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2011年4月

人間を人間自身から疎隔し、わけても人間が自らの自由の意識に至る通路を塞いできたということを、指摘することが必要

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 神の思想の真理性をめぐる営為を人間の理解に集中させる態度に対応して、神進行を無神論的に批判する態度のうちにもそれと類似の展開が見られる。フォイエルバッハ以降の近代の無神論が、例外なく人間学的に議論しているのは偶然ではない。このことは、マルクス主義の宗教批判にとってばかりではなく、ニーチェ、フロイト、ニコライ・ハルトマンあるいはジャン=ポール・サルトルにも当てはまる。その際の真に未解決の問いは、神の思想が人間精神の所産であるかどうかではなく、神の思想が人間精神の非本質的な所産であるかどうか、したがって、人間の自己理解の構成要素ではあるにしても、決して人間の本質には属していない構成要素であるような思想であるかどうかということである。すなわち、どの形態の神の思想でえあれ、人間の現実存在を意識的に生きていく姿勢のうちに必然的に含まれているような思想では決してないということ、神の思想において問題なのはむしろ、自分自身の本質についての--たとえ人間の歴史を長い間にわたって支配しているにせよ、束の間の--人間の妄想の表現、すなわち、--まさに、それが人間の本質そのものに属するものではなく、たとえきわめて長期にわっているにせよ、人間の歴史のひとつの局面に属しているにすぎないということによって、幻影であることが証示されうるような--ひとつの幻影である、ということを指摘することである。そのためにはさらに、人間の本質は宗教的なカテゴリーの助けがなくとも完全に記述できるということを、そして、神の思想は、人間の本質に適った自己理解が不可欠の条件であるというよりはむしろ、人間を人間自身から疎隔し、わけても人間が自らの自由の意識に至る通路を塞いできたということを、指摘することが必要である。
    --ヴォルフハルト・パネンベルク(座小田豊・諸岡道比古訳)『神の思想と人間の自由』法政大学出版局、1991年、15-16頁。

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ここ数日、思い出したかのように、希望の神学(Theologie der Hoffnung)の流れを汲みつつ、独自の歴史神学を展開するパネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928-)の著作を読みあさっているのですが、社会論と歴史形成論(未来の希望をそこから探求するわけなので⇒希望の神学)が彼の主軸になるのですが、まあ、だからこそ、たいていの著作においてフィールド内自己撞着の部分を指摘するわけですれども……。

これはまあ、再現可能性と記述可能性に根拠をおく現代社会の基礎論に対するひとつの挑戦なのでしょうけど……、たしかに再現可能性と記述可能性だけに根拠をおいてしまうと自家撞着はおこしてしまいますよねw

枠内での議論は結局枠内での堂々巡りしか導かないわけですが、これが近代の人間主義に適用された場合は、人間中心主義の陥穽へと駒を進め、人間そのものを損なってしまう。

結局のところ人間にせよ、自然にせよ、全き他者との出会いによってこそ、精確な自己認識がもたらされる訳なのですけど……。

ふうむ。

これは学問論だけに限定されない話なんだけどなあ・・・。

自己理解には他者との遭遇は必要不可欠ですよね。

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中庸は、おもしろくない教義かもしれないが、実に多くの事柄において真実の教義である

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 中庸というのは、おもしろくない教義である。忘れもしない、私も若いときには中庸を軽蔑と憤りをもって退けたものだ。なにしろ、当時、私が賛美したのは英雄的な極端であったのだ。しかし、真理はいつもおもしろいわけでない。一方、おもしろいというだけで信じられているものもたくさんあるが、実際には、おもしろいという以外に有利な証拠はほとんどない。中庸が一つの適例である。つまり、中庸は、おもしろくない教義かもしれないが、実に多くの事柄において真実の教義である。
 中庸を守ることが必要である一つの点は、努力とあきらめのバランスに関してである。どちらの教義も、従来、極端な主唱者がいた。あきらめの教義を説いてきたのは、聖徒や神秘主義者であった。努力の教義を説いてきたのは、生産性向上専門家と筋肉的キリスト教徒であった。これら対立する両派には、それぞれ、一面の真理があったが、全面的な真理はなかった。
    --バートランド・ラッセル(安藤貞雄訳)『ラッセル幸福論』岩波文庫、1991年、254頁。

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ラッセル卿(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS,1872-1970)曰く「中庸」が大事だけどこれは若い頃にはわからんと。

賛美したのは英雄的な極端。

しかし「中庸は、おもしろくない教義かもしれないが、実に多くの事柄において真実」。

そこで必要なのが努力とあきらめのバランスだとか。

まあシャツの首廻りに指1本はいるぐらいの余裕は必要だろうね。


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[東日本大震災の記録]4月28日。


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節電のため、照明を落として運行中のJR中央線の車内。

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研究ノート:ケルゼン、多数決原理の由来としての自由の概念

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 自由の理念から、多数決原理が導き出さるべきものであって--多く起りがちであるような--平等の理念からではない。人間の意思が相互に平等であるということは、多数決原理の前提とはなりうるだろう。しかし、この平等であるということは単なる比喩であって、人間の意思や人格を有効に測量し、計算しうるということを意味するものではない。多数票が少数票より大きい全重量をもっているという理由で、多数決原理を弁護することは不可能であろう。ある者が他の者よりも値打ちがない、という純粋に否定的な推定からは、多数の意思がだとうせねばならぬということをいまだ積極的に推論することができるものではない。もし多数決原理を平等の理念からだけ導き出そうと試みるならば、それは独裁主義の立場から非難するように、事実上あの純機械的な、しかのみならず無意味な性格をもつことになる。多数者が少数者より強いということは、間に合わせに構成せられた経験上の表現にすぎないのであろう。そして「力は正義に勝つ」という格言は、それ自らを法規に高める限りにおいてのみ克服せられるであろう。ただ--たといすべてでなくとも--できるだけ多数の人間が自由である、すなわちできるだけ少数の人間が、彼らの意思とともに、社会秩序の普遍的意思と矛盾に陥らねばならぬ、という考え方だけが、多数決原理への合理的途上に導くものである。その際平等が当然にデモクラシーの基本仮定として前提せられることは、この者とかの者との値打ちが同じだから、この者とかの者とが自由でなければならぬという天にあるのではなく、できるだけ多数が自由でなければならぬ、という点にまさに表明される。そこで国家意思の変更を導き出すために、より少ない他人の個人意思と合致することが必要であればあるほど、個々の意思と国家意思との一致符号はますます容易となる。絶対的多数はここにおいて事実上最高の限界を明示する。国家意思がその創造の瞬間において、より多くの個人意思と一致するよりは矛盾する、という可能性はより少なくなるであろうし、少数が国家意思を--その変更を妨げることによって--多数に反対して決定しうる可能性は、より多くなるであろう。
    --ケルゼン(西島芳二訳)『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫、1966年、39-40頁。

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オーストリア出身の公法学者ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen,1881-1973)の古典的名著『デモクラシーの本質と価値』の多数決原理に関する記述のところ。

多数決原理は平等“性”を担保する装置の一つですが、平等に由来するのではなく自由に由来するというくだりが非常に興味深いですね。

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「いかにして抱負経綸を行うべきか」というよりも「いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきか」ということ

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 政治運動に右の如き主観的根本原則と客観的根本原則との二方面を肝要とするのは、ちょうど我々個人の日常生活において断行と省察とを修養工夫の二大要事とするに似て居ると思う。吾々はナニをするについても最善と信ずることは勇敢に断行しなくてはならず、またこれを断行するについての障礙は内部的のものはもちろん外部的のものも仮借するところなくこれを排除して進まなければならぬ。しかしながら単にこれだけを日常生活上の金科玉条としては、あるいはついに飛んでもない過誤に陥らぬとも限らない、自分の一旦の所信が客観的に果たして最善であったか否かは分からぬからである。ここにおいて最善でもないものを最善だと妄信してこれに全力を傾倒するの愚より自らを救うためには省察が必要ということになる。もッとより良き立場はないかと常に疑って見るのである。かく疑って見て我々が常により良き立場へと一歩一歩実践の方針を向上せしむるとき、我々は初めて全体として真に最善最良の立場を占めたものといい得るのだ。この意味を或るひとはこういう言葉で現わして居る、一旦正しいと思い込んだ事をいつまでも正しいと固執すること程正しくないことはない、一番正しいのは常に正しからんと心掛けることであると。要するに断行は省察を持って始めて倫理的の価値を発揮するのである。これと同じように、政治に在っても客観的根本原則を伴わざる主観的根本原則の活動は、必ずや専制の弊に陥らずしては煌まぬものだ。故に私は曰う、政治において一番大切なのは、いかにして我々の抱負経綸を行うべきかの問題ではない、いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきかの方がむしろより以上に重要な問題であると。
    --吉野作造「現代政治上の一重要原則」、『中央公論』1928年、12月。

