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創造と伝統を水と油のような相反する概念と捉えてしまうことが問題なのだ。

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 歴史は二重の創造であるということ、初め作られたものが更に作られるところに歴史があるということは、歴史の本来の主体が個人でなくて社会であるということを意味している。個人もまた社会から歴史的に作られたものである。歴史は社会が自己形成的に形を変化してゆく過程である。人間は社会から作られたものであって、しかも独立なものとしてつくられ、かくてみずから作ってゆくのであるが、人間のこの作用は社会の自己形成的創造の一分子として創造することにほかならぬ。従って人間に置いては自己の作るものが同時に自己にとって作られるものの意味を有している。そこに歴史というものがある。自己の作るものが自己にとって作られるものであることは特に伝統というものにおいて明瞭である。それだから伝統を我々にとって単に与えられたもののように考えるという誤解も起り得る。伝統は我々の作るものであり、それが同時に我々にとって作られるものの意味を有している。いわゆる伝統主義者は人間の独立的活動を否定することによって伝統と単なる遺物を区別することさえ忘れている。人間の独立性を否定することは社会の創造性を否定することである。社会の創造性は社会から作られる人間が独立名ものとしてみずから作るところに認められねばならぬ。独立な人間と人間とは物を作ることにおいて結び附く。我の作ったものは我から独立になり、我を超えたものとして我と汝とを結び附ける。我々の作るものが超越的な意味を有するところに人間の創造性が認められる。かようにして作られたものは元来社会的なものである。我が作ることは社会が作ることに我が参加しているにほかならないのであるから。人間と人間とは作られたものにおいて結び附くのみでなく、むしろ根本的には作ることにおいて結び附くのである。我が作ることは実は社会の自己形成の一分子としての作用にほかならないのであるから。
 伝統は社会における人間の行為が習慣的になることによって作られる。行為が習慣的になることがなければ伝統はつくられないのでああろう。しかるに習慣的になるということは自然的になるということであり、習慣的になることによってイデー的なものは自然の中に沈むのである。かくして伝統は次第に身体の中に沈んでゆき、外に伝統を認めない場合においても我々は既に伝統的である。伝統は伝統的になることによって愈々深く社会的身体の中に沈んでゆく。我々の身体はその中に伝統が沈んでいるところの歴史的身体の一分身である。伝統は客観的に形として存在すると共に主体的に社会的身体として存在する。伝統は元来超越的であると同時に内在的である。のである。身体のうちに沈んだ伝統はただ我々の創造を通じてのみ、新しい形の形成においてのみ、復活することができる。創造が伝統を生かし得る唯一の道である。
    三木清「伝統論」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年、28-30頁。

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創造と伝統を水と油のような相反する概念と捉えてしまうことが問題なのだ。


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