、あまりよい結果は導かないものなのかもしれません。

もちろん、目的を探求するするうえでの手段の連鎖にも問題はあるわけなのですけどね。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾でも、当時のアメリカ合衆国における資本主義の爆発的な興隆にその問題が示唆されておりますが……。

このへんのバランスが難しいですね。


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深謝 「幸福な人生について論ずる」とき

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 幸福な人生について論ずるときは、元老院の採択ででもあるかのように、「こちらの党のほうが多数と思う」などと、私に伝えるべきではない。多数であれば、かえって善くないからである。人生に関する事柄は、多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。
    --セネカ(茂手木元蔵訳)「幸福な人生について」、『人生の短さについて 他二篇』岩波文庫、1980年、123-124頁。

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月末は誕生日だったのですが、沢山の皆様からお祝いのメッセージを頂戴し、大変ありがとうございました。

30代最後の1年となりましたが、次の10年への飛躍へ向けた助走の1年となるよう日々を生きて参ろうかと思います。

いろいろと頭に来たり、ガクッてくることの多い毎日ですし、文句ばかりいわれることが多いのですが、自分のきめた使命の道を丁寧に取り組んで参ろうかと思います。

皆様、ほんとうにありがとうございました。

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