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普通選挙法が施行された後の晩年の吉野作造(1878-1933)の論評の一節。

「政治において一番大切なのは、いかにして我々の抱負経綸を行うべきかの問題ではない、いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきかの方がむしろより以上に重要な問題であると」という部分に痺れてしまった・・・。

最近、忙しく(=これは理由にならないことを承知ですがご寛恕を)、紹介だけでなかなか論評することができずすいません。

今日もはやめに沈没いたします。

でわ。


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桜花 春くははれる 年だにも 人の心に あかれやはせぬ 伊勢」、『古今和歌集』「春歌上 0061」

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「桜花 春くははれる 年だにも 人の心に あかれやはせぬ 伊勢」、『古今和歌集』「春歌上 0061」。

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一般的なソメイヨシノの類はすでに葉桜となりましたが、ヤエザクラでしょうか……。
近所の公園で美しく花開いておりましたのでひとつ。

暑くもなく・寒くもなく……このぐらいの季節がいちばんいい時期ですねw

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僕はどこまでエポケーしても、今回の東日本大震災を「天罰」だの云々といいたくはない

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かくかくのとらえ方とか、「この」世界についての意見といったものは、どれも、あらかじめ与えられている世界にその基盤をもっている。わたしが判断中止によってまぬがれようとしているのは、まさにこの基盤なのである。すなわちわたしは、世界を越えているのであり、世界は、いまやわたしにとっては、まったく特殊な意味で現象になっているのである。
    --フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫、1995年、275頁。

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たんなる雑感ですが、やっぱり僕はどこまでエポケーしても、今回の東日本大震災を「天罰」だの云々といいたくはない。

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【研究ノート】新渡戸稲造の愛国観……人道正義の競争として

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 我国には国を愛する人は多くあるが、国を憂うる人は甚だ少い。しかしてその国を愛するものも盲目的に愛するものがありはせぬかを虞る。かつてハイネの詩の中に、仏人が国家を愛するは妾を愛する如く、独逸人は祖母を愛する如く、英国人は正妻を愛するが如くであるというた。妾に対する愛情は感情に奔ることが多く、可愛い時には無闇に愛するが、ちょっと気に入らぬ時にこれを擲打するに躊躇せぬ。祖母を愛するのは御無理御尤一天張りである。正妻を愛するのは、妻の人格を重んじ、自己の家と子供との利害を合理的に考え合せて愛するので、妻に過ちがあればこれを責めて改悛させるその愛情は一時的の感情に止まらぬのである。世人はよく国債の関係には道徳なく、正義人道が行われないというものもあるが、我輩の見る所では、決してこれらのものが皆無であるということはない。こんにちはいまだ何事もこれらの標準によりて決せられるるとは言い難いのではあるが、しかし早晩国の地位を判断するには正義人道を以てする時が来るのである。近頃は何れの国でもその心事を隠すことが出来ない、国民の考えていること、政府の為したことは、殆ど総て少時間の後に暴露し、列国環視の目的物となる。そこで世界の各国が一刻を判断する時には、その言うこと為すことの是非曲直を以て判断する、あるいはその代表者が如何なる言を発したか、如何なる行動を執ったかによりて判断する、またある国が卑劣であり、姑息であり、陰険であり、または馬鹿げたことをすれば、それは直に世界に知れ渡るのである。従てある国が世界のため、人道のために如何なる貢献をなしたかは、その国を重くしその威厳を増す理由となる。国がその地位を高めるものは人類一般即ち世界文明のために何を貢献するかという所に帰着する傾向が著しくなりつつある。
    --新渡戸稲造「真の愛国心」、『実業之日本』二八巻二号、1925年1月15日。

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1925年年頭の『実業之日本』に寄せた新渡戸稲造(1862-1933)の「真の愛国心」の末尾の部分。

様々な愛国の形を振り返りながら、これまでの愛国なるものが結局の所愛国の対象そのものをそこなってきたなかで、他者に関わる正義人道を立脚をもってして「愛国」を完遂すべしと論じたものです。

時代の趨勢は、「従てある国が世界のため、人道のために如何なる貢献をなしたかは、その国を重くしその威厳を増す理由となる。国がその地位を高めるものは人類一般即ち世界文明のために何を貢献するかという所に帰着する」と予見しましたが、現実にははなはだ遠いところがございますが、そうせしめる努力というのは今こそ必要かも知れません。

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福岡空港で「角打(かくうち)」! 

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 同じ事柄でも、朝と晩ではひとは同じように考えない。だが、夜の思考は朝の精神とでは、どちらが真実だろうか? 二様の解答があり、したがって人間にも二つの種類があるのだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『太陽の讃歌』新潮文庫、昭和四十九年、115頁。

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酒の話が続いてすいません。
ひとまずこれで終わりますので……。

先週の博多出張の際、最後にお世話になったのが、福岡空港内の「角打 萬坊」です。
こちらも福岡空港を利用する場合は、最後にここでしめてから搭乗しますので、いつもお世話になっておりますが、いつも変わらぬもてなしに感謝しておりますので、記録を残しておかざるを得ません。

初めて利用したのは、まさしく初めて福岡へ出張した4年前の5月の終わり。
宮古島へ帰る学生さんと一緒に空港へ出て、飛行機が飛び立つまで、軽く一献した想い出の場所です。

焼酎がそれなりにそろっているジャパニーズ・パブとでもいえばいいでしょうか……。
本店は、“呼子イカ”で有名、“イカシューマイ”発祥の店・海中魚処「萬坊」なのですが、お陰様で肴もうまいというやつです。

もともと焼酎はほとんど嗜まないのですが、このところ健康を考え、日本酒よりも焼酎を意識的に選ぶようにしておりますが、今回も昨年に引き続き、、、

「角打セット」をオーダー。
生ビール(グラス)ないしは焼酎に、刺身(二点盛)、日替わりの小鉢、イカシューマイのセットメニューがそれです。

とりあえずビールでお願いして、出てきたのがコレ。
木目も新しい四方と丸蒸籠が手もとに運ばれてきました!

刺身はハマチと鰺、小鉢は薩摩揚げ。

すでに「日本再生酒場」で軽くやっておりましたので、今回は肴は他にはお願いしなかったのですが、ハマチと鰺の深い優雅な味わいを愉しみつつ、今回は、焼酎中心の闘い。

まずは古式琉球泡盛「やまかわ」。
しっかりした味わいですねえ、これ。

それからお願いしたのが薩摩本格芋焼酎「晴耕雨読」。
名前は聞いたことがありましたがやるのは初めて。
透き通った味わいが口蓋でひびくというやつです。

だいたい1時間かけてゆっくりと愉しませていただきました。

ありがとうございました。

さて、何度も出てくる「角打(かくうち)」という言葉は何でしょうか?
これは九州の言葉で「酒屋で立ち飲みすること」という意味だそうです。

福岡空港を利用する際は、是非。


■角打萬坊(福岡空港内)
福岡市博多区下臼井767-1 福岡空港第2ターミナルビル3F レストラン街
TEL:092-626-5851
営業時間 10:00~21:00
(ラストオーダー20:30)

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「怒りを原動力」にして新しい「創造」を目ざす活動へ向けて


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※写真は、4/15、羽田発福岡行のJAL便より、東京ディズニーリゾートを辺りを空撮した一枚。


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 「緒方さんの行動のもとになっているエネルギーは何でしょうか?」
 「何だか知りませんけれどもね……」
 数秒の沈黙のあと、緒方さんは続けた。
 「怒りかも知れないですね。何かうまくいかないと、がっかりするよりも怒りが出てくるんですよね。何とかしたいと、こんなことは受け入れられませんと。それはいろいろな形でひどくなったかもしれませんね。これは承知できませんという気持ちですよね」
 「それはやっぱり人権とかそういうことに照らして……」 
 「そんなに難しい話じゃないんです。何かに照らすんじゃなくて、実態がということです。この一〇年で私、癇癪もちになったのかもしれないけれども」
 そう言うと、厳しかった緒方さんの表情が不意に緩み、笑顔になった。
    --東野真『緒方貞子--難民支援の現場から』集英社新書、2003年、12頁。

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ツィッターで先週、吠えた連投ですが、少し手直しして残しておきます。

酩酊しないうちに少しだけ……。

「それはオカシイ」と素直に「怒る」ことは僕は必要不可欠だと思う。老人になって「まあ、現実をみろよ」と嘯いても始まらない。素朴な「怒り」は現実を変革にするエネルギーになるはず。

国連難民高等弁務官を勤めた緒方貞子さんは在職中「それはできない」と言われることが一番腹がたったという。やってもないのにはなから「できない」というな! 

