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【研究ノート】トインビー 「歴史は繰りかえすか」

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 結論はこうなるのであります--人間の歴史は、人間の意志がその周囲の情況の主人たるに最も近い状態にあり、また物理的自然の循環に支配されることの最も少ない状態にあると見られるような人間活動の分野においてさえも、ある一つの重要な意味において、現在に至るまでその時と場合によっては反覆していることが証明されるのであると。それではわれわれはさらにこれを一歩進めて、結局のところ決定論者が正しく、自由意志と見えるものは一個の幻影に過ぎないと結論すべきでありましょうか。筆者の意見では、正しい結論はまさにその反対なのであります。筆者の見るところでは、人間世界に現われ来るこの反覆への傾向は、創造能力に備わるところの今さら別に珍しくもないからくりの一つを例証する一例に外ならないのであります。創造作用から生み出されるものは一つ一つ単独にではなくひとからげの束になって生まれるのであります--一種を代表する一束の生物とか、一層を代表する一束の種とかいうかたちで現われるのであります。ところでこうした反覆の価値というものは、よく考えて見れば決して判定しがたいものではありません。もしも一つ一つの新種の被創造物が、多数のかごに分けて納められた多数の卵というあたちで生み出されないならば、創造作用といってもそれは第一歩を踏み出すことすら容易ではありません。そうでなければ創造者が人間であるにせよ神であるにせよ、どうして、創造者は大胆で収穫に富む実験のための充分な材料と、必ず起るにきまっている失敗を取り戻すための有効な手段とを用意することが出来ましょうか。もしも人間の歴史が反覆するものとすれば、それは宇宙の律動一般に呼応して反覆するだけのことであります。しかし反覆のこの型(パターン)の意義が何であるかといえばそれはまさに創造作用が一歩前進せしめられんがためにこそ反覆の与えるところの活動余地という点に存するのであります。このように考えてくるならば、歴史における反覆の要素は、神と人間が運命の奴隷であることの指標ではなくして、かえって、創造活動の自由のための一個の手段であることが示顕されてくるのであります。
    --トインビー(深瀬基寛訳)「歴史は繰りかえすか」、『試練に立つ文明』現代教養文庫、1966年、52ー53頁。

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歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee,1889-1975)の卓見!

歴史は繰り返すのか、それともそこに創造活動の自由のための契機を見出すのか。
カント(Immanuel Kant,1724-1804)の人間の自律の概念を彷彿とさせるものがありますねえ

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