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学者はしばしば常識を軽蔑する。しかし実践的常識がすでに無反省的に心得ているこの矛盾の関係を、学問は果たして充分に解いているであろうか。

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 そこで我々は、わかり切った日常の事実として、我々が常に何らかの資格において動いていること、その資格は何らかの全体的なるものに規定せられていること、しかもその全体的なるものは一定の資格における我々が作り出すところの間柄であること、などを確定することができる。簡単に言えば、我々は日常的に間柄的存在においてあるのである。しかもこの間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉せられている。一方は間柄が個々の人々の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄が先立ってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄自身からその成員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先立ってそれを規定する間柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。しかもその矛盾する関係が常識として認められているのである。
 我々はかくのごとき矛盾的統一としての「間柄」を捕らえてそこから出発する。かかる間柄は人間関係以外の諸関係、すなわち対象と対象との間の関係や項と項との間の関係として考えられるものとは、根本的に区別されねばならぬ。それは間柄であるがしかもその成員に否定的に対立するものである。かかる間柄の構造が後節の分析において徐々に明らかにされるであろう。
 学者はしばしば常識を軽蔑する。しかし実践的常識がすでに無反省的に心得ているこの矛盾の関係を、学問は果たして充分に解いているであろうか。否、学問は永い間この矛盾に気づかずにさえいたのではなかろうか。でなければ矛盾律に基づく論理を人間存在に適用しようなどと考えるはずはなかったのである。十九世紀以来発達した社会学はちょうどこの間柄的存在を取り扱うように見えるが、しかしそこで個人と社会の関係は果たして実践的常識が心得ている以上のところまで追究せられたであろうか。我々は遺憾ながらしかりと答えることができないのである。社会学が個人の問題を離れて「社会」をのみ取り扱い得るかのごとくふるまうところにすでに右のごとき矛盾関係からの回避がある。社会存在の論理がさらに新しく反省されなくてはならないゆえんもそこに存する。しかし社会的存在の仕方は実は「論理」ではなくして「倫理」なのである。我々はその出発点を右のごとき相依関係において認める。
    --和辻哲郎『倫理学(一)』岩波文庫、2007年、87-90頁。

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なさけない話だが、情況がどういう形で進行しているのか全く分からない。

だから、冷静になる必要が歴然として存在する。

特に信用ならないのが、テレビでけんけん諤々の議論をしたり、何かを隠したり、何かを誇張している「ような」学者たち。

めんどくさいから自分で調べることにしはじめた。

現実と学問を、「倫理」と「学問」を接合させることができるのはひとりひとりの自分でしかない。

だからテレビを消して自分で調べている。

しかし、あれからおよそ一週間。

正直疲れも出てきましたね。

さて、これからもう一仕事して、情況を確認しながら漸進していこうと思う。

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