それに対する怒りが原動力となって不可能といわれた難事を可能にした。


賢い優等生を振る舞う必要もないし、すべてを悟りきった賢老を決め込む必要もない。
それがおかしいのであれば「おかしい」と立ち上がるしかない。しかしそこで慎重にならなければならないことは、怒りを無邪気にぶちまけてはいけないということ。


マスコミをマスゴミと一括して悟ったような態度とか、(その対象や人物に)「罵詈雑言」を投げつけて「はい、終わり」としてしまう怒りの導き方は、問題を解決することができない。それは僕が一番大嫌いなワイドショーに出てくる知識人たちがさもわかったように「~ですな」と「まとめる」のと同じやり方でしょう。


今学ばなければならない態度は、その怒りをどのように導いていくべきかということ。
様々な方途があるでしょう。僕は、ツィッターやFACEBOOKを初めとするソーシャルネットワークもその一つだと思う。


怒りが炸裂して「東電爆発しろ」的な発言も多々目にします。しかしそれと同じぐらい「それでは解決できない」というのも目にします。


H・アレント(Hannah Arendt,1906-1975)は『人間の条件』のなかで人間生活のあり方を「活動」「仕事」「労働」の三つに分類し、「物あるいは事柄の介入為しに直接人と人とのアダ委で行われる唯一の活動力」としての「活動」を宣揚し、その本質を「自由」であると指摘しました。


「仕事」はそのなかに目的=手段の関係を必然します。そして「労働」は肉体のもつ必然に従うという意味で、「仕事」と同じくいずれも自由ではありません。しかし「活動」はこのような目的=手段の関係や肉体の必然性から解放されているという意味で自由であるとアレントいう。


ではその「活動」の具体的表現とは何でしょうか--。


アレントによれば、その最初の古典的モデルは古代ギリシアのポリスにおける自由人たちの政治活動に他なりません(奴隷労働に支えられていたというのはひとまず措く)。市民たちは平等なるものとして、説得し、同時に説得され、見、見られ、聞き、聞かれた空間がその「活動」の「場」です。


たしかに私が指摘した言語空間においては、リアルな言語空間以上に目を閉じたい発言も目にします。しかし同じようにそれでは解決できないよ、一緒に考えてみようよと促す発言も目にします。そのやりとのなかで(ヘイトスピーチは除く)、僕たちは新しい注ぎ方を創造することが可能なのではないかと思います。


ツィッター、FACEBOOKの言語空間を古代ギリシアのポリス的自由討議の空間と同一視することにはもちろん問題はあるでしょう。そして楽天的といえば楽天的です。が、僕はその楽天性にかけてみたいと思う。3.11のTwitterでのTLを思いだして下さい。都内で難民状態となった人々の声が上がると同時に、そこに救いの手を差し出そうとする声がそれ以上に出てきました。。


イミフなヘイトやら揶揄やらorzなそれも一杯あります。しかし人々が肩書きやら所属する共同体の枠組みを気にすることなく「対等」に「話し合う」ことのできるメディアは、大げさな言い方ですが、日本においては、これがはじめてではないでしょうか……。


そこを賢明につかっていくことが、ジャスミン革命を導いたということは失念してはなりません。


もちろんツィッターには、FACEBOOKなんかと違い匿名性はある程度ありますし、為にするそれもあります。しかし、僕はツィッターで学んだことは、いろんなひととやりとりをするなかで、言葉という情報の背後には必ず生きた人間が存在している、そのことは個人レベルの実感にすぎませんが、学んだような気がします。


もちろん、人の温もりだけでなく、怒りを感じることもありましたが(苦笑


この矜持を自覚することによって、ネットはorzだという本朝共通了解から、ネットであろうが対面コミュニケーションであろうが、人間とキチンと向かい合っていくということを人々が学習することが出来れば、ひとつのヒントになる。先に言及した怒りの向け方を正しく導くことが出来るはずだと思う。


そこじゃないのかなあ。


ツィッターでもFBでもSNSでも何でもいいのですが、機器を介したコミュニケーションであっても、情報を受けとり・発信するのは生きた人間同士というのがその立脚点です。「人間なんてこんなもの」と図式化・パロディ化する既存のメディアはそれができなかった。ならば僕らでやればいいのでは……と。

それが歴史を創っていくということ。


例えば菅直人氏が「オワッター」事は震災対応を見なくてもはっきり分かります。が、大事なのは、その「オワッター」足跡を「アホか!」で済ませない、忘れないということではないでしょうか。


忘れてしまうと「さて、どうするべ」へ進めない。


このフラグの切り方は大切だと思います。


何しろこの国は「話題賞味期限」あり「水に流す」体質ですから尚更かと。


だからこそ、「怒り」を忘れてはいけないし、「怒り」の注ぎ方を誤ってはいけない。

「怒りかも知れないですね。何かうまくいかないと、がっかりするよりも怒りが出てくるんですよね。何とかしたいと、こんなことは受け入れられませんと。それはいろいろな形でひどくなったかもしれませんね。これは承知できませんという気持ちですよね」

そして……。


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 怒りが原動力であるという緒方さんの言葉は、強烈な印象となって私の中に残った。
 慈善活動や人道援助を行う女性に対して、私たちはややもすると「慈母」的なイメージを抱きがちである。緒方さんによく冠せられる「難民の母」という言葉は、そのことをよく表している。べつにそれが間違っているわけではない。緒方さんの人柄を問われて、「細やかな心配り」を挙げる人も多い。しかし、緒方さんのインタビューをしていて私がむしろ感じたのは、問題を解決しようとする強靱な意志と仕事に対する厳しさ、そして卓越した分析力と創造性であった。緒方さんを知る職員の一人は、「緒方さんは危機になればなるほど強くなる」と言った。どんな緊急事態に陥っても、諦めずに新しいアイデアを出し、指示を飛ばすのだという。そうした彼女の行動を支えてきた原動力は、現場を歩くことから生まれる「怒り」なのだ。
東野真『緒方貞子--難民支援の現場から』集英社新書、2003年、15-16頁。

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彼女の行動を支えてきた原動力は「現場を歩くことから生まれる『怒り』」。


そして「諦めずに新しいアイデアを出し」挑戦していくこと。


これを「活動」空間の中で丁寧にやっていくほかあるまい。

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【資料】新学期を迎えるみなさんへ 内閣総理大臣・文部科学大臣からのメッセージ

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 新学期を迎えるみなさんへ

 みなさん、入学、進級おめでとうございます。

この4月から、また新しいお友達をたくさん作ってください。

 みなさんは、この4月、希望に満ちた春を迎えるはずでした。

 しかし、この春は、私たちにとって、とてもつらい春になってしまいました。

 ご存じのように、3月11日、あの大地震と津波が日本をおそったのです。みなさんの中にも、ご家族を亡くされたり、あるいはいまも避難所から学校に通ったりしている人たちがいることでしょう。

 避難所の中では、みなさんがお手伝いをしたり、お年寄りや身体の不自由な人を助けて、掃除をしたり、食事の準備をしたりしてくれているという話をたくさん聞きました。本当にありがとう。

 いま、みなさんは、すべての悲しみや不安から逃れることはできないかもしれません。でも、みなさんは、けっして一人ではありません。どうか、先生やお友達と助け合って、一日も早く、みんなが楽しく安心して学び、遊べる学校を取り戻しましょう。私たちも全力で、みなさんと一緒にがんばります。

 災害にあわなかった地域の児童のみなさんにも、お願いがあります。

 どうか、みなさんの学校にやってくる、避難してきた仲間たちを温かく迎えてあげてください。すぐ近くに、そういったお友達がいなくても、遠く離れて不自由な生活をしている子どもたち、あるいは、この震災で亡くなり、進学、進級を果たせなかった子どもたちのことも、同じ仲間だと思って、祈りとはげましの声をあげてください。

 小さなみなさんも、節電をしたり、おこづかいをためて募金をしたりしてくれているという話もたくさん聞きました。そして、私たちはとても誇らしい気持ちになりました。みなさんのその思いやりがあれば、日本はきっと、もっともっと素晴らしい国になって、もう一度立ち上がります。

