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【研究ノート】人間の自己完成、そうした努力における究極の自己目的化の陥穽

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 儒教徒のばあい、富は、始祖の残した言葉が明らかに教えているように、有徳な、すなわち品位ある生活をおくり、かつ自己の完成に没頭する、そうしたことができるためのもっとも重要な手段だとされた。したがって、人間を向上させるための手段は何かと問われれば、その答えは「富ましむべし」であった。なぜなら、富裕であるばあいにのみ、「身分にふさわしい」生活をすることができるからであった。ところで、ピュウリタンのばあい貨幣利得は、意図しない結果にすぎないとしても、自己の徳性の現われとして重要視され、自己の消費的な目的のために富を支出することは現世への奉仕であって、きわめて容易に被造物神化に転ずるものとされた。富の獲得自体を孔子は蔑視したわけではないようであるが、しかし、それは不安定なものとみられたため、品位ある精神の平衡を乱すおそれがあると解され、こうして、およそ本来の経済的職業労働Berufsarbeitは、職人根性の〔小人がおこなう〕専門人の業Fachmenschentumにすぎないとされた。ともかく、儒教徒にとっては専門人Fachmenschなるものは、たとい社会的有益さという価値をもってしても、真に積極的に品位あるものと考えるわけにはいかなかった。けだし--これこそが決定的な点なのだが--「品位ある人間」すなわち君子Gentlemanは決して「道具ではない」〔君子不器〕からであった。君子は現世順応的な方向での自己完成、そうした努力における究極の自己目的であり、どのような種類のものであれ、事象的な目的のための手段などではない。儒教倫理の核心をなすこうした信条は、専門の分化、近代的な専門的官僚制、それに専門的訓練といったもの、わけても営利をおこなうための経済上の訓練を排斥した。しかし、ピュウリタニズムはまさに逆に、こうした「被造物神化的」な原則に反対して、現世および職業生活の特定かつ事象的な目的に即して自己の救いを証しすることを使命として押し立てた。儒教徒は学問的教養、いや、いっそう正確にいえば書籍的教養をそなえた人間であり、この上もなく鮮やかな姿における書籍-人Schrift-Menschであって、古代ギリシアにみられたような弁論と対話の尊重や熟達もなければ、また、軍事的であれ経済的であれ合理的行為へのエネルギーをも欠いていた。ピュウリタンの諸教派(デノミネイションズ)も大多数は(程度はさまざまだが)聖書の愛読(聖書は事実一種の民法典であり経営学〔の書物〕であった)をもちろん必要不可欠としたけれども、儒教徒には最高の誇りとなるような哲学的・文学的教養はむなしい時間の浪費であり、宗教的に危険なものだとして斥けた。スコラ哲学と弁証法、アリストテレスとおよそ彼に由来するものはピュウリタンたちにとって極悪であり危険であって、たとえばシュぺーナーなどは、そうしたものよりも、むしろデカルト的な合理的・数学的に基礎づけられた哲学をえらんだほどであった。有用な実学的知識、とりわけ経験的・自然科学的ならびに地理学的な性質の知識や率直明快な現実的思考、専門的知識などを教育目標として最初に計画的に奨励したのは、ピュウリタン、ことにドイツではピエティストの人びとであった。それは、一方では、神の創造物のうちにその栄光と摂理を認識しうるただ一つの道として、他方では、召命〔としての職業活動〕によって現世〔世俗生活〕を合理的に支配し、神の栄光をあげるという責務をはたしうる手段として、であった。儒教とピュウリタニズムの両者は、ギリシア思想と、また後期ルネサンスの本質とも相違している点では同じであったが、しかしその相違の意味はそれぞれでまったく異なっていた。
    --マックス・ヴェーバー(大塚久雄・張漢裕訳)「儒教とピュウリタニズム」、ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』みすず書房、1972年。

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手段-目的論の系譜学から評価すると難しいところなのですが、やはり、<高貴であること>とか<富裕であること>というものが、そのひとの存在とそのひとの共同体と全く無関係なものとなってしまった場合、うまく機能しないのかもしれません。

だから、「プロテスタンティズムが上で、儒教精神が下だ」などと単純化しようとは思いませんが、価値判断以前の問題として、関係性がまったく切り離されたあり方で定立された場合、あまりよい結果は導かないものなのかもしれません。

もちろん、目的を探求するするうえでの手段の連鎖にも問題はあるわけなのですけどね。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾でも、当時のアメリカ合衆国における資本主義の爆発的な興隆にその問題が示唆されておりますが……。

このへんのバランスが難しいですね。


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