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人間を人間自身から疎隔し、わけても人間が自らの自由の意識に至る通路を塞いできたということを、指摘することが必要

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 神の思想の真理性をめぐる営為を人間の理解に集中させる態度に対応して、神進行を無神論的に批判する態度のうちにもそれと類似の展開が見られる。フォイエルバッハ以降の近代の無神論が、例外なく人間学的に議論しているのは偶然ではない。このことは、マルクス主義の宗教批判にとってばかりではなく、ニーチェ、フロイト、ニコライ・ハルトマンあるいはジャン=ポール・サルトルにも当てはまる。その際の真に未解決の問いは、神の思想が人間精神の所産であるかどうかではなく、神の思想が人間精神の非本質的な所産であるかどうか、したがって、人間の自己理解の構成要素ではあるにしても、決して人間の本質には属していない構成要素であるような思想であるかどうかということである。すなわち、どの形態の神の思想でえあれ、人間の現実存在を意識的に生きていく姿勢のうちに必然的に含まれているような思想では決してないということ、神の思想において問題なのはむしろ、自分自身の本質についての--たとえ人間の歴史を長い間にわたって支配しているにせよ、束の間の--人間の妄想の表現、すなわち、--まさに、それが人間の本質そのものに属するものではなく、たとえきわめて長期にわっているにせよ、人間の歴史のひとつの局面に属しているにすぎないということによって、幻影であることが証示されうるような--ひとつの幻影である、ということを指摘することである。そのためにはさらに、人間の本質は宗教的なカテゴリーの助けがなくとも完全に記述できるということを、そして、神の思想は、人間の本質に適った自己理解が不可欠の条件であるというよりはむしろ、人間を人間自身から疎隔し、わけても人間が自らの自由の意識に至る通路を塞いできたということを、指摘することが必要である。
    --ヴォルフハルト・パネンベルク(座小田豊・諸岡道比古訳)『神の思想と人間の自由』法政大学出版局、1991年、15-16頁。

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ここ数日、思い出したかのように、希望の神学(Theologie der Hoffnung)の流れを汲みつつ、独自の歴史神学を展開するパネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928-)の著作を読みあさっているのですが、社会論と歴史形成論(未来の希望をそこから探求するわけなので⇒希望の神学)が彼の主軸になるのですが、まあ、だからこそ、たいていの著作においてフィールド内自己撞着の部分を指摘するわけですれども……。

これはまあ、再現可能性と記述可能性に根拠をおく現代社会の基礎論に対するひとつの挑戦なのでしょうけど……、たしかに再現可能性と記述可能性だけに根拠をおいてしまうと自家撞着はおこしてしまいますよねw

枠内での議論は結局枠内での堂々巡りしか導かないわけですが、これが近代の人間主義に適用された場合は、人間中心主義の陥穽へと駒を進め、人間そのものを損なってしまう。

結局のところ人間にせよ、自然にせよ、全き他者との出会いによってこそ、精確な自己認識がもたらされる訳なのですけど……。

ふうむ。

これは学問論だけに限定されない話なんだけどなあ・・・。

自己理解には他者との遭遇は必要不可欠ですよね。

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