 もっとも被害の大きかった東北地方にも、もうすぐ春が訪れます。

 みなさんは、「桜前線」という言葉を、先生からもう習いましたか? 桜の花が開く日を線で結んだものです。

 日本の国土は縦に細長いために、沖縄では例年1月上旬に開花宣言が行われ、その桜前線は、約半年をかけて、5月の下旬に北海道の北端に到達します。自然がおりなす、素晴らしい命のリレーです。

 自然は、今回の地震や津波のように、時に、私たちに厳しい試練を与えます。しかし桜前線のように、私たちをやさしく包んでくれるのも、また自然の力です。

 みなさんも、どうか、思いやりのリレーのバトンを、被害を受けた地域の仲間に届けてください。電車の中でお年寄りに席を譲ること、身体の不自由な方たちの手助けをすること。そうした身近な人への思いやりが、きっと少しずつ広がって、桜前線と一緒に、被災地に届くことでしょう。

 この思いやりのバトンは、世界中からも届けられました。世界中から、救助の人が来てくれたり、支援の品が届けられたりしました。みなさんも、たくさん勉強をして、今度は、このバトンを世界中の困っている人たちに返してあげられるような大人になってください。

 原子力発電所の事故に対して、危険をかえりみずに立ち向かう消防士さんや自衛官、電力会社の人たちの姿。各地の被災地で救命救急活動に当たった警察官やお医者さん、看護師さん、そして何より、本当に命がけでみなさんを守ってくれた学校の先生たちの姿を忘れないでください。みなさんも、もっともっと身体を鍛え、判断力を養い、やさしい心を育んで、他人のために働ける人になってください。

 私たちも、全国の学校の先生方も、みなさんが笑顔で登校できるように、全力でみなさんを支えます。日本の未来は、みなさんにかかっています。みなさんの明るい笑顔で、日本を元気にしてください。

             内閣総理大臣  菅 直人
             文部科学大臣  高木 義明

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4月15日(金)に、息子殿が学校からもらってきたのが、内閣総理大臣、文部科学大臣連名の「新学期を迎える皆さんへ」という文章。

得に「何っ」っていうわけではありませんが、一応記録として残しておきます。

初等教育、中等教育等々でいくつかのバージョンが有るみたいですが、小学校児童を対象としたものがうえの一文です。

PDF ⇒ http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000085131.pdf


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アレント「はじめに言葉ありき」、「はじめに犯罪ありき」

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 たしかに、戦争と革命は記録されている歴史のなかで大きな役割を果たしている。とはいえ、その双方においてともに暴力が支配的な役割を果たしているかぎり、両者とも厳密にいえば政治の領域外で起こっているのである。この事実のために、戦争と革命を経験した十七世紀に「自然状態」と名づけられた前政治状態の跨節が導入された。もちろん、その状態は歴史的事実として考えられたわけではなかった。しかし今日でさえ、その仮説は意味をもっている。それは次のようなことが人々によって認められているという点にあらわれている。すなわち、政治的領域は人間が集団生活をしているところならどこにでも自動的に存在するようになるわけではないということ、また厳密に歴史的状況のなかに発生しているにもかかわらず、実際に政治的ではなく、おそらく政治と結びついてさえいないような出来事が存在するということがそれである。自然状態という観念は、少なくともある一つのリアリティを暗示している。すなわち、十九世紀的な発展の観念というのは、これを因果関係の形式、可能性と現実性の形式、弁証法的運動の形式、存在の単純な整合性や連続性の形式など、いろいろな形式において考えられようが、自然状態の観念は、そのような十九世紀的な発展の観念によっては理解できないようなリアリティを暗示しているのであろう。なぜなら自然状態の仮説は、そのあとにつづく一切のものからまるで譲ることのできない亀裂によって切り離されているようなはじまり(a beginning)の存在を意味として含んでいるからである。
 革命の現象に、はじまりの問題がどのような意味をもつかは明白である。このようなはじまりが暴力と密接に結びついているにちがいないということは、聖書と古典があきらかにしているように、人間の歴史の伝説的なはじまりによって裏づけられているように思われる。すなわちアベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。伝説と受けとられているか歴史的事実と信じられているかは別にして、われわれの聖書的あるいは世俗的伝統のなかに最初に記録されている行為は何世紀も語りつがれてきた。そして、それが語りつがれてきた力強さは、人間の思想が、説得力のある比喩や普遍性をもつ物語を生みだすときに稀に獲得することのできる類いのものである。伝説は次のことをはっきりと物語っている。どんなに人間が互いに兄弟たりえようとも、それは兄弟殺しから成長してきたものであり、どんな政治組織を人間がつくりあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである、と。「はじめに言葉ありき」という聖ヨハネの最初の一句が人間を救済するための真実を語っているとすれば、「はじめに犯罪ありき」--「自然状態」という言葉はそれを理論的に純化して言いかえたものにすぎない--という信条は、人間事象の状態を示すうえで、幾世紀ものあいだ、この聖ヨハネの言葉と劣らないほど自明の真実を語りつづけてきたのである。
    --ハンナ・アレント(志水速雄訳)『革命について』ちくま学芸文庫、1995年、23-24頁。

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人間の善性を開拓するのが「はじめに言葉ありき」という側面だとすれば、その抜きがたい獣性の存在を示唆するのが「はじめに犯罪ありき」という現象か。

その両者は抜きがたく潜在している。

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【覚え書】H.アレント 「よりましだ」とする発想の盲点

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 今日、戦争問題の論争のなかに自由の概念がとりいれられているのを耳にすると、いつも妙にちぐはぐな気持ちになるのは、多分戦争を国際政治の最後の手段として正当化してきたこのような伝統的議論の中に、この自由の論拠がまるで欠けていたからであろう。核戦争の想像を絶するような未曾有の破壊力を眼の前にして「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」式の威勢のいい議論はむなしいどころではない。お話にならないほど馬鹿げたことである。実際、自分の国や至尊の生命と自由のために自分自身の生命を投げ出すことと、それと同じ目的のために人類の存在そのものを賭けることは全然別のことである。そしてそのことはまったく明らかだと思われるから、「赤より死のほうがましだ」とか「奴隷になるより死を」というようなスローガンの擁護者たちは人を欺いているのだと疑わないわけにはいかない。もちろん、だからといって、その反対に「死より赤のほうがましだ」というスローガンがもっと推奨できるといっているのではない。古い真実が役に立たなくなったからといって、それを逆立ちさせれば真実に近づくというわけのものではないのだから。実際問題として、今日、戦争問題の議論がこのような観点からおおなわれているばあいには、双方の心理的な背景をさぐるのはむずかしいことではない。「赤より死のほうがましだ」といっている人びとは、実際にはこう考えているのである。つまり、破壊はある人たちが考えているほど大きくはないだろうし、われわれの文明は生き残るだろう、と。これにたいして「死より赤のほうがましだ」といっている人びとが実際に考えていることはこうである。すなわち、奴隷状態はそんなに悪くないだろう、と。いいかえれば、論争者たちの不誠実さは、自分たち自身の提出した非常識な二者択一をどちらもそのまま信じていないという点にある。要するに双方とも真面目ではない。
    --ハンナ・アレント(志水速雄訳)『革命について』ちくま学芸文庫、1995年、14-15頁。

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旨いもの・酒巡礼記:福岡県福岡市編「日本再生酒場 もつやき処 い志井」

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 二合の酒で、いつになく長谷川平蔵は、微酔いになった。
 日暮れには、まだ、間がある。
 「窓を開けてくれぬか」
 お酒を運んであらわれた座敷女中にそういいつけた平蔵は、
 「おだやかな日和がつづくことよ」
 独言(ひとりごと)のように、いった。
    --池波正太郎「霜夜」、『鬼平犯科帳 16』文春文庫、2000年、263頁。

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金曜日(15日)から二泊三日で滞在した福岡県博多市。
最終講義をすませてから、福岡空港へ赴く途中、博多駅ビル内の呑みや街で、ぶらりとたちよったのが「日本再生酒場 もつやき処 い志井」。

まあ、要するに立ち呑み屋。

東京にも店舗はあるようですが、その興味深いネーミングに引かれてぶらり……としのびこんだという寸法です。

みんなでワイワイガヤガヤと酒をやるのもよいのですが、ひとりで味わうようにやるのもなかなかいいもんです。

フライトまで2時間以上時間がありましたが、まだ早い時間でしたので、ゆっくりとスタンド席で豚串中心のオーダー。

先ずは生ビールとクィックメニューの「モツ煮込」

モツ煮込はよく食べているのですが、こちらの「モツ煮込」には瞠目!
味噌、醤油仕立ては定番ですが、味わいが何といいますか「塩ベース」。
あっさりとしてい、出汁まで全部飲んでしまうという暴挙に!!!

