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「いかにして抱負経綸を行うべきか」というよりも「いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきか」ということ

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 政治運動に右の如き主観的根本原則と客観的根本原則との二方面を肝要とするのは、ちょうど我々個人の日常生活において断行と省察とを修養工夫の二大要事とするに似て居ると思う。吾々はナニをするについても最善と信ずることは勇敢に断行しなくてはならず、またこれを断行するについての障礙は内部的のものはもちろん外部的のものも仮借するところなくこれを排除して進まなければならぬ。しかしながら単にこれだけを日常生活上の金科玉条としては、あるいはついに飛んでもない過誤に陥らぬとも限らない、自分の一旦の所信が客観的に果たして最善であったか否かは分からぬからである。ここにおいて最善でもないものを最善だと妄信してこれに全力を傾倒するの愚より自らを救うためには省察が必要ということになる。もッとより良き立場はないかと常に疑って見るのである。かく疑って見て我々が常により良き立場へと一歩一歩実践の方針を向上せしむるとき、我々は初めて全体として真に最善最良の立場を占めたものといい得るのだ。この意味を或るひとはこういう言葉で現わして居る、一旦正しいと思い込んだ事をいつまでも正しいと固執すること程正しくないことはない、一番正しいのは常に正しからんと心掛けることであると。要するに断行は省察を持って始めて倫理的の価値を発揮するのである。これと同じように、政治に在っても客観的根本原則を伴わざる主観的根本原則の活動は、必ずや専制の弊に陥らずしては煌まぬものだ。故に私は曰う、政治において一番大切なのは、いかにして我々の抱負経綸を行うべきかの問題ではない、いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきかの方がむしろより以上に重要な問題であると。
    --吉野作造「現代政治上の一重要原則」、『中央公論』1928年、12月。

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普通選挙法が施行された後の晩年の吉野作造(1878-1933)の論評の一節。

「政治において一番大切なのは、いかにして我々の抱負経綸を行うべきかの問題ではない、いかにして最良最善の意見に実現の機会を与うべきかの方がむしろより以上に重要な問題であると」という部分に痺れてしまった・・・。

最近、忙しく(=これは理由にならないことを承知ですがご寛恕を)、紹介だけでなかなか論評することができずすいません。

今日もはやめに沈没いたします。

でわ。


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