串は豚ばら、たん、しろ、コブクロ、ハツ。
野菜は、ししとうなんぞをお願いして、、、

黒糖焼酎「喜界島」をロックで、〆は「博多名物明太子」。

短い時間でしたが、いい仕事しておりました。
また寄らせていただこうかと思います。

■ 日本再生酒場 もつやき処 い志井
福岡市博多区博多駅中央街1-1
博多デイトス 1F ほろよい通り
092-292-7535

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旨いもの・酒巡礼記:福岡県・福岡市編「玄海鮮魚 博多 いねや」

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福岡へ出張する直前、昨年の福岡スクーリングで受講された学生さんからメールがありました。

今回、別の科目を福岡で履修予定で、昨年のメンバーも少し集まりますから、先生、お時間ありますか?

というものでしたが、「大丈夫ですよ」と答えて、1日目の授業が済んでから、今回の学生さんも1名飛び入り参加で、参集したのが、リッチモンドホテル1Fの「玄海鮮魚 博多いねや 筑紫口店」です。

福岡の学生さんが予約しておいてくれました。

ジャンルは居酒屋になるのですが、居酒屋というには少し高尚で、割烹というには敷居が低いというか、……そういう中間のジャンルに位置する、玄界灘の新鮮な魚を使った日本料理やで乾杯した次第です。

名物のごまさばは本日品切れということでしたが、福岡の学生さんに地元ならではの逸品の注文をお任せして舌鼓。

まずはクィックの「豆腐サラダ」。
痛風には豆腐はNGですが、お構いなしw
生ビールをかき込みながら、ぱくぱくと。

そして、刺身の盛り合わせ(3人前)。

これが量の多いこと、多いこと。東京ではなかなか考えられない分量で、鰺がとにかく美味。引き締まった甘さに脱帽です。

ビールを早々に済ませると、日本酒へ移行しましたので、気を利かせてくださいまして、博多名物明太子をすこし炙った奴の登場!

外見はぱりっとこんがりとやけ、中は半熟のような焼き方で濃厚!

進むのが超辛口「博多の森」!

中盤で登場したのがこれも博多名物、烏賊のお造り。
出てきた時はまだ「生きている」というやつで、最初は刺身でいただき、残った奴を「塩焼き」か「天ぷら」にしてくれるというものです。
前回は、「天ぷら」にしましたので、今回は「塩焼き」に。

その他、色々とオーダーしていたようですが、やはり一番、花咲くのが人間同士のやりとり=対話ということになりますので、あとは撮影できず、すいませんw

最後の〆は、五目釜飯。オーダーを受けてから炊きあげるので時間がかかりがお勧め。
中盤で頼んでおいた方がようござんす。

しかし、先にも申したとおり、酒を飲むのが目的では決してありません。
酒をひとつの契機としながら、普段、なかなかはなせないことや、たわいもないやりとりを通して人間同士が裸で向かい合う……これが大事ですね。

半個室を利用しましたが、お勧めです。
博多へ赴く時は、是非。

■ 玄海鮮魚 博多 いねや 筑紫口店
〒812-0012 福岡県福岡市博多区博多駅中央街6-17 リッチモンドホテル博多1F
TEL:092-481-7737
FAX:092-432-2472
営業時間:ディナータイム;17:00~24:00 (23:00ラスト・オーダー)
            ;金・土・祝前;17:00~01:00(24:00ラスト・オーダー)
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/16445/CUSTOM/G1644581008113035.html

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旨いもの・酒巡礼記:福岡県・福岡市編「海物(かいぶつ)」

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旨いもの・酒巡礼記:福岡県・博多市編「海物(かいぶつ)」

福岡によると必ず訪問するのが、居酒屋「海物」です。

2007年に初めて地方スクーリングで担当したのが福岡市会場でのそれでしたが、その折り、学生さんから教えていただき、当時は住吉店を訪れてから度肝を抜かれたわけですが、のれんもなければ看板もなにもない。

潔く出すものだけで勝負する……そのプロ意識に感動すると同時に、圧倒的なうまさに兜を脱いだ経験をわすれることができません。

ですから、昨年も訪れ、今年も参詣させていただいた次第です。

さて……。

お通しはたこのお酢いもの。

そして今回は、小丸ふぐの刺身から。
「刺身なんかは何かいい素材はいっていますかね?」

……と伺ったところ「今日はふぐでしょう」ということでしたの即決。
エビスの生ビールでまずは乾杯。至福の時間を堪能しました。

つづけて、豚バラにら巻。
これはいつも頂戴するひと品ですが、まあ要するににらを豚バラで来るんで炙った焼き串ですが、何か秘伝のスパイスでもふりかけているのでしょう。ジューシかつニラの青さに引き立つ一品。

それから手羽たまご肉詰めへ移行し、芋焼酎・もぐら。
焼酎ロックへただちに移行しましたが、いわゆる寿司屋で出てくるような大きな湯呑みにこれでもかといわんばかりに注がれておりますw

一品メニューをゆっくりやりつつ、

「今日は牡蠣のいいのがはいっている」

……というので、やらずにはおけないでしょう。

「生牡蠣」をお願いして暫し待つと・・・

大きな丼が運ばれてきた次第。
直径20センチはあろうかという丼に氷を敷き詰め、そのうえにこれでもかといわんばかりの牡蠣!

普段、牡蠣はどちらかといえば苦手でやらないほうですが、今日だけはお願いしたところ正解。

海のフルーツとはこのことか!

さて……時間もあるので、そろそろ〆の一品をということで、「海物」名物「炊き餃子」。浅い土鍋にラーメン風のつゆで、たっぷりと薬味を載せ、餃子を炊いたものですが、これがまあ、なかなかな一品で、餃子をやったあとは、ラーメンを入れてチャンポン風に再度調理してくれるという一度で二度美味しいという強者ですが、さすが、本日は、断念(食べ過ぎていたw)。

〆は福岡県の日本酒「庭のうぐいす」!!!

いやあ、心色の選択をさせてもらいました。

これだけ遊んで、6000円でおつりが来ます。

福岡へ行かれる方は是非w

■ 海物 本店
TEL:092-441-8957
福岡県福岡市博多区博多駅南3-8-3
営業時間:18:00-24:00
定休日:火曜日

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あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである

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 経済組織も一つの人倫的組織であり、従って「財」を媒介として人倫の道を実現しようとするものである。利潤を自己目的とし、無制限に利潤を追求する立場は、人倫の喪失態にほかならない。あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである。そうして人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活は利潤のための手段となり、その意義を喪失するであろう。だから経済組織はあくまでも人倫の道に合うように確信されなくてはならない。国民への献身を目ざしつつ、しかもおのれの能率を極度に発揮するような組織に改められなくてはならない。それは単に自由主義でもなく、また統制主義でもなく、個性の解放を徹底することによってかえって全体への奉仕が実現されるような、二重の構造を持ったものでなくてはならぬであろう。これは個と全とが相即連関する人間存在の構造を忠実に経済組織の上に実現することである。そこでは自由競争による能率の増進が充分に活かされるとともに、その弊害が統制主義的な全体への見とおしによって取り除かれ、計画経済による全体の調和・むだの排除が達成せられるとともに、その圧制の弊害もまた自由主義的な活動の喜びによって打ち克たれる。企業家は無制限な利潤を目ざす代わりに事業に必要な利潤におのれを制限し、その技倆や手腕を国民への貢献の方へ振り向けるであろう。そうしてこの態度は彼の事業をして一層意義あるものたらしめるであろう。それとともに労働者は、その労働の公共的な意義を問わずしてただ単に賃金の値上げにのみ専心するというごとき態度をすて、その労働における熟練や製作の向上のうちに人倫の道を実現する喜びを感ずるに至るであろう。そうしてこの態度は彼の労働を一層価値高きものたらしめるであろう。
 国民の当に為すべき経済組織の革新は、右の方向に向かわなくてはならぬ。
    --和辻哲郎『倫理学 四』岩波文庫、2007年、276-277頁。

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和辻哲郎(1889-1960)が、自身のの理想的共同体論(人倫的組織)の立場から、あるべき経済活動全般を素描した部分です。

昭和初期の金融資本の破天荒さをその眼で見た和辻にとって、無制約な利潤追求とは悪に他ならないものと映ったに違いない。さりとてその反動としての共産主義……和辻のそれに対する理解にもかなりは限界があるのですが……に対しても率直な違和感もある。

その意味では管理型の資本主義……それが後には軍部主導の統制経済にすり替わっていくわけですが……の模索を「利潤を自己目的とし、無制限に利潤を追求する立場は、人倫の喪失態にほかならない」と表現したのでしょう。

そして和辻が提示して見せた上述の経済組織のあり方というものは、これまで現出したことのない一つの理想的な範型なのかもしれません。

「まあ、青臭いよ」

……などとテキトーにスルーすることも可能でしょう。

しかし、色んな形の「現実論」というものが色あせてしまった現在を踏まえるならば、ある程度それを目ざして組み立て直していく努力まで捨ててしまうこともないのではないか……そのことも酷く実感してしまいます。

確かに、まあ、人倫の範型を和辻哲郎は生まれ育った故郷の田園風景のなかに見出しておりそれも一つの限界はありますが、現実にはその枠組みが強固であろうと集合離散に適したものであろうと、いずれにしても人間は人間世界を離れて生きていくことはできません。

和辻の議論を最高の模範とする必要はありませんが、これまで自分たちが「そんな理想的なことをいっても絵空事だよ」とシニカルに対応していたことは少し控えながら、対話的共同討議空間のなかから、新しい人倫、新しい経済組織……といったものは、できる範囲からひとつひとつ組み立て直していくことは必要なのではないでしょうかね。


「あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである。そうして人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活は利潤のための手段となり、その意義を喪失するであろう。だから経済組織はあくまでも人倫の道に合うように確信されなくてはならない」。

まあ、いずれにしても、冒頭のこの一文は、産業や利潤に関わらず、広く人間世界をよりよく変革するためのひとつの定式になっていることだけは疑う余地ができませんね。

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倫理学〈4〉 (岩波文庫)Book倫理学〈4〉 (岩波文庫)


著者:和辻 哲郎

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【覚え書】アマルティア・センのハンチントン文明観批判

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 サミュエル・ハンチントン〔アメリカの政治学者。『文明の衝突』の著者〕は、インドを「ヒンドゥー文明」として描きました。これはインドネシアとパキスタンを除いて、インドに世界のどこよりも多くのイスラム教徒(約一億二五〇〇万人--イギリスとフランスの全人口を合わせた以上の数)がいる事実をないがしろにしています。また、インドの芸術、音楽、文学、社会を充分に理解しようと思えば、さまざまな共同体間のかかわりを考慮せざるをえませんが、そうした現実にも目をむけてはいません。
 文明の衝突という考え方は、インドの政治形態の特色であるはずの、宗教色を排した概念も見過ごしてしまいます。また、世俗国家の必要性を誰よりも力強く雄弁に訴えたのが、イスラム教徒の君主であるムガル帝国のアクバル帝〔在位、一五五六-一六〇五〕だった、というさほど遠い昔のことではない歴史的事実も顧みていません。
 ハンチントンはリベラルな寛容を「西洋」ならではの特徴とみなし、「近代化される以前から、西洋はすでに西洋だった」と主張します。となれば、一六世紀末にアクバル帝が宗教的寛容の必要性を宣言していた時代に、ローマのカンポ・デイ・フィオーリ広場でジョルダーノ・ブルーノ〔イタリアの宗教家・哲学者〕が異端のかどで火あぶりの刑に処せられたことを思い起こす価値はあるかもしれません。文明にもとづく分類は希望のない歴史であるばかりでなく、人々を狭義のカテゴリーに押し込め、「文明ごとに」はっきりと引きさかれた境界線をはさんで対峙させ、それによって世界の政情不安をあおり、一触即発状態に近づけるでしょう。
 今日ではイギリス国内ですら、もともとは「多民族国家イギリス」の多元主義の活動だったものが、イスラム教、シク教、ヒンドゥー教学校の創設運動(すでに何校か存在)へと変わりつつあります。こうした学校での重点課題は、「自らの文化」について学ぶことにあるとされ、何を信じてどう生きるかについて、充分に学んだうえで選択させる教育の機会は激減しています。若いイギリス人にとって、それも特にインド亜大陸出身者にとって、選択の幅ははるかに狭くなっています。家族の伝統があれば個人の選択は不要という誤った考え方が、アクバル帝が「理性の道」と呼んだものを閉ざしているのです。
 こうした問題は世界に共通しています。
    --アマルティア・セン(東郷えりか訳)、「人間の安全保障と基礎教育」、『人間の安全保障』集英社新書、2006年、32-34頁。

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覚え書。
アマルティア・セン(Amartya Sen,1933-)の文明観と教育の役割。

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人間の安全保障 (集英社新書)Book人間の安全保障 (集英社新書)


著者:アマルティア・セン

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キャンパスの桜:「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平」

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「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平」『古今和歌集』(巻一春歌上 0053)

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今日は休日だったのですが、週末の出張で使用する航空券を取りに大学まで出かけました。

一般入試の試験官以来だったので、2ヶ月ぶりでしょうか。

郵送してもらうという手もあったのですが、少し気分転換もかねて赴いた次第。

桜が満開でした。

キャンパスに咲き誇る桜の美しさに疲れと憂鬱さが癒されたような気がします。

また知己の学生と少し懇談して、お世話になっている先輩と少し雑談。

さあ、これからまた仕切直してがんばりますかッ。

まあ、最後に駅前のイングリッシュパブにて一杯やってはしまいましたがね(苦笑

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僕は11日をいつも忘れない。

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 最初に目に着きしは事務室の屋根瓦は一トたまりもなくゆすぶり落される光景也。地上の震動にからだもふら\/する 之は容易ならぬ地震だわいと思ふ間に遙に研究室の二階の上の煉瓦壁、法文科本館の夫れ六畳敷八畳敷位のがボタ\/落ち且所々縦に亀裂を生ぜるを見て頓と度肝を抜かるゝの思あり。
    --『吉野日記』一九二三年九月一日。

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ちょうど一ヶ月がたちましたし、首都の都知事選挙も終わりました。
いろいろと考えなければならないのですが、なかなか言葉になりません。

しかし、一ヶ月前の出来事を風化させてはいけないし、それを政治ゲームのネタにされてもたまりません。

ですから、僕は11日をいつも忘れない。

すいません。感傷的で。

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田中正造「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」

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田中正造「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」
                        明治33年2月17日、第14回議会

 亡国ニ至ルヲシラザレバコレ即チ亡国ノ儀ニツキ質問書
右成規ニヨリ提出候也
  明治三十三年二月十七日  提出者 田中正造
               賛同者 石原半右衛門

一 民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑〔ニ〕スルナリ
皆自ラ国ヲ毀ツナリ
財用ヲ濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ亡ビザルノ国ナシ、コレヲ奈何 右質問ニ及候也
   〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録第二十九号議長の報告〕

    --由井正臣・小松裕編『田中正造文集(一)』岩波文庫、2004年、223頁。

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それからこちらの田中正造翁(1841-1913)の第14回議会における質問書の迫力と内容に関してもきちんと押さえておかないといけないですね。

忘却・忘恩を退けながら。

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田中正造 日記 明治31年4月2日

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日記 明治31年4月2日
四月二日 東京芝の芝浦の塩湯ニ養生す、一月以来の病苦聊か補ふあり。
一、一声高く嗚呼関東ハ不幸なりと叫びたり。
声立てよ嗚呼関東ハ不幸なり
国民は、法律師ノ奴隷タルベカラズ。被害民ハ被害地を指テ、我ハこの国土の所有主タルコトヲ忘ルベカラズ。人モシ善ヲ進メタランニハ、一歩ニテモ可ナリ。モシ人ヲ誹ラバ、善ヲ退クナリ。悪シキ人ハソノ事ヲ排スベシ。タダ我〃ハ善ヲ行ウテ止マザルニアルノミ。
    --由井正臣・小松裕編『田中正造文集(一)』岩波文庫、2004年、167頁。

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この田中正造翁(1841-1913)の言葉は、少し真剣にうけとらないと。

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自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ること

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 ところで、ルールを守るには、相手があって可能なことであるから、好むと好まざるとにかかわらず相手の存在を認めねばならない。ところが、もともと前頭連合野は、相手を否定しようとしているのである。その前頭連合野に、どういいきかせて相手を認めさせたらよいだろうか。ここに、より崇高な「人類の知恵」が要請されるのである。
 幸いにも、私たちの先人はこの要請になんらかの形でこたえてきたし、現在この地球上に生をうけている私たち人間は、あるいは、集団の合意にもとづき、あるいは個人の納得づくで、それぞれ最善の知恵をしぼりだし、それにのっとって行動しているはずである。私は、東洋精神の土壌で培われ開花した岡潔先生の知恵と、西洋思潮の沃土で育てられ結実したトインビー博士の知恵をきいてみたい。
 岡潔先生のお考えはこうである--私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。芭門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に徹しさせる無差別智である。この智慧が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
 トインビー博士のご意見はこうである--人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。個人の生涯であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理的努力を人間がおこたったことから出発している。そすて、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語のreligionということばの語源は、結びつけるという意味である。
 岡潔先生とトインビー博士の違いは、培われた精神的風土の違いによるのであって、願う心は同じである。私は、岡潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
 しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげて、文句なく理屈ぬきで、相手を認めることができる足場を探しださねばならない。幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
 それは、いのちの座である脳幹・脊髄系である。脳幹・脊髄系は、人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、精神的、肉体的のすべての違いを超越して、ただ黙々と私たちの身体の健康を保証してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄系には、全く色がついていない。
 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着をもっている。そんなに執着の心があるのなら、全く個性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・脊髄系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれているいのちだけは、理屈ぬきで愛惜することができるのではなかろうか。
    時実利彦『人間であること』岩波新書、1970年、204-207頁。

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少し古い本だし、根拠の置き方には少し疑問も出てきますし、存在論として民族への還元論には抜きがたい抵抗感がありますが、大筋では、生理学者・時実利彦先生(1909-1973)の示された展望は簡単には否定できない、否、大いに首肯せざるを得ないものではないかと思います。

相対的な差別相という現実事象の存在・嗜好の違いというものは払拭できませんし、否定できない事実です。

しかし、それは何ら根拠にならないということ。

差異は差異として抜きがたく存在します。

しかし差異が存在すると同じぐらい共通した側面もあるでしょう。

それが人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、精神的、肉体的のすべての違いを超越した「いのちの座」という現実。
氏は脳幹に限定しておりますが、「人間」として生きている現象そのものもその当体ではないのかと、素人ながらには思ってしまうわけですが、いずれにしても、この点からもう一度、ひとと向かい合うということを点検していきたいなと思う次第です。

この点からもう一度、ひとと向かい合うということを点検していきたいなと思う次第です。

しかし秀逸なのは冒頭の一文ですねえ(苦笑

「ルールを守るには、相手があって可能なことであるから、好むと好まざるとにかかわらず相手の存在を認めねばならない」。


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【研究ノート】トインビー 「歴史は繰りかえすか」

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 結論はこうなるのであります--人間の歴史は、人間の意志がその周囲の情況の主人たるに最も近い状態にあり、また物理的自然の循環に支配されることの最も少ない状態にあると見られるような人間活動の分野においてさえも、ある一つの重要な意味において、現在に至るまでその時と場合によっては反覆していることが証明されるのであると。それではわれわれはさらにこれを一歩進めて、結局のところ決定論者が正しく、自由意志と見えるものは一個の幻影に過ぎないと結論すべきでありましょうか。筆者の意見では、正しい結論はまさにその反対なのであります。筆者の見るところでは、人間世界に現われ来るこの反覆への傾向は、創造能力に備わるところの今さら別に珍しくもないからくりの一つを例証する一例に外ならないのであります。創造作用から生み出されるものは一つ一つ単独にではなくひとからげの束になって生まれるのであります--一種を代表する一束の生物とか、一層を代表する一束の種とかいうかたちで現われるのであります。ところでこうした反覆の価値というものは、よく考えて見れば決して判定しがたいものではありません。もしも一つ一つの新種の被創造物が、多数のかごに分けて納められた多数の卵というあたちで生み出されないならば、創造作用といってもそれは第一歩を踏み出すことすら容易ではありません。そうでなければ創造者が人間であるにせよ神であるにせよ、どうして、創造者は大胆で収穫に富む実験のための充分な材料と、必ず起るにきまっている失敗を取り戻すための有効な手段とを用意することが出来ましょうか。もしも人間の歴史が反覆するものとすれば、それは宇宙の律動一般に呼応して反覆するだけのことであります。しかし反覆のこの型(パターン)の意義が何であるかといえばそれはまさに創造作用が一歩前進せしめられんがためにこそ反覆の与えるところの活動余地という点に存するのであります。このように考えてくるならば、歴史における反覆の要素は、神と人間が運命の奴隷であることの指標ではなくして、かえって、創造活動の自由のための一個の手段であることが示顕されてくるのであります。
    --トインビー(深瀬基寛訳)「歴史は繰りかえすか」、『試練に立つ文明』現代教養文庫、1966年、52ー53頁。

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歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee,1889-1975)の卓見!

歴史は繰り返すのか、それともそこに創造活動の自由のための契機を見出すのか。
カント(Immanuel Kant,1724-1804)の人間の自律の概念を彷彿とさせるものがありますねえ

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キュリー夫人、「そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望」を

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 --このままでは未来は暗いですか。
 マリー そう。いや、私はいかなるときにも悲観論者ではないのです。
 これは私の人生の経験から言うことですが、どんな場合にもあきらめは禁物です。あきらめることで、いっそう悪い結果になります。いつも希望をもって、自分の力で未来を切り開いていこうとする、その気持ちがあるときには、かならず望みがかなえられる気がします。いまの若い人たちに私が言えるとしたら、そのことだと思います。地球の未来について真剣に考えると、けっして明るいものではないかもしれない。しかし、そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望を捨ててほしくないのです。
 私は、苦しいことのなかで育ち、勉強し、研究し、さらに放射線の影響で人生の後の半分は体の不調にもたいへん苦しみました。ノーベル賞をもらったりしたので「栄光の人生」などといわれますが、苦しいことのほうが多かったようにも思えます。でも、いつも未来への明るい希望と情熱をもっていたので、苦しさもまた楽しさとなり、充実した人生を送れたと思っていますし、そうできたことを有難いと思っています。
    --高木仁三郎『マリー・キュリーが考えたこと』岩波ジュニア新書、1992年、201-202頁。

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久しぶりに高木 仁三郎(1938-2000)さんの『マリー・キュリーが考えたこと』を読み直しましたが、再読して正解。

岩波ジュニア新書だから、読者を高校生と想定して編まれたシリーズで、内容は、前半がマリー・キュリー(Maria Skłodowska-Curie,1867-1934)の生涯、後半は彼女が生きていたら現在をどう考えるかという作品。

「地球の未来について真剣に考えると、けっして明るいものではないかもしれない。しかし、そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望を捨ててほしくないのです」。

お勧めです。


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東京の夜桜:「一つ一つの対象がそれ固有の色調をもっているという従来の伝統的な考え方の全面的な否定」!

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 太陽の光によって、明るさのみならず、対象の色調も変化するというこの認識は、別の言葉でいえば、一つ一つの対象がそれ固有の色調をもっているという従来の伝統的な考え方の全面的な否定であった。(中略)一見白色光のように見える太陽光線が実は七彩の虹の色を含んでいるように、太陽の光に照らし出された自然の姿も、その多様な色の変化をそのまま繁栄している。伝統的な約束事に曇らされていないモネたちの鋭敏な眼は、自然を彩るその微妙な色彩の輝きをはっきりと見てとったのである。
    --高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年。

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4月6日に東京では櫻の満開宣言が出されました。
遅い通勤途上、自転車道で夜桜を撮影してみましたが、やはりなかなか難しいものですね。

櫻は薄いピンクのように見えますが、夜は白い花びらのように見えます。

漆黒の夜空とのコントラストが強いからでしょうかね。

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【覚え書】新渡戸稲造「真の愛国心」、『実業之日本』一九二五年一月

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 我国には国を愛する人は多くあるが、国を憂うる人は甚だ少ない。しかしてその国を愛するものも盲目的に愛するものがありはせぬかを虞る。かつてハイネの詩の中に、仏人が国家を愛するのは妾を愛するが如く、独逸人は祖母を愛する如く、英国人は正妻を愛するが如くであるというた。目か権威対する愛情は感情に奔ることが多く、可愛い時には無闇に愛するが、ちょっと気に入らぬ時にこれを擲打するに躊躇せぬ。祖母を愛するのは御無理御尤一点張りである。正妻を愛するのは、妻の人格を重んじ、自己の家と子供との利害を合理的に考え合せて愛するので、妻に過ちがあればこれを責めて改悛させるその愛情は一時的の感情に止まらぬのである。世人はよく国際の関係には道徳なく、正義人道が行われないというのもあるが、我輩の見る所では、決してこれらのものが皆無であるということはない。今日はいまだ何事もこれらの標準によりて決せらるるとは言い難いのであるが、しかし早晩国の地位を判断するには正義人道を以てする時が来るのである。近頃は何れの国でもその心事を隠すことが出来ない、国民の考えていること、政府の為したことは、殆ど総て少時間の後に暴露し、列国環視の目的物となる。そこで世界の各国が一国を判断する時には、その言うこと為すことの是非曲直を以て判断する、あるいはまたその代表者が如何なる行動を執ったかによりて判断する、またある国が卑劣であり、姑息であり、陰険であり、または馬鹿げたことをすれば、それは直ちに世界に知れ渡るのである。従てある国が世界のため、人道のために遺憾なる貢献をなしたかは、その国を重くしその威厳を増す理由となる。国がその位置を高めるものは人類一般即ち世界文明のために何を貢献するかという所に帰着する傾向が著しくなりつつある。
    --新渡戸稲造「真の愛国心」、『実業之日本』一九二五年一月。

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「急速な成長」=「すなわち実力を試されず」前進……というやつ

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 日本の封建国家から近代国家への変貌の速度を説明するには、左の二つの過程が偶然に同時的に起こったことをまず念頭におかなければならない。すなわち、(一)封建制度の断末魔の苦悶と、(二)日本に加えられた西洋諸国の圧力がこれである。内部的危機と外部的危機の結合が近代社会への変革を大いにはやめたのであった。つぎの発展段階の特徴をなす急速な成長、すなわち実力を試されず、まだ農業経済に依存する国から一等国への前進は、たまたま明治変革の社会的・政治的精確に由来するものであった。明治政府の政策は、戦略的産業を創設すること、国防兵力を十分に備えること、かぎられた比較的微力な商業・金融階級に潤沢な補助金を与えて工業部門への進出を奨励することであった。この政策は反面においては、農民階級に課せられた過重な租税負担、国防関係企業にくらべて重要度の低い企業の切詰め、ならびに、およそ国内危機を促進し建設事業を妨害阻止するような不安動揺ないしは民主主義的抗議の徴候に対する一般的不寛容をその特徴とした。
    --E.H.ノーマン(大窪愿二訳)『日本における近代国家の成立』岩波文庫、1993年、317頁。

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「急速な成長」=「すなわち実力を試されず」前進……というやつはカナダの外交官。歴史家で日本史研究家ノーマン(Edgerton Herbert Norman,1909-1957)が明治日本を分析して導きだした見取り図ですが、たぶん、この体質は今現在も全く変わっていないんでしょうねえ。

正面兵器としての国防予算への傾重という部分は事情が違ってくるかも知れませんが、見せかけの繁栄と成長の神話の陰で密やかに進行してしてきた矛盾がポロポロとあらわになってきたような感もあります。

「急速な成長」=「すなわち実力を試されず」前進したやり方は1945年に破産しましたが、同じやり方をまだ続けていたとは……orz

ちなみに4月4日は、ノーマンの命日、合掌。

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[東日本大震災の記録]4月4日。

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1.検針票のあとに送付されてきた「平成23年3月分の検針中止に関するお詫び」ハガキ。

2.ニュースでも報道されておりましたが、関東でのミネラル・ウォーター不足を補うために西日本から転送されてきた「天然水」。サントリー天然水は、関東では「南アルプス」ですが、関西、中国・四国で販売されている「奥大山」が並んでおります。

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待てと言ふに 散らでしとまる ものならば 何を桜に 思ひまさまし

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待てと言ふに 散らでしとまる ものならば 何を桜に 思ひまさまし 読人知らず
    --『古今和歌集』(巻二春歌下 0070)

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昨日の続きのようで恐縮ですが、4/2も櫻の開花が「いいかんじ」でしたので、ひとつ。
月末から月初にかけて少し暖かい日が続いたからでしょうか。東京でも「いいかんじ」で咲き始めましたネ。

少し和んでしまいます。

どんちゃんさわぎをする必要はありませんが、少し花でも愛でるといい気分転換になるかと思います。

ということで呑んで沈没いたします。


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苦しんで獲得した、よりよき幸福

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 罪と憂いとは、人生において密接なつながりを持つ。だから、ここでも、それらは幸福への道をさえぎる連合した生涯として諸君の前にあらわれて来るのである。
 通常、まず罪をば生活からとり除かねばならぬ。そののちに初めて、憂いを追い払うことも本気に考えられるのである。なぜなら、真に憂いのないただ一つの状態は、人間の生得の素質ではなく、また、なにか幸運な外的境遇の所産でもない。それは苦しんで獲得した、よりよき幸福である。ヨブは、以前の偶然の仕合せな境遇からこのようなよりよき幸福へ導かれるのである。詩篇二三篇に美しく描かれているような、そのような永遠にかわらぬ確実な幸福へ、われわれすべてのものが、一人の例外もなく達すべきであり、また達することができる。すなわち、罪と憂いとが門番として立っている門をまず通り抜けさえすれば、直ちにそこへ行くことが出来るのである。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『幸福論 第二部』岩波文庫、1962年、66頁。

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どうも頭の痛くなることばかりで憂鬱と不安を抱える毎日です。
それに付け加えて、昨年に比べるとどうも櫻の開花が実に遅い。

通常だと三月も二〇日になれば、それなりに咲き始めるものですが、今年は随分ゆっくりとしております。

春の到来を見事に告げる花びらに出会うことがなかなかできないこの時節にいらだっているのかもしれませんが、今日は仕事へ行く途中、普段通らない自転車道へ足を運ぶと……

まだまだつぼみが多いのですが思った以上に咲き始めていました!

少し心が潤ったようなひとときです。

櫻は辛く厳しい長い冬を絶え、ようやくその姿を現しはじめました。

いろいろと悩み・凹み・憤ることの多い連日ですが、「それをそれとして」“済ませることなく”櫻のように歩みたいものです。

ヒルティ(Carl Hilty,1833-1909)の曰く「罪と憂いとが門番として立っている門をまず通り抜けさえすれば、直ちにそこへ行くことが出来るのである」だそうな。

至言ですネ。

勝つ必要はないのですが、負けずに生きていくことが必ず自分自身とその自分自身が済む世の中を変革できるはずだと確信しつつ。

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司馬遼太郎が嫌悪した『だらしない成熟』に向かう日本

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 坂本竜馬も土方歳三も秋山兄弟も、それから彼らが活躍した幕末日本、明治日本もみな青春であった。そうして青春とは突然断絶するのである。竜馬は道なかばで横死し、歳三はさわやかに覚悟の死を受容した。一個の俗人としても、青春は断絶した方が潔く、ぐずぐずと中年男の内部に生き残るのは未練であり、みじめである。
 日露戦争後「だらしない成熟」に向かう日本を、司馬遼太郎という巨大な青春小説家が、ついに書かなかったのは、おそらく生理的理由からである。「普通の、立派な人々」の、やがてとんでもないことに手を染めるという事実を、司馬遼太郎は知りつつ、書きたくなかった。そのため、ことさら日露戦争から敗戦までを特別な四十年、断絶の四十年、「異胎」の跳梁した四十年と強調した。
 それは、大衆を、大衆出身のエリートが主導して悲劇を招来した四十年であった。さらにいうなら、司馬遼太郎の文藝春秋への危惧もまた、会社の青春文化が断絶したのではないかという危惧であり、それは日本近代への不安と共通していた。
 急造の戦車将校であり、めぐりあわせから「戦後」を生きて迎えることのできた司馬遼太郎は、「こんないい社会が僕の生きている間に来るとは思わなかった」という感想を持った。
 <社会そのものが、やたら元気がいいんです。ヤミ屋から大学の先生に至るまですごく元気がよい。陰惨な漢字も、何もかもなくなりましたという悲壮感もなくて、何かとにかく芽生えてくるという感じがありましたね>(『岩波書店と文藝春秋』のうち「司馬遼太郎戦後五十年を語る」)
 戦後の日本人は営々と働いて、日本を復興させた。社会から貧困は駆逐され、その果てにバブル経済があった。どちらも、「普通の、立派な人々」によってもたらされた。
 完全かつ高度な大衆化社会を建設した戦後の日本人は、「自由」を「私利私欲の発揮の自由」と翻訳し、その国民的エネルギーは利益追求へと惜しみなく注ぎ込まれた。その意味では「バブル」もまたたしかに、「青い天にかがやく一朶の白い雲」にほかならなかった。
 やはり歴史と文化とは断絶しないのである。歴史と文化とは、やむを得ず継続するのである。
    --関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」 「この国のかたち」の十年』文春文庫、2003年、231-232頁。

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「だらしない成熟」は今も続いているんだろうなア。
これを断絶することによって「成熟した」大人になるはずだし、そのことによって通俗的な言い方で流通する「生涯、青春」というものが実現されるはずなのですが……。


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